第53話:吉乃が病に倒れたと同じ朝に知らされたんだが!?
人間の記憶というものは、実に勝手なものだ。
大学生だった頃、試験前日に覚えた英単語は翌朝には半分ほど忘れていたし、買い物に出かければ何を買うつもりだったのか分からなくなることも珍しくなかった。人の名前を覚えるのも得意ではなく、講義で何度も顔を合わせていた相手の名前を、卒業するまで知らなかったことさえある。
それなのに、忘れたいことに限って、いつまでも鮮明に覚えている。
吉乃と最後に交わした約束も、そうだった。
前の人生で、俺は吉乃の家を訪ね、三日後に泊まりに行くと約束した。
その日はよく晴れていて、庭先には洗ったばかりの布が干されていた。吉乃はいつものように笑い、俺が泊まるなら何を食べたいかと尋ねてくれた。俺は少し考えた末に、吉乃が作ってくれるものなら何でもいいと答えたのだが、彼女はそれでは困りますと笑っていた。
それから三日間、俺たちは会わなかった。
俺は城で父上の仕事を手伝い、十衛門に槍の稽古をつけられ、夜になると吉乃の家へ泊まりに行く日を楽しみにしていた。
何を話そうか。
どこまで一緒にいられるだろうか。
そんな、今となっては情けなくなるほど浮かれたことばかり考えていた。
そして、約束の日の朝。
吉乃の家から、使いが来た。
吉乃が病に倒れたという知らせだった。
俺は慌てて馬を走らせたが、家へ着いたときには、彼女はすでに高い熱を出して寝込んでいた。
それが、すべての始まりだった。
いや、本当はもっと前から始まっていたのかもしれない。
吉乃はいつから具合が悪かったのか。最初に熱が出たのはいつだったのか。俺と別れた翌日には、もう何か異変があったのだろうか。
前の人生の俺は、その三日間を見ていない。
だから、知らない。
俺が知っているのは、約束の朝に使いが来たということだけだった。
そして今、俺は再び、その朝を迎えようとしていた。
*
夜明け前の城は、まだ静かだった。
障子の向こうには薄い闇が残り、庭の木々が冷たい風に揺れている。遠くで鶏が鳴き、どこかの部屋では朝の支度を始めたらしく、廊下を歩く足音がかすかに聞こえた。
俺は、とうとう一睡もできなかった。
昨夜から何度も寝返りを打ち、目を閉じては吉乃の顔を思い浮かべ、気づけばまた障子の向こうを眺めていた。
今日、使いが来る。
その確信に近い予感が、胸の奥に居座っていた。
もちろん、必ず来るとは限らない。
今の人生では、すでに前の人生と違うことがいくつも起きている。
俺は吉乃の家へ何度も通い、体調を気遣い、医師の宗伯にも相談した。吉乃の母親にも、疲れが見えたら無理をさせず、具合が悪くなったらすぐに知らせてほしいと頼んである。
前の人生では、何も知らずに三日間を過ごした。
だが、今回は違う。
それでも、俺には分からなかった。
病になるという出来事そのものを、変えられたのだろうか。
それとも、俺がどれほど足掻いても、同じ朝に同じ知らせが届くのだろうか。
「……信長さま」
隣から声がした。
振り向くと、濃姫が目を覚ましていた。
彼女はしばらく俺の顔を見つめ、それから静かに身を起こした。
「昨夜も、お眠りになれなかったのでございますね」
「……ああ」
俺は、正直に答えた。
濃姫は何かを言いかけたが、すぐには口にしなかった。代わりに枕元の水差しへ手を伸ばし、器へ水を注いで俺に差し出した。
「少し、お飲みくださいませ」
「……ありがとう」
俺は水を受け取り、ゆっくりと口に含んだ。
冷たい水が喉を通っていく。
自分でも驚くほど、喉が渇いていた。
「今日は、何か大切なことがあるのでございますか」
濃姫が尋ねた。
俺は、器を置いた。
「……分からない」
濃姫は、少しだけ眉を寄せた。
「分からない、のでございますか」
「ああ。何も起きないかもしれない。だが、何か起きるかもしれない」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そんな気がするんだ」
濃姫は、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「でしたら、何か起きたときに動けるよう、今はお体を休めておかれるのがよろしいかと存じます」
俺は、思わず苦笑した。
「……それができれば、苦労しないんだけどな」
濃姫は、少しだけ笑った。
「それならば、せめて朝餉は召し上がってくださいませ」
俺は、頷いた。
そして、もう一度障子の向こうを見た。
夜が明けようとしていた。
*
朝餉を終えたあと、俺は十衛門を呼んだ。
