第4話:嫁に懐かれたんだが、正直めちゃくちゃ怖いんだが!?
第4話 嫁に懐かれたんだが、正直めちゃくちゃ怖いんだが!?
「……もう一日ここにいてもいいですか?」
俺がそう尋ねると、目の前の使用人は困り果てた顔をした。
「若殿、それはなりませぬ」
「ですよね……」
「奥方様が、昨夜からずっとお探しでございます」
その言葉を聞いた瞬間、俺は再び藁の中へ潜り込んだ。
「若殿!」
「いません!」
「目の前におられます!」
駄目だ。
どう考えても、戻ったら殺される。
祝言の夜に花嫁を置き去りにして、納屋で一晩過ごしたのだ。
しかも相手は、あの斎藤道三の娘。
美濃のマムシと呼ばれた男の娘だぞ。
怒らせて無事で済むはずがない。
「……体調が悪いということにできませんか?」
「若殿は昨夜、たいそうお元気に走っておられたと聞いておりますが」
「…………」
見られていた。
俺は観念して藁から這い出した。
*
屋敷へ戻ると、廊下には使用人たちが並んでいた。
みんな妙な顔をしている。
笑いを堪えているようにも見える。
気のせいだろうか。
「若殿、奥方様がお待ちでございます」
「……はい」
俺は重い足取りで寝所へ向かった。
襖の前に立つ。
深呼吸をする。
大丈夫。
落ち着け。
相手は人間だ。
話せば分かる。
たぶん。
「……失礼します」
襖を開けると、濃姫が座っていた。
昨日と同じく、背筋をぴんと伸ばしている。
艶やかな黒髪。
整った顔立ち。
そして、涼しげな目。
やっぱり美人だ。
とんでもなく美人だ。
ただし、怖い。
「お帰りなさいませ、信長さま」
「た、ただいま戻りました……」
濃姫は静かに微笑んだ。
……え?
笑った?
昨日はほとんど表情を変えなかったのに。
「昨夜は、どちらへお出かけでしたの?」
「……納屋です」
「納屋?」
「はい……」
「まあ」
濃姫は目を丸くした。
「そのようなところで、何をなさっておいででしたの?」
俺は言葉に詰まった。
まさか、あなたが怖くて逃げました、とは言えない。
「……その、領内の暮らしを知るために」
「まあ」
「庶民の生活を体験してみようかと……」
「祝言の夜に?」
「…………」
駄目だ。
完全に不審者だ。
濃姫はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「ふふっ」
「……?」
「信長さまは、面白いお方でございますね」
面白い。
今、面白いと言ったのか。
馬鹿にされているのだろうか。
中学のときも、女子からそう言われることがあった。
大抵は、俺が何か失敗したときだった。
「……すみません」
「なぜ謝られるのです?」
「い、いえ……」
濃姫は首を傾げた。
そして、すっと俺のほうへ身を寄せてきた。
「ひっ!」
「……信長さま?」
「な、何でもありません!」
近い。
近すぎる。
昨日はあんなに無愛想だったのに、何なんだ。
濃姫は俺の袖をつまんだ。
「昨夜は、お寒くございませんでしたか?」
「だ、大丈夫です!」
「お体を冷やされてはなりませぬ」
「はい!」
「今宵は、私がおそばで温めて差し上げます」
「結構ですッ!!」
思わず大声が出た。
濃姫が目を瞬かせる。
「……結構?」
「あ、いや、その!」
まずい。
怒らせた。
絶対に怒らせた。
「ち、違うんです! お気持ちはありがたいんですけど!」
「けれど?」
「俺、暑がりなので!」
濃姫は俺をじっと見た。
「……昨夜は寒かったのでは?」
「…………」
しまった。
言い訳が破綻した。
濃姫は口元を袖で隠した。
「ふふふっ」
笑っている。
何がそんなに面白いんだ。
俺はまったく笑えない。
*
朝食の席でも、濃姫は妙に機嫌がよかった。
「信長さま、こちらをどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
濃姫が俺の膳に料理を取り分けてくれる。
焼き魚だった。
「…………」
魚。
嫌な記憶が蘇る。
徳川家康。
食中毒。
処刑。
俺は恐る恐る魚の匂いを嗅いだ。
「……信長さま?」
「い、いえ! 何でも!」
大丈夫。
腐っていない。
たぶん。
俺は魚を一口食べた。
普通に美味しかった。
よかった。
今度は誰も死なずに済みそうだ。
「お口に合いましたか?」
「はい! とても美味しいです!」
濃姫は嬉しそうに微笑んだ。
「それはようございました」
……何なんだろう。
昨日はあんなに怖かったのに。
今日はやたらと優しい。
もしかして、俺を油断させようとしている?
いや、考えすぎか。
でも、短刀を持っていたのは事実だ。
俺は警戒を解くわけにはいかなかった。
*
昼過ぎ。
俺はようやく一人になれた。
「……疲れた」
庭に面した縁側に腰を下ろす。
結婚って、こんなに大変なのか。
現代でも結婚生活は大変だと聞くが、戦国時代はさらに厄介だ。
離婚するにも、相手の父親が斎藤道三。
下手なことをすれば、戦争になるかもしれない。
つまり、俺は濃姫と仲良くしなければならない。
少なくとも、敵に回してはいけない。
「……よし」
俺は決意した。
まずは普通に会話できるようになろう。
夫婦なんだから、いつまでも逃げ回るわけにはいかない。
短刀の件だって、きっと何か事情があったのだ。
そうだ。
ちゃんと話せば分かるはずだ。
「信長さま」
「ひゃいっ!」
背後から声がした。
振り返ると、濃姫が立っていた。
心臓が止まるかと思った。
「の、濃姫!」
「まあ、そのように驚かなくとも」
濃姫は俺の隣に腰を下ろした。
近い。
やっぱり近い。
「信長さまは、私のことがお嫌いですか?」
「えっ!?」
突然の質問だった。
「そ、そんなことありません!」
「では、なぜ逃げてばかりおられるのです?」
「…………」
返答に困った。
あなたが怖いからです。
そう言えれば楽なのだが。
俺は必死に言葉を探した。
「……その、まだお互いのことをよく知らないので」
「はい」
「もう少し、ゆっくり仲良くなれたらな、と……」
濃姫は目を見開いた。
そして、ふっと表情を和らげた。
「……まあ」
何だ。
今の反応。
変なことを言っただろうか。
「信長さまは、お優しいのですね」
「……え?」
「私の気持ちを案じてくださるなんて」
いや、違う。
自分の身を案じているだけだ。
でも、そんなことは言えない。
「……はあ」
濃姫は嬉しそうに微笑んだ。
「私、信長さまのことをもっと知りとうございます」
「……はい」
「これから、たくさんお話しいたしましょうね」
「……はい」
濃姫が俺の手にそっと触れた。
「ひっ!」
「……信長さま?」
「な、何でもありません!」
濃姫は不思議そうに首を傾げた。
そして、なぜかますます嬉しそうに笑った。
……怖い。
この人、本当に何を考えているんだ。
*
夕方。
俺は家臣の一人から呼び止められた。
「若殿、少々よろしゅうございますか」
「……はい」
男は厳しい顔をしていた。
嫌な予感がする。




