第49話:鬼教官の家に招かれたら意外と恐妻家だったんだが!?
土山十衛門という男には、どうしても理解できないところがある。
四十を過ぎた年齢でありながら、朝から晩まで槍を振るい、俺が息を切らしている横で涼しい顔をしていることもそうだが、それ以上に不思議なのは、どれほど長く付き合っても、私生活というものがまるで見えてこないことだった。
十衛門は妻帯者である。
しかも、子どもが三人いる。
以前、何かの拍子にそう聞かされたときには、思わず耳を疑ってしまった。
あの十衛門が父親。
それも、三人の子どもの父親である。
俺にとっての十衛門は、槍を持てば容赦なく打ち込んでくる鬼教官であり、戦場では敵の動きを冷静に見極める武士であり、俺が少しでも調子に乗れば必ず嫌味を言ってくる、実に厄介な男だった。
そんな男が、家へ帰れば子どもたちに囲まれ、妻と夕餉を囲んでいるというのだから、どうにも想像がつかない。
もっとも、本人に尋ねたところで、家庭のことなど滅多に話してくれない。
俺が一度、奥方はどんな人なのかと尋ねたときなど、十衛門は少し考えた末に、ただ一言、「しっかりした女にございます」と答えただけだった。
しっかりした女。
それだけでは、何も分からない。
だが、十衛門がそれ以上話そうとしなかったので、俺も深く追及することはなかった。
ところが、ある日の朝。
その十衛門が、珍しく困った顔をしていた。
*
「若殿、本日の稽古は、少々早めに切り上げさせていただきとうございます」
朝の稽古場で、十衛門はそう言った。
俺は思わず槍を下ろした。
普段なら、俺がどれほど疲れたと言っても聞き入れない男である。そんな十衛門が、自分から稽古を短くすると言い出したのだから、何かよほどの事情があるに違いなかった。
「どうした。具合でも悪いのか?」
「いえ。体は至って丈夫にございます」
「じゃあ、何か用事でも?」
「……家のことで、少々」
俺は目を丸くした。
十衛門が家庭の事情を口にするのは、これが初めてだった。
「何かあったのか?」
「大したことではございませぬ」
「そう言われると、余計に気になるんだが」
十衛門は、しばらく黙っていた。
そして、少しだけ気まずそうに口を開いた。
「……末の娘が、熱を出しまして」
俺は、思わず顔を上げた。
「熱?」
「はい。昨夜から少々熱っぽく、今朝もまだ下がっておりませぬ」
その瞬間、俺の胸の奥が冷たくなった。
熱。
その言葉を聞くだけで、どうしても吉乃のことを思い出してしまう。
「医者には診せたのか?」
「はい。昨夜、近くの医師に診ていただきました。今のところ重い病の兆しは見られぬとのことでございます」
「……そうか」
俺は、少しだけ息を吐いた。
だが、安心しきることはできなかった。
「娘は、いくつなんだ?」
「五つにございます」
五歳。
まだ、ほんの小さな子どもだ。
俺は、思わず十衛門の顔を見つめた。
普段と変わらない無表情に見えたが、よく見ると目元には少し疲れが残っている。昨夜は、あまり眠れなかったのかもしれなかった。
「……今日は、もう帰っていいぞ」
俺がそう言うと、十衛門は少しだけ眉を上げた。
「まだ稽古の途中にございますが」
「娘が熱を出しているんだろう。そばにいてやれよ」
「妻もおりますし、家の者もおります。私一人がおらずとも、何とかなることでございます」
俺は、思わず顔をしかめた。
「そういう問題じゃないだろう」
十衛門は、少しだけ目を細めた。
「……若殿」
「何だ」
「父親が家におれば、娘の熱が下がるというわけでもございませぬ」
「それは、そうだけど」
「それに、若殿の稽古を途中で投げ出すわけには参りませぬ」
俺は、ため息をついた。
まったく、この男は。
真面目なのはいいが、少しは融通を利かせてもいいだろう。
「……じゃあ、今日は俺も休む」
十衛門は、目を丸くした。
「何と?」
「俺も、たまには休みたいんだよ」
俺がそう言うと、十衛門はしばらく俺を見つめていた。
そして、静かに言った。
「若殿は、毎日のように休みたいと仰せになっておりますが」
「……今は、そういう話じゃない!」
俺が言い返すと、十衛門は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
どうやら、笑っているらしい。
