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第52話:吉乃の命日が明日だなんて誰にも言えないんだが!?

 人間というものは、未来を知ることができれば、きっと今より賢く生きられるのだと思っていた。


 大学生だった頃の俺は、試験の問題を前もって知ることができたらどれほど楽だろうとか、就職先の将来が分かれば失敗せずに済むだろうとか、そんなくだらないことばかり考えていた。もっとも、実際には目の前の課題を片づけることすら苦手だったのだから、仮に未来が見えても、ろくな使い方はできなかったかもしれない。


 だが、今の俺には、未来の記憶がある。


 織田信長が本能寺で死ぬことも、木下藤吉郎が天下人になることも、徳川家康が江戸に幕府を開くことも知っている。


 そして、吉乃がいつ死ぬのかも。


 それなのに、俺は何一つ、確かな答えを持っていなかった。


 吉乃が熱を出すのを防ぐには、どうすればいいのか。


 もし熱が出たら、何をすれば助けられるのか。


 そもそも、前の人生と同じ病が、今回も彼女を襲うのか。


 何度考えても分からなかった。


 ただ一つ、確かなことがある。


 前の人生で吉乃が息を引き取った日は、明日だった。


     *


 その朝、俺は机の前に座り、日付を何度も確かめていた。


 手元には、城の者が日々の用向きを記した帳面がある。米の出入りや使者の往来、父上への報告事項などが書き連ねられた、ごく普通の帳面だった。


 俺は、その日付の欄から目を離せずにいた。


 明日。


 たった一日。


 前の人生で吉乃が亡くなったのは、冷たい雨が降った日の夜だった。


 あの日のことは、今でも恐ろしいほど鮮明に覚えている。


 吉乃の家の屋根を叩く雨音。囲炉裏の火が小さく爆ぜる音。煎じた薬草の苦い匂い。額に置いた濡れ布が、すぐに生温かくなってしまうこと。


 そして、俺の手を握っていた吉乃の指から、少しずつ力が抜けていったこと。


 あのとき、俺は何度も彼女の名前を呼んだ。


 医者も呼んだ。


 水も飲ませようとした。


 だが、何をしても、吉乃の熱は下がらなかった。


 夜が深くなるにつれ、彼女の呼吸は浅くなり、時折、苦しそうに胸を上下させた。


 俺は、ただそばにいることしかできなかった。


 最後に吉乃が何を言ったのか、実ははっきり覚えていない。


 唇が動いたことは覚えている。


 何かを伝えようとしていたことも。


 だが、その声はあまりにも小さく、雨音にかき消されてしまった。


 俺は、彼女の口元へ耳を近づけた。


 それでも、聞き取れなかった。


 そして、次の瞬間には、もう何も聞こえなくなっていた。


 俺は、机の端を強く握った。


 今でも、あの夜のことを思い出すと、指先が冷たくなる。


 吉乃は、昨日まで元気だった。


 少し疲れやすいとは言っていたが、笑っていたし、食事も取っていた。俺に干した芋を渡し、また来てくださいねと言ってくれた。


 それが、あんなことになるなんて。


 俺は、どうしても納得できなかった。


「……若殿」


 不意に声をかけられ、俺は顔を上げた。


 入口には、十衛門が立っていた。


「……どうした」


「本日の稽古のお時間にございます」


 俺は、帳面へ目を落とした。


 稽古。


 そういえば、今日は朝から十衛門と槍の稽古をする予定だった。


 だが、今の俺には、とてもそんな気分になれなかった。


「……今日は、休ませてくれ」


 十衛門は、少しだけ眉を上げた。


「お加減でも悪うございますか」


「いや。体は何ともない」


「では、何かご用事が?」


 俺は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに答えた。


「……吉乃の村へ行きたい」


 十衛門は、俺を見つめた。


「昨日も、お出かけになられたばかりではございませぬか」


「……分かっている」


「吉乃どのは、お元気でございましたな」


「ああ」


