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第44話:旅芸人を拾ったら未来の天下人だったんだが!?

 濃姫に吉乃を側室として迎えたいと打ち明けた夜、俺は、女の人との話し合いというものが、合戦の軍議よりもはるかに難しいことを思い知らされた。


「そのお話は、私が嫌だと申し上げれば、おやめになるのでございましょうか」


 濃姫は、そう尋ねたあと、俺が答えるまで黙って待っていた。声を荒らげることも、涙を見せることもなく、ただ真っ直ぐにこちらを見つめているのだから、かえって逃げ場がない。


 俺はしばらく考えた末、吉乃を諦めると約束することも、濃姫の反対を押し切って側室にすると宣言することもできなかった。


「……分からない。吉乃を大切にしたいのは本当だ。だが、お前が嫌だと言っているのに、何もなかったように話を進めることもできない」


 濃姫は、俺の返事を聞いても表情を変えなかった。


「では、今は何もお決めにならないでくださいませ。吉乃どののお気持ちも、私の気持ちも、まだ十分にはお聞きになっておられないのでしょう」


 そのとおりだった。


 俺は、吉乃を失いたくない一心で、彼女を守る方法ばかり考えていた。だが、守るという言葉を使いながら、肝心の本人たちが何を望んでいるのかを、ろくに確かめていなかったのである。


 濃姫は最後に、静かにこう付け加えた。


「信長さまがどなたをお好きになろうとも、私には止められぬことかもしれませぬ。ですが、私にも心がございます。そのことだけは、お忘れにならないでくださいませ」


 俺は、深く頭を下げた。


 そして翌朝、十衛門との槍の稽古でいつも以上に打ちのめされた。


 どうやら、考え事をしているときの俺は、普段よりもさらに隙だらけになるらしい。


     *


 それから数日後、俺は城下の様子を見て回ることになった。


 坂下の街道を通る荷駄が戻り始めたことで、市にも少しずつ活気が戻っているという報告があり、父から商人たちの話を聞いてくるよう命じられたのである。


 十衛門と供の兵二人を連れて城門を出ると、朝の市にはすでに多くの人が集まっていた。野菜を並べた筵の前では女たちが値を交渉し、塩を積んだ荷駄のそばでは商人が荷を下ろす順番を巡って言い争っている。炭を焼く匂いに、魚を炙る煙、濡れた土と馬の汗の匂いが混ざり合い、狭い道を歩くたびに肩が触れそうになるほどだった。


 戦の前には、こうした賑わいを当たり前のものだと思っていた。


 だが、坂下で商人の姿が消えた街道を見てからは、荷を積んだ馬が一頭通るだけでも、それを支える大勢の人間の存在を意識するようになった。


「若殿、あちらが先日お話しした商人にございます」


 十衛門が指した先には、年配の男が立っていた。坂下を通って尾張へ戻ったばかりだというその商人は、俺たちの姿を見ると慌てて頭を下げ、街道の様子を詳しく話してくれた。


 以前は山道を避けるために遠回りしていたが、織田方の兵が橋を守るようになってからは、荷駄を通す者が増えているらしい。ただし、東の砦にはまだ賊が残っているという噂もあり、完全に安心してよい状況ではないという。


