第42話:初めて自分の策で勝ったのに涙が止まらないんだが!?
六十人の兵を率いて城を出たのは、父に策を認められてから二日後のことだった。
夜明け前から城門の内側には出陣の支度を整えた兵たちが集まり、槍の穂先を布で包む者、草鞋の緒を締め直す者、荷駄に積んだ兵糧を数え直す者が、それぞれの仕事に追われていた。馬の鼻息が白く漂うほど朝の空気は冷えており、東の空がようやく薄紫色に変わり始めた頃、俺たちは坂下へ向けて出発した。
今回、父から預かった兵は六十人。
そのうち四十人は以前から俺の指揮下にいた者を中心に編成され、残る二十人は柴田権六勝家の配下から選ばれた兵だった。十衛門は引き続き俺の補佐を務め、佐久間源太には足軽たちの取りまとめを任せている。
前回の坂下で負傷した二人は、城に残した。
二人とも出陣を願い出たが、肩を射られた兵はまだ腕を十分に動かせず、太腿を負傷した兵も長く歩けば傷が痛むという。そんな状態で山道を歩かせれば、本人ばかりか周囲の兵まで危険にさらすことになるため、俺は願いを退けた。
兵の数は多いほうがよい。
だが、ただ人数を揃えればよいというものでもないことを、俺はようやく理解し始めていた。
「若殿」
隣を進む十衛門が、馬上の俺を見た。
「昨夜は、よくお休みになられましたか」
「……三刻ほどは寝たと思う」
「それは、十分とは申せませぬな」
「一昨日よりは寝ているぞ」
「比べる相手が間違っております」
俺は、思わず苦笑した。
十衛門は、俺が眠れないことを心配しているらしい。もっとも、その言い方は相変わらず厳しく、心配されているというより叱られている気分になる。
「……六十人だからな」
俺は、前方を歩く兵たちへ目を向けた。
「前回の倍だ。もし俺が判断を間違えたら、それだけ多くの者を危険にさらすことになる」
十衛門は、しばらく黙っていた。
「若殿」
「何だ」
「兵は、若殿お一人で戦うためにいるのではございませぬ。我らにも、それぞれの役目がございます」
俺は、顔を上げた。
「……ああ」
「若殿は、我らをお使いくだされ。何もかもお一人でなさろうとすれば、かえって兵が困ります」
俺は、ゆっくりと頷いた。
六十人を預かるということは、六十人分の仕事を自分で背負うことではない。
それぞれの経験や能力を生かし、同じ目的に向かって動けるようにすることなのだろう。
頭では、分かっている。
だが、実際にそれができるかどうかは、また別の話だった。
*
昼餉のために兵を休ませたのは、坂下へ続く街道の途中、小さな社のある林のそばだった。
道端には荷駄を繋ぐのに都合のよい木が数本あり、近くを流れる細い沢では馬に水を飲ませることもできた。兵たちは思い思いに腰を下ろし、持参した握り飯や干した芋を取り出している。
俺も馬から降り、十衛門とともに木陰へ向かったが、少し離れたところで二人の兵が何やら言い争っているのが聞こえた。
「だから、お前は食うのが早すぎるのだ」
「腹が減っておるのだから仕方なかろう」
「少しは味わえ。せっかく女房が握ってくれたのであろう」
「お前のように、一口ごとに女房の顔を思い浮かべたりはせぬわ」
俺は、思わず足を止めた。
二人とも、今回俺が預かった兵だった。
一人は二十歳そこそこの若い男で、頬にまだ少年のような丸みが残っている。もう一人は三十代半ばほどで、日に焼けた顔に薄い髭を生やし、腰には弓を置いていた。
「……何の話だ?」
俺が声をかけると、二人は驚いて立ち上がろうとした。
「若殿!」
「いや、座っていてくれ。食事中だろう」
俺がそう言うと、若い男は恐縮したように頭を下げ、年上の男は膝の上の握り飯を慌てて布で覆った。
「……名前は?」
「平助にございます!」
若い男が答えた。
「与三郎と申します」
年上の男も頭を下げる。
俺は、二人の顔を見比べた。
「さっき、女房がどうとか言っていなかったか」
平助は、途端に困ったような顔をした。
「それが、与三郎殿がうるそうございまして」
「うるさいとは何だ。お前が握り飯を丸呑みするように食うから、注意してやったのであろう」
与三郎は真面目な顔で言った。
俺は、思わず笑った。
