↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/63

第41話:勝つための策を考えていたら寝れなくなったんだが!?

 坂下から退いて三日が過ぎた頃、俺はようやく、自分が何に負けたのかを理解し始めていた。


 敵の兵が強かったからでも、こちらの人数が少なかったからでもない。もちろん、それらも無関係ではなかったが、最大の原因は、俺が街道を一本の道としてしか見ていなかったことにあった。


 坂下の橋を守り、その東に現れた敵を警戒していれば、商人たちが安全に通行できるようになる。そんな単純な考えで、俺は三十人の兵を率いて出発したのである。


 ところが実際には、街道の北には薪を運ぶ山道があり、南には村々を結ぶ畦道があり、川には橋だけでなく浅瀬もあった。敵はそれらを利用して俺たちの注意を東へ引きつけ、その間に西側の補給路を襲った。


 つまり俺は、目の前に現れた敵と戦うことばかり考え、敵が何を欲しがっているのかを考えていなかったのだ。


 そのことに気づいたのはよかった。


 問題は、気づいたところで、次にどうすればいいのか分からないことだった。


「……十衛門」


「何でございましょう」


「戦って、難しいな」


 庭先で槍の稽古を終えた俺がそう言うと、十衛門は手拭いで汗を拭いながら、何とも言えない顔をした。


「今さらでございますか」


「今さらだよ」


 俺は、素直に認めた。


 現代にいた頃、戦国時代の合戦について書かれた本を読んだことはある。織田信長が桶狭間で今川義元を破った話も、長篠で鉄砲を使った話も知っていたし、戦国武将を題材にしたゲームなら何度も遊んだ。


 だが、ゲームでは兵糧の残りが数字で表示され、敵の位置も地図を見ればある程度分かる。兵を動かすときに、雨でぬかるんだ道を歩けるかどうかや、傷を負った者をどう運ぶかまで考える必要はなかった。


 何より、画面の中で兵が減っても、その兵に妻や子どもがいるとは考えなかった。


 俺は槍を置き、縁側に腰を下ろした。


「……父上は、次の策を考えろとおっしゃった」


「左様にございますな」


「だから考えているんだが、考えれば考えるほど、何もできなくなる」


 十衛門は、俺の隣には座らず、庭に立ったまま答えた。


「それは、若殿が以前より多くのことをご覧になっているからでございましょう」


「……褒めているのか」


「半分ほどは」


「残り半分は?」


「考えるばかりでは、敵は退いてくれませぬ」


 俺は、思わず苦笑した。


 相変わらず、容赦のない男である。


     *


 その日の昼過ぎ、父に呼ばれた俺は、十衛門を伴って広間へ向かった。


 すでに柴田権六勝家と数人の家臣が集まっており、部屋の中央には坂下周辺の地図が広げられていた。以前、俺が持っていた簡単な地図とは違い、村の位置や川の流れだけでなく、丘の尾根や山道の分岐まで細かく書き込まれている。


 父は俺の顔を見ると、挨拶もそこそこに地図を指した。


「信長。坂下の様子が分かったぞ」


 俺は、すぐに膝を進めた。


「……敵は、まだおりますか」


「おる。ただし、前と同じ場所ではない」


 父の説明によれば、坂下の東に現れた武装集団は、今川方に近い地侍たちの手勢である可能性が高く、街道を通る荷駄から物資を奪い、北の丘陵にある小さな砦へ運び込んでいるらしい。