 俺は、話を聞きながら頷いた。


 敵を一度退けたからといって、それで全てが終わるわけではない。


 むしろ、こうして道を使う人々の話を聞き続けることが、これからは大切になるのだろう。


 商人と別れ、次の店へ向かおうとしたときだった。


 道の向こうから、妙に大きな歓声が聞こえてきた。


「おおっ!」


「もう一度やってみせろ!」


「今のはどうやったんだ!」


 俺は、思わず足を止めた。


 十衛門も、声のするほうへ顔を向ける。


「……何かあったのか」


「見世物のようでございますな」


 人だかりは、市の外れにある小さな広場の周囲にできていた。


 俺たちが近づくと、見物人の肩越しに、一本の長い竹竿が見えた。


 その先に、誰かが立っている。


 いや、立っているどころではない。


 逆立ちしている。


 しかも、竹竿は地面に固定されているわけではなく、下にいる男が両手で支えているだけだった。


 俺は、思わず目を見開いた。


「……危なくないのか、あれ」


 竹竿の上にいるのは、まだ少年と呼んでもよさそうな小柄な男だった。


 日に焼けた顔は細く、頬骨が少し張り出している。目は大きく、鼻は低めで、笑うと口元が横へ大きく広がる。着物はところどころ継ぎが当てられていたが、身のこなしは驚くほど軽かった。


