第39話:敵の策を読んだつもりが逆に誘い込まれたんだが!?
坂下の集落に陣を構えてから、三日が過ぎた。
幸いなことに、今のところ敵の姿は確認されておらず、街道を通る商人たちも少しずつ増え始めていたが、だからといって俺たちの仕事が楽になったわけではなかった。
むしろ、何も起こらない時間が続くほど、兵たちの緊張を保つことが難しくなるのだと、俺はこの三日間で思い知らされていた。
夜明け前には見張りの交代を確かめ、朝になると橋と上流の浅瀬を巡り、昼には通行する荷駄の数を記録し、夕方には兵糧の残りを数える。夜になれば翌日の配置を考えなければならず、ようやく横になったところで、見張りから何か知らせが届けば、そのたびに起き上がる必要があった。
初陣のときには、兵を率いる者というのは戦場で格好よく命令を出す人間なのだと思っていたが、実際に三十人を預かってみると、仕事の大半は食事と睡眠と見張りの心配だった。
しかも、兵たちは俺の命令を聞いてくれるものの、彼らにも当然ながら疲労や不満がある。
夜番を二度続けて命じられた者は眠そうな顔をするし、雨で濡れた草鞋を乾かせなかった者は足の皮を痛める。腹を壊した兵が一人出れば、その者を休ませるためにほかの兵の仕事が増えるし、荷駄を引く馬の調子が悪くなれば、食料を運ぶ方法まで考え直さなければならない。
たった三十人で、これなのだ。
父が率いている織田家全体の兵となれば、いったいどれほどの手間がかかるのだろう。
「……天下を取る前に、帳面で過労死しそうだな」
俺が思わず呟くと、隣で兵糧の数を確かめていた十衛門が顔を上げた。
「何かおっしゃいましたか」
「いや、何でもない」
俺は慌てて首を振り、目の前の書付へ視線を戻した。
戦国時代へ転生してからというもの、現代人だった頃には想像もしなかった種類の苦労ばかり増えている。
だが、今の俺には、それを愚痴として笑い飛ばすことができなかった。
この三十人の食事が足りなくなれば、困るのは俺ではなく兵たちなのだから。
*
四日目の朝、最初の異変が起きた。
夜明けの霧がまだ川面に残っている頃、橋の東側を見張っていた兵が、息を切らして陣へ戻ってきたのである。
「若殿! 東の林に、人の動きがございます!」
俺は、手にしていた椀を置いた。
「何人だ」
「はっきりとは見えませぬが、五、六人ほどかと。槍を持った者がおり、こちらの様子を窺っておりました」
「……こちらへ近づいてきたのか」
「いえ、我らに気づいた途端、林の奥へ引き返しました」
俺は、十衛門と顔を見合わせた。
敵かもしれない。
だが、槍を持った者が数人いただけでは、今川方の兵なのか、近隣の地侍の手勢なのか、それとも単に武装して移動している者なのか判断できない。
「……十衛門、どう思う」
「物見の可能性が高うございますな」
十衛門は、地図を広げながら答えた。
「我らがどこに兵を置き、何人で道を守っているかを探っているのでしょう」
「……なら、近いうちに襲ってくるかもしれないな」
「その恐れはございます」
俺は、地図へ目を落とした。
橋の東側には雑木林があり、その奥を街道が曲がりながら続いている。北側には小高い丘が連なり、南側には畑と低い湿地が広がっていた。
もし敵がこちらを攻めるなら、橋を正面から渡ろうとするよりも、林を利用して近づいてくるほうが都合がよいだろう。
そして、俺たちには三十人しかいない。
相手が五十人以上で攻めてきた場合、正面からぶつかれば勝ち目は薄い。
「……橋の見張りを増やそう」
俺は言った。
「それから、東の林にも物見を出したい。敵の数が分からないままでは、何も決められない」
十衛門は頷いたが、すぐに一つ付け加えた。
「物見を出すなら、必ず二人一組にいたしましょう。敵を見つけても追わず、見つからぬうちに戻るよう命じるべきかと」
「……分かった」
俺は、近くにいた兵を呼び、東の林を確かめるよう命じた。
このときの俺は、まだ自分が敵の動きを調べる側にいると思っていた。