「そんなに早く食うのか」
「はい。昔からの癖にございます」
平助は、少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「家では兄弟が多うございまして、のんびり食べておりますと、残りを取られてしまうのでございます」
「……なるほど」
俺は、妙に納得した。
大家族の食卓というのは、時代が違っても大変らしい。
「だが、今は女房が握ってくれるのだから、少しはゆっくり食えばよかろう」
与三郎が言うと、平助は顔を赤くした。
「まだ、慣れぬのでございます」
「何がだ?」
俺が尋ねると、平助は少し俯いた。
「昨年、所帯を持ったばかりでございまして。朝、起きると飯が用意されておるのが、何とも不思議で」
俺は、思わず微笑んだ。
「いい奥方なんだな」
「はい!」
平助は、嬉しそうに頷いた。
その返事があまりにも素直だったので、与三郎が声を立てて笑った。
「若殿、こやつは女房の話になると、いつもこうなのでございます」
「与三郎殿こそ、息子の話ばかりではございませぬか!」
「息子の話はよいのだ」
「何が違うのでございます!」
俺は、二人のやり取りを聞きながら、思わず笑ってしまった。
与三郎には、六歳になる息子がいるらしい。
最近は木の枝を槍に見立て、庭で武士の真似をして遊んでいるという。
「弓には興味を示さぬのか?」
俺が尋ねると、与三郎は苦笑した。
「それが、弓は難しいと申しまして。私が教えようとしても、すぐに飽きてしまうのでございます」
「まだ六つだろう」
「はい。ですが、槍を持たせると、朝から日暮れまで振り回しております」
与三郎は、呆れたように言った。
だが、その表情はどこか嬉しそうだった。
「将来は、父親のような武士になりたいのかもしれないな」
俺が言うと、与三郎は少しだけ黙った。
「……どうでございましょうな」
そして、穏やかに笑った。
「私は、あやつが腹いっぱい飯を食い、丈夫に育ってくれれば、それで十分にございます」
俺は、しばらく与三郎を見つめた。
武士として名を上げることでも、立派な手柄を立てることでもない。
息子が腹いっぱい飯を食べられること。
それが、この男の望みなのだ。
「……そうか」
俺は、小さく頷いた。
その横で、平助が最後の握り飯を口へ運んだ。
与三郎が、それを見て顔をしかめる。
「だから、もう少しゆっくり食えと申しておる!」
「もう食べてしまいました!」
「まったく、お前という奴は」
俺は、再び笑った。
戦へ向かう途中だというのに、二人の会話は驚くほど他愛なかった。
だが、そんな時間があってもよいのだと思った。
兵たちは、戦うためだけに生きているわけではない。
家に帰れば妻がいて、子どもがいて、食事をしながら笑う時間がある。
俺は、その当たり前のことを忘れないようにしようと思いながら、二人に別れを告げた。
*
坂下へ到着したのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
集落の家々は以前と変わらず街道沿いに並んでいたが、人影は少なく、茶を売っていた小屋も戸を閉ざしていた。俺たちが退いたあと、東から来る商人はほとんど途絶え、住民たちも必要がなければ外へ出なくなったという。
村の年寄りが出迎えに現れ、深く頭を下げた。
「若殿、ようお戻りくださいました」
「村の者に、怪我人は出ていないか」
「今のところは。ただ、東の道を通る者がなくなりまして、皆、困っております」
俺は頷いた。
敵を討ち取ることだけが目的ではない。
この道を通って物が運ばれ、人々が普段どおり暮らせるようにすることが、俺たちの役目なのだ。
俺は十衛門と源太を呼び、あらかじめ考えていた配置を確認した。
橋の西側には十五人を置き、坂下の集落と本隊の兵糧を守らせる。上流の浅瀬には二人ずつ交代で物見を置き、敵が渡ってくる様子があればすぐに知らせることにした。
残りの兵は、街道の東側へ進ませる。
ただし、全員を一度に動かすわけではない。
俺たちの策は、敵に荷駄を襲わせ、その動きを確かめたうえで、こちらが有利な場所へ誘い込むことだった。