 少年は逆立ちしたまま片手を離し、見物人へ向かって声を張り上げた。


「さあさあ、お立ち会い! この世に二人とおらぬ軽業師、空を飛ぶ猿をご覧あれ!」


 見物人たちが笑った。


 少年はその反応を確かめると、さらに体を傾け、竹竿の先から飛び降りた。


 俺は、思わず声を上げそうになった。


 だが、少年は空中でくるりと体を回し、地面へ両足で着地したのである。


 着地した瞬間、膝を深く曲げて衝撃を逃がし、何事もなかったように立ち上がる。


 見物人たちから、再び歓声が上がった。


「……すごいな」


 俺が呟くと、隣の十衛門が小さく頷いた。


「身軽な者にございますな」


「十衛門でも、あれはできるか?」


「若い頃であれば、あるいは」


 俺は、思わず十衛門を見た。


 冗談なのか本気なのか、まったく分からない。


 少なくとも、今の俺が真似をすれば、着地した瞬間に足を折る自信がある。


 少年は竹竿を下ろすと、今度は短い棒を三本取り出し、空中へ放り投げ始めた。


 棒は次々と宙を舞い、少年の手から手へ移っていく。途中で一本を背中の後ろへ回し、足の下を通し、最後には三本とも片手で受け止めた。


 見物人たちは面白がって銭を投げ、少年は大げさに頭を下げながら、それを拾い集めていた。


「ありがたや、ありがたや! これで今夜は、腹いっぱい飯が食えまする!」


 少年はそう言って笑った。


 だが、銭を拾う手つきは妙に素早く、落ちた場所を一度見ただけで、ほとんど取りこぼすことがない。


 俺は、少し感心した。


 軽業も上手いが、商売も上手い。


 人がどんな芸を喜び、どのくらい銭を出してくれるのかを、よく分かっているようだった。


 そのとき、人だかりの後ろから、酒の匂いを漂わせた男が現れた。


 腰には刀を差している。


 男は見物人を押しのけるように前へ出ると、少年の足元に落ちていた銭を一枚拾い上げた。


「おい、猿」


 少年が顔を上げた。


「へい、何でございましょう」


「面白い芸を見せるではないか。もう一度、飛んでみせろ」


「ありがたいお言葉でございますが、少々休ませていただきたく」


「何だ、わしの頼みが聞けぬのか」


 男は、少年の肩を乱暴に掴んだ。


 見物人たちが、少しずつ距離を取る。


 俺は、眉をひそめた。


 酔った武士に絡まれるなんて、旅芸人も大変だ。


 少年は、困ったように笑った。


「いやいや、お侍さま。わしのような者が逆らうなど、とんでもございませぬ。ただ、腹が減っておりますゆえ、次の芸は少々危のうございまして」


「口の減らぬ奴め」


 男が少年の胸倉を掴もうとした。


 その瞬間だった。


 少年の体が、するりと横へ動いた。


 男の手は空を掴み、勢い余って前へ出る。


 少年は、男の足元を軽く払った。


 次の瞬間、男は派手に尻餅をついていた。


 見物人たちから、どっと笑い声が上がる。


 俺も、思わず笑いそうになった。


 だが、隣の十衛門は笑っていなかった。


 むしろ、目を細めて少年を見つめている。


「……若殿」


「何だ」


「あの者、ただの軽業師ではございませぬな」


「……どういうことだ」


「今の足運びにございます。相手の重心を崩す位置へ、迷いなく足を入れております」


 俺は、少年へ目を向けた。


 確かに、今の動きは偶然には見えなかった。


 少年は転んだ男へ慌てて駆け寄り、何度も頭を下げている。


「いやあ、申し訳ございませぬ! お侍さまがあまりにも勢いよくお進みになられたので、わしの足が勝手に!」


「貴様!」


 男は顔を真っ赤にして立ち上がった。


 そして、刀の柄へ手をかけた。


 周囲の空気が、一瞬で変わった。


 俺は、反射的に前へ出ようとした。


 だが、それより早く十衛門が動いていた。


「そこまでになされよ」


 低い声が響いた。


 男が振り返る。


 十衛門は、俺の少し前へ立ち、静かに男を見つめていた。


「町中で刀を抜くおつもりか」


「何者だ、貴様!」


「織田家中の者にございます」


 その一言で、男の顔色が変わった。


 さらに十衛門の後ろにいる俺へ目を向けると、男は慌てて頭を下げた。


 どうやら、俺の顔を知っていたらしい。


「わ、若殿とは存じませず!」


「……刀を抜くほどのことではないだろう」


 俺が言うと、男は何度も頭を下げ、逃げるように広場から去っていった。


 見物人たちは、ほっとしたように息を吐いた。


 少年は、しばらく呆然としていたが、やがて俺たちへ向き直った。


「これはこれは、お助けいただき、ありがたき幸せ!」


