↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
43/63

第43話:吉乃に子どもの話をしたら真顔になったんだが!?

 坂下の戦から五日が過ぎても、俺の頭から平助と与三郎のことが離れることはなかった。


 戦が終わった翌日には、父の命によって坂下へ新たな守備の兵が送られ、街道を通る商人たちも少しずつ戻り始めていた。東の砦に籠もる者たちは依然として警戒を要したものの、少なくとも荷駄を襲えば織田方の兵が出てくることを思い知ったらしく、今のところ目立った動きはないという。


 俺の策は成功した。


 父もそう言ったし、勝家も兵の配置については悪くなかったと評価してくれた。十衛門に至っては、翌日からの槍の稽古で容赦なく俺を地面へ転がす程度には、普段どおりの生活へ戻っている。


 だが、俺自身は、まだ戦から帰ってきたような気がしなかった。


 朝、食事を取っていると、平助が握り飯を頬張っていた姿を思い出すことがある。庭で槍を握れば、与三郎が息子の話をしていた声が耳に蘇り、稽古の途中で思わず手を止めてしまうこともあった。


 平助の妻には、家中の定めに従った弔いの手配が進められている。与三郎の家にも、残された妻子が当面暮らしに困らぬよう、父の許しを得て扶持の継続が認められた。


 俺は、それだけでは足りないような気がしていたが、何をすれば十分なのかと問われれば、答えることはできなかった。


 失われた命は、米俵をいくつ積んでも戻ってこない。


 そんな当たり前のことを、俺は今さらになって思い知らされていた。


     *


「若殿、また手が止まっておりますぞ」


 十衛門の声が飛んできた。


 俺は、慌てて槍を構え直した。


「……考え事をしていた」


「槍を構えたまま考え事をなされば、敵に討たれます」


「分かっている」


「分かっておられる方は、同じことを三度も繰り返しませぬ」


 十衛門はそう言うと、俺が返事をするより早く槍を突き出してきた。


 俺は反射的に身を引いたが、足の運びが遅れ、槍の柄で肩を軽く打たれた。以前ならそのまま転んでいただろうが、どうにか踏みとどまることができたのは、毎日の稽古の成果なのかもしれない。


 もっとも、十衛門の顔には、褒める気配など微塵もなかった。


「若殿、今のは三度目でございます」


「……数えなくてもいいだろう」


「数えねば、若殿が忘れてしまわれますゆえ」


 俺は、深く息を吐いた。


 まったく、この男は。


 だが、十衛門の言うことも正しい。俺が戦のことばかり考えて槍の稽古を疎かにすれば、次の戦では自分自身を守ることすらできなくなる。


 俺は、もう一度槍を構えた。


 すると十衛門は、珍しく攻撃を仕掛けず、静かに俺を見つめた。


「……若殿」


「何だ」


「一度、吉乃どのにお会いになってはいかがでございますか」


 俺は、思わず槍を下ろした。


「……何で急に吉乃の話になるんだ」


「このところ、若殿は随分とお疲れのご様子にございます。少し気分を変えられてもよろしいかと」


 俺は、十衛門の顔を見つめた。


 この男は、どこまで気づいているのだろう。


 吉乃のことを特別に思っていることは、以前から知られている。だが、俺が彼女を失った過去を持ち、その死を変えるために今の人生を生きていることまでは、さすがに知らないはずだった。