前回は、敵が用意した場所へ俺たちが入り込んだ。
今度は、その逆を試みるのである。
もっとも、言葉にすれば簡単だが、実際には不安だらけだった。
敵が囮を見破れば、それで終わりだ。
こちらの伏兵が見つかれば、逆に襲われるかもしれない。
そもそも、敵が本当に出てくる保証すらない。
俺は地図を広げ、何度も兵の配置を確かめた。
「……十衛門」
「はっ」
「本当に、うまくいくと思うか」
十衛門は、少し考えてから答えた。
「うまくいくかどうかは、敵次第にございます」
「そうだよな」
「ですが、若殿」
十衛門は、地図の西側を指した。
「今回は、退く道を先に決めておられます。それだけでも、前回とは違います」
俺は、ゆっくりと頷いた。
そうだ。
今回は、敵を倒す方法だけでなく、失敗したときにどう逃げるかも考えてある。
それが、今の俺にできる精一杯だった。
*
夜になると、俺は陣の周囲を見回った。
兵たちは火を囲んで食事をしたり、草鞋を直したり、槍の穂先を確かめたりしていた。明日は敵が現れるかもしれないという緊張感があるものの、昼間に比べれば、皆どこか落ち着いているように見える。
陣の端では、与三郎が一人で弓の弦を確かめていた。
昼間は平助をからかって笑っていた男だったが、今は黙々と手を動かしており、その横顔には年相応の落ち着きがあった。
「まだ起きていたのか」
俺が声をかけると、与三郎は手を止めた。
「若殿。明日は弓を使うやもしれませぬゆえ、確かめておりました」
「そうか」
俺は、隣へ腰を下ろした。
与三郎は少し驚いたようだったが、すぐに弓へ視線を戻した。
「……怖くはないのか」
俺が尋ねると、与三郎は手を止めた。
「怖うございますよ」
あまりにもあっさりと答えたので、俺は思わず顔を上げた。
「……そうなのか」
「はい。妻も子もおりますゆえ、死ぬわけにはまいりませぬ」
与三郎は、弓の弦を指で軽く弾いた。
「ですが、怖いからこそ、こうして備えるのでございます」
俺は、その言葉を胸の中で繰り返した。
怖いから、備える。
父や十衛門から何度も教えられてきたことだったが、与三郎の口から聞くと、また違った重みがあった。
「……必ず帰ってくれ」
俺が言いかけると、与三郎は穏やかに笑った。
「若殿も、どうかご無事で」
俺は、そこで言葉を止めた。
弥七にも、同じことを言った。
必ず帰れ、と。
だが、弥七は帰らなかった。
俺は、少し考えてから言い直した。
「……皆で帰れるように、俺もできる限りのことをする」
与三郎は、深く頭を下げた。
「頼りにしております」
俺は、その言葉を聞きながら、夜空を見上げた。
明日は、戦になるかもしれない。
だが、できれば誰も死なせたくない。
そう願うことくらいは、許されるだろうと思った。
*
翌朝、俺たちは囮の荷駄を街道へ出した。
馬は二頭。
積んでいるのは藁を詰めた俵と、石を少し入れて重さを調整した木箱だった。遠目には米や布を運んでいるように見えるが、奪われても兵糧を失うことはない。
馬を引くのは、商人の着物を着た兵二人。
その周囲には、護衛を装った兵四人を歩かせた。
彼らには、敵が現れても無理に戦わず、あらかじめ決めた場所まで退くよう命じてある。
俺は、街道の北側にある低い丘の陰から、その様子を見守っていた。
ここは、前回の伏兵が隠れていた斜面よりも西に位置しており、街道を見下ろせる一方、林の中からは姿を見つけにくい場所だった。
十衛門は俺の隣にいる。
源太は、別の兵たちを率いて南側の林に潜んでいた。
平助は源太の指揮する槍兵の一人として南側に配置され、与三郎は弓兵たちとともに、その少し後ろの木陰で待機している。
ただし、敵を完全に囲むつもりはない。
退路を塞げば、追い詰められた敵が死に物狂いで反撃してくる恐れがある。
俺たちの目的は、敵を街道から追い払い、荷駄を守ることだ。
だから、敵が東へ逃げる道は残しておくことにした。
その判断について、源太は最初、不満そうだった。
「若殿、敵を逃がしてよろしいのでございますか」
そう尋ねられたとき、俺は答えた。
「逃げてくれるなら、それでいい」