 そして、地面へ額がつきそうなほど深く頭を下げた。


 俺は、思わず苦笑した。


「……怪我はないか」


「へい! このとおり、五体満足にございます!」


 少年は両腕を広げてみせた。


 その動きがあまりにも大げさだったので、周囲から再び笑い声が上がった。


 だが、俺は別のことが気になっていた。


「……お前、武芸を習ったことがあるだろう」


 少年の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。


「いやあ、若殿さま。わしのような旅芸人が武芸など、とんでもございませぬ!」


 少年は、両手を振って否定した。


 だが、十衛門は首を振った。


「先ほどの足運びは、軽業だけで身につくものではあるまい。誰に教わった」


 少年は、困ったように笑った。


「旅の途中で、少々」


「どこの誰だ」


「それは、その……」


 少年は、目を泳がせた。


 俺は、その様子を見ながら考えた。


 何か隠している。


 だが、悪事を働いた者のようには見えない。


 むしろ、武芸を習ったことを知られたくないようだった。


「……別に、責めているわけじゃない」


 俺が言うと、少年は顔を上げた。


「本当でございますか」


「ああ。ただ、少し話を聞きたい」


 少年は、俺と十衛門を交互に見た。


 そして、観念したように肩を落とした。


「……実は、以前、駿河のほうで武家に仕えておりました」


 俺は、少し驚いた。


「駿河?」


「へい。今川さまのお膝元にございます」


 その名前を聞いた瞬間、十衛門の表情が険しくなった。


 俺も、思わず少年を見つめた。


 今川家。


 尾張にとって、決して無関係ではいられない相手だ。


「……今川家の者だったのか」


 少年は、慌てて首を振った。


「いえいえ! 家臣などと申せる身分ではございませぬ! あるお侍さまのもとで、雑用をしていただけにございます!」


「……なるほど」


 俺は、少し考えた。


 今川家の家臣のもとで働いていたのなら、武芸を見聞きする機会もあったのだろう。


 だが、それだけで先ほどのような身のこなしができるものだろうか。


「誰かに、稽古をつけてもらったのか」


「へい。馬の世話や薪運びをしておりましたところ、古参の足軽の方が、暇な折に棒の扱いを教えてくださいまして」


 少年は、少しだけ懐かしそうに笑った。


「もっとも、わしは力が弱うございますから、正面から打ち合っても勝てませぬ。相手の足を見ろ、肩の動きを見ろと、散々叱られました」


 十衛門が、小さく頷いた。


「よい師に出会ったようだな」


「へい。厳しいお方でございましたが、よくしていただきました」


 少年は、そう言ったあと、少しだけ俯いた。


 俺は、その変化に気づいた。


「……それなら、どうして辞めたんだ」


 少年は、しばらく黙っていた。


 やがて、いつもの笑顔を浮かべた。


「いやあ、わしは何しろ、この顔でございますから!」


 そう言って、自分の頬を指差した。


「猿だの、貧乏人だの、色々と呼ばれましてな。おまけに、手まで人と違いますゆえ」


 少年は、そこで言葉を止めた。


 そして、右手を背中へ隠した。


 俺は、眉をひそめた。


「……手?」


 少年は、少し迷ったようだった。


 だが、やがて諦めたように右手を差し出した。


 俺は、その手を見た。


 親指が、二本あった。


 正確には、親指の付け根からもう一本の指が分かれるようについている。


 俺は、思わず目を瞬かせた。


 多指症だ。


 現代でも、まれに生まれつき指の数が多い人がいることは知っている。


 だが、この時代に実際に見るとは思わなかった。


 少年は、俺の反応を確かめるように顔を上げた。


「……気味が悪うございましょう」


「……いや」


 俺は、首を振った。


「指が一本多いだけだろう」


 少年は、目を丸くした。


「……へ?」


「それで何か困ることがあるのか」


 俺が尋ねると、少年はしばらく口を開けたまま固まっていた。


 そして、ゆっくりと自分の手へ目を落とした。


「……困ること、でございますか」


「ああ」


「……からかわれます」


 少年は、小さな声で答えた。


「珍しいものを見るように手を掴まれたり、わざと人前で見せろと命じられたりいたします」


 俺は、顔をしかめた。


「……それは、嫌だな」


「へい」


 少年は、苦笑した。


「わしも、嫌でございました」


 その声には、先ほどまでの軽薄さがなかった。


     *


 俺たちは、人だかりから少し離れた茶屋へ移動した。


