第40話:退くと決めたら家臣に臆病者と決め付けられたんだが!?
坂下の集落に陣を構えてから、五日目の朝を迎えた。
夜半から降り始めた雨は明け方には上がっていたが、陣の周囲には湿った土の匂いが漂い、草の葉に残った水滴が朝日に照らされて細かく光っていた。橋の下を流れる川は昨日よりもわずかに水かさを増し、上流から運ばれてきた枯れ枝が橋脚に引っかかっている。
俺は、陣の端に置かれた粗末な腰掛けに座り、昨日の戦で負傷した兵たちの様子を確かめていた。
肩に矢を受けた男は熱こそ出していなかったものの、傷口の痛みで夜中に何度も目を覚ましたらしい。太腿を射られた男は自力で歩くことが難しく、移動する際には仲間の肩を借りなければならなかった。
どちらも命に別状はなさそうだと十衛門は言っていたが、俺にはその言葉を素直に信じることができなかった。
弥七も、矢を受ける直前までは元気だったのだ。
傷を負った者が翌日も生きているからといって、そのまま回復するとは限らない。傷口が腫れ、熱を出し、数日後に亡くなることだってある。
俺は、二人の顔を見つめながら、できるだけ早く城へ戻して手当てを受けさせるべきではないかと考えていた。
「……若殿」
背後から声をかけてきたのは、今回預けられた兵のまとめ役を務める佐久間源太だった。
四十歳を少し過ぎた男で、日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、右の頬には古い刀傷がある。口数は少ないが、兵たちからの信頼は厚く、俺が何か命令を出すときにも、まず彼に相談することが多かった。
「東の見張りから知らせがございます」
俺は顔を上げた。
「……敵か」
「はい。街道の向こうに、二十人ほどの武装した者が現れたそうです」
俺は、思わず腰を浮かせた。
昨日、俺たちを罠にかけた敵が、再び動き始めたのだろうか。
「……こちらへ向かっているのか」
「いえ。今のところ、街道の東側に留まっております。ただ、荷を積んだ馬を数頭連れているようです」
俺は、眉を寄せた。
荷を積んだ馬。
昨日、商人から奪ったという荷駄だろうか。
それとも、敵自身の兵糧や武具を運んでいるのかもしれない。
「……十衛門を呼んでくれ」
俺は源太に命じた。
彼が立ち去るのを見送りながら、俺は昨日の地図を広げた。
街道の東側には、敵が伏兵を置いていた斜面と沢がある。
そのさらに奥には、林を抜けて北へ続く細い山道が描かれていた。
もし敵が再び街道を塞ぐつもりなら、俺たちは何らかの対応を迫られる。
だが、昨日のように不用意に近づけば、また罠にかかるかもしれない。
俺は、地図を見つめたまま、深く息を吐いた。
*
十衛門がやって来ると、俺たちは源太を交えて状況を整理した。
東の街道に現れた敵は、およそ二十人。
槍を持った者が多く、弓兵も数人いる。
荷駄らしい馬が三頭見えたものの、何を積んでいるのかは分からない。
敵は街道の曲がり角付近に留まり、こちらへ進んでくる様子はないという。
「……どう思う」
俺が尋ねると、十衛門は地図へ目を落とした。
「こちらを誘っている可能性がございますな」
「……昨日と同じか」
「同じとは限りませぬが、わざわざ姿を見せていることが気になります」
源太が口を開いた。
「若殿、今度こそこちらから攻めるべきではございませぬか」
俺は顔を上げた。
「……攻める?」
「はい。敵は二十人ほど。我らは三十人おります。昨日は不意を突かれましたが、今度は備えておりますゆえ」
俺は、しばらく黙っていた。
確かに、数だけを見ればこちらが多い。
だが、三十人のうち二人は負傷しており、残りの兵も昨日の戦で疲れている。
しかも、敵が本当に二十人だけなのかは分からない。
「……源太」
「はっ」
「昨日も、敵は十人ほどに見えた」
源太は、少しだけ眉を動かした。
「……左様でございました」