 もっとも、今川家から直接命令を受けている証拠はなく、近隣の地侍が独断で動いている可能性もあるという。


「……砦、でございますか」


「うむ。古い山城の跡を使っておるらしい。大した構えではないが、道が狭く、攻めるには厄介な場所だ」


 勝家が、太い指で地図の北東を示した。


「敵はここから山道を下り、街道へ出ているようにございます。先日の荷駄襲撃も、この者どもの仕業でありましょう」


 俺は、地図を見つめた。


 坂下の橋から北東へ進んだ先に、細長い丘がある。


 その頂上付近には古い砦があり、南側の斜面には林が広がっている。西側には谷があり、そこを抜ける細い道が、例の補給路へ繋がっていた。


 なるほど。


 敵は、坂下の街道だけを使っていたわけではない。


 丘の上を拠点にして、必要に応じて南や西へ出ていたのだ。


「……父上」


「何だ」


「敵は、どれほどの人数なのでしょうか」


 父は、勝家へ視線を向けた。


「物見の報告では、砦に三十から四十。周辺を動いている者を合わせれば、五十を超えるやもしれませぬ。ただし、同じ者を重ねて数えている恐れもございます」


 俺は、頷いた。


 五十人前後。


 俺が預かった三十人よりも多い。


 しかも、敵は地形をよく知っている。


 正面から砦を攻めれば、相当な損害が出るだろう。


「……父上は、砦を攻めるおつもりですか」


 俺が尋ねると、父は首を振った。


「砦そのものに用はない。街道を通れるようにすることが先だ」


 その言葉に、俺は顔を上げた。


 父は続けた。


「敵を皆殺しにする必要はない。荷を奪っても割に合わぬと思わせればよい。だが、ただ兵を置くだけでは、また別の道から襲われる」


 俺は、地図へ目を落とした。


 確かに、そうだ。


 前回の失敗が、そのまま証明になっている。


「……そこで、お前に考えさせたい」


 父は、俺を見た。


「次に坂下へ兵を出すなら、どうする」


 俺は、思わず背筋を伸ばした。


 また、俺に考えさせるのか。


 いや、当然か。


 父は、俺を戦のできる人間に育てようとしている。


 だが、そう簡単に答えが出るなら、前回あんな失敗はしていない。


「……少し、お時間をいただけますか」


 俺がそう答えると、父は小さく頷いた。


「明日の夕刻までに考えよ」


 俺は、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 そして、その瞬間から、俺の眠れない一日が始まった。