「……村の様子を見に行くついでなら、構わないか」


「それがよろしいかと」


 十衛門は頷いた。


「ただし、若殿」


「何だ」


「村の娘に会うためだけに、兵を何人も動かすことはお控えくださいませ」


 俺は、思わず顔をしかめた。


「分かっているよ」


 どうやら、俺の行動はすでに相当分かりやすいらしい。


     *


 翌日の昼過ぎ、俺は十衛門と二人の供を連れ、吉乃の暮らす村へ向かった。


 村へ続く道には、以前よりも青々とした草が茂り、畑では農夫たちが鍬を振るっていた。遠くの林からは鳥の声が聞こえ、道端には小さな白い花が咲いている。


 坂下では、同じような林の中から敵兵が現れた。


 そう思うと、穏やかな景色の中にいても、つい木々の奥へ目を向けてしまう。


 だが、ここには槍を持った男たちの姿はなく、荷を運ぶ農夫や、畑の間を走り回る子どもたちがいるだけだった。


 俺は、少しだけ肩の力を抜いた。


 村へ入ると、顔見知りになった年寄りが声をかけてきた。


「若殿、ようお越しくださいました」


「……村の様子はどうだ」


「おかげさまで、変わりなく暮らしております。先日のお話も、皆で少しずつ進めております」


 以前、俺たちが相談を受けた水の分配については、上流と下流の村人たちが協力して堰を直す話が進んでいるらしい。


 もっとも、誰が何日働くかというところで、まだ意見がまとまっていないという。


 俺は、思わず苦笑した。


 戦も難しいが、村の話し合いもなかなか難しい。


 人間というのは、どうしてこう、何をするにも揉めるのだろう。


 そんなことを考えながら歩いていると、井戸のそばで水桶を持った娘が振り返った。


 吉乃だった。


 淡い色の小袖に、使い込まれた前掛けを結んでいる。髪は仕事の邪魔にならないよう後ろでまとめられており、額には小さな汗の粒が浮かんでいた。


 彼女は俺の姿を認めると、驚いたように目を丸くした。


「……若殿?」


「……久しぶりだな」


 俺がそう言うと、吉乃は慌てて水桶を置き、頭を下げた。


「お越しになるとは存じませんでした」


「突然来てしまったからな。邪魔だったか?」


「いいえ、とんでもございません」


 吉乃は顔を上げ、少しだけ微笑んだ。


「お元気そうで、安心いたしました」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が温かくなった。


 俺は、ようやく帰ってきたような気がした。


     *


 吉乃は、井戸から汲んだ水を近くの家へ運ぶ途中だったらしい。


 俺が桶を持とうとすると、彼女は慌てて首を振った。


「若殿、そのようなことはなさらないでくださいませ」


「別に、水桶くらい持てるぞ」


「存じております。ですが、若殿に水を運ばせたとあっては、村の者が驚いてしまいます」


 俺は、周囲を見渡した。


 確かに、少し離れた場所で農夫がこちらを見ている。


 俺が水桶を持っただけで、何か大変なことが起きたと思われるかもしれない。


 仕方なく手を引っ込めると、吉乃は少し困ったように笑った。


「お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします」


「……そうか」


 俺は、頷いた。


 前の人生では、吉乃ともっと気軽に話していた。


 彼女の家で一緒に食事をしたこともあったし、畑仕事を手伝って泥だらけになったこともある。


 だが、今の吉乃にとって、俺はまだ何度か顔を合わせただけの若殿なのだ。


 その距離を、俺の都合で縮めるわけにはいかない。


 俺は、彼女が水桶を運び終えるのを待ち、村の様子について話を聞くことにした。


 吉乃は、最近になって熱を出す者が減ったことや、畑の作物が順調に育っていることを教えてくれた。


 以前、村の井戸について俺が尋ねたことも覚えていたらしく、水を汲む場所の周囲を掃除するようになったのだと話してくれた。


「若殿がおっしゃっていたことを、村の者にも伝えてみたのでございます」


「……そうなのか」


「はい。最初は面倒だと申す者もおりましたが、井戸の周りが綺麗になれば気持ちもよいものですから」


 吉乃は、嬉しそうに笑った。


 俺は、その顔を見つめた。


 前の人生で、彼女は病に倒れた。


 何もできないまま、俺はその命を失った。


 だが、今はこうして元気に笑っている。


 その事実だけで、胸がいっぱいになりそうだった。