「それでも、今日もお会いになりたいと?」


 俺は、ゆっくりと頷いた。


 十衛門は、しばらく何も言わなかった。


 そして、静かに口を開いた。


「……若殿」


「何だ」


「何か、私どもにお話しになれぬことがございますな」


 俺は、息を呑んだ。


 十衛門の目は、いつものように鋭かった。


 この男は、戦場でも稽古場でも、人の動きをよく見ている。俺がどれほど平静を装っても、何かを隠していることくらい、簡単に見抜いてしまうのだろう。


「……ある」


 俺は、正直に答えた。


 十衛門は、少しだけ目を細めた。


「左様でございますか」


「……今は、話せない」


 俺がそう言うと、十衛門は静かに頷いた。


「承知いたしました」


 俺は、少し驚いた。


「……聞かないのか?」


「若殿が今はお話しになれぬと仰せなら、無理に聞き出すことはいたしませぬ」


 十衛門は、落ち着いた声で続けた。


「ただし、私どもの力が必要なときには、どうかお申しつけくださいませ」


 俺は、しばらく何も言えなかった。


 そして、ゆっくりと頭を下げた。


「……ありがとう」


 十衛門は、少しだけ眉を上げた。


「若殿。頭をお上げくださいませ」


 俺は、苦笑した。


「……たまには、素直に礼を言わせろよ」


 十衛門は、ほんの少しだけ笑った。


     *


 村へ向かう前に、俺は医師の宗伯を訪ねた。


 宗伯は、以前と同じように、薬草を乾かしているところだった。


 部屋には独特の苦い匂いが漂い、壁際の棚には、小さな壺や包みが整然と並んでいる。庭先では、若い弟子が薬草を選り分けていた。


 宗伯は俺を見ると、静かに頭を下げた。


「若殿さま。本日は、いかがなされました」


 俺は、座るなり尋ねた。


「……もし、急に高い熱が出た者がいたら、すぐに診に来てもらえるか?」


 宗伯は、少しだけ眉を寄せた。


「どなたか、お加減が悪いのでございますか」


「……今は、誰も病んでいない」


 宗伯は、静かに頷いた。


「では、備えとしてお尋ねなのでございますな」


「ああ」


 俺は、深く息を吐いた。


「……明日、どうしても心配なことがある」


 宗伯は、しばらく俺を見つめていた。


 そして、落ち着いた声で言った。


「若殿さま。病は、いつ誰に訪れるか分かりませぬ。備えをなさることは、決して悪いことではございませぬよ」


 俺は、頷いた。


「……そうか」


「ただし、医師を呼べば必ず治るというものでもございませぬ」


 その言葉に、俺は胸が痛んだ。


 宗伯は、静かに続けた。


「熱の出方も、体の様子も、人によって異なります。まずは病む者の状態をよく見て、何が必要かを考えねばなりませぬ」


 俺は、ゆっくりと頷いた。


「……分かっている」


 宗伯は、少しだけ首を傾げた。


「若殿さまは、以前にも、大切な方を病で亡くされたことがあると仰せになりましたな」


 俺は、息を呑んだ。


 宗伯は、静かに俺を見つめた。


「その方のことを、今も案じておられるのでございますか」


 俺は、しばらく答えられなかった。


 吉乃は、今も生きている。


 だが、俺の記憶の中では、すでに一度死んでいる。


 その矛盾を、どう説明すればいいのか分からなかった。


「……そうだ」


 俺は、ようやく答えた。


 宗伯は、それ以上深く尋ねなかった。


「承知いたしました。明日は遠出を控え、呼びに来る者があれば、できる限り早く参りましょう」


 俺は、思わず顔を上げた。


「……本当か?」


「はい。ただし、私にもほかの病人がおりますゆえ、必ずすぐに駆けつけられるとはお約束できませぬ」


 俺は、頷いた。


「……それで十分だ」


 宗伯は、静かに微笑んだ。


「若殿さま。どうか、今はまだ起きておらぬ病を、すでに起きたものとしてお考えになりませぬよう」


 俺は、苦笑した。


 また、同じことを言われた。


 十衛門にも、吉乃にも、似たようなことを言われている。


 だが、分かっていても、どうしても難しかった。