     *


 広間を出た俺は、十衛門とともに自室へ戻り、地図を広げた。


 まず考えたのは、前回のように橋を守るのではなく、敵の拠点である砦を直接攻める方法だった。


 だが、地図を見れば見るほど、無理がある。


 砦へ続く道は狭く、斜面には木々が生い茂っている。敵が上から矢を射れば、こちらは身を隠す場所が少なく、槍を持った兵も一度に進めない。


 それに、敵が五十人前後いるのなら、こちらも相応の人数を揃えなければならない。


 父が兵を出してくれるとしても、簡単に勝てるとは思えなかった。


「……砦を攻めるのは、やめよう」


 俺が言うと、十衛門は頷いた。


「賢明かと存じます」


「……なら、砦から出てくる敵を待ち伏せするのはどうだ」


「どこでございますか」


 俺は、地図の南側を指した。


「ここ。砦から街道へ下りる道が狭くなっている。敵が荷を奪いに出てきたところを、こちらが待ち伏せする」


 十衛門は、しばらく地図を見つめた。


「……悪くはございませぬが、敵がその道を通るとは限りませぬ」


「……そうか」


「それに、敵は周囲の地形をよく知っております。こちらが隠れていても、物見に見つかる恐れがございます」


 俺は、筆を置いた。


 難しい。


 敵がどこを通るか分からないのに、どうやって待ち伏せすればいいのだろう。


「……十衛門」


「はっ」


「敵が、必ず通る道というのはないのか」


 十衛門は、少し考えた。


「……必ず、と申されますと難しゅうございますな」


「だよな」


「ですが、荷を運ぶのであれば、通れる道は限られます」


 俺は、顔を上げた。


「……荷を運ぶ?」


「はい。人だけなら、山の斜面を越えることもできます。ですが、米俵や木箱を積んだ馬を通すとなれば、そうはいきませぬ」


 俺は、地図を見つめた。


 確かに、そのとおりだ。


 敵は、街道を通る商人から荷を奪っている。


 奪った荷は、どこかへ運ばなければならない。


 そして、荷を積んだ馬が通れる道は、兵だけが通れる道よりも少ない。


「……なら、敵が荷を運ぶ道を調べればいいのか」


 十衛門は、頷いた。


「そのように存じます」


 俺は、筆を取り直した。


 少しだけ、考える方向が見えてきた気がした。


     *


 夕方、俺は勝家に頼み、坂下周辺をよく知る者を呼んでもらった。


 やって来たのは、六十歳ほどの農夫だった。


 名前を喜兵衛といい、若い頃から坂下と周辺の村々を行き来しており、薪や炭を運ぶ仕事もしていたという。


 俺は、彼に地図を見せた。


「……このあたりで、馬が荷を積んだまま通れる道を教えてほしい」


 喜兵衛は、地図を覗き込んだ。


 しばらくして、皺だらけの指で北の丘陵を指した。


「……この道でございますな」


「……ここか」


「はい。砦の西側を回る道でございます。狭うございますが、馬は通れます」


 俺は、筆で印をつけた。


「……ほかには?」


 喜兵衛は、少し考えた。


「南の谷にも道がございますが、あちらは雨が降るとぬかるみます。荷を積んだ馬では、難しゅうございましょう」


「……なるほど」


 俺は、地図を見つめた。


 北の道。


 南の谷。


 そして、街道。


 敵が荷を運ぶなら、この三つのどれかを使う可能性が高い。


 だが、南の谷は雨に弱い。


 つまり、天気によっては、通れる道がさらに限られる。


「……喜兵衛」


「はい」


「このあたりで、雨が降ったあとでも馬が通れる道は、どこだ」


 喜兵衛は、迷わず北の道を指した。


「こちらでございます。土が固うございますゆえ」


 俺は、ゆっくりと頷いた。


 なるほど。


 雨が降れば、敵が荷を運ぶ道をある程度絞れる。


 だが、雨が降るかどうかは分からない。


 俺は、少し考えた。


「……十衛門」


「はっ」


「もし、雨が降らなかったらどうする」


 十衛門は、俺を見た。


「若殿がお考えになることでございます」


 俺は、思わず顔をしかめた。


 また、それか。


 だが、今度は少しだけ分かってきた。


 敵がどこを通るか分からないなら、敵が通りたくなる道を作ればいい。


 俺は、地図を見つめた。


 そして、ふと、一つの考えが浮かんだ。


     *


「……荷を運ばせればいいんだ」


 俺が呟くと、十衛門が顔を上げた。


「……何でございますか」


「敵は、荷を奪うために街道へ出てくるんだろう」


「左様にございますな」