     *


 村の外れには、小さな畑が広がっていた。


 吉乃は、家の仕事を終えると、俺に畑の様子を見せてくれた。もっとも、俺が勝手についていったというほうが正確かもしれない。


 十衛門と供の者たちは少し離れた道端で待っており、俺たちの会話が聞こえない程度の距離を保っている。


 吉乃は畑の畝を指しながら、今年は雨の降り方が穏やかなので、作物の育ちがよいのだと説明してくれた。


「……若殿は、畑仕事をなさったことがおありですか」


 突然そう尋ねられ、俺は少し考えた。


「……少しだけ、ある」


 前の人生で、彼女と一緒に畑へ入ったことがある。


 だが、それを今の吉乃に話すわけにはいかない。


「そうでございましたか」


 吉乃は、少し意外そうな顔をした。


「若殿は、お城でお勉強や武芸のお稽古をなさっているものとばかり思っておりました」


「それもしているぞ。毎日、十衛門に散々しごかれている」


 俺がそう言うと、吉乃は口元に手を当てて笑った。


「土山さまは、お厳しそうでございますものね」


「厳しいなんてもんじゃない。俺が十回倒されても、まだ稽古を続けようとするんだ」


「まあ」


 吉乃は、楽しそうに笑った。


 その笑顔を見ていると、戦のことを忘れそうになる。


 俺は、しばらく彼女の横顔を見つめていた。


 すると、吉乃がふとこちらを向いた。


「……若殿?」


「……何だ」


「何か、お顔についておりますか」


「いや」


 俺は、慌てて目を逸らした。


「……何でもない」


 吉乃は、不思議そうに首を傾げた。


 俺は、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


 前の人生では、もっと自然に話せていたはずなのに。


 どうして今は、こんなにもぎこちないのだろう。


     *


 畑の端には、大きな柿の木が立っていた。


 まだ実のなる季節ではないが、枝には青々とした葉が茂り、その下には涼しい木陰ができている。


 吉乃は、少し休んでいかれてはどうかと勧めてくれた。


 俺は、ありがたくその言葉に甘えることにした。


 木陰に腰を下ろすと、吉乃は持っていた小さな包みを開いた。


 中には、干した芋がいくつか入っていた。


「……お口に合うか分かりませんが」


「いただいてもいいのか」


「はい。家から持ってまいりました」


 俺は、一つ受け取った。


 噛むと、素朴な甘みが口の中に広がる。


 特別に美味しいものではないのかもしれない。


 だが、今の俺には、何よりもありがたく感じられた。


「……美味いな」


 俺が言うと、吉乃は嬉しそうに微笑んだ。


「それは、ようございました」


 しばらく、俺たちは静かに芋を食べていた。


 遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてくる。


 畑の向こうでは、農夫が鍬を振るっている。


 風が吹くたび、柿の葉が小さな音を立てた。


 俺は、その穏やかな時間を、できるだけ長く覚えておきたいと思った。


 だが、やがて吉乃が静かに口を開いた。


「……若殿」


「……何だ」


「先日、戦へお出になったと伺いました」


 俺は、顔を上げた。


「……ああ」


「お怪我は、ございませんでしたか」


「俺は、大丈夫だった」


 吉乃は、ほっとしたように息を吐いた。


「それは、何よりにございます」


 俺は、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「……だが、二人死んだ」


 吉乃の表情が、静かに変わった。


「……そうでございましたか」


「一人は、まだ若かった。昨年、結婚したばかりだったんだ」


 俺は、地面へ視線を落とした。


「もう一人には、六つの息子がいた」


 吉乃は、何も言わずに聞いていた。


「……二人とも、出陣の途中で話をしたんだ。昼飯を食いながら、妻や子どもの話をしていた」


 俺は、膝の上で拳を握った。


「そのときは、二人とも笑っていた」


 吉乃は、静かに頷いた。


「……はい」


「それが、次の日には死んでいた」


 俺は、深く息を吐いた。


「俺の考えた策で勝ったんだ。父上にも褒められた。だが、二人が死んだことを思うと、どうしても喜べない」


 吉乃は、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに言った。