まさか、こちらの動きまで相手に読まれているとは、考えもしなかったのである。
*
昼を過ぎた頃、物見に出した二人が戻ってきた。
彼らによれば、東の林の奥に十数人の武装した男たちが集まっており、街道沿いの木陰には馬が二頭繋がれていたという。
男たちは槍や弓を持っていたが、旗は掲げておらず、どこの手勢なのかは分からなかった。
「……十数人か」
俺は、地図を見つめた。
先日の戦で現れた敵は五十人以上だった。
その一部が戻ってきたのだろうか。
あるいは、こちらの様子を探るために少人数を出しているだけなのかもしれない。
「……若殿」
十衛門が口を開いた。
「敵が十数人しか見えなかったからといって、それがすべてとは限りませぬ」
「……分かっている」
俺は頷いた。
初陣で敵の迂回に気づいた経験がある。
今度は、同じ失敗をしないつもりだった。
「……橋を攻めるふりをして、上流の浅瀬から回り込んでくる可能性があるな」
俺がそう言うと、十衛門は少しだけ目を細めた。
「そのような策も考えられます」
「なら、浅瀬の見張りを増やしておこう」
俺は、兵を呼んだ。
上流の浅瀬には、それまで二人ずつ交代で見張りを置いていたが、今日は四人に増やすことにした。
橋の近くにも弓を扱える兵を配置し、残りの者には荷駄を守らせる。
敵が正面から来ても、上流から回り込んできても、すぐに知らせを受けられるようにするつもりだった。
十衛門は俺の指示を聞きながら、何度か頷いた。
「若殿、以前よりも周囲をご覧になるようになりましたな」
俺は、少しだけ嬉しくなった。
「……そうか」
「はい。ただし、敵もまた、我らの様子を見ていることをお忘れなきよう」
俺は頷いた。
だが、その言葉の意味を、本当の意味で理解するのは、もう少し後のことだった。
*
翌朝、東の街道から一人の商人が駆け込んできた。
男は四十歳ほどで、着物の裾を泥で汚し、肩で息をしながら橋の手前に現れた。額には汗が滲み、片方の草鞋の緒が切れかけていた。
「お侍さま! どうか、お助けください!」
俺は、十衛門とともに男のもとへ向かった。
「……何があった」
「東の林の先で、荷を奪われました! 仲間が二人、捕まっております!」
男は、震える声で訴えた。
話によれば、男たちは塩と布を積んだ荷駄を運んでいたところ、林の中から現れた武装した者たちに囲まれ、荷を奪われたという。
男だけが逃げ出し、仲間二人はその場に残されたらしい。
「……敵は何人だった」
「十人ほどでございます! いえ、もっといたかもしれませぬ!」
俺は、眉を寄せた。
十人ほど。
昨日、物見が見つけた男たちと同じ一団かもしれない。
「……どこで襲われた」
男は、地図の上で街道が大きく曲がる場所を指した。
そこは坂下から東へ進んだ先にある、北側の丘が道へ迫り出した場所だった。
街道の片側は斜面、反対側には細い沢が流れている。
俺は、その地形を見つめた。
狭い道だ。
敵が荷駄を奪ったのなら、荷を運び出すために街道を使う必要があるだろう。
こちらが急げば、まだ追いつけるかもしれない。
「……十衛門」
俺は顔を上げた。
「兵を出そう」
十衛門は、すぐには答えなかった。
「……若殿、どのようにお考えですか」
「敵が十人ほどなら、こちらから兵を出して荷を取り戻せるかもしれない。捕まった商人も助けたい」
俺は、地図を指した。
「ただし、全員は出さない。橋と荷駄を守る兵を残し、十人ほどで様子を確かめる」
十衛門は、しばらく考えていた。
「……十人では、敵が多かった場合に危のうございます」
「なら、十五人はどうだ」
「それでも、敵の数が分からぬことに変わりはございませぬ」
俺は、唇を噛んだ。
確かに、そのとおりだ。
だが、商人二人が捕まっているという話を聞いて、何もしないわけにはいかなかった。
「……なら、まず物見を出す」
俺は言った。
「敵の様子を確かめ、荷がどこにあるのかを見つける。無理に戦うつもりはない」
十衛門は、ようやく頷いた。