「だが、実際には斜面にも沢にも兵がいた。今度も、見えている二十人だけとは限らない」
源太は、口を閉じた。
俺は続けた。
「……それに、こちらから攻めれば、また敵の都合のよい場所で戦うことになる」
十衛門が、静かに頷いた。
「若殿のお考えは、もっともにございます」
俺は、少しだけ安心した。
だが、源太の表情は晴れなかった。
「……しかし、若殿」
「何だ」
「このまま敵を放っておけば、街道は通れませぬ。商人たちも、また荷を運ぶことを恐れるでしょう」
俺は、地図へ目を落とした。
そのとおりだった。
父から命じられたのは、街道を守ることだ。
敵が現れるたびに陣へ引きこもっていては、仕事を果たしたことにならない。
だが、だからといって、無理に攻めれば兵を失う。
俺は、しばらく考えた。
「……まずは、敵の様子を確かめよう」
俺は言った。
「物見を出す。ただし、昨日の場所へは近づかせない。北の丘から街道を見下ろせる場所があったはずだ」
十衛門は頷いた。
「ございます。林の西側を回れば、敵に近づかずに様子を確かめられましょう」
「……そこから、敵の後ろに兵がいるかを見てもらう」
俺は源太を見た。
「それまで、こちらからは動かない」
源太は、少し不満そうだったが、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
*
物見が戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
報告によれば、街道に現れた敵は二十人ほどで間違いなさそうだったが、その後方の林にはさらに人の動きがあり、少なくとも十数人が隠れている可能性があるという。
また、荷を積んだ馬は三頭ではなく四頭で、そのうち一頭はしきりに首を振り、荷を引くのを嫌がっていたらしい。
「……四頭か」
俺は、地図を見つめた。
敵は、何を運んでいるのだろう。
兵糧か。
奪った商品か。
あるいは、こちらを誘うためにわざと見せているだけなのか。
俺が考え込んでいると、源太が再び口を開いた。
「若殿、敵の後ろに兵がいるとしても、四十人ほどでございましょう。我らが橋の手前で迎え撃てば、勝てぬ相手ではありませぬ」
俺は、源太を見た。
彼の言うことにも一理ある。
橋は狭く、一度に渡れる人数は限られている。
こちらが橋の西側で待ち構えれば、敵の数が多少多くても防げるかもしれない。
だが、敵が橋を渡ろうとしなければ、何も起こらない。
俺は、地図へ目を落とした。
「……十衛門」
「はっ」
「敵は、なぜあそこに留まっているんだろうな」
十衛門は、少し考えた。
「こちらを誘っているか、何かを待っているか。あるいは、別の場所で動いている兵を隠すためかもしれませぬ」
俺は、顔を上げた。
「……別の場所?」
「はい。街道に姿を見せている者ばかりに目を向けておれば、ほかの道を通る者には気づきにくくなります」
俺は、地図を見つめた。
坂下の北には丘陵があり、その奥には細い山道がある。
南には田畑が広がり、川沿いに村々を結ぶ道が続いている。
敵が街道に姿を見せている間に、別の場所から何かを運んでいる可能性もある。
「……なら、北と南にも物見を出そう」
俺は言った。
「敵が何をしているのか、できるだけ確かめたい」
十衛門は頷いた。
「よろしゅうございます」
俺は、少しだけ胸を撫で下ろした。
昨日の失敗を繰り返さないように、今度は慎重に考えている。
そう思っていた。
だが、敵は俺たちが考えている以上に、こちらの動きをよく見ていたのである。
*
異変が起きたのは、夕方近くになってからだった。
北の丘へ出していた物見が、慌ただしく陣へ戻ってきた。
「若殿! 北の山道に、荷を運ぶ者たちがおります!」
俺は顔を上げた。
「……何人だ」
「十人ほどでございます。馬が五頭ほどおり、俵や木箱を積んでおります!」
俺は、地図へ目を落とした。
北の山道。