「なら、こちらが荷を運ぶふりをすれば、敵が出てくるかもしれない」


 十衛門は、少しだけ眉を寄せた。


「……囮でございますか」


「そうだ」


 俺は、地図を指した。


「荷駄を少数の兵で守っているように見せかけて、敵を誘う。敵が襲ってきたところを、こちらが待ち伏せする」


 十衛門は、しばらく考えていた。


「……悪くはございませぬ」


 俺は、少しだけ嬉しくなった。


「……本当か」


「はい。ただし、敵が囮と見抜けば、出てこぬでしょう」


 俺は、頷いた。


 確かに、そうだ。


 敵も馬鹿ではない。


 前回、俺たちを罠にかけた相手だ。


 こちらが急に荷駄を運び始めれば、警戒するかもしれない。


「……なら、本物の荷を運ぶのはどうだ」


 俺は言った。


「商人に頼んで、実際に荷を運んでもらう。……ただし、危険な場所へ入る前に、兵を配置しておく」


 十衛門は、すぐに首を振った。


「若殿、それは危のうございます」


「……なぜだ」


「商人を囮にすることになります。敵が襲ってきたとき、商人が逃げ遅れれば、命を落とすやもしれませぬ」


 俺は、口を閉じた。


 そのとおりだった。


 商人を助けるために戦うはずなのに、その商人を危険にさらしてどうするのだ。


 俺は、深く息を吐いた。


「……じゃあ、兵が商人の格好をすればいいのか」


 十衛門は、少し考えた。


「……それならば、まだよろしいかと」


 俺は、顔を上げた。


「……できるか」


「できぬことはございませぬ。ただし、兵が商人に見えるかどうかは、別の話にございます」


 俺は、苦笑した。


 確かに、槍を持った兵が荷駄を引いていては、怪しすぎる。


 だが、商人の格好をした兵が数人で荷を運び、その周囲に護衛が少しだけいるように見せれば、敵が近づいてくる可能性はある。


 俺は、地図を見つめた。


 少しずつ、策の形が見えてきた。


     *


 夜になると、俺は自室で地図を広げ、何度も兵の配置を書き直していた。


 囮の荷駄をどこへ通すか。


 敵が襲ってきたとき、どこから兵を出すか。


 敵が逃げるなら、どの道を通るか。


 そして、こちらが退く必要が生じた場合、どこへ逃げるか。


 考えれば考えるほど、問題が増えていく。


 例えば、敵が囮の荷駄を襲わず、別の場所へ回り込んできたらどうするのか。


 あるいは、敵がこちらの伏兵を見つけ、逆に襲ってきたらどうするのか。


 敵が五十人以上いた場合、こちらの兵は何人必要なのか。


 兵糧は何日分持っていくのか。


 負傷者が出た場合、どこへ運ぶのか。


 俺は、筆を置いた。


「……無理だろ、これ」


 思わず、声が漏れた。


 現代の大学でレポートを書くほうが、よほど簡単だった。


 レポートなら、間違えても単位を落とすだけだ。


 だが、今の俺が間違えれば、人が死ぬ。


 俺は、深く息を吐いた。


 そのとき、襖の向こうから声がした。


「……信長さま」


 濃姫だった。


「……入っていいぞ」


 襖が開き、濃姫が部屋へ入ってきた。


 彼女は、俺の前に広げられた地図と書付を見て、少しだけ眉を上げた。


「……まだ、お考えでございましたか」


「……ああ」


 俺は、苦笑した。


「明日の夕刻までに策を考えろと、父上に言われている」


 濃姫は、静かに頷いた。


「それは、大変にございますね」


「……大変どころじゃない」


 俺は、地図を指した。


「敵がどこにいるか分からない。何人いるかも分からない。……それなのに、勝つ方法を考えろと言われている」


 濃姫は、しばらく地図を見つめた。


 そして、静かに尋ねた。


「……信長さまは、何をもって勝ちとお考えでございますか」


 俺は、顔を上げた。


「……何?」


「敵を討ち取ることでございましょうか。それとも、街道を取り戻すことでございましょうか」


 俺は、言葉に詰まった。


 そういえば、父も同じようなことを言っていた。


 砦そのものに用はない。


 街道を通れるようにすることが先だ、と。


「……街道を取り戻すことだ」


 俺は答えた。


 濃姫は、頷いた。


「ならば、敵を皆討ち取る必要はございませぬね」


「……ああ」


「それならば、敵が街道へ出てこられなくなれば、よいのではございませんか」


 俺は、地図を見つめた。


 敵が街道へ出てこられなくなる。


 つまり、敵の動きを制限する。


 俺は、ゆっくりと顔を上げた。


「……濃姫」


「はい」