俺は、槍を片づけながら言った。
「……よし。俺も一緒に行く」
「……どちらへ?」
「お前の家だよ」
十衛門は、今度こそはっきりと顔をしかめた。
「若殿、それはお控えくださいませ」
「何でだよ」
「私の家など、若殿にお越しいただくようなところではございませぬ」
「別に、立派な屋敷じゃなくても構わない」
「そういうことではございませぬ」
俺は、少しだけ首を傾げた。
十衛門は、明らかに困っている。
それが、妙に面白かった。
「……もしかして、奥方に怒られるのか?」
俺が尋ねると、十衛門は黙った。
俺は、思わず笑った。
「……図星か!」
「若殿」
「何だよ」
「余計な詮索は、お控えくださいませ」
俺は、ますます笑ってしまった。
どうやら、鬼教官にも恐ろしいものがあるらしい。
*
結局、俺は十衛門の家を訪ねることになった。
もっとも、若殿が家臣の家へ突然押しかけるというのも迷惑な話なので、先に使いを出し、都合を尋ねることにした。
すると、意外にも十衛門の妻からは、ぜひお越しくださいという返事が届いた。
十衛門は、その返事を聞いた瞬間、何とも言えない顔をした。
「……本当に、よろしいのでございますか」
「奥方がいいと言っているんだから、いいだろう」
「……左様でございますな」
俺は、その様子を見ながら、少しだけ笑った。
十衛門の家は、城からそれほど遠くない場所にあった。
武家の屋敷としては決して大きくないが、門や塀はきちんと手入れされ、庭には季節の草花が植えられている。軒下には薪が整然と積まれ、物干しには子どもの小さな着物が干されていた。
俺は、その光景を見て少し驚いた。
十衛門の家は、思っていたよりずっと温かみのある場所だった。
門をくぐると、奥から一人の女が出てきた。
年の頃は三十代半ばだろうか。落ち着いた色の小袖をまとい、髪をきちんと結い上げている。顔立ちは整っているが、何より印象的なのは、まっすぐこちらを見つめる目だった。
「若殿さま。本日は、ようこそお越しくださいました」
女は、深く頭を下げた。
十衛門が、少しだけ背筋を伸ばした。
「妻の志乃にございます」
俺は、頷いた。
「突然押しかけてすまない。娘さんが熱を出したと聞いて、少し心配になってな」
志乃は、柔らかく微笑んだ。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。おかげさまで、今朝よりは少し熱も下がっております」
「それはよかった」
俺は、少しだけ安心した。
志乃は、俺たちを座敷へ案内した。
部屋には畳が敷かれ、壁際には小さな棚が置かれている。床の間には季節の花が飾られ、隅には子どもが遊ぶための木製の独楽や竹細工がいくつか置かれていた。
俺は、思わずそれらを見つめた。
十衛門の家に、子どもの玩具。
何だか、妙に不思議な光景だった。
「……十衛門」
「はっ」
「お前、本当に父親なんだな」
十衛門は、少しだけ眉を上げた。
「今さら何を仰せになりますか」
志乃が、くすくすと笑った。
「この人は、お城でもそのような顔をしているのでございますか?」
俺は、思わず頷いた。
「ああ。いつも厳しい顔をしている」
志乃は、少しだけ首を傾げた。
「まあ。家でも同じでございますよ」
俺は、笑った。
十衛門は、黙っていた。
その沈黙が、かえって面白かった。
やがて、志乃が茶を運んできた。
俺は礼を言い、茶碗を受け取った。
そのとき、廊下の向こうから小さな足音が聞こえてきた。
「父上!」
元気な声とともに、一人の少年が飛び込んできた。
十歳くらいだろうか。髪を短く結い、木の棒を握っている。
少年は十衛門を見るなり、嬉しそうに駆け寄った。
「父上! 今日はお早いのですね!」
十衛門は、少しだけ表情を緩めた。
「……ああ」
俺は、思わず目を見開いた。
十衛門が笑った。
それも、俺に向ける嫌味な笑いではなく、普通の父親らしい笑顔だった。
少年は、俺の存在に気づくと、慌てて頭を下げた。
「若殿さま!」
「……ああ。こんにちは」
俺は、少しだけ笑った。
「名前は?」
「太郎丸にございます!」
少年は、元気よく答えた。
俺は、頷いた。
「……槍の稽古をしていたのか?」
太郎丸は、目を輝かせた。
「はい! 父上のように強くなりとうございます!」
俺は、思わず十衛門を見た。
