第48話:未来の天下人に恋の相談をされたんだが!?
木下藤吉郎という男には、どうやら休むという発想がないらしい。
召し抱えてから十日ほどが過ぎた頃には、城内で彼の名前を知らない者を探すほうが難しくなっていた。朝は台所で水を汲み、昼には馬屋で藁を運び、夕方には薪を割る。誰かが荷物を落とせば真っ先に駆け寄り、年寄りの下男が重い桶を持っていれば、頼まれもしないのに代わって運んでいる。
もっとも、本人に言わせれば、これは親切心だけでやっていることではないらしい。
「人に顔を覚えていただくには、まず自分から働きかけるのが一番にございます!」
そう胸を張って言う藤吉郎を前に、俺は妙に感心してしまった。
現代なら、営業職として相当な成績を残しそうな男である。しかも、ただ愛想がよいだけではない。相手の名前を覚えるのが早く、誰が何を得意としているのか、誰と誰が仲が悪いのか、そうしたことまで驚くほどよく見ていた。
ある日、俺が十衛門と稽古を終えて廊下を歩いていると、庭先から何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「だから、わしが運びますと申しておるではございませぬか!」
「馬鹿を言え! お前のような小僧に任せられるか!」
見ると、藤吉郎が大きな米俵を前に、年配の下男と言い争っていた。
いや、言い争いというより、藤吉郎が一方的に食い下がっているようだった。
「何をしている?」
俺が声をかけると、二人は慌てて頭を下げた。
年配の下男は、困ったように説明した。
「若殿。この者が、米俵を一人で運べると言い張りまして」
「ほう」
俺は、俵を見た。
どう見ても、藤吉郎の小柄な体には重すぎる。
「……本当に運べるのか?」
「へい!」
藤吉郎は、元気よく答えた。
「わしは旅芸人をしておりましたゆえ、重いものを担ぐのには慣れております!」
そう言うなり、彼は俵の前にしゃがみ込み、両腕を回した。
俺は、少しだけ興味を持って見守った。
藤吉郎は息を整えると、勢いよく立ち上がろうとした。
しかし、俵はほとんど動かなかった。
「……ぬぬぬ!」
顔を真っ赤にして踏ん張る藤吉郎。
それを見つめる俺と十衛門。
そして、呆れた顔をする下男。
しばらくして、藤吉郎は諦めたように俵から手を離した。
「……少々、重うございますな」
俺は、思わず吹き出した。
「少々どころじゃないだろう」
藤吉郎は、頭を掻いた。
「面目ございませぬ!」
十衛門は、ため息をついた。
「できぬことを、できると申すものではない」
「へい!」
「返事だけはよいな」
俺は、笑いながら俵を見た。
「二人で運べばいいじゃないか」
藤吉郎は、ぱっと顔を上げた。
「なるほど!」
いや、なるほども何も、最初からそうすればよかっただけなのだが。
藤吉郎は下男に向き直り、満面の笑みで言った。
「では、一緒に運びましょう!」
下男は、呆れながらも笑った。
「まったく、お前という奴は」
二人が俵を担いで去っていくのを見送りながら、俺は十衛門へ目を向けた。
「……あいつ、本当に天下を取るんだよな」
「何か仰せになりましたか」
「いや、何でもない」
俺は、慌てて首を振った。
未来の豊臣秀吉が、米俵一つ持ち上げられずに悪戦苦闘している。
歴史の教科書では、絶対に見られない光景だった。
*
その日の夕方、俺は藤吉郎を呼び出した。
別に、米俵の件で叱るためではない。
最近、城内でどのような仕事をしているのか、本人から話を聞いておきたかったのだ。
藤吉郎は、部屋へ入るなり深く頭を下げた。
「若殿! お呼びと伺い、参上いたしました!」
「そんなに大声を出さなくても聞こえる」
「へい!」
俺は、思わず苦笑した。
「……まあ、座れ」
藤吉郎は、少し戸惑ったようだったが、俺の前へ正座した。
改めて見ると、まだ幼さの残る顔立ちをしている。目は大きく、頬は日に焼け、旅暮らしのせいか手足には細かな傷が多かった。着物も新しいものではないが、以前よりは清潔になっている。
俺は、茶を勧めながら尋ねた。
「城での暮らしには慣れたか?」
「へい! 皆さま、よくしてくださいます!」
「そうか。それはよかった」
「何より、毎日飯をいただけるのがありがたくございます!」
俺は、思わず笑った。
藤吉郎は、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。