「それならば、よろしいかと存じます」
俺は、少し安心した。
慎重に考えたつもりだった。
初陣のときのように、勢いだけで動こうとはしていない。
だから、今度は大丈夫だと思っていた。
*
物見に出した兵が戻ってきたのは、それから半刻ほど後だった。
報告によれば、商人が襲われたという場所には、確かに荷を積んだ馬が二頭繋がれており、その近くに十人ほどの武装した男たちがいたという。
男たちは街道沿いの木陰に集まり、何かを話していたらしい。
「……捕まった商人は」
俺が尋ねると、兵は首を振った。
「姿は見えませなんだ。ただ、荷のそばに人を縛ったような縄が落ちておりました」
俺は、眉を寄せた。
商人二人は、どこへ連れていかれたのだろう。
それとも、すでに別の場所へ移されたのか。
「……十衛門」
「はっ」
「敵は、荷を運び出す前に休んでいるのかもしれない」
十衛門は、地図を見つめた。
「その可能性はございます」
「……なら、今のうちに近づけば、荷を取り戻せるかもしれない」
俺は、しばらく考えた。
橋を守る兵を残し、十五人ほどで東へ進む。
敵が十人程度なら、数ではこちらが上回る。
ただし、敵が多かった場合には無理をせず引き返す。
俺は、そう考えた。
「……十五人を連れて、様子を確かめに行く」
十衛門は、少しだけ眉を寄せた。
「若殿」
「分かっている。無理に戦わない」
俺は、十衛門を見た。
「敵が多ければ、すぐに退く。……それでどうだ」
十衛門は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「……私も参ります」
俺は頷いた。
このとき、俺は自分が慎重に判断しているつもりだった。
だが、後になって考えれば、すでに敵の思惑どおりに動き始めていたのである。
*
俺たちは十五人の兵を連れ、東の街道へ向かった。
橋と荷駄を守るため、残りの十五人は坂下に置いてきた。
出発前、俺は残留する兵のまとめ役である年配の男に、敵が現れても無理に追わず、橋を守ることを優先するよう命じた。
男は深く頭を下げた。
「若殿も、どうかお気をつけて」
「……ああ」
俺は頷き、馬を進めた。
東へ続く街道は、坂下を離れるにつれて少しずつ狭くなっていった。
道の両脇には雑木林が広がり、木々の枝が頭上で重なり合っている。陽光は葉の隙間から細く差し込み、地面にはまだら模様の影を落としていた。
風が吹くたびに枝葉が揺れ、どこかで鳥が鳴く。
穏やかな景色だった。
だが、俺は馬の上で何度も周囲を見渡していた。
敵が隠れていないか。
林の中に不自然な動きはないか。
道の先に障害物はないか。
初陣の経験が、俺を慎重にさせていた。
「……十衛門」
「はっ」
「この道、少し狭すぎないか」
十衛門は、前方を見た。
「左様にございますな。荷駄が通るには、やや不便な道にございます」
「……もし、敵がここで待ち伏せしていたら」
「逃げ道が限られます」
俺は、少し考えた。
だが、物見は敵が十人ほどしかいないと言っていた。
それに、こちらは十五人いる。
無理に戦わず、様子を確かめるだけなら大丈夫だろう。
俺は、そう自分に言い聞かせた。
*
やがて、街道が大きく曲がる場所へ近づいた。
北側には土の斜面が迫り、南側には細い沢が流れている。
沢の向こうには背の高い草が生い茂り、その先は低い林になっていた。
俺は、馬を止めた。
「……ここだな」
十衛門が頷いた。
「左様にございます」
俺たちは、少し離れた場所から様子を窺った。
街道の先には、確かに荷を積んだ馬が二頭繋がれていた。
その近くには、槍を持った男たちが数人立っている。
俺は、目を凝らした。
十人ほど。
物見の報告どおりだ。
だが、何かがおかしい。
男たちは、荷を運び出そうとしていない。
馬も、ほとんど動いていない。
まるで、誰かを待っているようだった。
「……十衛門」
俺は、小声で言った。
「……あいつら、何をしているんだ」
十衛門は、目を細めた。