十衛門は、少しだけ咳払いをした。
「まだまだ、遊びのようなものでございます」
俺は、笑った。
「いや、いいじゃないか。父親に憧れるのは、立派なことだ」
太郎丸は、嬉しそうに笑った。
そのとき、志乃が静かに言った。
「太郎丸」
「はい、母上」
「お客様の前で、木の棒を振り回してはなりませぬ」
太郎丸は、慌てて棒を下ろした。
「申し訳ございませぬ!」
俺は、思わず笑った。
どうやら、この家で一番怖いのは志乃らしい。
*
しばらくして、もう一人の子どもが姿を現した。
八歳ほどの少女で、名を千代というらしい。
千代は兄とは違い、少し恥ずかしそうに俺を見つめていた。
「……若殿さま」
「こんにちは」
俺が声をかけると、千代は小さく頭を下げた。
そして、十衛門の隣へ座った。
俺は、少しだけ驚いた。
千代は、十衛門の袖をそっと掴んでいる。
十衛門は、何も言わずにその手を受け入れていた。
俺は、その様子を見ながら、何とも言えない気持ちになった。
普段、俺を容赦なく打ちのめしている男が、娘に袖を掴まれて静かに座っている。
これほど意外な光景があるだろうか。
「……十衛門」
「はっ」
「お前、娘には甘いんだな」
十衛門は、少しだけ眉を上げた。
「そのようなことはございませぬ」
すると、千代が小さな声で言った。
「父上は、わたくしにはあまり怒りませぬ」
俺は、思わず吹き出した。
十衛門は、黙った。
志乃が、静かに笑った。
「この人は、娘たちには甘うございますから」
俺は、ますます笑ってしまった。
十衛門は、少しだけ顔をしかめた。
「……志乃」
「何でございましょう」
「若殿の前で、余計なことを申すな」
志乃は、にっこりと笑った。
「事実でございましょう?」
十衛門は、何も言い返せなかった。
俺は、その様子を見ながら、腹を抱えて笑った。
鬼教官が、完全に負けている。
しかも、槍も刀も使わずに。
これは、なかなか見られない光景だった。
*
やがて、末の娘の様子を見に行くことになった。
五歳の娘は、奥の部屋で布団に横になっていた。
頬には少し赤みが残っているが、目はしっかりしており、俺たちが入ると小さく体を起こそうとした。
志乃が、慌てて止めた。
「そのままでよいのですよ」
娘は、少しだけ頷いた。
十衛門が、布団のそばへ膝をついた。
「……具合はどうだ」
娘は、小さな声で答えた。
「……少し、よくなりました」
十衛門は、静かに頷いた。
「そうか」
そして、娘の額へそっと手を当てた。
俺は、その様子を見つめていた。
十衛門の手は、大きく、節くれ立っている。
槍を握り続けてきた手だ。
その手が、今は娘の額へ優しく触れている。
俺は、少しだけ胸が温かくなった。
娘は、十衛門を見つめた。
「父上」
「何だ」
「……今日は、そばにいてくださいますか」
十衛門は、少しだけ目を細めた。
「……ああ」
娘は、安心したように微笑んだ。
俺は、その光景を見ながら、ふと思った。
十衛門にも、守りたいものがある。
俺が吉乃を失うことを恐れているように、十衛門も妻や子どもたちを失うことを恐れているのだろう。
だが、彼はその恐怖を、俺のように表へ出さない。
ただ、できることをして、家族のそばにいる。
俺は、その姿に少しだけ感心した。
やがて、娘が眠り始めたので、俺たちは静かに部屋を出た。
*
座敷へ戻ると、志乃が軽い食事を用意してくれていた。
俺は遠慮しようとしたが、十衛門が、せっかくなので召し上がってくださいと言うので、ありがたくいただくことにした。
膳には、炊いた米と汁物、煮た野菜、それに少しの魚が並んでいた。
決して豪華ではない。
だが、どれも丁寧に作られており、温かかった。
俺は、一口食べて思わず頷いた。
「……美味いな」
志乃は、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
俺は、十衛門を見た。
「お前、毎日こんな飯を食べているのか」
「はい」
「……羨ましいな」
十衛門は、少しだけ眉を上げた。
「若殿のお食事のほうが、よほど立派でございましょう」
「そういうことじゃないんだよ」
俺は、苦笑した。
確かに、城の食事は立派だ。
だが、こうして家族のために作られた食事には、また別の温かさがある。
俺は、ふと濃姫のことを思い出した。
