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第54話:吉乃が生きて朝を迎えたんだが!?

 人が死ぬ瞬間というものを、俺は一度だけ、間近で見たことがある。


 もちろん、織田信長になってからは、合戦で命を落とした兵も見てきた。刀で斬られた者、槍に貫かれた者、仲間に支えられながら息を引き取った者。そのたびに、命というものがどれほどあっけなく失われるのか、嫌というほど思い知らされてきた。


 だが、吉乃の死は、それらとは違っていた。


 彼女は敵に斬られたわけでも、戦場で傷を負ったわけでもない。ただ熱を出し、布団に横たわり、少しずつ弱っていった。


 俺はその手を握り、何度も名前を呼んだ。返事があるうちは、まだ大丈夫だと思っていたし、返事がなくなってからも、きっと眠っているだけなのだと信じようとした。


 そして、ある瞬間を境に、吉乃の胸が動かなくなった。


 最初は、気づかなかった。


 眠っている人間の呼吸は、ときどき静かになるものだ。だから俺は、もう少し待てば次の息をするだろうと思った。


 だが、いつまで待っても、次の呼吸は来なかった。


 俺は彼女の肩を揺すり、名前を呼び、何度も胸元へ耳を近づけた。


 それでも、吉乃は動かなかった。


 あのときの静けさを、俺は今でも覚えている。


 屋根を叩く雨音も、囲炉裏の火が爆ぜる音も、母親の泣き声も聞こえていたはずなのに、俺には何も聞こえなくなっていた。


 世界から、吉乃だけが消えてしまった。


 そして今、俺は再び、同じ部屋で彼女の呼吸を数えていた。


     *


 夜は、まだ明けなかった。


 雨は夕方から降り続き、時折、強い風が家の戸を揺らしていた。囲炉裏には火が残っているものの、部屋の隅には冷たい空気が溜まり、濡れた土と薬草の匂いが混じり合っている。


 吉乃は布団の中で目を閉じていた。


 額には汗が浮かび、頬は熱で赤く染まっている。普段なら、俺が訪ねるだけで嬉しそうに笑い、次から次へと話しかけてくれる彼女が、今は呼吸をすることだけで精いっぱいのように見えた。