     *


 吉乃の村へ着いた頃には、昼近くになっていた。


 空はよく晴れており、昨日と変わらない穏やかな景色が広がっている。畑では農夫たちが作業を続け、道端では子どもたちが木の枝を拾って遊んでいた。


 俺は、その光景を見ながら、少しだけ安心した。


 前の人生で吉乃が亡くなった日は、冷たい雨が降っていた。


 だが、今日は晴れている。


 明日も、同じように晴れるかもしれない。


 天気が違うだけで、運命が変わるとは限らない。


 それでも、俺は何か小さな違いを見つけるたびに、そこへ希望を求めてしまっていた。


 吉乃の家へ着くと、庭先で本人が洗濯物を干していた。


 俺は、思わず足を止めた。


 吉乃は、桶から布を取り出し、丁寧に皺を伸ばしている。袖をまくった腕には陽が当たり、髪の一部が風に揺れていた。


 その姿は、あまりにも普通だった。


 昨日と同じように、今日も生きている。


 俺は、その当たり前の光景を見ただけで、胸が熱くなった。


「……吉乃」


 俺が声をかけると、彼女は振り向いた。


「まあ、信長さま!」


 吉乃は、驚いたように目を見開いた。


「昨日もお越しくださったばかりでございますのに」


 俺は、少しだけ苦笑した。


「……迷惑だったか?」


 吉乃は、慌てて首を振った。


「いいえ。そのようなことはございませぬ」


 そして、柔らかく微笑んだ。


「ただ、何か大切なお話でもあるのかと思いまして」


 俺は、返事に詰まった。


 大切な話。


 確かに、ある。


 明日、お前は死ぬかもしれない。


 だから、どうか生きていてほしい。


 そう言いたかった。


 だが、そんなことを言われた吉乃は、どう思うだろう。


 自分には何の自覚もないのに、突然、明日死ぬかもしれないと告げられる。


 それは、あまりにも残酷ではないだろうか。


 俺は、ゆっくりと首を振った。


「……いや。ただ、顔を見たくなっただけだ」


 吉乃は、少しだけ頬を赤くした。


「……まあ」


 そして、照れくさそうに笑った。


「そのようなことを仰せになられますと、困ってしまいます」


 俺は、少しだけ笑った。


「……悪い」


「いいえ」


 吉乃は、柔らかく微笑んだ。


「嬉しゅうございます」


 俺は、その笑顔を見つめた。


 明日も、この笑顔を見たい。


 ただ、それだけだった。


     *


 俺は、吉乃の母親へ事情を説明し、今日は少しだけ家の仕事を手伝わせてもらうことにした。


 もちろん、若殿にそんなことをさせるわけにはいかないと、最初はずいぶん遠慮された。


 だが、俺がどうしてもと言うと、母親は苦笑しながら、庭先に積まれた薪を運ぶ仕事を任せてくれた。


 俺は、袖をまくり、薪を一つずつ運んだ。


 吉乃は、そんな俺を見ながら、くすくすと笑っていた。


「信長さまは、本当に不思議なお方でございますね」


「……何が?」


「お城で大切なお仕事をなさっておられるのに、こうして薪を運ぶことまでお手伝いくださるのですから」


 俺は、少しだけ苦笑した。


「……薪を運ぶくらい、誰でもできるだろう」


「それは、そうでございますけれど」


 吉乃は、柔らかく微笑んだ。


「わたくしは、嬉しゅうございます」


 俺は、薪を置きながら頷いた。


 そして、ふと尋ねた。


「……吉乃」


「はい」


「今日は、体の具合はどうだ?」


 吉乃は、少しだけ目を細めた。


「信長さま」


「……何だ」


「昨日も、同じことをお尋ねになりましたね」


 俺は、思わず苦笑した。


「……そうだったな」


 吉乃は、笑った。


「本当に、何ともございませぬよ」


 俺は、頷いた。


「……そうか」


 吉乃は、少しだけ首を傾げた。


「ですが、信長さまのほうが、お疲れのように見えます」


 俺は、顔を上げた。


「……俺が?」


「はい。お顔の色も、あまりよろしゅうございませぬ」


 俺は、少しだけ苦笑した。