十衛門はいつものように背筋を伸ばし、部屋へ入ってくるなり静かに頭を下げた。
「若殿。お呼びでございますか」
「ああ。今日は、稽古を休みたい」
十衛門は、少しだけ眉を上げた。
「昨日も、お休みになられましたが」
「……分かっている」
「二日続けてお休みになられるとは、珍しゅうございますな」
俺は、ため息をついた。
こんなときまで、嫌味を言う必要があるのだろうか。
だが、十衛門の表情はいつもより少し真剣だった。
「……吉乃どののことでございますか」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだ」
十衛門は、しばらく黙っていた。
そして、静かに尋ねた。
「何か、知らせがございましたか」
「……いや。まだ何もない」
俺は、そう答えた。
まだ何もない。
その言葉が、妙に恐ろしく感じられた。
十衛門は、少しだけ眉を寄せた。
「でしたら、何をなさるおつもりでございますか」
俺は、しばらく考えた。
村へ行くべきだろうか。
今すぐ馬を走らせれば、昼前には吉乃の家へ着ける。
もし彼女が病になっていたとしても、知らせを待つより早くそばへ行けるかもしれない。
だが、俺が村へ向かっている間に、城へ使いが来る可能性もある。
それに、吉乃が本当に元気なら、俺が何度も押しかけることで彼女の仕事を妨げてしまう。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……まず、宗伯へ知らせてくれ。今日は、できる限り遠出を控えてもらいたい」
「承知いたしました」
「それから、村へ向かう使いを一人用意してほしい。吉乃の家の様子を確かめてもらう」
十衛門は、頷いた。
「すぐに手配いたします」
俺は、少しだけ安心した。
これなら、何かあっても動ける。
だが、十衛門は部屋を出る前に足を止めた。
「若殿」
「……何だ」
「私からも、ひとつお願いがございます」
俺は、顔を上げた。
十衛門は、まっすぐ俺を見つめた。
「どうか、まだ起きておらぬことを恐れるあまり、ご自身を見失われませぬよう」
俺は、何も言えなかった。
十衛門は、静かに続けた。
「若殿が吉乃どのを大切に思っておられることは、十分に承知しております。ですが、何か起きたときに必要なのは、恐れぬことではなく、恐れながらでも動くことでございます」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……分かっている」
十衛門は、静かに頭を下げた。
そして、部屋を出ていった。
俺は、その背中を見送りながら、胸の奥で何度も同じ言葉を繰り返した。
恐れながらでも、動く。
今日こそ、それが必要になるかもしれなかった。
*
朝の仕事が始まっても、俺は少しも落ち着かなかった。
父上から預かった書状に目を通し、家臣たちの報告を聞き、必要な返事をする。普段ならそれほど難しくない仕事なのに、今日は文字が頭へ入ってこなかった。
何度も同じ行を読み返し、家臣から話しかけられても、すぐには返事ができない。
とうとう、佐久間源太が困ったように声をかけてきた。
「若殿。少し、お休みになられてはいかがでしょう」
俺は、顔を上げた。
「……そんなにひどい顔をしているか?」
源太は、少しだけ苦笑した。
「はい。昨夜、敵の夜襲でも受けられたようなお顔にございます」
俺は、思わず笑いそうになった。
だが、すぐに笑えなくなった。
俺にとっては、確かに夜襲を待っているようなものだった。
いつ来るか分からない。
どこから来るかも分からない。
ただ、何か恐ろしいことが起きると知っている。
俺は、机の上の書状を閉じた。
「……少し、休む」
源太は、静かに頭を下げた。
俺は、部屋を出た。
廊下には朝の光が差し込み、庭では小鳥が鳴いていた。
何も変わらない。
城の中では、いつもどおりの一日が始まっている。
だが、俺だけが、時計の針を見つめているような気分だった。
この時代に時計などない。
それでも、時間が少しずつ進んでいることだけは、嫌というほど分かった。
*
知らせが届いたのは、朝の仕事が一段落しかけた頃だった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてきた。
俺は、反射的に顔を上げた。
足音は、まっすぐこちらへ近づいてくる。
そして、戸の向こうで止まった。
「若殿さま!」
若い男の声だった。
俺は、息を呑んだ。
聞き覚えのある声。
吉乃の家から、時折使いに来る男だった。