しばらくして、低い声で答えた。
「……若殿」
「何だ」
「……退きましょう」
俺は、思わず顔を上げた。
「……え?」
「この場所は、よろしくございませぬ」
十衛門は、周囲を見渡した。
「北は斜面、南は沢。道も狭うございます。ここで敵に囲まれれば、逃げ道が限られます」
俺は、改めて地形を見た。
確かに、そのとおりだ。
しかも、敵は荷を運び出す様子がない。
何かを待っている。
まさか。
俺は、背筋が冷たくなるのを感じた。
「……罠か」
十衛門は、静かに頷いた。
「その恐れがございます」
俺は、すぐに兵たちへ命じた。
「……退くぞ! 来た道を戻れ!」
兵たちが動き始めた。
だが、その瞬間だった。
北側の斜面から、鋭い声が響いた。
「今だ!」
次の瞬間、木々の間から矢が飛んできた。
*
最初の矢は、俺のすぐ前を歩いていた兵の肩に突き刺さった。
男が短く叫び、膝をつく。
続いて、二本、三本と矢が飛び、街道の土へ突き立った。
「伏せろ!」
十衛門が叫んだ。
俺は反射的に馬の首へ身を伏せたが、馬が驚いて大きく身をよじり、危うく振り落とされそうになった。
兵たちが盾を構え、槍を持った者が道の両側へ向き直る。
だが、北側の斜面には敵の姿が見えず、木々の間から矢だけが飛んでくる。
「……くそっ!」
俺は、歯を食いしばった。
罠だ。
完全に、誘い込まれた。
荷を奪われたという商人の話も、敵が十人ほどしかいないという情報も、すべて俺たちをここへ引き寄せるためのものだったのかもしれない。
「若殿! 馬を降りてくだされ!」
十衛門の声が飛んだ。
俺は慌てて馬から降り、道端の低い土手へ身を寄せた。
その直後、矢が馬の背後の地面へ突き立った。
馬が激しく嘶き、手綱を持った兵が必死に押さえる。
俺は、心臓が喉までせり上がるような感覚を覚えた。
怖い。
初陣のときと同じだ。
いや、今回はそれ以上だった。
なぜなら、ここへ兵を連れてきたのは俺だからだ。
俺の判断で、十五人が危険な場所へ入ってしまった。
「……十衛門!」
俺は叫んだ。
「どうすればいい!」
十衛門は、斜面の上を睨みながら答えた。
「まずは兵をまとめます! 散らばれば、一人ずつ討たれますぞ!」
俺は、周囲を見渡した。
兵たちは、矢を避けながら必死に身を寄せている。
肩を射られた男は、仲間に支えられていた。
俺は、深く息を吸った。
落ち着け。
今は、俺が命令を出さなければならない。
「……全員、道の西側へ集まれ! 負傷者を置いていくな!」
俺の声に、兵たちが動き始めた。
だが、そのとき、南側の沢の向こうからも人影が現れた。
槍を持った男たちが、草をかき分けながらこちらへ向かってくる。
十人。
いや、もっといる。
俺は、思わず息を呑んだ。
北側の斜面には弓兵。
南側の沢には槍兵。
そして、東の街道には荷駄を囲んでいた男たち。
俺たちは、三方から囲まれていた。
*
「……若殿!」
十衛門が、俺の肩を掴んだ。
「西へ退きますぞ!」
「……ああ!」
俺は頷いた。
だが、西へ続く道も狭い。
十五人が一度に走れば、列が乱れ、後ろの者が取り残される。
俺は、必死に考えた。
北側から矢が飛んでくる。
南側から槍兵が近づいている。
東には敵がいる。
西だけが、まだ空いている。
だが、いつまで空いているか分からない。
「……十衛門!」
「はっ!」
「……後ろの兵から退かせる! 俺たちは、少しだけここで持ちこたえる!」
十衛門は、一瞬だけ俺を見た。
それから、力強く頷いた。
「承知!」
俺は、兵たちへ叫んだ。
「負傷者を先に下がらせろ! 動ける者は、順に西へ退け! 槍を持つ者は、沢から来る敵を防げ!」
兵たちが動き始めた。
肩を射られた男が、仲間に支えられて西へ向かう。
ほかの兵たちも、少しずつ後退していく。
俺は、槍を握り直した。
手が震えている。
だが、今はその震えを気にしている暇がない。
南側の沢を渡ってきた敵兵が、こちらへ向かって槍を突き出した。
俺は、反射的に槍を構えた。
