第47話:運命は変えられないと吉乃は笑うんだが!?
宗伯という医者を訪ねてから、五日が過ぎた。
俺はその間、できるだけ普段どおりに暮らそうと努めていた。朝は十衛門と槍の稽古をし、昼には父から預かった書状に目を通し、必要があれば城下へ出て商人や村役人の話を聞く。坂下の街道についても、見回りに出た兵から報告を受け、橋の修繕や荷駄の通行に問題がないかを確かめていた。
だが、どれほど仕事に集中しようとしても、ふとした瞬間に吉乃の顔が浮かんだ。
最後に会ったとき、彼女は元気だった。
少し咳をしたものの、熱はなく、食欲もあり、いつもどおり笑っていた。
宗伯も、今の話だけで重い病を疑うことはできないと言っていた。
それでも、前の人生で吉乃が亡くなった日が近づいていると思うと、胸の奥に冷たいものが沈んでいるような気がした。
俺は、未来を知っている。
少なくとも、前の人生で何が起きたのかは覚えている。
だが、その知識が今の人生でも通用するとは限らない。
坂下の戦では、前の人生にはなかった戦を経験し、平助と与三郎を失った。藤吉郎とも、前の人生では出会っていない時期に出会った。
俺が行動を変えたことで、すでに多くのことが変わっている。
それなら、吉乃の運命も変わるはずだ。
そう思いたい。
だが、もし変わらなかったら。
その考えが浮かぶたびに、俺は胸の奥を締めつけられるような気持ちになった。
ある日の午後、俺は再び吉乃のいる村へ向かった。
今度は、特に用事があったわけではない。
ただ、彼女の顔を見たかった。
それだけだった。
十衛門には、また吉乃どののところへ行かれるのですかと呆れられたが、俺は気にしないことにした。どうせ何を言っても、十衛門には俺の気持ちなど見透かされているのだろう。
村へ向かう道には、秋の気配が濃くなっていた。
刈り取られた稲が束ねられ、田の脇には藁が積まれている。道端には小さな野菊が咲き、遠くの山はまだ青々としているものの、木々の葉には少しずつ黄色が混じり始めていた。
風は涼しく、空は高かった。
こんな穏やかな日に、誰かが死ぬことなどあるのだろうか。
俺は、そんなことを考えてしまった。
もちろん、人は季節を選んで死ぬわけではない。
春でも夏でも、秋でも冬でも、病になる者はいるし、命を落とす者もいる。
だが、目の前の景色があまりにも穏やかだったので、吉乃が病に倒れる未来など、どこか遠い出来事のように思えた。
俺は、その感覚に少しだけ救われながら、村へ向かった。
*
吉乃の家へ着くと、庭先には誰もいなかった。
以前は野菜を選り分けていた場所に、今は空になった籠がいくつか置かれている。縁側には洗った布が干され、軒下には乾燥させた大根が吊るされていた。
俺が馬を降りると、家の奥から吉乃の母親が出てきた。
「まあ、若殿さま。ようこそお越しくださいました」
「突然すまない。吉乃はいるか?」
「はい。裏の畑におります。すぐに呼んでまいります」
俺は、慌てて首を振った。
「いや、仕事の邪魔をするのも悪い。俺が行くよ」
吉乃の母親は、少し驚いたようだったが、やがて柔らかく微笑んだ。
「それでは、どうぞ。裏手の畑におります」
俺は、十衛門と供の者を家の前に残し、裏手へ回った。
畑には、吉乃がいた。
小袖の袖をたくし上げ、膝をついて土を掘っている。傍らには竹籠が置かれ、中には掘り出したばかりの芋がいくつも入っていた。
俺は、少し離れた場所で足を止めた。
吉乃は、こちらに気づいていない。
額には汗が浮かび、頬には土が少しついている。
それでも、彼女は楽しそうだった。
芋を掘り出すたびに大きさを確かめ、時折、隣で働く年配の女と何か話して笑っている。
俺は、その姿を見つめていた。
前の人生で、俺は彼女のこんな姿を何度見ただろう。
だが、今は、その一つ一つがたまらなく愛おしかった。
「……吉乃」
俺が声をかけると、彼女は顔を上げた。