源太は、少しだけ眉を寄せた。
「しかし、また戻ってくるやもしれませぬ」
「そのときは、また考える」
俺は、地図を指した。
「ここで無理に追い詰めて、こちらの兵を失うほうが困る」
源太は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
そのときの彼の表情は、以前よりも少しだけ柔らかく見えた。
*
昼近くになっても、敵は現れなかった。
囮の荷駄は、街道をゆっくりと進んでいる。
馬の首につけられた鈴が、乾いた音を立てていた。
俺は、木陰に身を潜めながら、何度も東の林へ目を向けた。
鳥の声が聞こえる。
風が木々を揺らしている。
だが、人の動きは見えない。
「……十衛門」
「はっ」
「敵は、出てこないのかもしれないな」
「その可能性もございます」
俺は、少しだけ息を吐いた。
もし敵が出てこなければ、それはそれでよい。
荷駄が無事に通れるなら、街道を守るという目的は果たせる。
そう考えようとしていた。
だが、そのときだった。
東の林の奥で、何かが動いた。
俺は、目を凝らした。
木々の間から、槍を持った男たちが現れたのである。
十人。
いや、もっといる。
男たちは、街道へ出る前に一度立ち止まり、周囲を確かめているようだった。
俺は、思わず息を呑んだ。
「……来た」
十衛門も、静かに頷いた。
「左様にございますな」
俺は、近くにいた兵へ合図を送った。
兵は、あらかじめ決めていたように、布を巻いた短い棒を高く掲げた。
それを見た南側の林の兵が、さらに奥へ合図を伝える。
声を出せば敵に気づかれる恐れがあるため、見通しの利く場所ではこうして合図を送ることにしていた。
俺は、槍を握り直した。
手のひらに、汗が滲んでいる。
怖い。
だが、今はまだ動くときではない。
俺は、東の林を見つめた。
*
敵は、二十人ほどだった。
槍を持った者が多く、弓兵も数人いる。
彼らは、囮の荷駄が街道の曲がり角へ近づくのを待ってから、一斉に姿を現した。
「止まれ!」
敵の一人が叫んだ。
商人に扮した兵たちは、驚いたふりをして立ち止まった。
敵は、荷駄へ近づいてくる。
俺は、息を殺した。
まだだ。
もう少し。
敵が、こちらの決めた場所まで進んでくるのを待つ。
だが、敵は思ったよりも慎重だった。
先頭の男が、荷駄から少し離れた場所で足を止め、周囲の林を見渡したのである。
俺は、背筋が冷たくなるのを感じた。
見つかったか。
そう思った瞬間、男が何かを叫んだ。
敵兵たちが、急に散らばり始める。
「……十衛門!」
俺は、小声で叫んだ。
「気づかれたかもしれない!」
十衛門は、すぐに頷いた。
「そのようでございますな」
俺は、必死に考えた。
ここで待ち続ければ、敵が逃げるかもしれない。
だが、敵が伏兵に気づいたのなら、こちらが襲われる可能性もある。
俺は、深く息を吸った。
「……合図を出す」
十衛門が、俺を見た。
「よろしいのでございますか」
「ああ」
俺は、頷いた。
「敵が散らばる前に、こちらから動く」
十衛門は、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
俺は、兵へ合図を送った。
次の瞬間、南側の林から源太たちが姿を現した。
*
「かかれ!」
源太の声が響いた。
槍を持った兵たちが、南側の林から街道へ進み出る。
同時に、俺たちも北側の丘から下り始めた。
敵兵たちは、突然現れた織田方の兵を見て、慌てて槍を構えた。
だが、すぐには崩れなかった。
敵の中にも、戦い慣れた者がいるのだろう。
先頭の男が大声で指示を出し、槍兵たちが横に並んでこちらを迎え撃とうとしていた。
俺は、その様子を見て、胸の奥が冷たくなった。
敵も、ただ逃げるだけではない。
戦うつもりだ。
「……十衛門!」
「はっ!」
「無理に追い込むな! 東へ逃げる道は残せ!」
十衛門は、すぐに兵たちへ命令を伝えた。
俺たちは、敵を三方から囲むのではなく、北と南から圧力をかける形で進んだ。
街道の東側には、まだ逃げ道がある。
敵がそこへ退いてくれれば、こちらは無理に追わずに済む。
だが、敵は簡単には退かなかった。