「……若殿は、そのお二人のことを、よく覚えていらっしゃるのですね」


「……ああ」


「ならば、お二人も、若殿とお話しできたことを覚えていらしたと思います」


 俺は、顔を上げた。


 吉乃は、穏やかな表情で続けた。


「若殿が、ご家族のお話を聞いてくださったことも、きっと嬉しかったのではないでしょうか」


 俺は、何も言えなかった。


 平助の笑顔が浮かんだ。


 与三郎の声が蘇った。


 俺は、ゆっくりと頷いた。


「……そうだと、いいな」


 吉乃は、静かに微笑んだ。


「はい」


     *


 しばらくして、吉乃が遠くの子どもたちへ目を向けた。


 村の子どもが三人、畑の脇で追いかけっこをしている。年上の男の子が先頭を走り、その後ろを小さな女の子が追いかけていた。


 女の子は途中で転び、膝を擦りむいたらしい。


 泣き出した彼女のもとへ、年上の男の子が慌てて戻っていく。


 吉乃は、その様子を見ながら、少しだけ微笑んだ。


「……子どもは、元気なものでございますね」


「……そうだな」


 俺は、頷いた。


 平助の妻。


 与三郎の息子。


 弥七の娘。


 戦で夫や父を失った者たちのことが、頭に浮かんだ。


 そして、ふと、別のことを考えた。


 もし、俺と吉乃の間に子どもが生まれたら。


 その子は、どんな顔をしているのだろう。


 吉乃に似て、大きな目をしているのだろうか。


 それとも、俺に似て、妙に落ち着きのない子どもになるのだろうか。


 そんなことを考えているうちに、俺は思わず口を開いていた。


「……吉乃」


「はい」


「……いつか、お前との子が欲しい」


 吉乃の動きが、ぴたりと止まった。


 俺は、そこで初めて、自分が何を言ったのかを理解した。


 しまった。


 何を言っているんだ、俺は。


 まだ、まともに恋仲になってすらいない。


 そもそも、俺には濃姫という正室がいる。


 それなのに、いきなり子どもの話をするなんて、順番がおかしすぎるだろう。


 俺は、慌てて言葉を続けた。


「……いや、その、今すぐという意味ではなくてだな」


 吉乃は、何も言わなかった。


 先ほどまで穏やかに微笑んでいた顔から、笑みが消えている。


 俺は、背筋が冷たくなるのを感じた。


「……吉乃?」


 彼女は、ゆっくりと俺を見た。


「……若殿」


「……はい」


 思わず、敬語になってしまった。


 吉乃は、真剣な表情で尋ねた。


「それは、どのようなおつもりでおっしゃっているのでございましょうか」


 俺は、言葉に詰まった。


「……どのような、とは」


「若殿には、奥方さまがいらっしゃいます」


 吉乃は、静かに言った。


「私のような村の娘に、そのようなお話をなさるということは、側室に迎えるおつもりなのでございましょうか」


 俺は、息を呑んだ。


 そうだ。


 この時代、俺が吉乃との間に子どもを望むということは、ただ好きな相手と家庭を持ちたいという話では済まない。


 彼女の身分も、暮らしも、家族との関係も変わる。


 生まれた子どもが、織田家の中でどのように扱われるのかという問題もある。


 俺は、しばらく黙っていた。


「……そのつもりは、ある」


 ようやく、そう答えた。


 吉乃は、静かに頷いた。


「……そうでございますか」


 だが、彼女の表情は晴れなかった。


「若殿」


「……何だ」


「私は、若殿のお気持ちを疑っているわけではございません」


 吉乃は、膝の上で両手を重ねた。


「ですが、側室になるということは、私一人の問題ではございません」


 俺は、黙って聞いていた。


「私の家族も、若殿のお家も、そして奥方さまも、関わることでございます」


 吉乃は、まっすぐに俺を見つめた。


「何より、もし子どもが生まれたなら、その子は私たちの都合だけで生きていくことはできませぬ」


 俺は、何も言えなかった。


 前の人生で、吉乃は側室になることを拒んだ。


 あのとき、俺は彼女の気持ちを十分に理解していなかった。


 ただ、一緒にいたかった。


 子どもなどいなくてもよいから、そばにいてほしいと願った。


 だが、それは俺の望みでしかなかった。


 俺が死んだあと、吉乃はどうなるのか。


 身分の低い家から迎えられた側室が、子どももなく、後ろ盾もなく残されたとき、誰がその暮らしを守るのか。


 俺は、そのことを考えていなかった。