そこは、街道から外れた細い道で、普段は近隣の村人が薪を運ぶ程度にしか使われていないという。
「……どちらへ向かっている」
「西へ。坂下の北側を回り込むように進んでおります!」
俺は、背筋が冷たくなるのを感じた。
西へ。
つまり、俺たちの陣の背後へ回ろうとしているのだ。
「……十衛門!」
俺は叫んだ。
「敵は、街道で俺たちを引きつけている間に、北から回り込もうとしている!」
十衛門は、すぐに地図を覗き込んだ。
「……そのようでございますな」
俺は、急いで兵を集めた。
「北の道へ見張りを増やす! 敵が近づいてきたら、すぐに知らせろ!」
源太が一歩前へ出た。
「若殿、北の道へ兵を出し、敵を討ちましょう!」
俺は、首を振った。
「……いや、待て」
源太は、驚いたように顔を上げた。
「……若殿?」
「敵は、荷を運んでいる。だが、それが本当に兵糧なのか、奪った荷なのか分からない」
俺は、地図を指した。
「それに、北の道は狭い。こちらから兵を出せば、また昨日と同じことになるかもしれない」
源太は、少しだけ顔をしかめた。
「……しかし、若殿」
「……分かっている」
俺は、深く息を吸った。
「だが、今は無理に戦わない」
源太は、口を閉じた。
俺は続けた。
「敵がこちらへ来るなら、橋と陣を守る。北から回り込んできた者がいれば、すぐに知らせる。……それでよい」
十衛門は、静かに頷いた。
だが、源太は納得していないようだった。
その表情を見て、俺は胸の奥に小さな不安を覚えた。
*
夜になると、兵たちの間に不満が広がり始めた。
俺が直接聞いたわけではない。
だが、火のそばで話している声が、風に乗って聞こえてきたのである。
「……若殿は、戦を恐れておられるのではないか」
「昨日も退いたばかりだというのに、今日も動かぬとは」
「このままでは、敵に好き放題されるぞ」
俺は、足を止めた。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
臆病者。
そう思われているのだろうか。
確かに、俺は怖い。
敵の姿を見れば足が震えるし、矢が飛んでくれば身を伏せたくなる。
昨日の戦では、危うく兵を失うところだった。
だから、今度は慎重に考えようとしている。
だが、兵たちから見れば、ただ戦を避けているようにしか見えないのかもしれない。
「……若殿」
背後から十衛門の声がした。
俺は、振り返った。
「……聞こえていたか」
「はい」
十衛門は、静かに答えた。
「……兵たちは、俺を臆病者だと思っているらしい」
十衛門は、しばらく黙っていた。
やがて、口を開いた。
「若殿」
「……何だ」
「兵たちが不満を抱くのは、必ずしも若殿を軽んじているからではございませぬ」
俺は、顔を上げた。
「……どういうことだ」
「彼らもまた、何をすべきか分からずにいるのでございます」
十衛門は、火の向こうで話している兵たちを見た。
「敵が目の前におる。だが、攻めることもできず、退くこともできぬ。何を待っているのか分からなければ、不安になるのも無理はございませぬ」
俺は、黙っていた。
確かに、俺は兵たちに十分な説明をしていなかった。
敵が罠を仕掛けているかもしれないこと。
北の山道に別の動きがあること。
今は無理に戦わず、敵の狙いを確かめたいこと。
そうした考えを、十衛門や源太には話していたが、兵たち全員には伝えていなかった。
「……俺の説明が足りなかったのか」
十衛門は、静かに頷いた。
「そのように存じます」
俺は、深く息を吐いた。
兵を率いるというのは、命令を出すだけではない。
なぜその命令を出すのか、兵たちに理解してもらうことも必要なのだ。
俺は、火のそばへ歩いていった。
*
兵たちは、俺の姿を見ると慌てて立ち上がった。
俺は、手で制した。
「……座っていてくれ」
兵たちは、互いに顔を見合わせながら腰を下ろした。
