第50話:濃姫が他人の子を抱いていたんだが!?
十衛門の家を訪ねた翌朝、俺は珍しく、濃姫より先に目を覚ました。
障子の向こうはまだ薄暗く、庭の木々が朝露に濡れている。夜のうちに冷え込んだらしく、布団から出した肩にはひんやりとした空気が触れた。遠くでは、城の者たちが朝の支度を始めているのだろう、桶を置く音や戸を開け閉めする音が、静かな廊下を伝わって聞こえていた。
隣では、濃姫が眠っていた。
普段の彼女は、俺が起きる頃にはすでに身支度を整え、何事もなかったような顔で朝の挨拶をしてくる。だから、こうして眠っている姿を見るのは、案外珍しいことだった。
長い睫毛が頬に影を落とし、結い上げる前の黒髪が枕元へ広がっている。いつもの鋭い眼差しも、こちらの考えを見透かすような微笑みもない。年相応の若い娘らしい寝顔を見ていると、彼女がまだ十代半ばであることを、改めて思い出させられた。
俺は、しばらくその顔を眺めていた。
濃姫は、美しい。
それは、初めて会ったときから分かっていた。
だが、彼女と夫婦になってから、俺はその美しさ以上に、彼女の聡明さや芯の強さに驚かされることが多かった。
吉乃を側室に迎えたいと打ち明けたときも、濃姫は泣き叫ぶことも、感情に任せて俺を責めることもしなかった。ただ、自分にも心があることを忘れないでほしいと告げ、吉乃の気持ちも十分に聞いていないのなら、今は何も決めるべきではないと言った。
俺は、あの言葉を何度も思い返している。
もし立場が逆だったら、俺はあんなふうに冷静でいられただろうか。
おそらく、無理だろう。
好きな相手から、別の誰かとも一緒に暮らしたいと言われたら、頭では事情を理解できても、心が追いつかないと思う。
濃姫は、そんな思いを抱えながらも、俺と向き合おうとしてくれている。
俺は、そのことを忘れてはいけなかった。
「……信長さま」
突然、濃姫が口を開いた。
俺は、思わず肩を跳ねさせた。
「お、起きていたのか」
濃姫は、ゆっくりと目を開けた。
「先ほどから、ずいぶんと熱心にご覧になっておられますので」
「……悪い」
「何か、わたくしの顔についておりますか」
「いや。別に、何も」
濃姫は、少しだけ笑った。
「では、何をご覧になっておられたのです?」
俺は、返事に困った。
綺麗だと思って見ていた。
そう言えばいいだけなのに、なぜか妙に照れくさかった。
「……寝顔を見るのが珍しかっただけだ」
濃姫は、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに言った。
「それは、わたくしも同じにございます」
「……え?」
「信長さまは、眠っておられるときにも、時折お苦しそうなお顔をなさいますから」
俺は、息を呑んだ。
濃姫は、布団の中で少しだけ身を起こした。
「昨夜も、何度か目を覚ましておられましたね」
「……気づいていたのか」
「はい」
俺は、視線を落とした。
昨夜も、吉乃のことを考えて眠れなかった。
前の人生で彼女が亡くなった日が近づいていることを思うと、どうしても胸がざわついたのだ。
濃姫は、そんな俺をしばらく見つめていた。
「……何か、ご心配なことがおありなのですね」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「ああ」
「わたくしに、お話しできることでございますか」
俺は、少し迷った。
吉乃のことを話せば、濃姫を傷つけるかもしれない。
だが、何も話さずにいることも、彼女に対して誠実ではないように思えた。
「……大切な人が、病になるかもしれないと思うと、怖いんだ」
濃姫は、静かに俺を見つめた。
「吉乃どののことでございますか」
俺は、驚いて顔を上げた。
「……どうして分かった?」
濃姫は、少しだけ困ったように笑った。
「信長さまは、近頃よく村へお出かけになっておられます。それに、医師をお探しになっていることも耳にいたしました」
俺は、思わず額を押さえた。
城の中では、俺の行動がすっかり知られているらしい。
濃姫は、静かに続けた。
「吉乃どのは、お加減が悪いのでございますか」
「いや。今のところは元気だ」
「それならば、何よりでございます」
俺は、少しだけ顔を上げた。
濃姫は、穏やかな顔をしていた。
その表情を見ていると、俺はますます申し訳なくなった。
「……濃姫」
「はい」
「お前には、嫌な思いをさせていると思う」
濃姫は、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに言った。
「……そうでございますね」
俺は、胸が痛んだ。
濃姫は、少しだけ笑った。