「……お前、頭いいな」


 濃姫は、少しだけ目を細めた。


「今さらでございますか」


 俺は、思わず笑った。


 十衛門といい、濃姫といい、俺の周りには容赦のない人間ばかりいる。


 だが、ありがたいことでもあった。


     *


 濃姫が部屋を出たあと、俺はもう一度地図を見つめた。


 敵を討ち取る必要はない。


 街道を通れるようにすればよい。


 ならば、敵が荷を奪いに出てくる道を押さえ、商人たちが安全に通れるようにすればいい。


 俺は、筆を取った。


 坂下の橋を守る兵。


 北の山道を見張る兵。


 そして、囮の荷駄を守る兵。


 ただし、三十人では足りない。


 少なくとも、前回より多くの兵が必要だ。


 俺は、地図へ印をつけた。


 もし、父が五十人ほど預けてくれるなら。


 いや、五十人でも足りないかもしれない。


 俺は、筆を止めた。


 兵の数だけを増やしても、同じ場所へ固めてしまえば意味がない。


 敵がどこから来るか分からない以上、物見を置く場所が重要になる。


 俺は、地図を見つめた。


 北の山道。


 南の谷。


 街道の曲がり角。


 そして、砦から下りる道。


 その四つを見張れば、敵の動きをある程度把握できるかもしれない。


 だが、見張りを増やせば、その分だけ戦える兵が減る。


 俺は、頭を抱えた。


「……難しすぎるだろ」


 思わず、声が漏れた。


 だが、今度は筆を置かなかった。


 俺は、もう一度地図を見つめた。


 何度でも考えるしかない。


 俺が間違えれば、人が死ぬ。


 その事実から、逃げるわけにはいかなかった。


     *


 翌朝、俺はほとんど眠らないまま、十衛門を呼んだ。


 十衛門は、俺の顔を見るなり眉を寄せた。


「……若殿、昨夜はお休みになられましたか」


「……少しは」


「どれほどでございますか」


「……一刻くらい」


 十衛門は、深く息を吐いた。


「それでは、戦の前に倒れてしまわれますぞ」


「……分かっている」


 俺は、苦笑した。


「だが、少し考えがまとまった」


 十衛門は、地図へ目を落とした。


 俺は、昨夜考えた策を説明した。


 まず、坂下周辺の道を改めて調べる。


 敵が荷を運ぶ道を確かめ、そこに物見を置く。


 そのうえで、兵が商人に扮した荷駄を街道へ出し、敵を誘う。


 敵が襲ってきたら、隠しておいた兵で退路を塞ぎ、荷を奪わせないようにする。


 ただし、敵の数が多い場合には無理に戦わず、荷駄を守って退く。


 十衛門は、最後まで黙って聞いていた。


 やがて、静かに頷いた。


「……よろしいかと存じます」


 俺は、少しだけ胸を撫で下ろした。


「……本当か」


「はい。ただし、まだ足りぬことがございます」


 俺は、顔を上げた。


「……何だ」


「敵が、囮を襲わなかった場合でございます」


 俺は、言葉に詰まった。


 確かに、そうだ。


 敵が出てこなければ、こちらは何もできない。


「……その場合は、街道を守るだけになるな」


 十衛門は、頷いた。


「それでも、商人が通れるようになれば、若殿の目的は果たせます」


 俺は、顔を上げた。


 そうか。


 敵が襲ってこなければ、それはそれでよいのだ。


 俺たちの目的は、敵を討ち取ることではない。


 街道を安全に通れるようにすることなのだから。


「……なるほど」


 俺は、ゆっくりと頷いた。


 少しだけ、頭の中が整理された気がした。


     *


 その日の夕刻、俺は父の前で策を説明した。


 広間には、信秀と勝家、それに数人の家臣が集まっていた。


 俺は、地図を広げ、坂下周辺の道と敵の動きを説明した。


 敵は、砦を拠点にして街道へ出てくる。


 荷を奪えば、北の山道を使って運び込む。


 ならば、その道を見張り、敵が街道へ出てきたところを迎え撃つ。


 ただし、敵を討ち取ることよりも、街道を安全に通れるようにすることを優先する。


 俺は、できるだけ落ち着いて話した。


 父は、最後まで黙って聞いていた。


 やがて、低い声で尋ねた。


「……兵は、何人欲しい」


 俺は、少し考えた。


「……五十人ほど、お願いしたく存じます」


 父は、眉を上げた。


「五十か」


「はい。橋を守る兵、物見を出す兵、荷駄を守る兵、それぞれ必要にございます」


 父は、勝家へ視線を向けた。


 勝家は、しばらく地図を見つめていた。


「……五十では、やや心許のうございますな」