俺も、火の向かいに座った。
「……お前たちが、俺を臆病者だと思っていることは分かっている」
兵たちの間に、緊張が走った。
俺は続けた。
「……実際、俺は怖い。昨日のように、敵の罠にかかるのは、もう御免だ」
誰も口を開かなかった。
「だが、怖いから動かないわけではない」
俺は、地図を広げた。
「敵は、街道に二十人ほどの兵を見せている。その後ろにも、さらに兵がいるらしい。……そして、北の山道では別の者たちが荷を運んでいる」
兵たちは、地図を覗き込んだ。
「もし、俺たちが街道の敵を攻めれば、北から回り込んできた者たちに陣を襲われるかもしれない」
俺は、指で地図をなぞった。
「だから、今は敵の動きを確かめている。……無理に戦って、また誰かを失いたくない」
しばらく沈黙があった。
やがて、年若い兵が口を開いた。
「……若殿」
「何だ」
「では、いつまで待つのでございますか」
俺は、言葉に詰まった。
いつまで。
それは、俺自身も考えていたことだった。
敵が動かなければ、俺たちはこのまま陣に留まり続けることになる。
だが、兵糧には限りがある。
負傷者もいる。
いつまでも待つことはできない。
「……明日の朝までだ」
俺は、少し考えてから答えた。
「明日の朝までに敵の動きを確かめ、それでも状況が変わらなければ、城へ知らせを出して指示を仰ぐ」
兵たちは、黙って聞いていた。
「……俺は、お前たちを無駄に死なせたくない。だが、父上から命じられた仕事を放り出すつもりもない」
俺は、一人ずつ顔を見た。
「だから、もう少しだけ力を貸してくれ」
しばらくして、源太が頭を下げた。
「……承知いたしました」
ほかの兵たちも、それに続いた。
俺は、少しだけ胸を撫で下ろした。
だが、問題が解決したわけではない。
敵は、まだ東にいる。
北の山道でも、何かが動いている。
そして、俺たちには三十人しかいない。
*
翌朝、俺は夜明け前に目を覚ました。
空はまだ薄暗く、東の山並みの向こうがわずかに白み始めている。
陣の周囲には霧が漂い、草の上には露が降りていた。
俺は、見張りの兵から夜の報告を受けた。
東の街道にいた敵は、夜の間に姿を消したという。
北の山道でも、荷を運んでいた者たちは見えなくなっていた。
「……退いたのか」
俺が尋ねると、兵は首を振った。
「分かりませぬ。ただ、夜明け前には姿が見えなくなっておりました」
俺は、眉を寄せた。
敵が退いた。
それなら、よいことのはずだ。
だが、何かがおかしい。
昨日まで、あれほどこちらを挑発するように姿を見せていた敵が、急にいなくなった。
まるで、目的を果たしたかのように。
「……十衛門」
俺は、近くにいた十衛門を呼んだ。
「……敵は、何をしたかったんだろうな」
十衛門は、しばらく考えていた。
「……こちらを引きつけることが目的だったのかもしれませぬ」
俺は、地図へ目を落とした。
東の街道。
北の山道。
そして、坂下の集落。
その三つを見つめているうちに、俺はあることに気づいた。
「……十衛門」
「はっ」
「……北の山道を通った荷は、どこへ向かったんだ」
十衛門は、地図を見た。
「西へ向かったと聞いております」
「……西へ行けば、どこに出る」
十衛門は、指で地図をなぞった。
北の山道は、坂下の集落を大きく迂回し、さらに西の村々へ続いている。
その先には、別の街道があった。
俺は、背筋が冷たくなるのを感じた。
「……まさか」
そのときだった。
西の方角から、一人の兵が駆け込んできた。
「若殿! 大変にございます!」
俺は、顔を上げた。
「……何があった!」
「西の村へ向かう荷駄が、襲われました!」
俺は、息を呑んだ。
「……西の村?」
「はい! 城から坂下へ運ばれるはずだった兵糧の一部が、途中で奪われたとのこと!」
俺は、地図を見つめた。
東の敵。
北の山道。
西の荷駄。
すべてが、一本の線で繋がった。
敵は、俺たちを東へ引きつけていたのだ。