 少年は最初、遠慮していたが、飯を食わせると言うと途端に目を輝かせた。


 出された麦飯と汁物を前にすると、彼は両手を合わせ、驚くほどの速さで食べ始めた。


 俺は、その様子を見ながら、思わず平助のことを思い出した。


 平助も、飯を食うのが早かった。


 兄弟が多く、のんびりしていると残りを取られてしまうからだと笑っていた。


 俺は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。


 だが、目の前の少年はそんな俺の気持ちなど知るはずもなく、夢中になって飯を頬張っている。


「……そんなに腹が減っていたのか」


 俺が尋ねると、少年は慌てて顔を上げた。


「も、申し訳ございませぬ!」


「いや、謝らなくていい」


「昨日は、あまり銭が入りませなんだゆえ」


 少年は、照れくさそうに笑った。


「今朝も水ばかり飲んでおりました」


 俺は、思わず眉をひそめた。


 あれほど身軽に動いていたのに、まともに飯も食べていなかったのか。


「……旅芸人というのは、大変なんだな」


「へい。芸が受ければ飯にありつけますが、受けなければ野宿でございます」


 少年は、汁椀を両手で持ち、最後の一滴まで飲み干した。


 そして、満足そうに息を吐いた。


「いやあ、ありがたや。久方ぶりに腹いっぱい食べ申した!」


 俺は、思わず笑った。


 なんとも分かりやすい奴だ。


 だが、その笑顔を見ていると、少し気になることがあった。


「……お前、故郷はどこなんだ」


「尾張の中村にございます」


 俺は、顔を上げた。


 中村。


 尾張の中村。


 何となく、聞き覚えがある。


「……家族はいるのか」


 少年は、少しだけ表情を変えた。


「へい。母と姉が、おります」


「父親は?」


「実の父は、幼い頃に亡くなりました。母はそのあと、別の男と所帯を持ちまして」


 少年は、湯呑みを両手で包んだ。


「継父との間には弟や妹も生まれましたが、わしとは、あまり折り合いがよくございませなんだ」


 俺は、黙って聞いていた。


「継父は、わしが何をしても気に入らぬようでございました。飯を食えば食いすぎだと叱られ、仕事をすれば手際が悪いと言われ、家におれば邪魔だと申される」


 少年は、笑った。


 だが、その笑顔はどこか寂しそうだった。


「弟や妹も、継父に倣うようになりましてな。わしが口を開けば猿だの何だのとからかわれ、喧嘩ばかりしておりました」


「……それで、村を出たのか」


「へい」


 少年は、静かに頷いた。


「母が、困っておりましたゆえ」


 俺は、顔を上げた。


「……母親が?」


「わしと継父が喧嘩をいたしますと、母が間に入るのでございます。どちらの味方をしても、もう一方が怒りますからな」


 少年は、湯呑みへ目を落とした。


「母には、これ以上迷惑をかけとうございませなんだ」


 俺は、しばらく黙っていた。


 少年は、少しだけ笑った。


「姉も、わしのことを心配してくれました。智子と申します」


「……智子?」


「へい。気の強い姉でございましてな。継父がわしを叱りますと、よく間へ入ってくれました」


 少年は、懐かしそうに目を細めた。


「もっとも、姉が口を出すと、余計に騒ぎが大きくなることもございましたが」


 俺は、思わず笑った。


「……頼もしい姉さんだな」


「へい。わしより、よほど気が強うございます」


 少年も笑った。


 だが、そのあとで、少しだけ俯いた。


「……今頃、どうしておることやら」


 俺は、静かに尋ねた。


「会いに帰らないのか」


 少年は、首を振った。


「今の姿では、とても」


 そして、自分の着物を見下ろした。


 擦り切れた袖。


 継ぎの当たった裾。


 ところどころ色の違う布が縫い合わせられている。


「村を出るとき、母には立派な侍になって帰ると申しました。智子姉も、きっと出世するから頑張れと、送り出してくれまして」


 少年は、苦笑した。


「それが、今は旅芸人でございます。とても胸を張って帰れませぬ」


 俺は、目の前の少年を見つめた。


 身分の低さを馬鹿にされ、家に居場所を失い、今川家でもからかわれ、最後には旅芸人として各地を渡り歩いている。


 だが、それでも母と姉を心配している。


 そして、いつか立派になって帰りたいと願っている。


 俺は、何とも言えない気持ちになった。


「……名前は?」


 俺が尋ねると、少年は顔を上げた。


「へ?」


「まだ、名前を聞いていなかっただろう」


「ああ、これは失礼いたしました!」