弓兵が矢を放ち、こちらの兵が一人、肩を射られて倒れた。
「負傷者を下げろ!」
俺が叫ぶと、近くの兵が倒れた男を支え、林の奥へ運んでいった。
その間にも、槍兵たちは敵とぶつかっている。
金属が触れ合う音。
怒号。
土を踏み荒らす足音。
俺は、馬を降りて槍を構えた。
だが、十衛門が俺の前へ出た。
「若殿、ここは私が!」
「……分かった!」
俺は、無理に前へ出ることをやめた。
以前の俺なら、兵たちと一緒に戦わなければならないと思ったかもしれない。
だが、今は違う。
俺が前へ出て倒れれば、兵たちは誰の命令に従えばよいのか分からなくなる。
それに、俺より槍の上手い者は、いくらでもいる。
俺の仕事は、目の前の敵を一人倒すことではない。
全体を見て、必要な命令を出すことだ。
俺は、必死に周囲を見渡した。
*
戦いは、思っていたよりも長引いた。
敵は二十人ほどだったが、街道の東側からさらに十人ほどが現れ、こちらの兵へ矢を射かけてきた。
俺は、背筋が冷たくなるのを感じた。
やはり、敵は見えていた人数だけではなかった。
だが、今回はそれを考えていた。
俺は、後方に控えさせていた弓兵たちへ合図を送った。
「弓兵を前へ!」
織田方の弓兵たちが、林の陰から矢を放った。
与三郎の姿も、その中にあった。
彼は片膝をついて弓を構え、敵の動きを確かめながら矢を放っていた。昼間、息子の話をして笑っていたときとはまるで違う、険しい表情をしている。
敵の弓兵が、慌てて身を伏せる。
その隙に、源太たちが少しずつ前へ進んだ。
俺は、周囲を見渡した。
敵は、東へ退き始めている。
だが、まだ何人かが踏みとどまり、こちらの兵と槍を交えていた。
そのとき、一人の敵兵が、源太のすぐ前へ飛び出した。
槍が突き出される。
源太は、それを横へ払った。
だが、敵兵はさらに踏み込み、短い刀を抜いた。
「源太!」
俺は、思わず叫んだ。
次の瞬間、源太の隣にいた若い兵が、敵兵へ槍を突き出した。
平助だった。
彼の槍が敵兵の胴を捉え、男が体勢を崩す。
だが、平助が槍を引き戻そうとしたその瞬間、別の敵兵が横から踏み込み、槍を突き立てた。
穂先が、平助の脇腹へ深く入った。
俺は、息を呑んだ。
平助は、驚いたように自分の脇腹へ目を落とした。
そして、膝から崩れ落ちた。
「……平助!」
源太が叫んだ。
俺も、思わず駆け寄ろうとした。
だが、十衛門が俺の肩を掴んだ。
「若殿!」
「……だが!」
「今は、兵を動かすことが先にございます!」
俺は、歯を食いしばった。
分かっている。
分かっているのに、体が動きそうになる。
俺は、拳を握った。
「……源太! 無理に追うな! 敵を東へ退かせろ!」
源太は、こちらを振り返った。
そして、大きく頷いた。
「承知!」
平助は、仲間の兵たちによって後方へ運ばれていった。
俺は、その姿を見送ることしかできなかった。
*
戦いは、まだ終わらなかった。
敵は少しずつ東へ退いていたが、林の奥から矢を放ち、こちらの兵が近づけないようにしていた。
俺は、弓兵たちへ敵の動きを抑えるよう命じた。
与三郎は、ほかの弓兵たちとともに前へ出て、林の陰から矢を放っていた。
だが、敵の弓兵もこちらの位置を確かめたらしい。
木々の間から、数本の矢が飛んできた。
「伏せろ!」
誰かが叫んだ。
兵たちが、慌てて身を低くする。
そのとき、与三郎の体が大きく揺れた。
俺は、目を見開いた。
彼の胸元に、一本の矢が突き刺さっていた。
与三郎は、弓を握ったまま数歩よろめき、近くの木へ背中を預けるようにして座り込んだ。
「……与三郎!」
俺は、思わず叫んだ。
近くにいた兵が駆け寄り、彼の体を支えた。
俺も、そこへ向かおうとした。
だが、十衛門が再び俺の前へ出た。
「若殿! まだ敵がおります!」
「……分かっている!」
俺は、歯を食いしばった。
分かっている。
今、俺が前へ出れば、兵たちの指揮が乱れる。
だが、与三郎が倒れた。
昼間、息子の話をしていた男が。
昨夜、怖いからこそ備えるのだと話していた男が。
俺は、槍を握りしめた。
そのとき、東の林から敵の撤退を告げる声が響いた。