そして、驚いたように目を見開いた。
「信長さま!」
吉乃は慌てて立ち上がろうとしたが、足元の土に少し滑り、危うく尻餅をつきそうになった。
俺は反射的に駆け寄り、彼女の腕を支えた。
「危ない!」
「まあ、申し訳ございませぬ」
吉乃は、少し恥ずかしそうに笑った。
「急にお声をかけられるものですから、驚いてしまいました」
「……俺が悪かった」
「いいえ。お越しくださって、嬉しゅうございます」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ胸が温かくなった。
吉乃は、俺の手を見た。
「信長さま、お袖が汚れてしまいましたね」
俺が彼女を支えたとき、袖の先が土に触れていたらしい。
俺は、首を振った。
「これくらい、気にするな」
「ですが、お城のお着物でしょう?」
「洗えばいい」
吉乃は、少しだけ笑った。
「信長さまは、時々、ずいぶんと大らかでいらっしゃいますね」
俺は、思わず苦笑した。
大らか。
少なくとも、今の俺にはあまり似合わない言葉だと思った。
吉乃は、籠を持ち上げようとした。
俺は、反射的に手を伸ばした。
「……俺が持つ」
「まあ。そんな、信長さまにお持ちいただくわけには」
「別に、芋の籠くらい持てる」
俺がそう言うと、吉乃は少しだけ首を傾げた。
「では、お願いしてもよろしゅうございますか」
「ああ」
俺は、籠を持ち上げた。
思っていたより重かった。
ずっしりとした重みが腕にかかり、思わず顔をしかめそうになったが、何とか平静を装った。
吉乃は、そんな俺の様子を見て、くすくすと笑っている。
「……何だよ」
「いいえ。信長さまは、本当にお優しい方だと思いまして」
俺は、少しだけ顔を赤くした。
そして、籠を抱え直しながら、吉乃と並んで家へ戻った。
*
家へ戻ると、吉乃の母親が茶を用意してくれていた。
俺たちは、いつもの柿の木の下へ腰を下ろした。
枝には熟し始めた実がいくつもぶら下がり、風が吹くたびに葉が揺れている。地面には落ち葉が散り、陽の当たる場所では小さな虫が忙しそうに動いていた。
吉乃は茶を一口飲むと、俺を見つめた。
「信長さま」
「……何だ?」
「今日は、お顔の色があまりよろしくございませぬね」
俺は、思わず顔を上げた。
「……そうか?」
「はい。少しお疲れのように見えます」
俺は、苦笑した。
どうやら、隠しているつもりでも、吉乃には分かってしまうらしい。
「……最近、少し考え事が多くてな」
「お城のお仕事でございますか?」
「それもある」
吉乃は、静かに頷いた。
「坂下のことも、まだ落ち着かないのでございましょう」
「……ああ」
俺は、茶碗へ目を落とした。
坂下の戦では、平助と与三郎を失った。
そのことは、今でも胸に残っている。
だが、今の俺を最も苦しめているのは、吉乃のことだった。
俺は、少し迷った末、口を開いた。
「……吉乃」
「はい」
「もし、自分の大切な人が、いつかいなくなると分かっていたら、お前ならどうする?」
吉乃は、少しだけ首を傾げた。
「……いなくなる、でございますか」
「ああ。病でも、事故でも、何でもいい。どうしても避けられないことがあるとしたら」
吉乃は、しばらく考えていた。
そして、静かに言った。
「それは、悲しゅうございますね」
俺は、頷いた。
「……ああ」
「ですが、信長さま」
吉乃は、俺を見つめた。
「人は、いつか必ず死ぬものでございましょう」
俺は、息を呑んだ。
その言葉は、前の人生でも聞いたことがあった。
吉乃は、以前、俺が戦で人を失ったことを悔やんでいたときにも、同じようなことを言っていた。
人は、いつか必ず死ぬ。
死は、避けられない。
亡くなった人を思うあまり、生きている者まで不幸になってはいけない。
俺は、その言葉に何度も救われてきた。
だが、今は違った。
俺は、どうしても吉乃の死を受け入れたくなかった。
「……でも、助けられるかもしれないだろう」