 少年は、慌てて姿勢を正した。


「わしは、木下藤吉郎と申します!」


 俺は、思わず瞬きをした。


 木下藤吉郎。


 その名前を聞いた瞬間、頭の中で何かが繋がった。


 尾張の中村出身。


 幼い頃に父を亡くし、母が再婚した。


 今川家に仕えたことがある。


 猿のような顔。


 身軽で、口が達者。


 そして、六本指。


 俺は、ゆっくりと少年を見つめた。


「……木下、藤吉郎?」


「へい!」


「……その木下というのは、父親の姓か?」


 少年は、少しだけ表情を変えた。


「へい。継父の姓にございます」


 俺は、頷いた。


「……そうか」


 少年は、苦笑した。


「もっとも、継父とは折り合いが悪うございますが、母が嫁いだ家の姓でございますゆえ、今も名乗っております」


 俺は、何も言えなかった。


 木下藤吉郎。


 間違いない。


 こいつは、豊臣秀吉だ。


 未来の天下人。


 織田信長の家臣となり、やがて天下統一を果たす男。


 その男が、今、俺の目の前で麦飯を食べ終え、空になった椀を名残惜しそうに見つめている。


 俺は、思わず額へ手を当てた。


 ……嘘だろ。


 こいつが、豊臣秀吉なのか。


     *


「……若殿?」


 十衛門が、心配そうに俺を見た。


「お顔の色が優れませぬが」


「……いや、大丈夫だ」


 俺は、深く息を吸った。


 落ち着け。


 確かに、藤吉郎という名前は珍しくないかもしれない。


 だが、ここまで条件が揃うことがあるだろうか。


 俺は、少年を見つめた。


 彼は、こちらの様子を窺いながら、何か失礼なことを言ったのではないかと心配しているようだった。


「……藤吉郎」


「へい!」


「お前、これからどうするつもりなんだ」


 少年は、少し考えた。


「さて、どういたしましょうな。しばらくは尾張で芸を見せ、銭が貯まればまた駿河のほうへ戻ろうかと」


「……また今川のところへ?」


「いえいえ、今度は別のお侍さまにお仕えできればと思っております」


 少年は、少しだけ笑った。


「わしも、いつまでも旅芸人をしておるつもりはございませぬ。いつかは立派な侍になり、母と智子姉を楽に暮らさせたいのでございます」


 俺は、その言葉を聞きながら考えた。


 未来の秀吉は、天下統一を果たす。


 だが、今の藤吉郎は、ただ母と姉を安心させたいと願っているだけなのだ。


 その願いが、いつか天下を望むほど大きくなるのだろうか。


 俺には、まだ想像できなかった。


 だが、一つだけ分かることがあった。


 この少年は、ただの旅芸人ではない。


 武芸の心得があり、人を笑わせることができ、初対面の相手の機嫌を読むのも上手い。


 何より、あれほどつらい思いをしてきたというのに、まだ人を信じようとしている。


 俺は、少し考えた。


 そして、口を開いた。


「……藤吉郎」


「へい」


「俺のところで働いてみるか」


 少年は、ぽかんと口を開けた。


「……へ?」


「織田家で働いてみないか、と言っている」


 少年は、しばらく俺を見つめていた。


 そして、慌てて姿勢を正した。


「わ、わしをでございますか?」


「ああ」


「このような、どこの馬の骨とも知れぬ者を?」


「どこの馬の骨かは、今聞いたところだろう」


 俺がそう答えると、藤吉郎は目を丸くした。


 十衛門が、横から口を挟んだ。


「若殿、少々お待ちくだされ」


「……何だ」


「この者は、今川家に仕えていたと申しております。素性も確かめずに召し抱えるのは、いかがなものかと」


 俺は、頷いた。


「……確かに、そうだな」


 十衛門の言うことはもっともだった。


 今川家と織田家の関係を考えれば、見知らぬ男をいきなり家中へ入れるのは危険だ。


 たとえ、未来の秀吉であったとしても。


「……藤吉郎」


「へい」


「最初から侍にしてやれるわけじゃない。まずは小者として働いてもらうことになるし、十衛門にも身元を調べてもらう」


 藤吉郎は、真剣な顔で聞いていた。


「仕事ができなければ叱られるし、働きぶりによっては辞めてもらうこともある。それでもよければ、面倒を見る」


 少年は、しばらく何も言わなかった。


 そして、突然、地面へ額を擦りつけるほど深く頭を下げた。


「ありがたき幸せ!」


 俺は、思わず身を引いた。


「……そんなに頭を下げなくてもいい」


「この藤吉郎、粉骨砕身、お仕えいたします!」


 俺は、思わず苦笑した。


 ……いや、ちょっと待て。


 未来の天下人が、こんなところで土下座しているんだが!?