相手の穂先が、目の前へ迫る。
俺は、必死にそれを横へ払った。
木ではない。
本物の槍だ。
金属がぶつかる鈍い音が響き、腕に衝撃が走った。
敵兵が、さらに踏み込んでくる。
俺は、後ろへ下がった。
足元の石に踵が引っかかり、危うく転びそうになる。
その瞬間、十衛門の槍が横から伸び、敵兵の腕を打った。
男が叫び、後ろへ退く。
「若殿! 足元を!」
「……分かっている!」
俺は、歯を食いしばった。
分かっている。
だが、体が思うように動かない。
稽古では何度も繰り返したはずなのに、実際の戦場では、相手の槍がどこから来るのかさえ見失いそうになる。
それでも、俺は必死に踏みとどまった。
ここで逃げれば、後ろの兵たちが危ない。
俺は、そう自分に言い聞かせた。
*
どれほどの時間が経ったのか分からない。
実際には、ほんのわずかな間だったのだろう。
だが、俺には、ひどく長く感じられた。
矢が飛ぶ。
槍がぶつかる。
兵が叫ぶ。
足元の土が踏み荒らされ、沢の水が泥で濁っていく。
俺は、何度も後ろを振り返った。
負傷者は、どうにか西へ退いたらしい。
だが、まだ数人の兵が残っている。
十衛門は、その者たちをまとめながら、敵の槍を防いでいた。
「……若殿!」
十衛門が叫んだ。
「そろそろ退きますぞ!」
「……ああ!」
俺は頷いた。
だが、その瞬間、北側の斜面から飛んできた矢が、俺のすぐ隣にいた兵の太腿へ突き刺さった。
男が叫び、地面へ倒れる。
「……くそっ!」
俺は、反射的に駆け寄ろうとした。
だが、十衛門が俺の腕を掴んだ。
「若殿! お待ちくだされ!」
「……だが!」
「私が参ります!」
十衛門は、近くの兵に合図を送り、二人で負傷者を引きずるようにして後ろへ下がらせた。
俺は、その様子を見つめていた。
弥七の顔が、頭に浮かんだ。
また、誰かが死ぬのか。
俺の判断で、ここへ連れてきた兵が。
胸の奥が、冷たくなった。
*
ようやく西へ退き始めたとき、俺は背後から聞こえた声に振り返った。
「若殿! 敵が追ってまいります!」
街道の東側から、槍を持った男たちが近づいてきていた。
北側の斜面からも、弓兵が移動している。
このままでは、退く兵たちが背後から射られる。
俺は、必死に考えた。
何か、方法はないか。
道は狭い。
北側は斜面。
南側は沢。
西へ退くしかない。
だが、敵は追ってくる。
俺は、周囲を見渡した。
そのとき、街道の脇に倒れかけた大きな枯れ木があることに気づいた。
幹はすでに半分ほど腐り、根元が露出している。
もし、あれを倒せば。
俺は、十衛門へ叫んだ。
「……十衛門!」
「はっ!」
「あの木を、道へ倒せないか!」
十衛門は、俺の指差す方向を見た。
そして、すぐに頷いた。
「……やってみましょう!」
近くにいた兵三人が、槍の柄を使って枯れ木を押し始めた。
俺も駆け寄り、肩を当てた。
幹は重く、簡単には動かない。
だが、根元の土が少しずつ崩れ始めた。
「……もう少しだ!」
俺は、歯を食いしばった。
兵たちが声を合わせ、力を込める。
次の瞬間、枯れ木が大きく傾いた。
枝が周囲の木々にぶつかり、乾いた音を立てる。
そして、幹が街道を横切るように倒れ込んだ。
土埃が舞い上がった。
俺は、息を切らしながら後ろを振り返った。
敵兵たちが、倒れた木の前で足を止めている。
完全に道を塞げたわけではない。
だが、槍を構えたまま一斉に進むことは難しくなったはずだ。
「……今だ! 退け!」
俺は叫んだ。
兵たちが、一斉に西へ向かって動き始めた。
*
坂下の橋が見えたとき、俺はようやく息を吐いた。
橋の向こうでは、残してきた兵たちがこちらを見つけ、慌てて駆け寄ってきた。
俺たちは、負傷者を支えながら橋を渡り、陣の中へ戻った。
全員が戻ったことを確かめると、俺はその場に膝をついた。
息が苦しい。
喉が乾いている。
足が震えて、立っていられなかった。
「……若殿」
十衛門が、隣へ来た。
「……全員、戻りました」
俺は、顔を上げた。
「……本当か」