彼女とは夫婦になったばかりで、まだ一緒に暮らすことに慣れていない。
それでも、いつかこんなふうに、何でもない食卓を囲める日が来るのだろうか。
そして、吉乃のことも思い出した。
彼女と一緒に暮らせたなら、どんな毎日になるのだろう。
そんなことを考えていると、志乃が静かに尋ねた。
「若殿さまは、濃姫さまと仲睦まじくお過ごしでございますか」
俺は、思わず箸を止めた。
「……え?」
志乃は、にっこりと笑った。
「ご祝言を挙げられて、まだ日も浅うございますでしょう」
俺は、少しだけ顔を赤くした。
「……まあ、それなりに」
十衛門が、静かに茶を飲んでいる。
俺は、その様子を見て少し腹が立った。
絶対に面白がっている。
志乃は、少しだけ首を傾げた。
「それなりに、でございますか」
「……ああ」
「それは、いけませぬね」
俺は、目を丸くした。
「……何が?」
志乃は、穏やかな顔で言った。
「夫婦は、言葉を交わさねば分かり合えませぬ。どれほど立派なお方でも、相手の心を読めるわけではございませぬから」
俺は、思わず黙った。
その言葉は、妙に胸に刺さった。
濃姫は、俺が吉乃を側室に迎えたいと言ったとき、自分にも心があることを忘れないでほしいと告げた。
俺は、その言葉を忘れていない。
だが、まだ何も決められずにいる。
志乃は、そんな俺の事情など知らないはずなのに、まるで見透かしているようだった。
「……そうだな」
俺は、静かに頷いた。
志乃は、少しだけ微笑んだ。
「この人も、昔は何も話してくださらぬ方でございました」
俺は、思わず顔を上げた。
「……十衛門が?」
「はい。何を考えているのか、さっぱり分かりませなんだ」
十衛門は、少しだけ咳払いをした。
「……志乃」
「ですが、今は少しずつ話してくださるようになりました」
俺は、思わず笑った。
「……十衛門にも、そんな時代があったのか」
志乃は、くすくすと笑った。
「今でも、十分に無口でございますけれど」
十衛門は、黙って茶を飲んだ。
俺は、その様子を見ながら、ますます面白くなってきた。
鬼教官にも、若い頃があった。
恋をして、結婚して、子どもが生まれた。
当たり前のことなのに、俺には何だか不思議だった。
*
食事を終えたあと、俺は庭へ出た。
夕方の風が涼しく、木々の葉が静かに揺れている。
十衛門も、少し遅れて出てきた。
俺は、庭の隅に置かれた木槍を見つめた。
「……太郎丸は、毎日稽古しているのか?」
「はい。まだ遊びのようなものですが」
「お前が教えているのか?」
「時折、見ております」
俺は、少しだけ笑った。
「……俺より厳しいのか?」
十衛門は、少し考えた。
「……若殿よりは、素直に言うことを聞きますゆえ」
俺は、思わず顔をしかめた。
「……そういう意味じゃない!」
十衛門は、ほんの少しだけ笑った。
俺は、ため息をついた。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
しばらく庭を眺めていると、十衛門が静かに口を開いた。
「若殿」
「……何だ」
「本日は、ありがとうございました」
俺は、少し驚いた。
「……何が?」
「娘のことを案じていただき、また、家までお越しいただきましたこと」
俺は、首を振った。
「別に、大したことはしていない」
「それでも、ありがたく存じます」
十衛門は、静かに頭を下げた。
俺は、少しだけ困った。
普段、俺に厳しいことばかり言う男が、こうして素直に礼を言うと、何だか調子が狂ってしまう。
「……十衛門」
「はっ」
「お前も、家族が大事なんだな」
十衛門は、少しだけ眉を上げた。
「当然にございます」
俺は、頷いた。
「……そうだよな」
十衛門は、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに言った。
「若殿も、いずれお分かりになることでしょう」
「……何が?」
「守るべき者が増えるということは、恐ろしいことでもございます」
俺は、顔を上げた。
十衛門は、庭の向こうを見つめていた。
「妻を迎えたときも、子が生まれたときも、私は嬉しゅうございました。されど、そのたびに、失うことへの恐れも増えました」
俺は、黙って聞いていた。