「……入れ」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
戸が開いた。
男は、息を切らしながら膝をついた。額には汗が浮かび、着物の裾には泥がついている。相当急いで来たのだろう。
「若殿さま! 吉乃さまが……!」
俺は、立ち上がった。
その瞬間、前の人生の記憶が、目の前の光景と重なった。
同じ朝。
同じように息を切らした使い。
そして、同じ名前。
俺は、男の言葉を待った。
「……吉乃さまが、昨夜から高い熱を出しておられます!」
頭の中が、真っ白になった。
昨夜から。
高い熱。
俺は、しばらく何も言えなかった。
前の人生でも、同じ知らせを聞いた。
俺は、三日後に泊まりに行く約束をしていた。
その朝、吉乃の家から使いが来た。
そして、彼女が病に倒れたと知らされた。
今度は、俺が事前に何度も様子を確かめた。
医者にも相談した。
吉乃の母親にも、無理をさせないよう頼んだ。
それなのに。
同じ朝に、同じ知らせが届いた。
俺は、机へ手をついた。
足元が、少し揺れたような気がした。
「……若殿さま?」
男が、不安そうに俺を見上げた。
俺は、ゆっくりと息を吸った。
落ち着け。
今は、取り乱している場合じゃない。
「……吉乃は、意識があるのか」
男は、慌てて頷いた。
「はい。今朝は、お話もできておりました。ただ、熱が高く、起き上がることができませぬ」
俺は、頷いた。
「……水は飲めているか」
「少しずつ、飲んでおられます」
俺は、もう一度頷いた。
前の人生では、知らせを聞いた瞬間に飛び出してしまい、詳しい様子を確かめる余裕すらなかった。
だが、今度は違う。
俺は、目の前の男を見つめた。
「……よく知らせてくれた。すぐに向かう」
男は、深く頭を下げた。
俺は、廊下へ出た。
「十衛門!」
声が、城内へ響いた。
すぐに、足音が近づいてきた。
「若殿!」
十衛門が姿を現した。
俺は、必死に声を整えた。
「……吉乃が熱を出した。宗伯を呼んでくれ。今すぐだ」
十衛門は、一瞬だけ目を見開いた。
だが、すぐに表情を引き締めた。
「承知いたしました」
そして、迷うことなく走り出した。
俺は、その背中を見送った。
怖い。
どうしようもなく、怖い。
だが、今は動かなければならない。
俺は、馬の用意を命じた。
*
城門へ向かう途中、濃姫と出会った。
彼女は、俺の顔を見るなり足を止めた。
「……信長さま」
俺は、息を整えた。
「吉乃が、熱を出した」
濃姫は、少しだけ目を見開いた。
そして、静かに頷いた。
「そうでございましたか」
俺は、言葉を続けた。
「……今から、村へ行く」
「はい」
濃姫は、少しだけ考えた。
「お医者さまは?」
「十衛門が呼びに行っている」
「それならば、よろしゅうございます」
濃姫は、静かに頷いた。
そして、俺の顔を見つめた。
「信長さま」
「……何だ」
「どうか、落ち着いてお出かけくださいませ」
俺は、思わず苦笑した。
「……無理だと思う」
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「でしたら、せめて、お怪我をなさらぬように」
俺は、息を呑んだ。
濃姫は、静かに続けた。
「吉乃どののもとへ、無事にたどり着くことが、まず大切でございましょう」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
濃姫は、俺の袖をそっと整えた。
その仕草が、妙に胸に残った。
俺は、濃姫を見つめた。
「……今夜は、戻れないかもしれない」
濃姫は、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに答えた。
「承知いたしました」
俺は、胸が痛んだ。
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「吉乃どのが、早くお元気になられますように」
俺は、何も言えなかった。
ただ、深く頭を下げた。
そして、城門へ向かった。
*
村へ向かう道は、昨日までとは違って見えた。
空には厚い雲が広がり、冷たい風が吹いている。道端の草は揺れ、遠くの山々は薄い霞に包まれていた。
俺は、馬を進めながら、何度も前の人生を思い返していた。
あのときも、こんな空だった。
あのときも、同じ道を走った。
そして、吉乃の家へ着いたときには、彼女は高い熱を出していた。
俺は、手綱を握り直した。
だが、今度は違う。
宗伯がいる。
十衛門もいる。