「ですが、信長さまがご心配なさっている方の命まで、わたくしが疎ましく思っているわけではございませぬ」
俺は、思わず顔を上げた。
濃姫は、まっすぐこちらを見つめた。
「吉乃どのがご病気でないのであれば、それは喜ばしいことでございます。わたくしがどう思うかということと、あの方が健やかでいてくださることは、別のお話にございます」
俺は、しばらく何も言えなかった。
濃姫は、決して吉乃を側室に迎えることを認めたわけではない。
それでも、吉乃の無事を願うことはできる。
俺は、その当たり前のことを、今までどこかで見落としていたのかもしれなかった。
「……ありがとう」
俺がそう言うと、濃姫は少しだけ眉を上げた。
「お礼を言われるようなことではございませぬ」
そして、少しだけ意地悪そうに笑った。
「ただし、わたくしのお気持ちまで、すっかりお忘れになられては困りますけれど」
俺は、苦笑した。
「……分かっている」
濃姫は、静かに頷いた。
「でしたら、よろしゅうございます」
俺は、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
*
その日の昼過ぎ、城下から一人の女が訪ねてきた。
女は、城に出入りする仕立て職人の妻で、濃姫が以前から衣類の仕立てを頼んでいる家の者らしい。今日は新しく仕立てた小袖を届けに来たのだが、夫が別の仕事で出払っているため、幼い息子を連れてきていた。
子どもは、まだ二つか三つほどだろうか。
丸い頬に大きな目をした男の子で、母親の袖をしっかりと握っている。城へ来るのは初めてなのか、廊下の柱や庭の石灯籠を、物珍しそうに眺めていた。
俺は、ちょうど濃姫の部屋へ向かう途中で、その親子と出会った。
女は俺の姿を見るなり、慌てて頭を下げた。
「若殿さま!」
すると、子どもも母親の真似をして頭を下げようとしたのだが、勢い余って前へ転びそうになった。
俺は、思わず手を伸ばした。
「おっと」
子どもは、俺の袖を掴んで何とか踏みとどまった。
母親は、真っ青になっている。
「申し訳ございませぬ!」
「いや、構わない。怪我はないか?」
子どもは、俺を見上げた。
そして、突然、にっこりと笑った。
「おさむらいさま!」
俺は、思わず笑った。
「……そうだな。一応、侍だ」
子どもは、嬉しそうに俺の袖を引っ張った。
「おさむらいさま、かたな!」
俺は、腰の刀へ目を落とした。
どうやら、刀が気になるらしい。
「これは、危ないから触っちゃ駄目だぞ」
俺が言うと、子どもは少しだけ不満そうに頬を膨らませた。
その様子が可笑しくて、俺はまた笑ってしまった。
そこへ、濃姫が姿を現した。
「まあ。どうなさいましたの?」
仕立て職人の妻が、慌てて事情を説明した。
濃姫は、子どもの顔を見ると、柔らかく微笑んだ。
「そうでございましたか。初めてのお城で、驚いてしまったのでしょうね」
子どもは、濃姫を見上げた。
そして、母親の袖から手を離し、今度は濃姫の小袖へ手を伸ばした。
「きれい!」
俺は、思わず吹き出した。
濃姫は、少し驚いたように瞬きをした。
それから、声を立てて笑った。
「まあ。お上手でございますこと」
子どもは、得意そうに笑った。
濃姫は、膝を折って子どもと目線を合わせた。
「お名前は?」
「……たけ!」
「竹丸どの、とおっしゃるのですか」
母親が、慌てて頷いた。
「はい。竹丸と申します」
濃姫は、微笑んだ。
「よいお名前でございますね」
竹丸は、嬉しそうに笑った。
そして、濃姫へ両手を伸ばした。
「だっこ!」
母親は、今度こそ顔色を変えた。
「竹丸! 何を申すのです!」
俺も、少し驚いた。
濃姫は織田家の正室である。
城下の職人の子どもが、気軽に抱いてくれと頼んでよい相手ではない。
だが、濃姫は少しも嫌な顔をしなかった。
「よろしゅうございますよ」
そう言うと、彼女は竹丸をそっと抱き上げた。
子どもは、嬉しそうに濃姫の肩へ手を回した。
濃姫は、その背中を支えながら、落ち着いた声で話しかけている。
「まあ、ずいぶんと元気でいらっしゃいますね。お母さまは、毎日大変でしょう」
母親は、恐縮しながらも笑った。
「はい。少しもじっとしておりませぬので」
濃姫は、竹丸の顔を覗き込んだ。
「それは、お母さまを困らせてはいけませぬね」
竹丸は、何も分かっていない顔で笑った。
俺は、その光景を見つめていた。
濃姫が、子どもを抱いている。
それだけのことなのに、なぜか胸の奥に不思議な感情が広がった。
彼女は、まだ自分の子どもを産んでいない。
俺たちも、夫婦になってからそれほど長い時間が経っていない。
だが、濃姫が竹丸を抱く姿は、驚くほど自然だった。