 俺は、その顔から目を離せなかった。


 前の人生で吉乃が亡くなったのも、ちょうどこのくらいの時間だった。


 もちろん、この時代に正確な時計などない。俺が覚えているのは、囲炉裏の薪がほとんど燃え尽き、外の雨音が少し弱まった頃だったということだけだ。


 だが、それで十分だった。


 あの夜の光景は、俺の頭に焼きついている。


 俺は吉乃の手を握りながら、何度も彼女の胸元へ目を向けた。


 上下している。


 まだ、呼吸をしている。


 俺は、それを確かめるたびに、少しだけ息を吐いた。


「……若殿さま」


 背後から、宗伯の声がした。


 振り向くと、医師が静かにこちらを見つめていた。


「少し、お休みになられてはいかがでしょう」


 俺は、首を振った。


「……いや。ここにいる」


「ですが、昨夜からほとんどお休みになっておられぬのでしょう」


「……大丈夫だ」


 宗伯は、少しだけ眉を寄せた。


 そして、落ち着いた声で言った。


「若殿さま。吉乃どののご容体を見守ることは大切にございます。ですが、若殿さまがお休みになられたからといって、吉乃どのの命が危うくなるわけではございませぬ」


 俺は、何も言えなかった。


 理屈では、分かっている。


 俺が目を閉じたところで、吉乃の病が悪くなるわけではない。


 だが、もし眠っている間に何か起きたら。


 もし、目を覚ましたときには、もう吉乃が息をしていなかったら。


 そう考えると、どうしても目を閉じることができなかった。


「……頼む。もう少しだけ、ここにいさせてくれ」


 俺がそう言うと、宗伯はしばらく黙っていた。


 そして、静かに頷いた。


「承知いたしました。ただし、若殿さまも水をお飲みくださいませ」


 俺は、少しだけ苦笑した。


「……分かった」


 宗伯は、器へ水を注ぎ、俺のそばへ置いた。


 俺はそれを受け取り、ゆっくりと口に含んだ。


 水は冷たく、喉の奥へ染み込んでいった。


 そのとき初めて、自分がひどく喉を渇かせていたことに気づいた。


     *


 しばらくして、吉乃が小さく身じろぎした。


 俺は、すぐに顔を近づけた。


「……吉乃」


 彼女は、ゆっくりと目を開けた。


 潤んだ瞳が、ぼんやりと俺を捉える。


「……信長さま」


 かすれた声だった。


 俺は、思わず彼女の手を握り直した。


「……ここにいる」


 吉乃は、少しだけ微笑んだ。


「……まだ、お帰りになっておられなかったのですね」


「ああ。今日は泊まると言っただろう」


 吉乃は、かすかに笑った。


「……そうでございましたね」


 俺は、胸が痛くなった。


 前の人生で、俺は三日後に泊まりに行くと約束した。


 その約束の日の朝、吉乃が病に倒れたという知らせを受けた。


 結局、俺は彼女の家に泊まった。


 だが、それは二人で楽しく過ごすための夜ではなかった。


 俺はただ、熱に苦しむ吉乃のそばで、何もできずに座っていた。


 そして、彼女は死んだ。


 今回も、同じことが起きている。


 俺は、吉乃の顔を見つめた。


「……水は飲めるか?」


 吉乃は、小さく頷いた。


「……はい」


 俺は、宗伯へ目を向けた。


 医師が頷いたので、俺は吉乃の背中を支え、器を口元へ運んだ。


 吉乃は、少しずつ水を飲んだ。


 一口。


 もう一口。


 そして、小さく息を吐いた。


「……ありがとうございます」


 俺は、頷いた。


「……無理に話さなくていい」


 吉乃は、少しだけ微笑んだ。


 そして、再び目を閉じた。


 俺は、その呼吸を見つめ続けた。


     *


 やがて、吉乃の母親が部屋へ入ってきた。


 目の下には疲れが滲み、髪も少し乱れている。娘の看病を続けていたのだから、無理もなかった。


 母親は、吉乃の顔を覗き込むと、そっと額へ手を当てた。


「……まだ、熱がございますね」


 俺は、頷いた。


「……ああ」


 母親は、しばらく娘を見つめていた。


 そして、静かに口を開いた。


「若殿さま。今日は、本当にありがとうございます」


 俺は、顔を上げた。


「……礼を言われるようなことは、していない」


「いいえ。こうして、そばにいてくださるだけでも、吉乃は心強いと思います」


 俺は、何も言えなかった。


 母親は、少しだけ目を伏せた。


「この子は、幼い頃から丈夫なほうでございました。多少の熱が出ても、翌日には起き上がってしまうような娘でして」


 俺は、胸が痛んだ。


 吉乃は、確かに元気な娘だった。


 畑仕事もよく手伝い、村の子どもたちの面倒も見ていた。


 それなのに、前の人生では、たった一度の病で命を落とした。


 母親は、静かに続けた。


「ですから、こんなふうに寝込んでしまうのは、珍しいことでございます」


 俺は、頷いた。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「……宗伯が、診てくれている。できることは、全部やろう」


 母親は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 俺は、その姿を見ながら、胸の奥が苦しくなった。


 前の人生で、吉乃が亡くなったあと。


 この人は、どれほど悲しんだのだろう。


 俺は、自分の悲しみばかりで頭がいっぱいだった。


 吉乃の母親が、娘を失ったあと、どんな日々を過ごしたのか。


 考える余裕すらなかった。


 そして俺は、自ら命を絶った。


 あの人生に残された人々のことを、何も考えずに。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


 今度は、違う。


 吉乃を守りたい。


 だが、吉乃だけではない。


 彼女を大切に思っている人たちのことも、忘れてはいけない。


     *


 夜が、さらに深くなった。


 宗伯は何度か吉乃の脈を確かめ、呼吸の様子を見た。


 熱はまだ高い。


 だが、吉乃は呼びかけに応じ、水も少しずつ飲めていた。


 俺は、その一つ一つに希望を見いだそうとした。


 やがて、外の雨音が少し弱まった。


 俺は、思わず顔を上げた。


 前の人生でも、雨が弱まった頃だった。


 吉乃の呼吸が止まったのは。


 俺は、息を詰めた。


 そして、ゆっくりと彼女へ目を向けた。


 胸が、上下している。


 一度。


 二度。


 三度。


 俺は、呼吸を数え続けた。


 だが、次第に自分の息まで苦しくなってきた。


 胸が締めつけられ、指先が冷たくなる。


 俺は、無意識のうちに吉乃の手を強く握っていた。


「……信長さま」


 かすかな声がした。


 俺は、はっと顔を上げた。


 吉乃が、薄く目を開けていた。


「……痛うございます」


 俺は、慌てて手を緩めた。


「……悪い!」


 吉乃は、少しだけ笑った。


「……そんなに、強く握られなくとも……どこへも参りませぬよ」


 俺は、何も言えなかった。


 その言葉が、胸に突き刺さった。


 前の人生で、吉乃は俺の手を離してしまった。


 どこへも行かないと、約束してくれたわけではない。


 だが、俺は勝手に、彼女がずっとそばにいてくれるものだと思っていた。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