吉乃の母親も、早くから体調の変化を気にかけてくれていた。
前の人生では、俺は何も知らず、何も準備できなかった。
だが、今回は、できる限りのことをしてきた。
それでも、発病は防げなかった。
俺は、その事実を受け入れなければならなかった。
だが、発病したからといって、必ず死ぬわけではない。
俺は、何度もそう自分に言い聞かせた。
病になることと、死ぬことは、同じではない。
今度こそ、助ける。
俺は、前を向いた。
*
吉乃の家へ着くと、庭先には人が集まっていた。
母親が、慌てた様子で桶を運んでいる。近所の女たちも手伝いに来ているらしく、家の中からは小さな話し声が聞こえていた。
俺は、馬を降りるなり駆け寄った。
「……吉乃は!」
母親が、顔を上げた。
「若殿さま!」
その目には、涙が浮かんでいた。
俺は、胸が冷たくなった。
「……どうした。吉乃は、どうしている」
母親は、必死に声を整えた。
「昨夜から熱が出まして、今朝になっても下がりませぬ。先ほどから、少し苦しそうにしておりまして……」
俺は、息を呑んだ。
前の人生と、同じだ。
だが、今は考えている場合ではない。
「……宗伯が来る。すぐに診てもらえるよう、部屋を整えてくれ」
母親は、何度も頷いた。
俺は、家の中へ入った。
薄暗い廊下を進むと、奥の部屋からかすかな咳が聞こえた。
俺は、足を止めた。
その音を、覚えている。
前の人生で、何度も聞いた音だった。
俺は、ゆっくりと襖を開けた。
吉乃は、布団の中にいた。
頬は赤く、額には汗が浮かんでいる。普段は明るく輝いている目が、今は少し潤んでいた。
俺の姿を見ると、彼女はゆっくりと顔を向けた。
「……信長さま」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
前の人生でも、吉乃は同じように俺を呼んだ。
俺は、布団のそばへ膝をついた。
「……吉乃」
彼女は、少しだけ微笑んだ。
「……お越しくださったのですね」
俺は、頷いた。
「ああ。知らせを聞いて、すぐに来た」
吉乃は、少しだけ目を伏せた。
「……申し訳ございませぬ。せっかく、お越しいただいたのに」
俺は、首を振った。
「謝るな」
吉乃は、俺を見つめた。
俺は、彼女の額へそっと手を当てた。
熱い。
思わず息が止まった。
前の人生で触れた額と、同じように熱かった。
俺は、手を引っ込めそうになった。
だが、何とかこらえた。
「……つらいか?」
吉乃は、小さく頷いた。
「……少し、体が重うございます」
「水は飲めるか?」
「……はい。少しずつ」
俺は、頷いた。
そして、彼女の手を握った。
熱い。
だが、まだ力がある。
吉乃は、俺の手を小さく握り返した。
「……信長さま」
「……何だ」
「……そんなに、怖いお顔をなさらないでくださいませ」
俺は、息を呑んだ。
吉乃は、少しだけ笑った。
「……わたくしは、まだここにおりますよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は泣きそうになった。
前の人生では、もう聞くことのできなかった声。
今、確かに聞こえている声。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
吉乃は、安心したように目を閉じた。
俺は、その手を握り続けた。
*
宗伯が到着したのは、それからしばらくしてのことだった。
医師は、すぐに吉乃のそばへ座り、額の熱を確かめ、脈を取り、呼吸の様子を見た。
俺は、部屋の隅でその様子を見守っていた。
宗伯は、しばらく診察を続けたあと、静かに口を開いた。
「……熱がございますな」
俺は、思わず身を乗り出した。
「……治るのか?」
宗伯は、少しだけ眉を寄せた。
「今の段階では、何とも申し上げられませぬ」
俺は、胸が冷たくなった。
宗伯は、落ち着いた声で続けた。
「まずは無理をさせず、休ませることが大切にございます。水を飲めるようであれば、少しずつ与えてくださいませ」
俺は、頷いた。
「……ほかには?」
「汗をかいた衣は替え、体を冷やしすぎぬようにしてくださいませ。熱の上がり方や呼吸の様子も、よく見ておく必要がございます」
俺は、必死に覚えようとした。
宗伯は、吉乃の母親にも指示を出した。
母親は、真剣な顔で頷いている。
俺は、その姿を見ながら、前の人生を思い出していた。
あのときも、医者を呼んだ。
同じように、休ませるようにと言われた。
だが、吉乃は助からなかった。
俺は、思わず宗伯へ尋ねた。
「……本当に、それだけでいいのか?」