子どもが少し身じろぎすると、落とさないように抱き直し、髪が顔にかかれば指先でそっと払ってやる。竹丸が母親のほうへ手を伸ばすと、すぐにその意思を汲み取って、名残惜しそうな素振りも見せずに母親へ返した。
俺は、思わず尋ねた。
「……濃姫は、子どもが好きなのか?」
濃姫は、少しだけ首を傾げた。
「嫌いではございませぬ」
「……そうか」
「幼い子は、何を考えているのか分からぬところもございますが、見ていて飽きませぬね」
濃姫は、柔らかく笑った。
竹丸は母親の腕の中から濃姫へ手を振っている。
濃姫も、小さく手を振り返した。
俺は、その様子を見ながら、ふと考えた。
もし、俺たちに子どもが生まれたら。
濃姫は、こんなふうに抱くのだろうか。
そして、もし、その子が濃姫の産んだ子ではなかったら。
俺は、そこで考えるのをやめた。
今は、まだ何も決まっていない。
吉乃を側室に迎えることすら、決まっていないのだ。
それなのに、子どものことまで考えるのは、あまりにも気が早い。
俺は、静かに息を吐いた。
*
仕立て職人の親子が帰ったあと、俺は濃姫と二人で庭を眺めていた。
秋の風が涼しく、木々の葉が静かに揺れている。
濃姫は、先ほど届けられた小袖を畳みながら、ふと口を開いた。
「竹丸どのは、愛らしいお子でございましたね」
「ああ。元気だったな」
「はい。お母さまも、ずいぶんと大切になさっているのでしょう」
俺は、頷いた。
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「子どもというものは、不思議でございますね」
「……何が?」
「生まれたときから、誰かに守られなければ生きていけませぬ。それなのに、少しずつ大きくなると、自分で歩き、自分で考え、やがて親の手を離れていくのでございます」
俺は、黙って聞いていた。
「母親にとっては、嬉しくもあり、寂しくもあるのでしょうね」
俺は、少しだけ笑った。
「……濃姫は、いい母親になりそうだな」
濃姫は、少し驚いたように俺を見た。
「まあ。突然、何を仰せになりますの」
「いや。さっきの竹丸を見ていて、そう思っただけだ」
濃姫は、少しだけ頬を赤くした。
そして、静かに笑った。
「……ありがとうございます」
俺は、少しだけ照れくさくなった。
だが、濃姫は続けて言った。
「ただ、信長さま」
「……何だ?」
「母親というものは、子を産めば自然になれるものなのでしょうか」
俺は、少し考えた。
「……どういうことだ?」
濃姫は、庭へ目を向けた。
「子を産んだからといって、必ずよい母になれるとは限りませぬ。反対に、自分が産んだ子でなくとも、心を尽くして育てる方もおられましょう」
俺は、顔を上げた。
濃姫は、静かに続けた。
「わたくしの知る家にも、幼くして母を亡くした子がおります。その子は、父の後妻に育てられましたが、今では実の母子のように仲睦まじく暮らしております」
俺は、黙って聞いていた。
「もちろん、全てがそのようにうまくいくわけではございませぬ。ですが、血のつながりだけが、親子を決めるものではないのだと思います」
俺は、しばらく何も言えなかった。
濃姫は、少しだけ首を傾げた。
「……信長さま?」
「……いや」
俺は、ゆっくりと首を振った。
「いい考えだと思った」
濃姫は、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
俺は、庭の向こうを見つめた。
血のつながりだけが、親子を決めるものではない。
その言葉は、なぜか胸の奥に深く残った。
俺は、まだ子どもを持っていない。
吉乃との間に子どもが生まれるかどうかも、分からない。
だが、もし将来、何かの事情で子どもを誰かに託さなければならなくなったとしたら。
そのとき、濃姫のような人がそばにいてくれたなら、どれほど心強いだろう。
俺は、そんなことを考えてしまった。
もちろん、それがどれほど残酷な願いなのか、今の俺にはまだ分かっていなかった。
*
その日の夕方、吉乃の村から使いが来た。
俺は、書状を受け取るなり、思わず胸が跳ねた。
吉乃の家からの知らせ。
それだけで、どうしても悪いことを考えてしまう。
俺は、慌てて書状を開いた。
だが、そこに書かれていたのは、拍子抜けするほど穏やかな内容だった。
先日、俺が手伝った芋の収穫が無事に終わったこと。
今年は思っていたより出来がよく、村の者たちも喜んでいること。
そして、吉乃が、また干した芋を持ってきてくれるということだった。
俺は、思わず深く息を吐いた。
……何だ。
よかった。
吉乃は、元気なのだ。
俺は、書状をもう一度読み返した。