敵兵たちが、次々と姿を消していく。
俺は、深く息を吸った。
「……追うな!」
俺は叫んだ。
「街道を守れ! 敵を深追いするな!」
兵たちは、俺の命令に従った。
敵は、東の林へ退いていく。
俺は、その姿が見えなくなるまで、槍を握りしめていた。
やがて、街道に静けさが戻った。
風が木々を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
勝った。
少なくとも、敵を街道から追い払うことはできた。
だが、その喜びは、胸の中へ湧き上がってこなかった。
*
戦いが終わると、俺たちは負傷者を集め、死者の数を確かめた。
織田方の死者は、二人。
重傷者が三人。
軽傷者が五人。
敵は三人の遺体を残して退いていた。
俺は、その報告を聞きながら、しばらく動けなかった。
二人。
たった二人、と言う者もいるのかもしれない。
六十人で出陣し、二人の死者で敵を退けたのなら、戦としては悪くない結果なのだろう。
だが、俺には、そう思えなかった。
死んだ二人の名前を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
平助。
与三郎。
俺は、二人の遺体が安置されている場所へ向かった。
平助は、腹に巻かれた布を赤く染めたまま、静かに横たわっていた。
まだ二十一歳だった。
昨年、妻を迎えたばかりだという。
昼間、握り飯を頬張りながら、朝起きると飯が用意されているのが不思議なのだと笑っていた。
あの笑顔が、頭に浮かんだ。
俺は、平助の顔を見つめた。
もう、笑わない。
もう、握り飯を食べることもない。
家に帰っても、妻が用意した飯を食べることはできない。
俺は、唇を噛んだ。
隣には、与三郎が横たわっていた。
三十四歳。
妻と、六歳の息子がいる。
俺は、彼の顔を見つめた。
昨夜、弓の弦を確かめていた姿が浮かんだ。
怖いからこそ、備える。
そう言っていた。
妻も子もいるから、死ぬわけにはいかないと。
だが、与三郎は死んだ。
俺は、ゆっくりと膝をついた。
彼の息子は、まだ六歳だ。
木の枝を槍に見立て、庭で武士の真似をして遊んでいるという。
与三郎は、その話をするとき、少しだけ嬉しそうだった。
そして、こう言った。
『私は、あやつが腹いっぱい飯を食い、丈夫に育ってくれれば、それで十分にございます』
俺は、目を閉じた。
息子が腹いっぱい飯を食べられること。
ただ、それだけを望んでいた男が、もう帰らない。
俺は、拳を握った。
勝ったはずなのに。
街道を取り戻したはずなのに。
どうして、こんなにも苦しいのだろう。
*
夕方、俺たちは坂下の集落へ戻った。
橋の西側では、残してきた兵たちが俺たちの帰還を待っていた。
俺は、彼らに敵を退けたことを伝えた。
兵たちの間から、安堵の声が上がる。
だが、死者が二人出たことを知ると、その声はすぐに静まった。
俺は、深く息を吐いた。
勝った。
それは、事実だ。
敵は街道から退き、囮の荷駄も無事だった。
商人たちが通れるようになれば、父から命じられた仕事を果たしたことになる。
だが、そのために二人が死んだ。
俺は、地図を見つめた。
どこかに、もっとよい方法があったのではないか。
敵を襲わせずに、街道を守る方法はなかったのか。
兵の配置を変えていれば、平助も与三郎も死なずに済んだのではないか。
考え始めると、きりがなかった。
「……若殿」
十衛門が、隣へ来た。
「……何だ」
「本日は、勝ちにございます」
俺は、顔を上げた。
「……分かっている」
「敵を退け、街道を取り戻しました。若殿の策が、功を奏したのでございます」
俺は、黙っていた。
十衛門は、少しだけ声を落とした。
「……ですが、死者が出ました」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
「戦とは、そういうものでございます」
俺は、唇を噛んだ。
そういうもの。
確かに、そうなのだろう。
だが、だからといって、簡単に納得できるわけではない。
「……十衛門」
「はっ」
「……俺は、勝ったのか」