「旅をしておりました頃は、芸を見せても銭をいただけぬ日がございました。腹が減って眠れぬ夜も、珍しくありませなんだ」
俺は、黙って聞いていた。
彼は、明るい顔のまま続けた。
「それに比べれば、今は天国にございます。働けば飯が出て、雨の日には屋根の下で眠れます。これ以上、何を望みましょう」
俺は、少し考えた。
「……出世したいんじゃなかったのか?」
藤吉郎は、ぱっと顔を上げた。
「もちろんでございます!」
俺は、苦笑した。
「さっきと言っていることが違うぞ」
「飯をいただけることと、出世したいことは、別にございます!」
あまりにも堂々と言い切るので、俺はまた笑ってしまった。
藤吉郎は、真剣な顔で続けた。
「わしは、いつか侍になりとうございます。刀を差し、立派な着物を着て、母や姉に楽をさせてやりたいのでございます」
「……母親と、智子だったな」
「へい!」
藤吉郎は、嬉しそうに頷いた。
「若殿、覚えていてくださったのですか」
「お前が話してくれたからな」
藤吉郎は、少しだけ目を伏せた。
「母は、わしが家を出るとき、ずいぶん泣いておりました。姉も、無理をせず帰ってこいと申してくれましたが……」
彼は、膝の上で拳を握った。
「わしは、何も成さぬまま帰るわけには参りませぬ」
俺は、その言葉に少しだけ胸を打たれた。
後の豊臣秀吉。
天下統一を果たし、関白にまで上り詰める男。
だが、今の藤吉郎にとって、出世とは母親と姉を安心させるための手段なのだ。
俺は、少しだけ笑った。
「……頑張れよ」
藤吉郎は、顔を上げた。
「へい!」
そして、突然、何かを思い出したように身を乗り出した。
「ところで、若殿!」
「……何だ」
「一つ、お尋ねしてもよろしゅうございますか!」
「内容による」
藤吉郎は、少しだけ声を落とした。
「……若殿には、お好きな女子がおられるのでございますか?」
俺は、思わず茶を吹きそうになった。
「……何だ、いきなり!」
藤吉郎は、慌てて頭を下げた。
「申し訳ございませぬ! ただ、少々気になりまして!」
「何が気になるんだよ!」
藤吉郎は、少しだけ困ったように笑った。
「実は、城の女中たちが、若殿は近頃よく村へお出かけになると噂しておりまして」
俺は、頭を抱えた。
どこからそんな話が広まったのか。
いや、考えてみれば当然だった。
俺は、何度も吉乃の村へ通っている。
供の者もいるし、馬の支度をする者もいる。
城内で噂にならないほうがおかしい。
「……余計なことを聞くな」
俺が言うと、藤吉郎は、なぜか嬉しそうに笑った。
「なるほど! やはり、おられるのですな!」
「……お前、今の話を聞いていたか?」
「へい!」
絶対に聞いていない。
俺は、深くため息をついた。
藤吉郎は、少しだけ身を乗り出した。
「実は、わしも女子のことで悩んでおりまして」
俺は、思わず顔を上げた。
「……お前も?」
「へい!」
藤吉郎は、真剣な顔で頷いた。
「わしは、いつか立派な侍になり、美しい嫁を迎えたいのでございます!」
俺は、しばらく黙った。
そして、ゆっくりと尋ねた。
「……今、好きな相手がいるのか?」
「いえ!」
即答だった。
俺は、思わず額を押さえた。
「……じゃあ、何に悩んでいるんだよ」
藤吉郎は、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「どのような女子を嫁に迎えればよいのか、考えておりまして」
俺は、呆れた。
まだ相手もいないのに、結婚相手の条件を考えているらしい。
だが、藤吉郎はいたって真剣だった。
「若殿は、どのような女子がお好きでございますか?」
俺は、少し考えた。
濃姫の顔が浮かんだ。
聡明で、気が強く、時々こちらが困るほど鋭いことを言う。だが、俺が悩んでいるときには、静かに話を聞いてくれる。
そして、吉乃の顔が浮かんだ。
明るく、優しく、よく笑う。村での暮らしを大切にし、誰に対しても自分の考えを持っている。
俺は、少しだけ笑った。
「……自分の考えを持っている人、かな」
藤吉郎は、目を丸くした。
「ほう!」
「ただ、優しいだけじゃなくて、俺が間違っていたら、ちゃんと違うと言ってくれる人がいい」
藤吉郎は、しばらく考えていた。
そして、深く頷いた。
「なるほど! 若殿は、気の強い女子がお好きなのですな!」
「……そういうことになるのか?」
「へい!」
藤吉郎は、嬉しそうに笑った。
「では、わしもそのような女子を探してみます!」
俺は、思わず苦笑した。
