第46話:名医の所へ赴いたのに病の正体が分からないんだが!?
医者というものは、呼ぼうと思えばすぐに来てくれる存在ではないらしい。
現代の日本なら、体の具合が悪くなれば近所の病院へ行き、受付で名前を書き、順番を待てば医師に診てもらえる。もちろん、どんな病気でも治せるわけではないが、少なくとも診察を受けるために隣国まで使いを走らせたり、医者がどこに住んでいるのかを商人に尋ねて回ったりする必要はない。
ところが、ここは戦国時代である。
医者はいる。薬もある。寺院で医術を学んだ者や、代々医業を営む家もあるという。だが、その腕前はまちまちで、誰が本当に頼れる人物なのかを確かめるだけでも一苦労だった。
まして、吉乃は今のところ病人ですらない。
先日、柿の木の下で二度ほど咳をしただけなのだから、本人にしてみれば、俺が医者を探していると知ったら呆れるに違いない。
それでも、俺は探すのをやめられなかった。
前の人生で吉乃を失ったとき、俺は医者を呼ぶことしかできなかった。そして、呼んだ医者が首を横に振ったとき、ほかに何をすればよいのか分からなかった。
だから今度は、病になる前に備えたい。
たとえそれが、俺の恐怖から始まった行動だったとしても。
藤吉郎が集めてきた医者の噂は、驚くほど多かった。駿河の寺に病人をよく診る僧がいるとか、美濃には薬草に詳しい老人がいるとか、尾張の西には骨折した者の手当てを得意とする医者がいるとか、話の出どころも内容もばらばらだった。
その中で、十衛門が興味を示したのは、清洲からそれほど遠くない土地に住む一人の医師だった。
名を宗伯という。
寺院で医術を学び、長年にわたって武家や商家の病人を診てきた人物で、特に熱病の扱いに経験があるという話だった。
「その宗伯という医者、本当に腕がよいのか?」
俺が尋ねると、十衛門は手元の書付を確かめながら頷いた。
「少なくとも、名ばかりの者ではなさそうにございます。柴田さまの家中にも、以前この者に診てもらった者がおるそうでございます」
「治ったのか?」
「はい。ただし、その者は傷の手当てを受けたのであって、熱病ではございませぬ」
俺は、少し考えた。
傷の手当てが上手いからといって、熱病にも詳しいとは限らない。現代でも外科と内科では専門が違うのだから、当然といえば当然だ。
「ほかに、熱病を治したという話は?」
「ございます。ただ、病の種類までは分かりませぬ。熱が下がったという話もあれば、助からなかった者もおるようでございます」
俺は、黙って頷いた。
医者を呼べば必ず治るわけではない。
そんなことは分かっている。
分かっているはずなのに、助からなかった者もいると聞くだけで、胸の奥が重くなった。
「……一度、会って話を聞いてみたい」
十衛門は、俺を見た。
「吉乃どのを診せるためでございますか」
「いや。まずは俺が話を聞く。熱病について、どんなことが分かっているのか知りたい」
十衛門は少しだけ考え、やがて頷いた。
「それならば、使いを出しましょう」
俺は、ようやく少しだけ安心した。
だが、安心したのも束の間だった。
使いを出してから三日後、宗伯から返事が届いたのである。
診察を求められたわけでもないのに、織田家の若殿が病について話を聞きたいというのは、いったいどういうことなのか。
宗伯は、まずその理由を尋ねてきた。
俺は書状を読み、思わず頭を抱えた。
そりゃそうだ。
健康な人間が、まだ起きていない病について医者を呼びつけるなんて、普通に考えれば意味が分からない。
十衛門は、俺の顔を見ながら淡々と言った。
「若殿。医師にも、ほかに診るべき病人がおりましょう」
「……分かっている」
「それならば、こちらから赴くほうがよろしいかと」
俺は、頷いた。
結局、宗伯のもとへは俺自身が出向くことになった。
もっとも、父にそのことを話すと、案の定、不思議そうな顔をされた。
「病でもないのに医者を訪ねるのか」
「はい。今後、兵や領内の者が病に倒れたときのためにも、頼れる医師を知っておきたいのでございます」
父は、しばらく俺を見つめていた。
俺は、できるだけ平静を装った。
嘘ではない。
兵が病に倒れることだってあるだろうし、領内で流行り病が起きることもあるかもしれない。
ただ、俺が最も心配しているのが吉乃であるというだけだ。
父は、やがて小さく頷いた。
「悪い考えではない。だが、医者一人で何もかも解決できると思うなよ」
「……はい」