 俺は、顔を上げた。


「……そうでしょうか」


「敵が五十人前後いるなら、こちらも同じほどでは余裕がございませぬ。しかも、物見や荷駄の守りに兵を割けば、実際に戦える人数はさらに減ります」


 俺は、黙って聞いていた。


 確かに、そのとおりだ。


 俺は、兵の数を少なく見積もりすぎていたのかもしれない。


 父は、しばらく考えていた。


 やがて、静かに口を開いた。


「……六十人、預けよう」


 俺は、思わず顔を上げた。


「……父上」


「ただし、勝家の配下から二十人をつける。残り四十人は、お前が率いよ」


 俺は、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 父は、俺を見つめた。


「信長」


「……はい」


「今度は、勝て」


 俺は、背筋を伸ばした。


「……承知いたしました」


 父は、少しだけ目を細めた。


「ただし、勝つことばかり考えるな」


 俺は、顔を上げた。


「……どういうことでございましょうか」


「お前が何を守るために戦うのか、忘れるなということだ」


 俺は、しばらく黙っていた。


 街道を守る。


 商人たちを守る。


 兵たちを、できるだけ生きて帰す。


 俺は、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


     *


 広間を出ると、十衛門が隣へ来た。


「……若殿」


「……何だ」


「策は、悪くございませぬ」


 俺は、思わず笑った。


「……お前がそんなことを言うなんて、珍しいな」


 十衛門は、少しだけ口元を緩めた。


「ただし、戦は策どおりには進まぬものでございます」


 俺は、頷いた。


「……分かっている」


「敵もまた、考えておりますゆえ」


 俺は、地図を抱え直した。


 敵も考えている。


 そのことを、俺は前回の失敗で思い知らされた。


 だが、今度は俺も考えた。


 何度も地図を見直し、十衛門や濃姫に相談し、父や勝家の意見も聞いた。


 それでも、完璧な策にはならないだろう。


 だが、何もしないわけにはいかない。


「……十衛門」


「はっ」


「……今度こそ、街道を取り戻すぞ」


 十衛門は、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 俺は、静かに息を吐いた。


 怖さが消えたわけではない。


 むしろ、前よりも怖い。


 だが、その怖さを抱えたまま、考えることはできるようになった。


 父が初陣の前に言った言葉を、俺は思い出していた。


 怖いなら、怖いまま考えろ。


 今の俺には、その言葉が少しだけ分かる気がした。


     *


 その夜、俺はようやく布団へ入った。


 だが、目を閉じると、地図が浮かんでくる。


 坂下の橋。


 北の山道。


 南の谷。


 そして、敵の砦。


 どこに兵を置くか。


 敵がどこから来るか。


 もし、また罠にかかったらどうするか。


 考え始めると、眠れなくなる。


 俺は、深く息を吐いた。


「……参ったな」


 思わず、声が漏れた。


 そのとき、隣の部屋から濃姫の声がした。


「……信長さま」


「……何だ」


「まだ、お起きでございますか」


「……ああ」


 濃姫は、少しだけ間を置いてから言った。


「……明日のことは、明日お考えくださいませ」


 俺は、思わず苦笑した。


「……そうしたいんだがな」


「信長さまが眠らずに考え続けても、敵の数が減るわけではございませぬ」


 俺は、思わず笑った。


 確かに、そのとおりだ。


 俺が眠らなかったところで、敵が弱くなるわけではない。


 むしろ、俺の判断力が鈍るだけだ。


「……分かった。寝る」


 俺は、そう答えた。


 濃姫は、静かに言った。


「おやすみなさいませ」


「……おやすみ」


 俺は、目を閉じた。


 明日から、また戦の準備が始まる。


 今度は六十人。


 前回の倍の兵を預かることになる。


 その一人ひとりに、家族がいる。


 帰りを待っている者がいる。


 俺は、そのことを思い出しながら、ゆっくりと息を吐いた。


 今度こそ、勝ちたい。


 だが、それ以上に、できるだけ多くの者を生きて帰したい。


 その願いを胸に、俺はようやく眠りについた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。