第45話:吉乃が少し咳をしただけで気が気じゃないんだが!?
木下藤吉郎を召し抱えてから三日が過ぎた頃、俺は、自分がとんでもない男を家中に引き入れてしまったのではないかと、少々後悔し始めていた。
もっとも、それは藤吉郎が何か悪事を働いたからではない。むしろ逆で、あまりにも働きすぎるのである。
朝は誰よりも早く起きて井戸から水を汲み、台所の薪が足りなければ薪小屋へ走り、馬屋で人手が足りないと聞けば厩番の手伝いに出かける。昼には城門の番人たちと顔馴染みになり、夕方には炊事場の女たちから余った芋を分けてもらっているというのだから、いったい一日に何人と知り合っているのか分からない。
しかも、仕事を頼まれたわけでもない場所へ勝手に顔を出しては、いつの間にか手伝いを始めているらしい。
「若殿、あの藤吉郎という者、少々困った男にございます」
その日の朝、十衛門は稽古場の隅に置かれた水桶を見ながら、いかにも不満そうにそう告げた。
俺は槍を持ち直し、額の汗を袖で拭った。まだ朝のうちだというのに、何度も打ち込まれた腕はすでに重く、掌には柄の感触が残っている。十衛門は俺よりずっと年上のはずなのに、息ひとつ乱していなかった。
「また飯をもらったのか?」
「それだけなら、まだよろしいのですが」
十衛門によれば、藤吉郎は前日、武具蔵の掃除を手伝った際に、槍の柄が湿気で傷んでいることに気づき、勝手に蔵の番人へ修繕を勧めたという。
それ自体は悪いことではない。問題は、番人が面倒がって取り合わなかったため、藤吉郎が別の古参兵に話を持ち込み、最終的には蔵の管理を任されている役人の耳にまで入れてしまったことだった。
「結果として傷んだ槍が見つかったのは幸いにございます。しかし、あの者は自分の役目というものを心得ておりませぬ。小者が勝手にあちらこちらへ口を出せば、いずれ揉め事になります」
「確かに、そうだな」
俺は頷いた。
藤吉郎の観察力と行動力は、間違いなく長所だ。だが、組織の中で働く以上、何をしても許されるわけではない。今川家でも、本人の口の達者さが災いして余計に反感を買ったことがあったのかもしれなかった。
「一度、本人に話しておく。働くのはいいが、勝手に他人の仕事を変えようとするなと」
「それがよろしゅうございます」
十衛門はそう答えると、俺の槍先へ視線を移した。
「では、続けましょう」
「……まだやるのか?」
「今の若殿であれば、藤吉郎に槍を持たせたほうが、よほどよい働きをするやもしれませぬな」
俺は、思わず顔をしかめた。
天下人に槍の腕前で負けるのは、何となく納得できない。
いや、相手が未来の天下人だからこそ、余計に嫌なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、十衛門の木槍が俺の脇腹へ入り、俺は情けない声を上げて膝をついた。
どうやら、天下人との比較を気にする前に、まず目の前の師匠に勝つ方法を考えたほうがよさそうだった。
稽古を終えたあと、俺は藤吉郎を呼び、勝手な振る舞いを控えるよう言い聞かせた。すると本人は神妙な顔で頭を下げたものの、武具蔵の槍については、あれを放っておけば戦の最中に折れるかもしれないと思ったのだと説明した。
「もちろん、わしのような小者が出過ぎたことを申したのは承知しております。されど、若殿のお兵が怪我をなさってからでは遅うございますから」
俺は、その言葉に少しだけ驚いた。
藤吉郎は、誰かに褒められたくて槍の傷みを指摘したわけではなかったらしい。
それでも、手順を守らなければ周囲の者が困ることを説明すると、彼は今度こそ素直に頷いた。
「では、次からは土山さまへお知らせいたします!」
「……俺ではなく、まずその場の責任者に知らせろ」
「へい!」
元気だけは、相変わらずよかった。
十衛門は隣で、今にも頭を抱えそうな顔をしていた。