「兵の病を防ぐには、食い物や水、寝所のことも考えねばならぬ。医者を呼ぶより先にできることも多い」
俺は、思わず顔を上げた。
父は、俺の反応を見て少しだけ眉を上げた。
「何だ」
「いえ……そのとおりだと思いまして」
俺は、深く頭を下げた。
医者を探すことばかり考えていたが、病にならないための暮らしを整えることも大切なのだ。
もちろん、それで全ての病を防げるわけではない。
だが、何もしないよりはいい。
俺は、宗伯に会ったらそのことも尋ねてみようと思った。
*
宗伯の住まいは、町外れの寺に近い場所にあった。
広い屋敷ではなく、土塀に囲まれた小さな家で、門の脇には乾燥させた草の束がいくつも吊るされていた。庭には薬草らしい植物が植えられ、軒下には竹籠や素焼きの壺が並んでいる。
俺は、十衛門と供の者を連れて門をくぐった。
すると、奥から白髪交じりの男が現れた。
年の頃は五十を過ぎているだろうか。痩せた体に地味な小袖をまとい、目元には深い皺が刻まれている。派手な装いではないが、背筋は伸びており、こちらを見つめる目には落ち着きがあった。
「織田家の若殿にお越しいただくとは、思いもよりませなんだ」
宗伯は、そう言って頭を下げた。
俺は、慌てて首を振った。
「こちらこそ、突然押しかけてすまない」
「いえ。病人がおられるのであれば、こちらから参りましたものを」
「……いや、今は病人がいるわけじゃないんだ」
宗伯は、少しだけ眉を上げた。
「ほう」
俺は、用意していた説明を口にした。
「今後、家中の者が病に倒れたときのために、医術について話を聞いておきたいと思っている。特に、熱の出る病について知りたい」
宗伯は、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「なるほど。若殿は、病になる前から備えようとなさるのですな」
「……そういうことになる」
「それは、よいお心がけにございます」
俺は、少しだけ胸を撫で下ろした。
だが、宗伯は続けてこう言った。
「ただし、病というものは、人の思いどおりには参りませぬ」
俺は、その言葉に思わず顔を上げた。
宗伯は、俺たちを奥の座敷へ案内した。
部屋には薬草の匂いが漂い、壁際には小さな木箱がいくつも積まれている。窓から差し込む光の中で、細かな埃がゆっくりと舞っていた。
宗伯は、俺の向かいへ座ると、静かに尋ねた。
「若殿は、熱病について何をお知りになりたいのでございましょう」
俺は、少し考えた。
何を知りたいのか。
それは、はっきりしている。
吉乃を死なせない方法だ。
だが、そんなことを尋ねても、答えが返ってくるとは思えなかった。
「……熱が出る病には、どんなものがある?」
宗伯は、少しだけ頷いた。
「さまざまにございます。咳を伴うもの、腹を下すもの、体に発疹が出るもの、寒気と熱を繰り返すもの。人から人へ移ると考えられる病もあれば、そうでないものもございます」
俺は、真剣に聞いていた。
「……咳から始まる病もあるのか」
「ございます。ただし、咳が出たからといって、必ず重い病になるわけではございませぬ」
俺は、思わず顔を上げた。
宗伯は、俺の反応を見て少しだけ首を傾げた。
「何か、気になることがおありですかな」
「……知り合いが、少し咳をしていた」
宗伯は、静かに頷いた。
「熱はございましたか」
「いや」
「食欲は?」
「普段どおりだったと思う」
「息苦しさや、強いだるさは?」
「……なかった」
宗伯は、しばらく考えた。
そして、穏やかな声で言った。
「それならば、今のお話だけで重い病を疑うことはできませぬな」
俺は、少しだけ肩の力を抜いた。
だが、宗伯は続けた。
「もっとも、実際に診ておりませぬゆえ、何とも申せませぬ。咳が続くようであれば、改めて診せていただくのがよろしいでしょう」
「……そうか」
俺は、頷いた。
それは、当然の答えだった。
だが、俺が本当に知りたいのは、そこではない。
「……もし、咳のあとに高い熱が出たら?」
宗伯は、俺を見つめた。
「そのときは、ほかの症状も確かめねばなりませぬ」
「……もし、何日も熱が下がらなかったら?」
「病の経過を見ながら、手当てを考えることになります」
「……それでも、治らなかったら?」
宗伯は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「残念ながら、助からぬこともございます」
俺は、息を呑んだ。
分かっていた。
分かっていたはずなのに、その言葉を聞くと、胸の奥が締めつけられるようだった。