 そして今、同じように、自分の望みを先に口にしてしまった。


「……すまない」


 俺は、頭を下げた。


 吉乃は、少し驚いたように目を見開いた。


「若殿、そのような」


「いや、俺が悪い」


 俺は、顔を上げた。


「お前の気持ちも聞かずに、勝手なことを言った」


 吉乃は、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに息を吐いた。


「……若殿は、少し不思議なお方でございますね」


「……そうか?」


「はい」


 吉乃は、ほんの少しだけ微笑んだ。


「そのようなことをおっしゃるお立場でありながら、私に謝ってくださるのですから」


 俺は、返す言葉を失った。


 そうだ。


 俺は織田家の若殿だ。


 吉乃は、村の娘だ。


 俺が望めば、彼女の家族に圧力をかけることだってできるのかもしれない。


 だが、そんなことをして手に入れたものを、愛情と呼べるはずがない。


「……吉乃」


「はい」


「俺は、お前に無理をさせたくない」


 俺は、できるだけゆっくりと言葉を選んだ。


「お前が嫌なら、側室にならなくていい。俺の望みを叶えるために、お前の人生を変えてほしいとは思わない」


 吉乃は、静かに俺を見つめていた。


「……本当に、そうお考えでございますか」


「ああ」


 俺は、頷いた。


「お前が自分で選べるようにしたい」


 吉乃は、しばらく何も言わなかった。


 やがて、遠くの畑へ目を向けた。


「……若殿」


「何だ」


「私には、まだ分かりませぬ」


 俺は、頷いた。


「……ああ」


「若殿のお気持ちも、私自身がどうしたいのかも、まだ十分には分かっておりません」


 吉乃は、静かに続けた。


「ですが、もし本当にそのようなことをお考えなのでしたら、どうか奥方さまのお気持ちも、大切になさってくださいませ」


 俺は、息を呑んだ。


 濃姫。


 彼女は、俺の正室だ。


 毎日、俺の稽古を見守り、戦から帰れば迎えてくれる。


 俺が眠れずにいれば、休むようにと声をかけてくれる。


 そして、俺が戦で人を失ったときには、その悲しみを受け止めてくれた。


 そんな彼女に、俺は何を話してきただろう。


 吉乃のことを、どこまで真剣に考えているのか。


 側室を迎えるということが、濃姫にとって何を意味するのか。


 俺は、まだ一度も正面から向き合っていなかった。


「……分かった」


 俺は、静かに答えた。


「濃姫とも、きちんと話す」


 吉乃は、少しだけ微笑んだ。


「それが、よろしいかと存じます」


     *


 しばらくして、吉乃は立ち上がった。


「そろそろ、家へ戻らねばなりませぬ」


「……そうか」


 俺も、立ち上がった。


 遠くでは、十衛門がこちらを見ている。


 おそらく、そろそろ城へ戻る時間だと考えているのだろう。


 俺は、吉乃へ向き直った。


「……今日は、ありがとう」


 吉乃は、少し不思議そうな顔をした。


「何のお礼でございましょうか」


「……話を聞いてくれたことだ」


 吉乃は、静かに微笑んだ。


「私でよろしければ、いつでも」


 俺は、その言葉に胸が温かくなるのを感じた。


 だが、同時に、先ほどの会話が頭に残っていた。


 いつでも。


 そう言ってくれるからといって、彼女の時間を好き勝手に使ってよいわけではない。


 俺は、ゆっくりと頷いた。


「……また、村の様子を見に来る」


「はい。お待ちしております」


 吉乃は、丁寧に頭を下げた。


 俺は、彼女が畑の向こうへ歩いていく姿を見送った。


 その背中が見えなくなるまで、しばらく動くことができなかった。


     *


 城へ戻る道すがら、十衛門が俺に尋ねた。


「……若殿」


「何だ」


「吉乃どのとは、何かお話しになられましたか」


 俺は、少し考えた。


「……子どもの話をした」


 十衛門の馬が、わずかに速度を落とした。


「……子ども、でございますか」


「ああ」


 俺は、深く息を吐いた。


「いつか、吉乃との子が欲しいと言ってしまった」


 十衛門は、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと俺を見た。


「……若殿」


「……何だ」


「順番というものが、ございましょう」


 俺は、思わず顔をしかめた。


「分かっている!」