十衛門は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、静かに答えた。
「はい」
俺は、顔を伏せた。
「……なのに、嬉しくない」
十衛門は、何も言わなかった。
俺は、拳を握った。
「……平助は、まだ所帯を持ったばかりだった」
十衛門は、静かに頷いた。
「……左様にございます」
「与三郎には、六つの息子がいるんだ」
俺は、声を詰まらせた。
「……あいつ、息子が腹いっぱい飯を食えれば、それでいいって言ってた」
十衛門は、黙っていた。
「……俺の策で、二人死んだ」
十衛門は、静かに頷いた。
「左様にございます」
俺は、しばらく黙っていた。
やがて、頬を何かが伝った。
俺は、驚いて手を当てた。
涙だった。
自分でも、なぜ泣いているのか分からなかった。
怖かったからなのか。
悔しかったからなのか。
それとも、ようやく戦が終わった安心からなのか。
分からない。
ただ、涙が止まらなかった。
*
十衛門は、俺が泣いている間、何も言わなかった。
ただ、少し離れた場所に立ち、兵たちが近づいてこないようにしてくれていた。
俺は、しばらくしてから顔を上げた。
「……すまない」
十衛門は、首を振った。
「謝ることではございませぬ」
「……情けないだろう」
「いいえ」
十衛門は、静かに答えた。
「若殿は、今日、初めてご自身の策で勝たれました」
俺は、黙って聞いていた。
「そして、その勝ちに二人の命が必要だったことを、知っておられます」
俺は、唇を噛んだ。
「……ああ」
「それを忘れぬことが、大切にございます」
俺は、ゆっくりと頷いた。
忘れない。
平助の名前も。
与三郎の名前も。
彼らが、どんな家族を残して死んだのかも。
俺は、忘れない。
だが、忘れないだけで、何かが変わるのだろうか。
その答えは、まだ分からなかった。
*
翌朝、俺たちは街道の安全を確かめた。
物見を東へ出し、敵が戻ってきていないことを確認する。
北の山道にも兵を送り、砦へ続く道を見張らせた。
敵が完全に退いたわけではない。
だが、少なくとも今は、街道へ出てくる様子はなかった。
俺は、坂下の橋の上に立ち、川の流れを見つめた。
水は、昨日と変わらず流れている。
鳥も鳴いている。
村人たちは、少しずつ家から出てきている。
何も変わっていないように見える。
だが、二人の命が失われた。
そのことだけは、決して元に戻らない。
「……若殿」
源太が、隣へ来た。
「……何だ」
「平助のこと、ありがとうございました」
俺は、顔を上げた。
「……どういうことだ」
「平助は、私を助けようとして討たれました」
源太は、深く頭を下げた。
「若殿が、あの場で深追いを禁じてくださったおかげで、ほかの者たちは無事に戻ることができました」
俺は、黙っていた。
源太は続けた。
「私は、若殿が退くとお決めになったとき、臆病ではないかと思いました」
俺は、顔を上げた。
「……ああ」
「ですが、今は違います」
源太は、俺を見つめた。
「若殿は、兵を生かすために退かれたのでございますな」
俺は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……そうだ」
源太は、深く頭を下げた。
「これからも、お供いたします」
俺は、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
「……ありがとう」
それだけ答えた。
*
城へ戻ったのは、その翌日の夕方だった。
父への報告では、俺は戦の経過を一つずつ説明した。
囮の荷駄を使ったこと。
敵が現れたこと。
伏兵を出し、敵を東へ退かせたこと。
そして、死者が二人出たこと。
父は、最後まで黙って聞いていた。
やがて、低い声で言った。
「……よくやった」
俺は、顔を上げた。
「……父上」
「街道を取り戻した。敵も退けた。お前の策は、間違っておらぬ」
俺は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
父は、少しだけ目を細めた。
「だが、死者が出たな」
「……はい」