俺は思わず笑ってしまったが、その一方で、藤吉郎がいずれ何か大きな働きをするのではないかという予感も抱いていた。もっとも、今のところ彼の最大の功績は、城中のどこに行けば余った飯をもらえるかを、わずか三日で把握したことらしい。
未来の天下人というのは、どうやら食糧事情の調査から始めるものなのだろう。
昼前になると、俺は十衛門へ午後の予定を尋ねた。
父から急ぎの用は命じられておらず、坂下の街道についても新しい報告は届いていないという。そこで俺は、久しぶりに吉乃のいる村へ足を運ぶことにした。
濃姫との話し合い以来、俺は吉乃を訪ねることを少しためらっていた。
彼女を側室に迎えたいという気持ちは変わらない。だが、そのためには濃姫の立場も、吉乃自身の意思も、きちんと考えなければならなかった。前の人生で吉乃を失った俺は、彼女が生きていてくれるだけで十分だと思っていたはずなのに、再会してみれば、もっと近くにいたい、いつか一緒に暮らしたいと、次々に欲が出てくる。
人間というものは、実に勝手な生き物らしい。
十衛門は俺の申し出を聞くと、少しだけ眉を上げた。
「吉乃どのにお会いになるのでございますか」
「ああ。何か問題があるか?」
「いえ。ただ、先日のお話は、その後いかがなりましたかな」
俺は、思わず視線を逸らした。
どうやら十衛門は、吉乃との間で子どもの話をしたことを、まだ忘れていないらしい。
「……今は、急いで決めないことにした」
「それがよろしゅうございましょう。女子の心は、兵の配置を決めるようには参りませぬからな」
「分かっている」
「若殿は、分かっていると仰せになるときほど、少々危ういところがございます」
俺は言い返そうとしたが、思い当たることが多すぎて何も言えなかった。
結局、十衛門と供の者一人を連れ、昼過ぎに城を出ることになった。
村へ向かう道には、秋の気配が少しずつ濃くなっていた。稲を刈り終えた田には短い切り株が整然と残り、畦道の脇には乾いた藁が積まれている。遠くでは農夫たちが脱穀の準備を進め、道端の柿の木には、まだ青みの残る実がいくつもぶら下がっていた。
馬をゆっくり歩かせながら、俺はこの道を何度通っただろうと考えた。
前の人生でも、俺は何度も吉乃に会いに来た。
最初は、彼女の顔を見るだけで嬉しかった。村で何をしているのか、どんなものが好きなのか、家族とはどんなふうに暮らしているのか、そんな他愛もないことを知るたびに、彼女との距離が少しずつ縮まっていくような気がした。
そして、ようやく一緒に生きていきたいと思えるようになった頃、彼女は病に倒れた。
あのときのことを、俺は今でも鮮明に覚えている。
熱に浮かされた顔。
乾いた唇。
額へ触れたときの、異様なほどの熱さ。
何をしても苦しそうに息をする彼女を前に、俺はただ医者を呼び、薬を探し、どうにか助けてほしいと願うことしかできなかった。
今度こそ、同じことを繰り返したくない。
その思いは、村が近づくほど強くなっていった。
吉乃の家へ着くと、庭先では数人の女たちが収穫した野菜を選り分けていた。籠の中には大根や芋が積まれ、縁側には洗った布が干されている。以前、水路のことで揉めていた隣家の女も手伝いに来ているらしく、何やら楽しそうに話していた。
俺の姿に気づくと、女たちは慌てて立ち上がった。
「若殿さま!」
「急に来てすまない。吉乃はいるか?」
「はい、奥におります。すぐに呼んでまいります」
女の一人が家の中へ駆け込むと、ほどなくして吉乃が姿を現した。
淡い色の小袖に、仕事用の前掛けを結んでいる。袖は肘のあたりまでたくし上げられ、指先には土が少し残っていた。髪もきちんと結われているが、額のあたりには細い毛が何本か落ちている。
俺の姿を見た吉乃は、一瞬驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
「信長さま。今日は、どうなさいましたの?」
「少し時間ができたから、顔を見に来た」