「戦へ出るときには、もう二度と家へ戻れぬかもしれぬと思います。病が流行れば、子らが無事でいてくれるよう祈ります。家族を持つということは、そういうことでもございます」
俺は、胸の奥が少し痛んだ。
十衛門も、恐れている。
俺と同じように、大切な人を失うことを恐れている。
だが、彼はその恐怖を抱えながら、毎日を生きている。
「……怖くないのか?」
俺が尋ねると、十衛門は少しだけ笑った。
「怖うございますよ」
俺は、目を丸くした。
十衛門が、そんなことを言うとは思わなかった。
「……お前でも?」
「私を何だと思っておられるのですか」
俺は、思わず笑った。
「……鬼教官」
十衛門は、顔をしかめた。
「若殿」
「冗談だよ」
俺は、笑った。
十衛門は、ため息をついた。
だが、そのあとで静かに続けた。
「怖いからこそ、できることをいたします。子が熱を出せば医者を呼び、妻が疲れておれば家のことを手伝い、戦へ出るときには、生きて戻るために備えます」
俺は、頷いた。
「……それでも、どうにもならないことがあったら?」
十衛門は、少しだけ考えた。
「そのときは、そのときに考えます」
俺は、思わず顔を上げた。
十衛門は、静かに笑った。
「まだ起きてもおらぬことを、今から全て背負うことはできませぬ」
俺は、しばらく黙っていた。
その言葉は、吉乃のことを考えていた俺の胸に深く残った。
俺は、未来を知っている。
少なくとも、前の人生で何が起きたのかは覚えている。
だが、今の人生で同じことが起きるとは限らない。
それなのに、俺はまだ起きていない悲しみを、すでに起きたことのように抱え込んでいる。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうだな」
十衛門は、静かに頷いた。
「はい」
俺は、少しだけ笑った。
「……お前、家では案外、普通の父親なんだな」
十衛門は、眉を上げた。
「若殿は、私を何だと思っておられるのでございますか」
「だから、鬼教官だって」
十衛門は、深くため息をついた。
俺は、声を上げて笑った。
*
帰り際、志乃が小さな包みを持ってきた。
「若殿さま。こちらを、お持ち帰りくださいませ」
俺は、少し驚いた。
「……何だ?」
「干した栗にございます。子どもたちが拾ってきたものを、少しばかり干しておきました」
俺は、包みを受け取った。
「……ありがとう」
志乃は、柔らかく微笑んだ。
「また、いつでもお越しくださいませ」
俺は、頷いた。
すると、十衛門が少しだけ顔をしかめた。
「……志乃」
「何でございましょう」
「若殿は、お忙しいお方にございます」
志乃は、にっこりと笑った。
「ですが、たまには息抜きも必要でございましょう?」
十衛門は、何も言い返せなかった。
俺は、思わず笑った。
やはり、この家で一番強いのは志乃らしい。
門を出ると、太郎丸と千代が並んで頭を下げてくれた。
奥の部屋では、末の娘がまだ眠っているという。
俺は、どうか早く元気になりますようにと心の中で願った。
そして、十衛門へ向き直った。
「……今日は、ありがとう」
十衛門は、少しだけ眉を上げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
俺は、笑った。
「明日の稽古は、少し手加減してくれよ」
十衛門は、静かに答えた。
「それとこれとは、別にございます」
俺は、思わず顔をしかめた。
「……やっぱり、鬼教官だな」
十衛門は、ほんの少しだけ笑った。
俺は、ため息をつきながら馬へ乗った。
夕暮れの道を進みながら、俺は今日の出来事を思い返していた。
十衛門にも、妻がいて、子どもがいて、守りたい暮らしがある。
俺が知らなかっただけで、彼にも一人の人間としての人生があるのだ。
それは、当たり前のことだった。
だが、俺は今日、ようやくその当たり前のことを実感した気がした。
俺は、懐にしまった干した栗の包みへ手を当てた。
吉乃がくれた干し芋。
志乃がくれた干した栗。
どちらも、決して高価なものではない。
だが、今の俺には、何よりも大切な贈り物に思えた。
俺は、少しだけ笑った。
……それにしても。
あの十衛門が、家では妻に頭が上がらないなんて。
俺は、思わず声を上げて笑った。
……鬼教官の弱点、槍でも刀でもなく奥方だったんだが!?