「その二人の名は」
俺は、顔を上げた。
「……平助と、与三郎にございます」
父は、静かに頷いた。
「忘れるな」
俺は、深く頭を下げた。
「……はい」
父は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、低い声で続けた。
「だが、死者のことばかり考えて、生きている者を見失うな」
俺は、息を呑んだ。
初陣のあとにも、父は同じようなことを言った。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました」
*
広間を出ると、濃姫が廊下で待っていた。
俺の姿を見ると、彼女は静かに頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
「……ただいま」
濃姫は、俺の顔を見つめた。
「勝たれたと伺いました」
「……ああ」
俺は、頷いた。
「……勝った」
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「それは、何よりにございます」
俺は、苦笑した。
「……でも、二人死んだ」
濃姫の表情が、少しだけ曇った。
「そうでございましたか」
「俺の策で、二人死んだ」
俺は、顔を伏せた。
濃姫は、しばらく黙っていた。
それから、静かに俺の手を取った。
「信長さま」
「……何だ」
「その二人の方々は、信長さまのために戦われたのでございましょう」
俺は、頷いた。
「……ああ」
「ならば、信長さまがこれから立派な殿になられることが、何よりの供養になるのではございませんか」
俺は、顔を上げた。
濃姫は、まっすぐに俺を見つめていた。
「亡くなられた方々の命を、無駄になさらぬことです」
俺は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「今夜は、ゆっくりお休みくださいませ」
俺は、苦笑した。
「……また、それか」
「信長さまは、眠らずに考えすぎなのでございます」
俺は、思わず笑った。
確かに、そうかもしれない。
*
その夜、俺は自室で一人、書付を広げていた。
そこには、今回の戦で死んだ二人の名前が書かれている。
平助。
与三郎。
俺は、筆を取り、二人の名前の横に家族のことを書き加えた。
平助には、昨年迎えたばかりの妻がいる。
与三郎には、妻と六歳の息子がいる。
俺は、しばらくその文字を見つめていた。
弥七の妻と娘の顔が、頭に浮かんだ。
あのとき、俺は弥七に「必ず帰れ」と言った。
だが、弥七は帰らなかった。
そして、今回も二人が帰らなかった。
俺は、深く息を吐いた。
昼間、平助は握り飯を頬張りながら笑っていた。
与三郎は、息子の話をしていた。
どちらも、ほんの数時間前まで生きていたのだ。
俺は、筆を置いた。
窓の外には、月が浮かんでいた。
静かな夜だった。
俺は、しばらく月を見つめていた。
吉乃に、会いたいと思った。
彼女の顔を見れば、少しは気持ちが落ち着くかもしれない。
だが、今の俺は、彼女に何を話せばよいのか分からなかった。
勝ったことを、喜んでほしいのか。
二人が死んだことを、慰めてほしいのか。
それとも、ただ、何も言わずにそばにいてほしいのか。
分からない。
俺は、静かに目を閉じた。
吉乃は、以前、死は避けられないと言った。
だが、だからといって、生きている者まで不幸になってはいけないとも言った。
俺は、その言葉を思い出していた。
平助も、与三郎も、もう戻らない。
だが、俺は生きている。
そして、まだ守らなければならない者たちがいる。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
明日になれば、また考えることができる。
もっとよい策を。
もっと多くの者を生かす方法を。
そして、いつか。
吉乃を、今度こそ守り抜く方法を。
俺は、書付を畳み、灯りを消した。
暗闇の中で、しばらく目を閉じていたが、やがて静かに涙が頬を伝った。
初めて、自分の策で勝った。
それなのに、涙はなかなか止まらなかった。