「まあ。お忙しい方が、そんなことでお越しになってよろしいのですか」
「そんなこと、ではないだろう」
俺が答えると、吉乃は少しだけ頬を赤くした。
そして、周囲の女たちの視線に気づいたらしく、困ったように笑った。
「では、せめてお茶でもお出しいたします。どうぞ、こちらへ」
俺は吉乃に案内され、家の裏手にある柿の木の下へ腰を下ろした。そこには簡素な腰掛けが置かれており、以前にも何度か二人で話をしたことがある。日差しはまだ少し強かったが、木陰に入ると風が涼しく、遠くで虫の鳴く声が聞こえていた。
吉乃は茶碗を二つ運んできて、俺の前へ一つ置いた。
「今日は、干した芋もございますよ。先日、母が作ってくれたものです」
「それは嬉しいな」
俺がそう答えると、吉乃は小さく笑い、皿をこちらへ寄せた。
何でもない午後だった。
村の仕事の話を聞き、今年の作物の出来を尋ね、先日修理した水路が今のところ問題なく使えていることを教えてもらう。吉乃は近所の子どもが柿を盗もうとして木から落ちた話を面白おかしく聞かせ、俺は城へ入ったばかりの藤吉郎という少年が、三日で台所の女たちと仲良くなった話をした。
「まあ、そんなに働き者なのですか」
「ああ。働き者なのはいいんだが、どうやら飯をもらえる場所を探すのが得意らしい」
「それは、賢い方なのでしょうね」
「賢いというか、食い意地が張っているというか」
吉乃は楽しそうに笑った。
俺もつられて笑ったが、その直後、彼女がふいに口元を袖で覆った。
「こほっ、こほっ」
小さな咳だった。
ほんの二度、喉に何かが引っかかったように咳き込んだだけで、吉乃はすぐに茶碗へ手を伸ばした。
だが、俺の体は、その音を聞いた瞬間に強張っていた。
「吉乃?」
彼女は茶を一口飲み、何事もなかったように顔を上げた。
「はい?」
「今、咳をしただろう」
「ええ。少し喉がむずむずいたしまして」
俺は、彼女の顔を見つめた。
頬の色は悪くない。
目にも力がある。
声も普段と変わらない。
それでも、胸の奥で何かが冷たくなるのを感じた。
「……いつからだ?」
「何がでございますか?」
「咳だ。いつから出ている?」
吉乃は、少し驚いたように瞬きをした。
「今、初めてでございますけれど」
「本当か?」
「はい」
「熱はないのか?」
「ございませぬ」
「体がだるいとか、寒気がするとか、そういうことは?」
俺が立て続けに尋ねると、吉乃は困ったように笑った。
「信長さま、どうなさったのですか。少し咳をしただけでございますよ」
少し咳をしただけ。
その言葉が、俺にはどうしても軽く聞こえなかった。
前の人生でも、最初はそうだったのだ。
吉乃は、少し疲れたと言った。
その翌日には、体が熱っぽいと笑った。
そして、気づいたときには起き上がることもできなくなっていた。
俺は、彼女の額へ手を伸ばした。
「……少し、触ってもいいか」
吉乃は戸惑いながらも頷いた。
俺は、そっと額へ掌を当てた。
熱くない。
少なくとも、前の人生で感じたような異様な熱さはなかった。
それなのに、安心できなかった。
「……今日は、もう仕事をしないほうがいい」
「え?」
「家の中で休んでいろ。水も飲んで、体を冷やさないようにして」
吉乃は、目を丸くした。
「信長さま、わたくしは元気でございます」
「分かっている。でも、念のためだ」
「まだ芋の仕分けが残っておりますし、夕餉の支度もございます」
「それなら、ほかの人に頼めばいい」
言い終えた瞬間、吉乃の表情がわずかに変わった。
怒ったわけではない。
ただ、何かを考えるように俺を見つめていた。
「信長さま」
「……何だ?」
「わたくしが咳をするたびに、そのようにお休みを命じられるおつもりですか」
俺は、返事に詰まった。
吉乃は、茶碗を膝の前へ置いた。
「お気遣いは嬉しゅうございます。ですが、わたくしは子どもではございませぬ。自分の体の具合くらい、自分でも分かります」