「はい。負傷者はおりますが、十五人全員、戻っております」
俺は、深く息を吐いた。
よかった。
その言葉が、胸の奥から湧き上がった。
だが、次の瞬間、別の感情が押し寄せてきた。
俺が、連れていったのだ。
あの危険な場所へ。
敵の罠かもしれないと気づきながら、なお進んでしまった。
商人を助けたいという気持ちは、本物だった。
だが、そのために兵たちを危険にさらしたことも、事実だった。
俺は、拳を握った。
「……十衛門」
「はっ」
「……俺の判断が、間違っていた」
十衛門は、黙っていた。
「敵の数を確かめたつもりだった。物見も出した。……それでも、罠に気づかなかった」
俺は、顔を伏せた。
「……あの場所へ、行くべきではなかった」
十衛門は、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開いた。
「……若殿」
「……何だ」
「間違いに気づかれたのなら、次は同じ間違いをなさらぬことです」
俺は、顔を上げた。
十衛門は、厳しい表情をしていた。
「今日の若殿は、敵の数を確かめようとなさいました。それは、間違いではございませぬ」
俺は、黙って聞いていた。
「ですが、敵が十人しか見えなかったことと、敵が十人しかいないことは、別にございます」
その言葉が、胸に刺さった。
俺は、敵の姿を見た。
だが、見えなかった敵のことを、十分に考えていなかった。
「……それに」
十衛門は、続けた。
「敵が荷を運び出さず、同じ場所に留まっていたことを、不審に思われたのでしょう」
「……ああ」
「ならば、その時点で退くべきでございました」
俺は、唇を噛んだ。
そのとおりだ。
俺は、違和感を覚えていた。
だが、目の前に荷があり、商人を助けられるかもしれないと思った途端、その違和感を押し殺してしまった。
「……分かった」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「次は、もっと慎重に考える」
十衛門は、静かに頭を下げた。
「それが、よろしゅうございます」
*
夕方になると、負傷者の手当てが終わり、兵たちは陣の周りに集まっていた。
肩に矢を受けた男は、傷口を布で固く押さえられ、顔をしかめながら横になっている。太腿を射られた男は、仲間に支えられて座っていた。
幸い、今のところ命を落とした者はいない。
だが、傷が悪くなればどうなるか分からない。
俺は、二人のそばへ行った。
「……すまなかった」
俺が頭を下げると、兵たちは驚いたように顔を上げた。
「若殿!」
「……俺の判断で、危険な場所へ連れていってしまった」
俺は、顔を伏せた。
「……すまない」
肩を射られた男が、慌てて首を振った。
「そのようなことを、おっしゃらないでくだされ!」
俺は、顔を上げた。
「……だが」
「我らは、若殿の命に従って参ったのでございます。戦で傷を負うことも、覚悟のうえにございます」
男は、苦しそうに笑った。
「それに、若殿があの木を倒してくださらなければ、もっとひどいことになっていたかもしれませぬ」
俺は、何も言えなかった。
枯れ木を倒したことは、確かに退却の助けになった。
だが、そもそも俺があの場所へ兵を連れていかなければ、こんな危険にさらすこともなかったのだ。
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
それだけ言って、立ち上がった。
*
夜になると、十衛門が地図を持ってきた。
俺は、火のそばに座り、今日の出来事を一つずつ書き留めた。
敵が現れた場所。
商人が駆け込んできた時刻。
物見が見つけた人数。
荷駄が置かれていた場所。
そして、伏兵が隠れていた斜面と沢。
俺は、地図を見つめた。
敵は、最初から俺たちを誘い込むつもりだったのだろうか。
もしそうなら、商人が逃げてきたことも、荷が見える場所に置かれていたことも、すべて計算されていたのかもしれない。
「……十衛門」