未来の秀吉の正室は、寧々である。
聡明で気が強く、夫を支えながらも、言うべきことはきちんと言う女性として知られている。
そう考えると、藤吉郎の好みも、案外間違っていないのかもしれない。
俺は、少しだけ笑った。
「……まあ、お前なら、きっといい嫁さんが見つかるよ」
藤吉郎は、目を輝かせた。
「本当でございますか!」
「ああ」
「では、若殿のお言葉を信じます!」
俺は、苦笑した。
未来を知っている俺にとっては、少し複雑な気分だった。
だが、今の藤吉郎には、まだ寧々という女性の存在すら分からない。
彼がどのような人生を歩むのかも、俺が行動を変えたことで、少しずつ変わっていくのかもしれなかった。
*
その後、藤吉郎は城内での出来事をいくつも話してくれた。
台所の女中が最近、腰を痛めていること。
馬屋の若い下男が、年上の者に仕事を押しつけられて困っていること。
武具蔵の番人が、槍の修繕に必要な木材をなかなか手に入れられずにいること。
俺は、話を聞きながら少し驚いた。
藤吉郎は、ただ人と仲良くなるだけではない。
誰が何に困っているのかを、驚くほどよく把握している。
「……お前、よくそんなことまで知っているな」
俺が尋ねると、藤吉郎は、少しだけ首を傾げた。
「皆さま、お話ししてくださいますゆえ」
「……それだけか?」
「へい!」
藤吉郎は、笑った。
「人は、自分の話を聞いてもらうと、嬉しいものにございます。わしは、ただ聞いているだけでございますよ」
俺は、その言葉に少しだけ感心した。
後の天下人が、なぜ多くの人を惹きつけたのか。
その理由が、少し分かったような気がした。
藤吉郎は、相手の身分や立場に関係なく話しかける。
そして、相手の話をよく聞く。
もちろん、それだけで天下を取れるわけではない。
だが、人を動かすためには、まず人を知る必要があるのだろう。
俺は、少し考えた。
「……藤吉郎」
「へい!」
「明日から、城内の仕事で困っていることがあれば、まずその場の責任者に伝えてくれ。それでも解決しないことがあれば、十衛門へ報告するんだ」
藤吉郎は、目を丸くした。
「よろしいのでございますか!」
「ああ。ただし、勝手に人の仕事へ口を出すなよ」
「承知いたしました!」
俺は、頷いた。
藤吉郎は、嬉しそうに頭を下げた。
「若殿! この藤吉郎、精一杯お働きいたします!」
俺は、少しだけ笑った。
「……期待している」
藤吉郎は、深く頭を下げた。
その姿を見ながら、俺はふと思った。
未来の秀吉は、農民の身から天下人へと上り詰めた。
だが、今の藤吉郎は、まだ小者にすぎない。
それでも、彼の中にはすでに、人を惹きつける何かがある。
俺は、それを少しずつ育てていければいいと思った。
*
藤吉郎が去ったあと、俺は一人で庭を眺めていた。
夕方の風が、木々の葉を揺らしている。
遠くでは、台所から夕餉の支度をする音が聞こえていた。
俺は、懐から小さな包みを取り出した。
吉乃がくれた干し芋だった。
すでに半分ほど食べてしまったが、残りはまだ大切に取ってある。
俺は、一つ口へ運んだ。
素朴な甘さが、ゆっくりと広がった。
吉乃の笑顔が浮かんだ。
そして、そのあとに、前の人生で見た彼女の苦しそうな顔が重なった。
俺は、思わず目を閉じた。
宗伯は、病の正体を見極めることが大切だと言っていた。
十衛門は、恐れに振り回されるなと言った。
吉乃は、変えられぬ運命もあるのではないかと笑った。
皆、正しいことを言っている。
だが、俺はどうしても、彼女を失う未来を受け入れられなかった。
俺は、包みをそっと閉じた。
前の人生で吉乃が亡くなった日まで、もうあまり時間がない。
もし、また同じことが起きるのなら。
俺は、今度こそ何をすればいいのだろう。
夕暮れの庭を見つめながら、俺はしばらく動けなかった。
そのとき、廊下の向こうから藤吉郎の元気な声が聞こえてきた。
「若殿! 先ほどのお話でございますが!」
俺は、顔を上げた。
「……何だ、今度は!」
藤吉郎は、満面の笑みで言った。
「わし、やはり嫁を迎えるなら、料理の上手い女子がよろしゅうございます!」
俺は、思わず吹き出した。
「……お前、まだ考えていたのか!」
「へい! 毎日の飯は大切にございますゆえ!」
俺は、腹を抱えて笑った。
まったく、この男は。
天下人になる前から、考えることが食い物と女のことばかりじゃないか。
……未来の秀吉、すでに完成しているんだが!?