「……そうかもしれないが」
「それに、家の仕事はわたくしの役目でもございます。何もかも人に任せてしまえば、母やほかの者たちが困ります」
俺は、黙って彼女の言葉を聞いた。
吉乃の言うことはもっともだった。
彼女は村で暮らす一人の人間であり、家族と役目を分け合いながら毎日を過ごしている。俺が心配だからという理由だけで、その暮らしを勝手に変えていいはずがない。
だが、頭では分かっていても、胸の奥に残った恐怖は消えなかった。
「……もし、病だったらどうする」
俺が尋ねると、吉乃は少しだけ首を傾げた。
「そのときは、休みます。必要であれば、お医者さまにも診ていただきます」
「……手遅れになったら?」
その言葉は、思っていたよりも強い声になった。
吉乃は、驚いたように俺を見た。
俺自身も、しまったと思った。
まだ何も起きていない。
吉乃は、ほんの少し咳をしただけだ。
それなのに俺は、彼女が重い病にかかることを、すでに決まっているかのように話してしまっている。
吉乃は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、静かに尋ねた。
「……信長さまは、何をそんなに恐れておいでなのですか」
俺は、答えられなかった。
前の人生で、お前を失ったから。
今度こそ、死なせたくないから。
そう言えれば、どれほど楽だろう。
だが、吉乃にとって俺たちが出会ったのは、この人生が初めてなのだ。彼女は前の人生を知らず、俺がどれほど後悔してきたのかも知らない。
それなのに、俺の恐怖だけを押しつけてしまえば、彼女は何が何だか分からないまま、俺の顔色を窺って暮らすことになる。
「……すまない」
俺は、ようやくそう答えた。
「少し、心配しすぎた」
吉乃は、すぐには返事をしなかった。
それから、俺の顔を覗き込むようにして、小さく笑った。
「少し、でございますか?」
「……かなり」
「ええ。かなり、でございますね」
俺は、思わず苦笑した。
吉乃も笑ったが、その目にはまだ心配そうな色が残っていた。
「信長さま。わたくしが本当に具合を悪くしたときには、きちんと申し上げます。ですから、今はどうか、いつものようにお話ししてくださいませ」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
そう答えたものの、俺はそれからしばらく、吉乃が茶を飲むたびに喉の動きを確かめ、息をするたびに苦しそうではないかと顔色を窺っていた。
自分でも、ひどい有様だと思う。
吉乃は何度か俺の視線に気づいたようだったが、何も言わず、村の話を続けてくれた。
やがて日が傾き始め、俺は城へ戻ることになった。
吉乃は家の前まで見送りに出て、馬へ乗る俺を見上げた。
「今日は、ありがとうございました」
「いや。急に訪ねて悪かった」
「また、お越しくださいませ」
俺は頷きかけ、思わず言い添えた。
「……無理はするなよ」
吉乃は、少しだけ目を細めた。
「信長さま」
「……何だ」
「わたくしは、今のところ元気でございます」
俺は、思わず顔を赤くした。
「……分かっている」
吉乃は、くすくすと笑った。
その笑顔を見て、俺もようやく少しだけ安心することができた。
だが、馬を進めて村を離れると、胸の奥に沈んでいた不安が再び浮かび上がってきた。
前の人生で、吉乃が亡くなったのは、出会ってから二か月ほどが過ぎた頃だった。
今の人生では、まだその日まで少し時間がある。
だが、前と同じ日付に同じ病が起こるとは限らない。
俺が行動を変えたことで、すでに多くのことが変わっている。坂下の戦も、藤吉郎との出会いも、前の人生にはなかった出来事だ。
それなら、吉乃の病が始まる日だって、変わっていてもおかしくないのではないか。
そんな考えが浮かぶと、俺はますます落ち着かなくなった。
「若殿」