 確かに、昨夜もほとんど眠れなかった。


 吉乃のことを考えるあまり、自分の体調まで悪くしているのだから、何とも情けない話だった。


「……少し、眠れなかっただけだ」


 吉乃は、心配そうに眉を寄せた。


「それはいけませぬね」


 俺は、思わず笑った。


「……お前まで医者みたいなことを言うなよ」


 吉乃は、くすくすと笑った。


「信長さまが、いつもわたくしに仰せになることを、そのままお返ししただけでございます」


 俺は、何も言い返せなかった。


 まったく、吉乃には敵わない。


     *


 昼過ぎ、俺たちはいつもの柿の木の下へ腰を下ろした。


 風は穏やかで、空には薄い雲が流れている。庭の向こうでは、吉乃の母親が干した大根を取り込んでいた。


 吉乃は、茶を一口飲むと、俺を見つめた。


「信長さま」


「……何だ?」


「先ほどから、何かをお考えになっておられますね」


 俺は、少しだけ苦笑した。


「……そんなに分かりやすいか?」


「はい」


 吉乃は、柔らかく微笑んだ。


「信長さまは、心配なことがおありになると、少しだけ眉間に皺が寄ります」


 俺は、思わず額へ手を当てた。


 吉乃は、くすくすと笑った。


「今も、寄っておりますよ」


 俺は、ため息をついた。


 どうやら、俺は隠し事が下手らしい。


 しばらく黙っていると、吉乃が静かに口を開いた。


「……信長さま」


「……何だ」


「わたくしは、信長さまが何を案じておられるのか、分かりませぬ」


 俺は、顔を上げた。


 吉乃は、まっすぐこちらを見つめていた。


「ですが、もし、わたくしにできることがございましたら、どうかお話しくださいませ」


 俺は、胸が痛んだ。


 吉乃は、俺のことを心配している。


 自分が明日死ぬかもしれないなどとは、夢にも思っていない。


 それなのに、俺の様子を見て、何か力になれないかと考えてくれている。


 俺は、しばらく言葉を探した。


「……吉乃」


「はい」


「もし、俺が……」


 そこで、言葉が止まった。


 もし、俺が未来を知っていると言ったら。


 もし、お前が明日死ぬと告げたら。


 お前は、信じてくれるだろうか。


 それとも、怖がるだろうか。


 俺は、どうしても続けられなかった。


 吉乃は、黙って待っていた。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


「……いや。何でもない」


 吉乃は、少しだけ目を伏せた。


 そして、静かに頷いた。


「そうでございますか」


 俺は、胸が痛んだ。


 彼女は、無理に聞き出そうとはしなかった。


 ただ、俺が話せるようになるのを待ってくれている。


 その優しさが、今はかえって苦しかった。


     *


 夕方が近づくと、俺は帰る支度を始めた。


 吉乃は、いつものように門のところまで見送ってくれた。


 俺は、馬へ乗る前に、もう一度彼女を見つめた。


 頬には、夕陽が当たっている。


 髪が、風に揺れている。


 その姿を、俺は忘れたくなかった。


「……吉乃」


「はい」


「明日も、元気でいてくれ」


 吉乃は、少しだけ驚いたように目を見開いた。


 そして、くすくすと笑った。


「まあ。信長さまは、本当に心配性でございますね」


 俺は、苦笑した。


「……そうだな」


 吉乃は、柔らかく微笑んだ。


「大丈夫でございますよ。明日も、きっと元気にしております」


 俺は、息を呑んだ。


 その言葉を、信じたかった。


 心の底から、信じたかった。


「……約束だぞ」


 吉乃は、少しだけ首を傾げた。


「約束、でございますか?」


「ああ」


 吉乃は、少しだけ困ったように笑った。


「病にならぬことまで、お約束はできませぬけれど」


 俺は、胸が痛んだ。


 吉乃は、静かに続けた。


「ですが、明日も元気でいられるよう、今日は早めに休むことにいたします」


 俺は、ゆっくりと頷いた。


「……それでいい」