俺が言うと、吉乃は静かに頷いた。
「もちろんでございます」
「だったら、何としてでも助けたいと思うのが普通じゃないか」
「はい。それも、自然なことだと思います」
吉乃は、少しだけ微笑んだ。
「ですが、信長さま。助けたいと思うことと、必ず助けられると思うことは、違うのではございませぬか」
俺は、言葉に詰まった。
吉乃は、茶碗を膝の前へ置いた。
「人は、どれほど大切に思っていても、相手の命を思いどおりにはできませぬ。病にならぬよう気をつけることも、怪我をせぬよう守ることもできますが、それでも避けられぬことはあるのでしょう」
俺は、唇を噛んだ。
分かっている。
そんなことは、分かっている。
だが、俺は一度、彼女を失っているのだ。
その苦しみを、もう一度味わうことなどできるはずがない。
「……運命は、変えられないと思うか」
俺が尋ねると、吉乃は少しだけ考えた。
そして、柔らかく笑った。
「変えられぬものも、あるのではございませぬか」
俺は、顔を上げた。
「……どうして、そう思う」
「そうでございますね」
吉乃は、柿の木を見上げた。
「例えば、この木は春になれば芽を出し、夏には葉を茂らせ、秋には実をつけます。冬になれば葉を落としますが、わたくしがどれほど願っても、冬に青々とした葉を茂らせることはできませぬ」
俺は、黙って聞いていた。
「けれど、枝を折らぬように気をつけたり、水が足りなければ与えたりすることはできます。そうすれば、来年も元気に実をつけるかもしれませぬ」
吉乃は、俺を見つめた。
「変えられぬことがあるからといって、何もできぬわけではございませぬ」
俺は、しばらく何も言えなかった。
吉乃は、少しだけ笑った。
「信長さまは、何でもご自分で何とかしようとなさいますね」
「……そうか?」
「はい。とてもお優しいのですが、時々、少し苦しそうに見えます」
俺は、思わず視線を逸らした。
吉乃は、静かに続けた。
「わたくしは、信長さまに幸せでいていただきとうございます」
俺は、顔を上げた。
「……俺も、お前に幸せでいてほしい」
「ありがとうございます」
吉乃は、柔らかく微笑んだ。
「でしたら、今こうして一緒にお茶を飲めることも、幸せなことではございませぬか」
俺は、彼女を見つめた。
秋の陽射しが、吉乃の頬を照らしている。
風が吹くたびに、髪の細い毛が揺れた。
彼女は、今、生きている。
俺の目の前で、笑っている。
それだけで、十分なはずだった。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
吉乃は、嬉しそうに笑った。
「はい」
俺は、茶碗を手に取った。
茶は、少し冷めていた。
だが、不思議と美味しく感じた。
*
しばらくして、吉乃は家の中から小さな包みを持ってきた。
「信長さま。こちらを、お持ち帰りくださいませ」
俺は、包みを受け取った。
「……何だ?」
「干した芋にございます。先日、お好きだと仰っておられましたので」
俺は、思わず顔を上げた。
「……覚えていたのか」
「もちろんでございます」
吉乃は、少しだけ笑った。
「信長さまは、甘いものがお好きなのでしょう?」
俺は、苦笑した。
現代では、コンビニで菓子を買うことなど当たり前だった。
だが、この時代では甘いものは貴重だ。
干した芋の素朴な甘さが、妙に嬉しかった。
「……ありがとう」
「いいえ。お口に合えばよろしいのですが」
俺は、包みを大切に懐へしまった。
そのとき、吉乃が少しだけ真面目な顔になった。
「信長さま」
「……何だ?」
「先日のお話でございますが」
俺は、胸が跳ねるのを感じた。
先日のお話。
それは、子どものことだろうか。
それとも、側室のことだろうか。
吉乃は、少しだけ俯いた。
「わたくし、まだお返事を決められずにおります」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……分かっている」