隣を進む十衛門が、声をかけてきた。
「先ほどから、ずいぶんとお静かでございますな」
「……そうか?」
「はい。吉乃どのと、何かございましたか」
俺は、しばらく迷った。
十衛門には、前の人生のことを話していない。
だが、吉乃の体調が心配だという程度なら、相談しても不自然ではないだろう。
「……吉乃が、少し咳をした」
十衛門は、俺を見た。
「咳、でございますか」
「ああ」
「熱でもございましたか」
「いや。本人は元気だと言っていた」
「では、今のところ案ずることはありますまい」
俺は、思わず顔をしかめた。
「……そんな簡単に言うなよ」
十衛門は、少しだけ眉を上げた。
「若殿。咳の一つもせぬ者など、おりますまい」
「それは、そうだが」
「病の兆しであることもございましょう。しかし、喉へ埃が入っただけかもしれませぬ。今のお話だけでは、何とも申せませぬな」
俺は、黙った。
まったく、そのとおりだった。
十衛門は、しばらく俺の顔を見ていた。
「……若殿は、吉乃どのを失うことが、それほど恐ろしゅうございますか」
俺は、手綱を握る手に力を込めた。
「……ああ」
それだけは、迷わず答えられた。
十衛門は、静かに頷いた。
「それならば、なおさら落ち着いてお考えになることです」
「……どういうことだ」
「恐ろしいからといって、何もかも悪いほうへ考えておられては、肝心なときに何をすべきか見失います」
俺は、顔を上げた。
十衛門は、前を見たまま続けた。
「合戦でも同じにございます。敵が現れるかもしれぬからと、毎日全ての兵を武装させて待たせておけば、いずれ兵が疲れ果てます。備えることと、恐れに振り回されることは、別にございます」
俺は、その言葉を聞きながら、坂下での出来事を思い出した。
敵がどこから現れるか分からず、何度も地図を見直した夜。
兵を失うのが怖くて、攻めるべきか退くべきか迷い続けた日々。
そして、自分の策で勝ったあとに、平助と与三郎を失ったこと。
俺は、恐れること自体が悪いとは思わない。
恐れがあったからこそ、無謀な突撃を避けることもできた。
だが、恐れだけで動けば、目の前にいる人間の姿さえ見えなくなる。
吉乃は、今、生きている。
笑っている。
村で働き、家族と暮らし、自分の意思で毎日を過ごしている。
俺は、その当たり前のことを、忘れかけていたのかもしれなかった。
「……十衛門」
「はっ」
「医者を探しておくことくらいは、してもいいと思うか?」
十衛門は、少し考えた。
「それは、よろしいのではございませぬか。若殿ご自身も、兵も、いつ病になるか分かりませぬ。頼れる医師を知っておくことは、無駄にはなりますまい」
俺は、少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうだな」
「ただし」
十衛門は、こちらを見た。
「吉乃どのがお元気なうちから、無理に医師を押しかけさせるようなことは、お控えくださいませ」
俺は、思わず苦笑した。
「……分かっている」
「本当に、お分かりでございますかな」
「だから、分かっているって!」
十衛門は、ようやく少しだけ笑った。
城へ戻った頃には、空が薄い橙色に染まり始めていた。
門をくぐると、ちょうど藤吉郎が大きな薪の束を背負って歩いているところだった。小柄な体には少々重そうだったが、本人は鼻歌を歌いながら、器用に足を運んでいる。
俺の姿に気づくと、藤吉郎は立ち止まり、嬉しそうに頭を下げた。
「若殿! お帰りなさいませ!」
「ああ。ただいま」
「本日は、どちらへお出かけでございましたか」
「少し、村へな」
「ほう! 村でございますか!」
藤吉郎は、何やら興味深そうに目を輝かせた。
「村と申しますと、何か珍しいものでもございましたか?」
「……別に、珍しいものを探しに行ったわけじゃない」
「さようでございますか。わしは旅の途中、村々で芸を見せておりましたゆえ、珍しい話なら色々と存じております!」