俺たちが街道の敵に気を取られている間に、別の一団が北の山道を通り、西の補給路へ回り込んでいた。
そして、城から届くはずだった兵糧を奪った。
「……くそっ!」
俺は、思わず拳を握った。
敵の狙いは、最初から俺たちを倒すことではなかったのかもしれない。
兵糧を奪い、補給を断つこと。
それが目的だったのだ。
俺は、十衛門を見た。
「……どうする」
十衛門は、静かに答えた。
「若殿がお決めになることでございます」
俺は、地図を見つめた。
兵糧を奪われた。
敵は退いた。
こちらには負傷者がいる。
そして、残された兵糧は、あと二日分ほどしかない。
このまま坂下に留まれば、食料が尽きる。
だが、敵を追えば、また罠にかかるかもしれない。
俺は、深く息を吸った。
「……退く」
その言葉を口にした瞬間、周囲の空気が変わった。
源太が、驚いたように顔を上げた。
「……若殿!」
俺は、続けた。
「城へ戻る。負傷者を連れて、全員で退く」
源太は、思わず一歩前へ出た。
「……しかし、若殿! ここで退けば、敵に街道を明け渡すことになります!」
「……分かっている」
「ならば、なぜ!」
俺は、源太を見た。
「兵糧が足りない」
源太は、口を閉じた。
「負傷者もいる。敵の数も分からない。……このまま留まれば、次に襲われたとき、まともに戦えないかもしれない」
俺は、地図を指した。
「だから、一度戻る。父上に報告し、兵と兵糧を整えてから、もう一度ここへ来る」
源太は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……若殿は、敵を恐れて退かれるのでございますか」
その言葉が、胸に刺さった。
俺は、しばらく源太を見つめた。
怖い。
確かに、怖い。
だが、それだけではない。
俺は、深く息を吸った。
「……ああ、怖い」
源太が、目を見開いた。
「……だが、俺が一番怖いのは、敵に笑われることではない」
俺は、兵たちを見渡した。
「……お前たちを、無駄に死なせることだ」
しばらく沈黙があった。
俺は続けた。
「ここで意地を張って戦えば、俺は臆病者ではないと証明できるかもしれない。……だが、そのために誰かが死んだら、俺はどうすればいい」
源太は、何も言わなかった。
「……俺は、そんな理由で戦いたくない」
俺は、静かに言った。
「だから、退く」
その言葉を聞いて、十衛門が深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
俺は、顔を上げた。
「……十衛門」
「はっ」
「……退く準備を頼む」
「かしこまりました」
*
退却の準備は、思っていた以上に時間がかかった。
負傷者を乗せるための担架を作り、荷駄をまとめ、見張りを残しながら兵を動かさなければならない。
敵がいつ戻ってくるか分からない以上、全員が一斉に荷物をまとめるわけにはいかなかった。
俺は、十衛門と源太に相談しながら、兵を三つに分けた。
先に進む者たち。
負傷者と荷駄を守る者たち。
最後尾を警戒する者たち。
道が狭い場所では、荷駄を先に通し、兵たちは周囲を確かめながら進むことにした。
俺は、何度も後ろを振り返った。
敵が追ってこないか。
兵が遅れていないか。
負傷者の様子はどうか。
気になることが、次々と目に入ってくる。
だが、今度は一人で抱え込まないようにした。
「……源太」
「はっ」
「後ろの兵たちを頼む。敵が近づいたら、すぐに知らせてくれ」
源太は、少しだけ驚いたように俺を見た。
それから、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
俺は、頷いた。
源太は、まだ納得していないかもしれない。
だが、それでも命令に従ってくれる。
そのことが、ありがたかった。
*
坂下を離れた俺たちは、西へ向かって街道を進んだ。