宗伯は、俺の顔を見つめた。
「若殿」
「……何だ」
「どなたか、大切な方を病で亡くされたことがおありですかな」
俺は、思わず顔を上げた。
宗伯は、静かな目でこちらを見ていた。
俺は、しばらく答えられなかった。
前の人生で、吉乃を失った。
そう言っても、信じてもらえるはずがない。
だが、嘘をつく気にもなれなかった。
「……ああ」
俺は、ようやく頷いた。
「……大切な人を、病で失ったことがある」
宗伯は、静かに頭を下げた。
「それは、おつらいことでございましたな」
俺は、何も言えなかった。
宗伯は、少しだけ間を置いてから続けた。
「医者は、病人を助けるためにおります。されど、全ての病を治せるわけではございませぬ。どれほど手を尽くしても、助からぬ命はございます」
俺は、唇を噛んだ。
「……それなら、医者は何のためにいるんだ」
自分でも、ひどいことを言っていると思った。
宗伯は、怒らなかった。
ただ、静かに俺を見つめた。
「助けられる命を、助けるためにございます」
俺は、顔を上げた。
「全ての命を救えぬからといって、何もしなくてよいわけではございませぬ。病を見極め、苦しみを和らげ、回復する力を支える。それが、我らの務めにございます」
俺は、しばらく黙っていた。
宗伯の言葉は、決して希望に満ちたものではなかった。
だが、不思議と胸に残った。
全ての命を救えない。
それでも、助けられる命を助ける。
それは、戦場で俺が学んだことにも似ていた。
平助と与三郎を失った。
だが、だからといって、ほかの兵を守るための策を考えることまで無意味になるわけではない。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
宗伯は、少しだけ微笑んだ。
「若殿が本当に大切な方を守りたいのであれば、まずはその方の普段の様子をよく知ることです。食事が取れているか、眠れているか、無理をしていないか。病になったときに変化へ気づくためには、元気なときの姿を知っておくことが大切にございます」
俺は、思わず顔を上げた。
普段の様子。
それなら、俺にもできるかもしれない。
吉乃がどんなふうに暮らし、何を食べ、どんな仕事をしているのか。
彼女自身の話を、きちんと聞けばいい。
俺は、ようやく少しだけ、何をすべきなのか分かった気がした。
*
宗伯のもとを辞したあと、俺はしばらく黙って馬を進めていた。
十衛門も、特に何も言わなかった。
道の両側には、収穫を終えた田が広がっている。夕方の風が乾いた稲藁を揺らし、遠くでは子どもたちが走り回っていた。
俺は、宗伯の言葉を思い返していた。
助けられる命を助ける。
全てを救えないからといって、何もしないわけにはいかない。
それは、俺にとって少しだけ救いになる言葉だった。
だが、同時に、恐ろしい言葉でもあった。
もし、今度も吉乃を救えなかったら。
俺は、また同じ後悔を抱えることになるのだろうか。
「若殿」
十衛門が、静かに声をかけてきた。
「宗伯どののお話、いかがでございましたか」
「……思っていたより、難しいな」
「病のことでございますか」
「ああ。医者を呼べば何とかなると思っていたわけじゃない。でも、もっとはっきりした答えがあるんじゃないかと、どこかで期待していた」
十衛門は、少しだけ頷いた。
「それは、仕方のないことかもしれませぬ」
俺は、顔を上げた。
十衛門は、前を見たまま続けた。
「若殿は、吉乃どのを大切に思っておられるのでしょう。大切な者が病になるかもしれぬと思えば、誰しも不安になります」
俺は、黙って聞いていた。
「されど、吉乃どのは今、お元気なのでございましょう」
「……ああ」
「ならば、今はそのことを喜ばれてはいかがですかな」
俺は、思わず十衛門を見た。
彼は、少しだけ笑った。
「若殿は、まだ起きておらぬことを案じるあまり、今ある幸せを見失っておられるように見えます」
俺は、何も言えなかった。
十衛門の言うことは、もっともだった。
吉乃は、今、生きている。
笑っている。
村で働き、家族と暮らしている。
俺は、その姿を見られるだけで十分だと思っていたはずなのに、いつの間にか、失うことばかり考えるようになっていた。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうだな」
十衛門は、静かに頷いた。
「はい」
俺は、少しだけ笑った。
「……十衛門」