「……ごめん」


 吉乃は、かすかに微笑んだ。


「……信長さまは、本当に……心配性でございますね」


 俺は、苦笑した。


「……そうだな」


 吉乃は、静かに目を閉じた。


 俺は、その手を今度はそっと握った。


 そして、呼吸を数えるのをやめた。


 数えたところで、命をつなぎ止められるわけではない。


 俺は、ただ彼女のそばにいた。


     *


 どれほど時間が過ぎたのだろう。


 囲炉裏の薪が、また一つ崩れた。


 外の雨音は、さらに小さくなっている。


 俺は、ふと顔を上げた。


 前の人生で吉乃が亡くなった頃には、もう少し夜が深かっただろうか。


 いや、同じくらいだったかもしれない。


 正確な時刻など、分からない。


 だが、俺は何となく感じていた。


 あの時間を、越えたのではないか。


 俺は、吉乃の顔を見つめた。


 彼女は、まだ呼吸をしている。


 頬には熱が残り、額には汗が浮かんでいる。


 だが、生きている。


 俺は、胸の奥が熱くなった。


「……宗伯」


 小さく声をかけると、医師が顔を上げた。


「はい」


「……吉乃は、まだ大丈夫なんだな」


 宗伯は、少しだけ眉を寄せた。


「今のところ、呼吸も落ち着いております。ただし、熱はまだ高うございますので、油断はできませぬ」


 俺は、頷いた。


 分かっている。


 まだ、治ったわけではない。


 だが、前の人生では、もうこの時間には吉乃の呼吸は止まっていた。


 それなのに、今は生きている。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


 そして、初めて、ほんの少しだけ笑った。


     *


 やがて、障子の向こうが薄く明るくなり始めた。


 雨は、いつの間にか止んでいた。


 庭の木々からは水滴が落ち、遠くでは鶏が鳴いている。


 俺は、その音を聞いた瞬間、思わず顔を上げた。


 朝だ。


 夜が明けた。


 前の人生では、吉乃が亡くなったあとに迎えた朝だった。


 俺は、彼女の亡骸のそばで、ただ座り込んでいた。


 窓の外が明るくなっても、何も感じなかった。


 世界が続いていることが、信じられなかった。


 だが、今は違う。


 俺の目の前で、吉乃が静かに呼吸をしている。


 俺は、ゆっくりと彼女の名前を呼んだ。


「……吉乃」


 彼女は、少しだけ身じろぎした。


 そして、ゆっくりと目を開けた。


「……信長さま」


 俺は、息を呑んだ。


 吉乃は、少しだけ微笑んだ。


「……おはようございます」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は何も言えなくなった。


 おはようございます。


 ただ、それだけの言葉だった。


 だが、俺にとっては、何よりも聞きたかった言葉だった。


 前の人生では、二度と聞くことのできなかった朝の挨拶。


 それを、今、吉乃が俺に向かって言っている。


 俺は、思わず俯いた。


 涙が、ぽたぽたと畳へ落ちた。


 吉乃は、驚いたように目を見開いた。


「……信長さま?」


 俺は、慌てて顔を拭った。


「……何でもない」


 吉乃は、少しだけ困ったように笑った。


「……何でもないお顔では、ございませぬよ」


 俺は、苦笑した。


 だが、涙は止まらなかった。


 俺は、吉乃の手をそっと握った。


「……おはよう、吉乃」


 吉乃は、柔らかく微笑んだ。


「……はい」


 俺は、その笑顔を見つめた。


 熱は、まだ下がっていない。


 病が治ったわけでもない。


 これから、また悪くなるかもしれない。


 それでも。


 吉乃は、生きて朝を迎えた。


 前の人生では、迎えられなかった朝を。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


 そして、心の中で何度も繰り返した。


 生きている。


 吉乃は、生きている。


 俺は、彼女の手を握りながら、ようやく少しだけ笑うことができた。


 ……吉乃が、生きて朝を迎えたんだが!?

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