空は薄曇りで、時折、冷たい風が吹いていた。
道の両脇には田畑が広がり、遠くでは農夫たちが仕事をしている。
俺は、馬の上から兵たちを見渡した。
行きのときよりも、列は静かだった。
負傷者を乗せた担架が揺れるたび、兵たちは歩調を緩めた。
荷駄を引く馬も、疲れているようだった。
俺は、深く息を吐いた。
街道を守るために来た。
だが、結局、敵を退けることはできなかった。
それどころか、兵糧まで奪われた。
父に、何と報告すればよいのだろう。
俺は、唇を噛んだ。
失敗した。
その事実は、変わらない。
だが、兵たちは生きている。
今のところ、誰も死んでいない。
俺は、そのことだけを、胸の中で繰り返していた。
*
城へ戻ったのは、夕暮れ近くになってからだった。
門の前では、帰還した兵たちを見て、家族らしい者たちが駆け寄ってきた。
負傷者の姿を見て顔を曇らせる者もいたが、全員が戻ってきたことを知ると、安堵したように息を吐く者もいた。
俺は、その光景を見つめていた。
弥七の妻と娘のことが、頭に浮かんだ。
あのときは、帰ってこない者がいた。
だが、今日は全員が帰ってきた。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
俺は、馬から降りた。
十衛門が、隣へ来た。
「……若殿」
「……何だ」
「本日は、よいご判断でございました」
俺は、思わず顔を上げた。
「……本気で言っているのか」
「はい」
十衛門は、静かに答えた。
「敵を討つことはできませなんだ。街道も、一時的に明け渡すことになりました」
俺は、黙って聞いていた。
「ですが、兵を失わずに戻られました。それは、決して小さなことではございませぬ」
俺は、しばらく何も言えなかった。
勝ったわけではない。
むしろ、負けたのだろう。
だが、十衛門は俺の判断を認めてくれた。
「……ありがとう」
俺は、小さく答えた。
*
父への報告は、その日の夜に行われた。
広間には、信秀と数人の家臣が集まっていた。
俺は、地図を広げ、坂下で起きたことを順に説明した。
敵が街道に姿を見せたこと。
商人が助けを求めてきたこと。
物見を出し、十五人で様子を確かめに行ったこと。
そこで伏兵に襲われ、負傷者を出したこと。
そして、敵が北の山道を利用して補給路へ回り込み、兵糧を奪ったこと。
俺は、できるだけ事実だけを話した。
言い訳は、しないつもりだった。
父は、最後まで黙って聞いていた。
やがて、低い声で尋ねた。
「……なぜ、退いた」
俺は、顔を上げた。
「……兵糧が不足し、負傷者もおりました。敵の数も分からず、このまま留まれば、兵を失う恐れがあると考えました」
父は、しばらく俺を見つめていた。
「……敵を討つ機会は、なかったのか」
「……ございました」
俺は、正直に答えた。
「ですが、罠の恐れがありました。……無理に攻めるべきではないと判断いたしました」
父は、黙っていた。
広間の空気が、重くなる。
俺は、膝の上で拳を握った。
やがて、父が口を開いた。
「……信長」
「……はい」
「お前は、街道を守るよう命じられた」
「……はい」
「だが、街道を明け渡した」
俺は、深く頭を下げた。
「……申し訳ございません」
父は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……よく戻った」
俺は、思わず顔を上げた。
「……父上?」
「兵を失わずに戻ったことは、悪くない」
父は、俺を見た。
「だが、仕事を果たせなかったことも事実だ」
俺は、頷いた。
「……はい」
「次は、どうする」
俺は、地図へ目を落とした。
坂下の集落。
橋。
上流の浅瀬。
東の街道。
北の山道。
そして、西の補給路。
俺は、しばらく考えた。
「……まず、敵がどこから来て、どこへ退いたのかを調べたいと存じます」
父は、黙って聞いていた。