 吉乃は、柔らかく微笑んだ。


「はい」


 俺は、馬へ乗った。


 そして、何度も振り返りながら村をあとにした。


     *


 城へ戻ると、濃姫が夕餉の支度を整えて待っていた。


 俺は、彼女の顔を見るなり、少しだけ安心した。


 濃姫は、俺の様子を見て静かに尋ねた。


「吉乃どのは、お元気でございましたか」


「ああ。元気だった」


 濃姫は、柔らかく微笑んだ。


「それは、ようございました」


 俺は、頷いた。


 そして、少しだけ迷ってから言った。


「……濃姫」


「はい」


「もし、大切な人が明日死ぬかもしれないと分かったら、お前ならどうする?」


 濃姫は、少し驚いたように目を見開いた。


 そして、しばらく考えた。


「……難しいお尋ねでございますね」


 俺は、頷いた。


 濃姫は、静かに続けた。


「もし本当に、そのようなことが分かるのであれば、できる限りのことをいたします」


「……それでも、助けられなかったら?」


 濃姫は、少しだけ目を伏せた。


 そして、ゆっくりと顔を上げた。


「そのときは、きっと悲しむでしょう」


 俺は、黙って聞いていた。


「ですが、悲しむことと、生きることをやめることは、別でございます」


 俺は、息を呑んだ。


 濃姫は、まっすぐ俺を見つめた。


「大切な方を亡くしたとしても、残された者には、まだ生きていかねばならぬ日々がございます」


 俺は、胸の奥が痛くなった。


 前の人生で、俺は吉乃を失ったあと、自ら命を絶った。


 もう一度やり直せるかもしれないと思ったからだ。


 だが、もし今度も吉乃を失ったら。


 俺は、また同じことをするのだろうか。


 その問いに、今の俺は答えられなかった。


 濃姫は、静かに続けた。


「それに、信長さま」


「……何だ」


「大切な方を失うことを恐れるあまり、今そばにおられる方々まで見失ってはなりませぬ」


 俺は、顔を上げた。


 濃姫は、少しだけ微笑んだ。


「わたくしも、ここにおります」


 俺は、何も言えなかった。


 その言葉は、静かに胸へ染み込んできた。


 俺は、ゆっくりと頷いた。


「……ああ」


 濃姫は、柔らかく微笑んだ。


「でしたら、まずはお夕餉を召し上がってくださいませ。今日も、あまりお食べになっておられないのでしょう?」


 俺は、思わず苦笑した。


「……どうして分かるんだよ」


「お顔を見れば分かります」


 濃姫は、少しだけ意地悪そうに笑った。


 俺は、ため息をついた。


 どうやら、俺の周りには、人の顔色を読むのが上手い人間ばかりいるらしい。


     *


 その夜、俺はなかなか眠れなかった。


 布団の中で目を閉じると、前の人生の記憶が何度も蘇った。


 冷たい雨。


 薬草の匂い。


 吉乃の熱い額。


 そして、最後に握った手。


 俺は、思わず目を開けた。


 隣では、濃姫が静かに眠っている。


 俺は、しばらくその寝顔を見つめていた。


 そして、ゆっくりと息を吐いた。


 明日。


 明日が、あの日だ。


 吉乃が亡くなった日。


 俺が、何もできなかった日。


 だが、今度は違う。


 宗伯には、明日すぐに動けるよう頼んである。


 十衛門にも、何かあれば力を貸してほしいと伝えた。


 吉乃には、今日は早めに休んでもらうよう話した。


 できることは、少しずつやっている。


 それでも、不安は消えなかった。


 俺は、静かに目を閉じた。


 どうか、明日も吉乃が笑っていますように。


 どうか、今度こそ、あの夜を繰り返しませんように。


 そんな願いを、何度も心の中で繰り返した。


 やがて、遠くで夜番の足音が聞こえた。


 夜が、少しずつ更けていく。


 そして、俺がどれほど願っても、時間は止まってくれなかった。


 ……明日が吉乃の命日だなんて、誰にも言えるわけないんだが!?

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