文字を目で追いながら、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。
だが、そのとき、ふと気づいた。
書状の最後に、小さく一文が添えられていたのである。
『吉乃は近頃、少々疲れやすいようでございますが、本人は変わらず元気にしております』
俺は、その一文を見つめた。
疲れやすい。
その言葉が、胸の奥へ冷たく沈んでいった。
前の人生でも、吉乃は最初、少し疲れたと言っていた。
それから、熱が出た。
そして、二度と起き上がれなくなった。
俺は、書状を握りしめた。
いや、落ち着け。
畑仕事が続けば、誰だって疲れる。
秋は収穫の時期で、村の者たちは皆忙しい。
吉乃だけが特別に具合を悪くしているとは限らない。
そう自分に言い聞かせた。
だが、どうしても不安が消えなかった。
俺は、窓の外を見た。
空は、すでに薄暗くなっている。
今から村へ向かえば、着く頃には夜になるだろう。
俺は、しばらく迷った。
そして、ようやく書状を畳んだ。
明日、会いに行こう。
今夜は、吉乃の家族もいる。
本人も元気だと言っている。
俺が突然押しかけて騒ぎ立てれば、また彼女を困らせるだけだ。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
そのとき、濃姫が部屋へ入ってきた。
「信長さま。お夕餉の支度が整いました」
俺は、顔を上げた。
「……ああ。今行く」
濃姫は、俺の手元にある書状を見た。
「何か、お知らせがございましたか」
俺は、少し迷った。
だが、隠す必要はないと思った。
「……吉乃の村からだ。収穫が終わったらしい」
濃姫は、静かに頷いた。
「それは、ようございましたね」
「ああ」
俺は、少しだけ笑った。
濃姫は、俺の顔を見つめた。
「……ほかに、何かございましたか」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……吉乃が、少し疲れやすいらしい」
濃姫は、少しだけ眉を寄せた。
「まあ。それは、ご心配でございますね」
俺は、頷いた。
濃姫は、少し考えた。
「でしたら、何か滋養のつくものを届けて差し上げてはいかがでしょう」
俺は、思わず顔を上げた。
「……いいのか?」
濃姫は、少しだけ首を傾げた。
「何がでございますか」
「……吉乃に、贈り物をしても」
濃姫は、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに微笑んだ。
「病を案じることと、側室のお話とは、別でございましょう」
俺は、胸が熱くなるのを感じた。
濃姫は、少しだけ続けた。
「ただし、あの方が気兼ねなさらぬ程度のものがよろしゅうございますね。あまり立派な贈り物では、かえってご負担になるでしょうから」
俺は、頷いた。
「……そうだな」
濃姫は、静かに笑った。
「では、台所の者に相談してみましょう」
俺は、しばらく彼女を見つめていた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとう、濃姫」
濃姫は、少し驚いたように目を見開いた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「どういたしまして」
俺は、その笑顔を見ながら、ふと思った。
もし、吉乃と濃姫が、いつか互いを理解し合える日が来たなら。
そのとき、俺たちはどんな家族になれるのだろう。
俺には、まだ分からなかった。
だが、少なくとも今夜、濃姫が吉乃の体を案じてくれたことは、忘れずにいようと思った。
*
夜になり、俺は一人で庭を眺めていた。
月は雲に隠れ、木々の影が暗く伸びている。
遠くでは、夜番の兵が歩く足音が聞こえていた。
俺は、吉乃の書状をもう一度開いた。
少々疲れやすい。
その言葉が、どうしても頭から離れなかった。
前の人生で吉乃が亡くなった日まで、あとわずかしかない。
俺は、書状を畳み、胸元へしまった。
明日、会いに行こう。
そして、今度こそ、きちんと話を聞こう。
無理に休ませるのではなく、彼女が何を感じ、何に困っているのかを確かめよう。
俺は、そう心に決めた。
だが、その夜も、なかなか眠ることができなかった。
濃姫が他人の子を抱いていた姿。
吉乃が疲れやすいという知らせ。
その二つの出来事が、なぜか頭の中で何度も重なった。
俺は、布団の中で目を閉じた。
まだ何も起きていない。
吉乃は、今も生きている。
濃姫も、俺のそばにいる。
それなのに、どうしてだろう。
今夜は、二人の笑顔を思い浮かべるほど、胸の奥が苦しくなった。
……まだ何も失っていないのに、もう失うのが怖いんだが!?