「それから、街道だけでなく、周囲の道も確かめます。……敵がどこを通れるのかを知らなければ、また同じことになります」
父は、少しだけ目を細めた。
「……ほう」
俺は続けた。
「それに、兵糧を奪われたのは、補給路の守りが薄かったからです。……次は、荷駄を運ぶ道も守らなければなりません」
父は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、静かに頷いた。
「……よい」
俺は、顔を上げた。
「……父上」
「失敗したなら、次に生かせ」
父は、低い声で言った。
「ただし、次も同じ失敗をすれば、今度は兵を失うぞ」
俺は、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
*
広間を出ると、夜の空気がひんやりとしていた。
廊下の向こうには、濃姫が立っていた。
俺の姿を見ると、彼女は静かに頭を下げた。
「……信長さま」
「……ただいま」
濃姫は、俺の顔を見つめた。
「お疲れのご様子でございますね」
「……ああ」
俺は、苦笑した。
「……今回は、負けた」
濃姫は、少しだけ眉を動かした。
「……そうでございますか」
「街道を守れなかった。兵糧も奪われた。……父上にも、叱られた」
俺は、深く息を吐いた。
「……情けないだろう」
濃姫は、しばらく黙っていた。
それから、静かに尋ねた。
「……兵の方々は」
俺は、顔を上げた。
「……全員、戻った」
濃姫は、少しだけ微笑んだ。
「それは、何よりにございます」
俺は、思わず苦笑した。
「……それだけで、よいのか」
「いいえ」
濃姫は、はっきりと答えた。
「街道を守れなかったことは、失敗なのでしょう」
俺は、頷いた。
「……ああ」
「ですが、兵の方々を失わずに戻られたことは、失敗ではございませぬ」
濃姫は、俺を見つめた。
「信長さまは、次に戦うために戻られたのでしょう」
俺は、しばらく黙っていた。
次に戦うために戻った。
そう考えたことは、なかった。
ただ、兵を死なせたくなくて退いた。
だが、確かに、全員が生きていれば、次の機会がある。
もう一度、街道を守りに行くことができる。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
濃姫は、静かに微笑んだ。
「ならば、今夜はお休みくださいませ。明日になれば、また考えることができましょう」
俺は、思わず笑った。
「……お前は、いつも正しいことを言うな」
濃姫は、少しだけ目を細めた。
「信長さまが、考えすぎなのでございます」
俺は、苦笑した。
確かに、そうかもしれない。
*
その夜、俺は自室で地図を広げていた。
坂下の集落。
橋。
浅瀬。
東の街道。
北の山道。
そして、西の補給路。
俺は、筆を取り、敵が動いたと思われる道を一つずつ書き込んだ。
敵は、街道に姿を見せた。
俺たちは、そこへ注意を向けた。
その間に、別の一団が北の山道を通り、西の補給路へ回り込んだ。
そして、兵糧を奪った。
俺は、地図を見つめた。
敵は、俺たちよりも周囲の地形をよく知っていたのだろう。
どの道を通れば、どこへ出るのか。
どの場所に兵を置けば、相手の注意を引けるのか。
そうしたことを、あらかじめ考えていたのだ。
俺は、深く息を吐いた。
次は、同じ失敗をしない。
そのためには、もっと地形を知らなければならない。
敵の動きを知らなければならない。
そして、何よりも、自分の兵が何をできるのかを知らなければならない。
俺は、筆を置いた。
ふと、弥七の顔が頭に浮かんだ。
あの男は、もう戻らない。
だが、今回の三十人は、全員が戻ってきた。
俺は、そのことを思い出しながら、静かに目を閉じた。
退くことは、負けることかもしれない。
だが、生きていれば、次がある。
今の俺には、その言葉が、少しだけ理解できるようになっていた。