宗伯は、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに言った。
「若殿さま。今は、病む者の様子をよく見ることが肝要にございます」
俺は、黙って聞いていた。
「熱が上がるのか、下がるのか。水を飲めるのか。呼吸は苦しくないか。そうしたことを、一つずつ確かめねばなりませぬ」
俺は、ゆっくりと頷いた。
宗伯は、少しだけ声を落とした。
「先のことを恐れるお気持ちは分かります。ですが、今ここにおられる吉乃どのを、よくご覧くださいませ」
俺は、息を呑んだ。
今ここにいる吉乃。
前の人生で死んだ吉乃ではなく。
今、目の前で熱を出している吉乃。
俺は、ゆっくりと彼女へ目を向けた。
吉乃は、布団の中で静かに呼吸をしていた。
苦しそうではある。
だが、まだ意識ははっきりしている。
俺は、ようやく少しだけ息を吐いた。
*
夕方になると、雨が降り始めた。
最初は小さな雨粒が屋根を叩くだけだったが、やがて雨脚が強まり、庭の土が黒く濡れていった。
俺は、その音を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
前の人生でも、雨が降っていた。
吉乃が亡くなった夜、俺はこの部屋で、同じ雨音を聞いていた。
今度も、同じように雨が降っている。
俺は、布団のそばへ座り、吉乃の手を握った。
彼女の熱は、まだ下がっていない。
だが、水は少しずつ飲めている。
呼びかければ、目を開けてくれる。
俺は、その小さな違いを何度も確かめた。
やがて、吉乃がかすかに目を開けた。
「……信長さま」
俺は、すぐに顔を近づけた。
「……ここにいる」
吉乃は、少しだけ微笑んだ。
「……今日は、お泊まりになるおつもりでございましたか」
俺は、息を呑んだ。
前の人生で、三日後に泊まりに行くと約束したことを思い出した。
あの約束は、果たされなかった。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。今日は、ここにいる」
吉乃は、安心したように目を閉じた。
「……それなら、ようございました」
俺は、胸の奥が痛くなった。
今度こそ、約束を守りたい。
ただ泊まるだけではなく、明日の朝も彼女の顔を見たい。
その次の日も、そのまた次の日も。
何度でも、こうして会いたい。
俺は、吉乃の手を握り直した。
*
夜が深くなるにつれ、雨音はますます大きくなった。
囲炉裏の火が小さく爆ぜ、部屋には薬草の匂いが漂っている。
吉乃の熱は、まだ高かった。
俺は、何度も彼女の額へ手を当てた。
熱い。
だが、呼吸は続いている。
俺が手を握ると、吉乃は時折、小さく握り返してくれた。
前の人生では、俺はこの時間、何もできなかった。
ただ、吉乃の手を握り、名前を呼び続けていた。
そして、最後には、その手から力が抜けてしまった。
俺は、思わず目を閉じた。
だが、すぐに開いた。
今は、違う。
今度は、宗伯がそばにいる。
十衛門も、必要なものを用意するために動いてくれている。
吉乃の母親も、娘のためにできることを続けている。
俺一人ではない。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
そのとき、吉乃が小さく身じろぎした。
「……信長さま」
俺は、すぐに顔を近づけた。
「……何だ?」
吉乃は、薄く目を開けた。
そして、かすかに微笑んだ。
「……そんなに、怖いお顔をなさらないでくださいませ」
俺は、息を呑んだ。
吉乃は、静かに続けた。
「……わたくしは、まだ……ここにおりますよ」
俺は、何も言えなかった。
涙が出そうになった。
前の人生では、もう聞くことのできなかった声。
今、確かに聞こえている声。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
吉乃は、小さく微笑んだ。
そして、再び目を閉じた。
俺は、その手を握り続けた。
夜は、まだ長い。
吉乃の熱も、まだ下がっていない。
だが、彼女は生きている。
俺は、何度もその事実を確かめた。
やがて、遠くで夜番の足音が聞こえた。
前の人生で、吉乃が亡くなった時刻が近づいていた。
俺は、息を詰めた。
吉乃の胸が、静かに上下している。
一度。
二度。
三度。
俺は、その呼吸を数え続けた。
そして、心の中で叫んだ。
頼む。
どうか、止まらないでくれ。
……同じ朝に、同じ知らせが届くなんて、運命はどこまでしつこいんだが!?