「はっ」
「お前、時々、医者よりよほど人の心を診るのが上手いな」
十衛門は、少しだけ眉を上げた。
「それは、褒めておられるのでございますか」
「ああ」
「では、ありがたく頂戴いたします」
俺は、思わず笑った。
十衛門も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
*
城へ戻ると、藤吉郎が門の近くで何やら騒いでいた。
俺の姿に気づくと、彼は慌てて駆け寄ってきた。
「若殿!」
「……何だ、藤吉郎」
「お帰りなさいませ! お医者さまには、お会いになれましたか!」
「ああ。会えた」
藤吉郎は、ぱっと顔を輝かせた。
「それは何よりにございます!」
俺は、少しだけ笑った。
「お前が教えてくれたおかげだ。助かったよ」
藤吉郎は、嬉しそうに頭を下げた。
「とんでもございませぬ! わしのような者がお役に立てたのであれば、これほど嬉しいことはございませぬ!」
俺は、頷いた。
そして、ふと思いついた。
「……藤吉郎」
「へい!」
「お前、旅をしている間に、病人の世話をしたことはあるか」
藤吉郎は、少し考えた。
「へい。何度かございます」
「……どんなふうに?」
「そうでございますな。熱を出した者に水を運んだり、食べられそうなものを探したり、寝床を整えたりいたしました」
俺は、真剣に聞いていた。
「……それで、治ったのか」
藤吉郎は、少しだけ表情を変えた。
「治った者もおります」
俺は、顔を上げた。
「……治らなかった者も?」
「へい」
藤吉郎は、静かに頷いた。
「旅の途中で、亡くなった者もおりました」
俺は、黙った。
藤吉郎は、少しだけ俯いた。
「そのときは、何もできませなんだ。医者を呼ぶ銭もなく、薬を買うこともできず、ただ水を飲ませてやることしかできませなんだ」
俺は、彼の顔を見つめた。
藤吉郎は、しばらく黙っていた。
そして、少しだけ笑った。
「されど、若殿」
「……何だ」
「その者は、最後に礼を申してくれました」
俺は、顔を上げた。
「わしが水を運んだことも、そばにいたことも、嬉しかったと」
藤吉郎は、静かに続けた。
「だから、何もできなかったわけではないのかもしれませぬ」
俺は、しばらく何も言えなかった。
宗伯も、十衛門も、藤吉郎も。
皆、同じことを言っているように思えた。
全てを救うことはできない。
だが、だからといって、何もしないわけではない。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
藤吉郎は、嬉しそうに笑った。
「へい!」
その笑顔を見ながら、俺はふと思った。
未来の秀吉は、天下統一を果たすほどの人物だ。
だが、今の藤吉郎は、ただの小者であり、旅芸人として各地を渡り歩いてきた少年でしかない。
それでも、彼は俺の知らないことをいくつも知っている。
人の心を読むことも、困っている者に手を差し伸べることも、俺よりずっと上手いのかもしれなかった。
俺は、少しだけ笑った。
「……藤吉郎」
「へい!」
「これからも、色々と教えてくれ」
藤吉郎は、目を丸くした。
「わしが、若殿にでございますか?」
「ああ」
藤吉郎は、しばらく俺を見つめていた。
そして、突然、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ!」
俺は、思わず苦笑した。
まったく、何を言っても大げさな奴だ。
だが、その姿を見ていると、少しだけ気持ちが軽くなった。
俺は、未来を知っている。
だが、全てを知っているわけではない。
知らないことは、人に聞けばいい。
できないことは、できる者に助けてもらえばいい。
そうして、少しずつでも前へ進めばいいのだ。
俺は、ようやくそんなふうに考えられるようになっていた。
もっとも、その夜、吉乃のことを考え始めると、やはり胸の奥がざわついた。
宗伯は、今の話だけでは重い病を疑うことはできないと言っていた。
だが、前の人生で吉乃が亡くなった日が、少しずつ近づいていることも事実だった。
俺は、布団の中で目を閉じた。
吉乃の笑顔が浮かぶ。
そして、そのあとに、熱に浮かされた彼女の顔が重なった。
俺は、思わず目を開けた。
……駄目だ。
医者に話を聞いたのに、少しも安心できない。
むしろ、病の種類が多すぎて、余計に不安になってしまった。
俺は、天井を見つめながら、深く息を吐いた。
……名医を呼んだのに、結局、何も分からないんだが!?