     *


 藤吉郎を連れて城へ戻る途中、十衛門は終始難しい顔をしていた。


 俺は、馬に乗りながら、隣を歩く藤吉郎を見下ろした。


 彼は、旅芸人の道具を背負い、時折こちらへ顔を向けては嬉しそうに笑っている。


 どうやら、よほど嬉しいらしい。


「……藤吉郎」


「へい!」


「そんなに嬉しいのか」


「そりゃあ、嬉しゅうございます!」


 藤吉郎は、満面の笑みを浮かべた。


「わしのような者を、若殿が拾ってくださったのでございますから!」


 俺は、少しだけ苦笑した。


「……拾ったって、犬や猫じゃないんだから」


「へへっ、犬でも猫でも、飯を食わせていただけるならありがたいことでございます!」


 俺は、思わず笑った。


 まったく、調子のよい奴だ。


 だが、十衛門は笑っていなかった。


「若殿」


「……何だ」


「この者を召し抱えることについては、殿にもお伺いを立てねばなりませぬ」


「分かっている」


「また、今川家に仕えていたという話も、確かめる必要がございます」


「それも分かっている」


 十衛門は、少しだけ眉を寄せた。


「……本当に、お分かりでございますか」


 俺は、思わず顔をしかめた。


「分かっているって!」


 藤吉郎は、そんな俺たちのやり取りを見て、声を立てて笑った。


「いやあ、若殿と土山さまは、仲がよろしゅうございますな!」


 十衛門が、じろりと藤吉郎を見た。


「お前は、少し黙っておれ」


「へい!」


 藤吉郎は、元気よく返事をした。


 だが、三歩ほど歩いたところで、また口を開いた。


「ところで、若殿」


「……何だ」


「城では、飯は一日に何度いただけるのでございましょうか」


 俺は、思わず馬上で体を揺らした。


 未来の天下人が、最初に気にするのは飯の回数なのか。


     *


 城へ戻ると、俺は父へ藤吉郎のことを報告した。


 父は、最初こそ眉をひそめたものの、十衛門から少年の身のこなしについて聞くと、少しだけ興味を示した。


「……旅芸人か」


「はい」


「今川家に仕えていたというのは、本当なのか」


「本人は、そう申しております」


 父は、しばらく考えていた。


 そして、低い声で言った。


「しばらくは小者として置いてみよ。ただし、素性は確かめさせる」


 俺は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 父は、俺を見つめた。


「……信長」


「はい」


「なぜ、その者を召し抱えようと思った」


 俺は、少し考えた。


 未来の豊臣秀吉だから。


 そう答えるわけにはいかない。


 だが、それだけが理由でもなかった。


「……人を見るのが上手いように思いました」


 父は、少しだけ眉を上げた。


「ほう」


「芸を見せながら、見物人の反応をよく確かめておりました。それに、武芸の心得もございます。旅をしてきたなら、各地の道や村の事情にも詳しいかもしれませぬ」


 俺は、言葉を続けた。


「坂下の戦で、道を知る者や、人の動きを読む者の大切さを学びました。刀や槍が強い者だけでなく、そういう働きのできる者も必要だと思ったのでございます」


 父は、しばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと頷いた。


「……なるほど」


 俺は、少しだけ胸を撫で下ろした。


 父は、静かに続けた。


「ならば、その者が本当に使えるかどうか、お前自身の目で確かめよ」


「……はい」


「拾ったからには、働かせねばならぬ。情けだけで人を抱えれば、かえって本人のためにもならぬぞ」


 俺は、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


     *


 その日の夕方、藤吉郎には城の外れにある小者たちの寝所が与えられた。


 立派な部屋ではない。


 板張りの狭い部屋に、何人もの男たちが寝起きしている。


 だが、雨風をしのぐことができ、食事も与えられる。