「分かっておられる方は、まだ恋仲にもなっておらぬ娘に子どもの話などなさいませぬ」


「……返す言葉もない」


 十衛門は、深く息を吐いた。


「吉乃どのは、何とお答えになられましたか」


「……真顔になった」


 十衛門は、しばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「それは、そうでございましょうな」


 俺は、思わず天を仰いだ。


 まったく、そのとおりだ。


「……でも、ちゃんと話せたと思う」


 俺は、少しだけ真面目な声で続けた。


「吉乃がどうしたいのか、俺にはまだ分からない。だから、無理に答えを出させるつもりはない」


 十衛門は、静かに頷いた。


「それがよろしいかと存じます」


「それに、濃姫とも話さなければならない」


 俺がそう言うと、十衛門は少しだけ目を細めた。


「……ようやく、そのことにお気づきになられましたか」


 俺は、苦笑した。


「……遅かったか」


「少々」


 十衛門は、容赦なく答えた。


 俺は、深く息を吐いた。


 まったく、俺の周りには厳しい人間ばかりいる。


 だが、その厳しさが、今の俺にはありがたかった。


     *


 城へ戻った頃には、日が暮れかけていた。


 俺は馬を預け、自室へ向かおうとしたが、廊下の先に濃姫の姿を見つけて足を止めた。


 彼女は侍女と何かを話していたが、俺に気づくと静かに頭を下げた。


「お帰りなさいませ」


「……ただいま」


「村の様子は、いかがでございましたか」


「……変わりなかった。畑も順調らしい」


 濃姫は、安心したように微笑んだ。


「それは、何よりにございます」


 俺は、その顔を見つめた。


 吉乃の言葉が、頭に浮かんだ。


『どうか奥方さまのお気持ちも、大切になさってくださいませ』


 俺は、しばらく黙っていた。


 濃姫は、不思議そうに首を傾げた。


「……信長さま?」


「……濃姫」


「はい」


「今夜、少し話がある」


 濃姫は、静かに俺を見つめた。


「……かしこまりました」


 俺は、ゆっくりと頷いた。


 吉乃を守りたい。


 それは、今も変わらない。


 だが、そのために濃姫を傷つけてよいわけではない。


 俺は、ようやくその当たり前のことに向き合おうとしていた。


     *


 夜、俺は濃姫と向かい合って座っていた。


 部屋には小さな灯りが一つ置かれ、襖の向こうからは庭の虫の声が聞こえている。


 濃姫は、俺が話し始めるのを静かに待っていた。


 俺は、何度か口を開きかけた。


 だが、言葉が出てこない。


 吉乃のことを、どう説明すればよいのだろう。


 俺が彼女を以前から知っていることも、別の人生で愛したことも、濃姫には話していない。


 それなのに、突然側室に迎えたいなどと言えば、どう思われるだろうか。


 俺は、深く息を吸った。


「……濃姫」


「はい」


「……お前に、聞いてほしいことがある」


 濃姫は、静かに頷いた。


「何でございましょうか」


 俺は、彼女の目を見つめた。


「……俺は、吉乃を側室に迎えたいと考えている」


 濃姫の表情が、わずかに変わった。


 だが、驚いて声を上げることも、怒りを露わにすることもなかった。


 ただ、静かに俺を見つめている。


 俺は、言葉を続けた。


「……だが、お前の気持ちを聞かずに決めるつもりはない」


 濃姫は、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「……信長さま」


「……何だ」


「そのお話は、私が嫌だと申し上げれば、おやめになるのでございましょうか」


 俺は、息を呑んだ。


 濃姫は、まっすぐに俺を見つめていた。


 その瞳には、怒りも悲しみも、まだはっきりとは浮かんでいない。


 ただ、俺の答えを待っている。


 俺は、すぐには答えられなかった。


 吉乃を守りたい。


 濃姫も傷つけたくない。


 だが、その二つの願いが、必ずしも同じ方向を向いているとは限らない。


 俺は、ようやく気づいた。


 戦では、敵の動きばかり考えていては勝てない。


 だが、人の心もまた、自分の望みだけを見ていては、何も守れないのだ。


 濃姫は、静かに俺を見つめている。


 俺は、深く息を吸った。


 そして、逃げずに答えようと、口を開いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。