俺は、その言葉に少し興味を引かれた。
「……どんな話だ?」
「そうでございますな。例えば、駿河の山あいには、病に効く薬草をよく知る老人がおりまして」
俺は、思わず顔を上げた。
「……薬草?」
「へい。山へ入っては草や根を採り、村の者たちに煎じて飲ませておりました。もっとも、何に効くのか、わしにはさっぱり分かりませなんだが」
藤吉郎は、笑った。
だが、俺は笑えなかった。
「……その老人は、今も生きているのか」
藤吉郎は、少し驚いたように瞬きをした。
「さて、どうでございましょう。最後にお会いしたのは、だいぶ前にございます」
「……そうか」
俺は、少し考えた。
薬草を知る老人。
それだけで、吉乃を救えるとは限らない。
むしろ、効き目の分からないものを飲ませれば、かえって危険なこともあるだろう。
だが、医術に詳しい者を探す手がかりにはなるかもしれない。
「……藤吉郎」
「へい!」
「お前、旅をしている間に、医者や薬に詳しい者と知り合ったことはあるか」
藤吉郎は、首を傾げた。
「医者、でございますか?」
「ああ。腕のよい医者を探している」
藤吉郎は、少し考え込んだ。
そして、ぱっと顔を上げた。
「それでしたら、いくつか心当たりがございます!」
俺は、思わず身を乗り出した。
「本当か?」
「へい! ただし、実際に腕がよいかどうかは、わしには分かりませぬ。旅の途中で、評判を聞いただけの者もおりますゆえ」
俺は、頷いた。
「それでもいい。知っていることを教えてくれ」
藤吉郎は、嬉しそうに笑った。
「承知いたしました!」
そして、薪の束を背負い直そうとして、ふと思い出したようにこちらを見た。
「ところで、若殿」
「……何だ」
「どなたか、お加減が悪いのでございますか?」
俺は、少し迷った。
吉乃は、今のところ元気だ。
ほんの少し咳をしただけで、病と決まったわけではない。
俺は、ゆっくりと首を振った。
「……いや。今は、誰も」
藤吉郎は、不思議そうに首を傾げた。
「では、なぜお医者さまを?」
俺は、少し考えてから答えた。
「……いざというときに、困らないようにだ」
藤吉郎は、しばらく俺を見つめていた。
そして、にっこりと笑った。
「なるほど! 若殿は、先のことをよくお考えになるお方なのですな!」
俺は、思わず苦笑した。
先のことを考えている。
確かに、そうなのかもしれない。
だが、俺が考えているのは、まだ起きていない未来ではない。
一度、確かに起きてしまった過去なのだ。
藤吉郎は、そんな俺の事情など知るはずもなく、医者の評判を聞いた土地や、薬草を扱う商人のことを、次々と話し始めた。
俺は、その話を聞きながら、少しだけ希望を感じていた。
未来の天下人を召し抱えたことが、まさか吉乃を守るための手がかりになるとは思わなかった。
だが、考えてみれば、藤吉郎は各地を渡り歩いてきた男なのだ。
城の中にいるだけでは知ることのできない話を、いくつも聞いているのだろう。
俺は、彼の話を一つずつ確かめながら、頼れる医者を探すことにした。
もちろん、吉乃が病になったと決まったわけではない。
それでも、備えておくことはできる。
今度こそ、何もできないまま彼女を失うようなことにはしたくなかった。
夕暮れの城内に、薪を運ぶ者たちの足音が響いていた。
藤吉郎は、医者の話を終えると、また元気よく頭を下げ、台所のほうへ駆けていった。
俺は、その背中を見送りながら、ふと考えた。
未来を知っているからといって、未来を変えられるとは限らない。
だが、未来を知らない者たちの知恵や経験が、俺の知らない道を開いてくれることはあるのかもしれない。
俺は、ようやく少しだけ、そう思えるようになっていた。
もっとも、その夜、吉乃がまた咳をしていないだろうかと考え始めた途端、俺はなかなか寝つくことができなかった。
……結局、少しも落ち着いていないんだが!?