「信長さまのお気持ちは、嬉しゅうございます。ですが、わたくしが側室となれば、今までのように村で暮らすことは難しくなるのでしょう」
「……そうだな」
「母のこともございますし、濃姫さまのお気持ちもございます。それに、もし子を授かったなら、その子がどのように育つのかも、わたくしには分かりませぬ」
俺は、黙って聞いていた。
吉乃は、静かに続けた。
「わたくしは、信長さまと一緒にいられれば、それだけでよいと思っていたこともございました。ですが、今は、それだけでは済まぬことも分かっております」
俺は、胸の奥が少し痛んだ。
吉乃は、俺よりずっと現実を見ている。
俺は、彼女を失いたくない一心で、側室に迎えれば守れると思っていた。
だが、吉乃にとっては、それが人生を大きく変える決断なのだ。
「……急がなくていい」
俺は、静かに言った。
「お前が納得できるまで、待つ」
吉乃は、顔を上げた。
「……本当でございますか」
「ああ」
俺は、頷いた。
「濃姫とも、まだ話し合っているところだ。お前にも、濃姫にも、無理に決めさせるつもりはない」
吉乃は、しばらく俺を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとうございます」
俺は、少しだけ笑った。
「……礼を言われるようなことじゃない」
「いいえ。わたくしには、とても大切なことでございます」
その言葉を聞いて、俺は改めて思った。
吉乃を守るということは、彼女の命を守るだけではない。
彼女が自分で選び、自分の意思で生きられるようにすることも、大切なのだ。
俺は、そのことを忘れないようにしようと思った。
*
夕方になり、俺は城へ戻ることにした。
吉乃は、いつものように家の前まで見送りに出てくれた。
俺が馬へ乗ると、彼女は少しだけ見上げるようにして微笑んだ。
「信長さま。今日は、少しお元気になられたようでございますね」
「……そうか?」
「はい。お越しになったときより、お顔が明るくなっておられます」
俺は、思わず苦笑した。
どうやら、吉乃には何でも見透かされてしまうらしい。
「……お前のおかげだ」
俺がそう言うと、吉乃は少しだけ頬を赤くした。
「まあ。そんなことを仰って」
俺は、笑った。
そして、手綱を握り直した。
「……また来る」
「はい。お待ちしております」
吉乃は、深く頭を下げた。
俺は、その姿を見つめながら、ゆっくりと馬を進めた。
村を離れる頃には、空が薄い橙色に染まっていた。
遠くの山の向こうへ日が沈み始め、田の上を渡る風が少し冷たくなっている。
俺は、吉乃の言葉を思い返していた。
変えられぬものも、あるのではないか。
変えられぬことがあるからといって、何もできぬわけではない。
その言葉は、俺の胸に深く残っていた。
俺は、未来を変えたい。
吉乃を救いたい。
だが、もし本当に変えられない運命があるのだとしたら。
俺は、そのとき、どうすればいいのだろう。
前の人生では、吉乃を失ったあと、俺は自分の命を絶った。
もう一度やり直せば、彼女を救えるかもしれないと思ったからだ。
だが、もし何度やり直しても、同じことが起きるのだとしたら。
俺は、また同じ選択をするのだろうか。
その問いに、今の俺は答えられなかった。
ただ、吉乃が笑っていたことだけは、はっきりと覚えていた。
運命は変えられないかもしれない。
それでも、今を大切にすることはできる。
俺は、懐にしまった干し芋の包みへ、そっと手を当てた。
吉乃が俺のために用意してくれた、小さな贈り物。
それが、今は何よりも大切なものに思えた。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、心の中で呟いた。
……運命が変えられないなんて、そんなの納得できないんだが!?