 藤吉郎にとっては、それだけでも十分だったらしい。


「若殿!」


 俺が様子を見に行くと、藤吉郎は慌てて立ち上がった。


「……どうだ。困ったことはないか」


「とんでもございませぬ!」


 藤吉郎は、嬉しそうに笑った。


「屋根があり、寝る場所があり、飯までいただけるのでございます! これ以上、何を望みましょう!」


 俺は、思わず苦笑した。


「……そうか」


 藤吉郎は、少しだけ真面目な顔になった。


「若殿」


「何だ」


「一つだけ、お願いがございます」


 俺は、顔を上げた。


「……何だ」


 藤吉郎は、少し迷ったようだった。


 そして、静かに言った。


「もし、わしが働いて銭をいただけるようになりましたら、その一部を故郷へ送ってもよろしゅうございましょうか」


 俺は、少し驚いた。


「……母親と姉さんにか」


「へい」


 藤吉郎は、頷いた。


「母も智子姉も、わしがどこで何をしておるのか、心配しておると思います。せめて、元気で働いておることを知らせとうございます」


 俺は、しばらく藤吉郎を見つめた。


 未来の天下人。


 天下統一を果たす男。


 だが、今の彼が望んでいるのは、母と姉に少しばかりの銭を送ることだった。


 俺は、ゆっくりと頷いた。


「……もちろんだ」


 藤吉郎の顔が、ぱっと明るくなった。


「ありがたき幸せ!」


「ただし、まずは仕事を覚えろよ」


「へい!」


 藤吉郎は、元気よく返事をした。


 俺は、その姿を見ながら、少しだけ笑った。


 この少年が、いつか天下人になる。


 まだ、信じられない。


 だが、もし本当にそうなのだとしたら。


 俺は、未来の秀吉を知っている。


 彼がどんな働きをし、どんな失敗をし、どんな道を歩むことになるのかも、ある程度は知っている。


 その知識を、どう使うべきなのだろう。


 未来を変えるために、彼を利用するのか。


 それとも、今の藤吉郎という一人の人間を見て、共に歩んでいくのか。


 俺は、まだ答えを出せなかった。


 だが、少なくとも一つだけ決めたことがあった。


 この少年を、ただの便利な駒として扱うつもりはない。


 俺は、彼が自分の力で出世できるよう、できる限りの機会を与えようと思った。


     *


 翌朝、俺は十衛門から思いがけない報告を受けた。


「若殿」


「……何だ」


「藤吉郎が、早朝から騒ぎを起こしております」


 俺は、思わず顔を上げた。


「……何をしたんだ」


「城の台所へ入り込み、炊事の者たちに混じって働いておるのでございます」


「……仕事をしているなら、いいんじゃないか」


「それが、誰に命じられたわけでもないのに、勝手に薪を運び、水を汲み、飯を炊く手伝いをしておりまして」


 俺は、少し感心した。


「……働き者じゃないか」


 十衛門は、深く息を吐いた。


「問題は、そのあとにございます」


「……何だ」


「炊事の者たちから、余った飯をいただいておるそうでございます」


 俺は、思わず笑った。


「……なるほど」


「若殿、笑い事ではございませぬ」


「いや、でも、働いたんだろう」


「それは、そうでございますが」


 俺は、少し考えた。


 藤吉郎は、昨日から飯の回数ばかり気にしていた。


 どうやら、腹いっぱい食べるためなら、朝早くから働くことも苦ではないらしい。


 俺は、思わず苦笑した。


「……十衛門」


「はっ」


「しばらく、あいつをよく見ておいてくれ」


 十衛門は、静かに頷いた。


「承知いたしました」


 俺は、窓の外へ目を向けた。


 城の向こうには、朝の光を浴びた尾張の町が広がっている。


 そのどこかで、未来の天下人が今、飯を食うために必死に働いている。


 俺は、思わず笑ってしまった。


 豊臣秀吉。


 後に、天下を統一する男。


 その最初の仕事が、台所の薪運びとは。


 ……歴史の教科書には、絶対に載っていない話なんだが!?

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