「はっ」
「……あの商人は、本当に襲われたのだろうか」
十衛門は、少しだけ眉を寄せた。
「……どういうことでございますか」
「敵が、わざと逃がしたのかもしれない」
俺は、地図を指した。
「助けを求める者が来れば、こちらは兵を出したくなる。……それを狙ったのではないか」
十衛門は、しばらく考えていた。
「……あり得る話にございます」
俺は、唇を噛んだ。
もしそうなら、敵は俺たちの心理まで利用していたことになる。
商人を助けたい。
荷を取り戻したい。
街道を守りたい。
その気持ちを、逆手に取られたのだ。
「……敵も、考えているんだな」
俺が呟くと、十衛門は静かに頷いた。
「左様にございます」
俺は、地図を見つめた。
初陣では、敵の迂回に気づいて荷駄を守った。
だから、少しは戦のことが分かるようになったつもりでいた。
だが、今日の敵は、俺が考えたつもりになっていることまで見抜いていたのかもしれない。
俺は、深く息を吐いた。
「……十衛門」
「はっ」
「……明日から、どうする」
十衛門は、少しだけ目を細めた。
「若殿は、どうお考えですか」
俺は、地図を見つめた。
また、その質問だ。
だが、今度は逃げるわけにはいかない。
俺は、しばらく考えた。
「……まず、敵がどこにいるのかを確かめる。ただし、こちらから深入りはしない」
十衛門は、黙って聞いていた。
「それから、橋と浅瀬の守りを固める。敵がこちらへ来るなら、地形を利用して迎え撃つ」
俺は、地図を指した。
「……今日のように、敵の都合のよい場所へ行くのは、もう嫌だ」
十衛門は、静かに頷いた。
「よろしいかと存じます」
俺は、少しだけ息を吐いた。
だが、十衛門は続けた。
「ただし、若殿」
「……何だ」
「敵が、こちらへ来なかったらどうなさいますか」
俺は、言葉に詰まった。
敵が来なければ、戦わずに済む。
それは、よいことのはずだ。
だが、敵が街道の東側を押さえたままなら、商人は通れない。
父から命じられた仕事を、果たせないことになる。
俺は、地図を見つめた。
守るだけでは、足りない。
だが、攻めれば、また罠にかかるかもしれない。
どうすればよいのか。
答えは、まだ出なかった。
*
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
火のそばで横になりながら、昼間の出来事を何度も思い返していた。
商人が駆け込んできたとき、俺は助けなければならないと思った。
物見が敵を十人ほど見つけたとき、こちらの兵なら何とかなるかもしれないと思った。
荷駄が見えたとき、もう少し近づけば取り戻せるかもしれないと思った。
そして、そのたびに、俺は自分に都合のよい可能性ばかり選んでいた。
慎重に考えたつもりだった。
だが、本当は、助けたいという気持ちに引っ張られていただけなのかもしれない。
俺は、目を閉じた。
吉乃の顔が、浮かんだ。
彼女は、死は避けられないと言った。
だが、助けようとすることが無駄になるわけではないとも言った。
俺は、その言葉を思い出していた。
人を助けたいと思うことは、間違いではない。
だが、そのために別の誰かを危険にさらしてよいわけでもない。
その違いを、俺はまだ十分に理解できていなかったのだろう。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
明日になれば、また判断を迫られる。
敵が現れるかもしれない。
商人が助けを求めてくるかもしれない。
兵の誰かが、傷を負うかもしれない。
そのたびに、俺は考えなければならない。
逃げずに。
だが、無茶もせずに。
俺は、目を開けた。
夜空には、星が輝いていた。
遠くで、川の流れる音が聞こえる。
その音を聞きながら、俺は静かに拳を握った。
今度こそ、敵の思惑に乗せられないようにしよう。
だが、その決意がどれほど難しいものなのか、俺はまだ知らなかった。
翌朝、敵が再び動き始めるまでは。




