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第37話:戦から帰ったら吉乃が俺を叱るんだが!?

 戦から戻って三日が経ったが、俺はまだ、夜になると川の音を聞くようになっていた。


 もちろん、城の寝所まであの川の音が届くはずはない。耳に入るのは庭木を揺らす風や、遠くの廊下を歩く夜番の足音ばかりで、それでも目を閉じれば、浅瀬を流れる水の音に混じって槍のぶつかる乾いた響きや、負傷した兵の呻き声が鮮明に蘇ってくるのだった。


 弥七が倒れたときの光景は、特に忘れられなかった。


 胸に矢を受けた弥七が、自分の身に起きたことを理解できないような顔で立ち尽くし、それからゆっくりと膝を折ったこと。駆け寄った俺の手を握り、かすれた声で娘のことを口にしたこと。そして、まだ温かかった指から、少しずつ力が抜けていったこと。


 俺は、あの手の感触を思い出すたびに、無意識に自分の手のひらを見つめてしまう。


 槍を握ってできた水膨れは、すでに乾き始めていた。


 傷は治るのに、記憶は薄れないらしい。


 それが良いことなのか悪いことなのか、今の俺には分からなかった。


     *


 朝の稽古を終えた俺は、城の一室で十衛門と向かい合っていた。


 目の前には、戦死した五人の兵について調べてもらった書付が置かれている。


 弥七のほかにも、妻子を残した者が二人いた。老いた母親を養っていた者が一人、まだ妻を迎えていない若者が一人。残された家の事情はそれぞれ異なり、田畑を持つ家もあれば、日々の働きによって暮らしを立てている家もあった。


 俺は、書付を一枚ずつ読み返した。


「……弥七の家は、城下から少し離れたところにあるのか」


「はい。東の村にございます。田畑はわずかで、弥七自身も普段は人足仕事などをして暮らしていたようです」


「妻は、働いているのか」


「農繁期には近隣の家を手伝っておりますが、幼い娘がおりますゆえ、毎日というわけにはまいりませぬ」


 俺は、紙に目を落とした。


 弥七が死んだことで、家の暮らしは一変するだろう。


 父は、戦死者の家にはしかるべき沙汰をすると言っていた。すでに担当の家臣が調べを進めているらしいが、どの家に何が与えられるのかは、まだ決まっていないという。


「……十衛門」


「はっ」


「俺の手元にある金は、どのくらいだ」


 十衛門は、わずかに眉を上げた。


「若殿のお手元にございますか」


「ああ。父上から預かっている軍用の金ではなく、俺が自分の裁量で使えるものだ」


 十衛門は、少し考えた。


「若殿個人のご用向きに使える銭ならば、いくらかございます。ただし、何にお使いになるかによっては、帳面に残す必要がございましょう」


「……そうか」


 俺は、しばらく黙っていた。


 戦死した五人の家すべてに、十分な金を渡すことは難しいかもしれない。それに、俺が勝手に金を配り始めれば、父の沙汰に先んじることにもなる。


 だが、弥七の妻と娘のことが、どうしても頭から離れなかった。


 俺は、筆を取った。


「……弥七の家に、見舞いを届けたい」


 十衛門は、すぐには答えなかった。


「若殿」


「分かっている。弥七だけを特別扱いするのは、公平ではないのだろう」


 俺は、書付に並んだ五人の名を見つめた。


「ほかの四人にも家族がいる。俺は、その者たちのことをほとんど知らない。……だからといって、弥七の家だけに何かをするのは、おかしいのかもしれない」


 十衛門は黙っていた。


「だが、あいつの娘が二歳だと知ってしまった。妻が待っていると知ってしまった。……知っているのに、何もしないのは嫌なんだ」


 俺は、顔を上げた。


「これは、織田家の沙汰ではない。俺個人の見舞いだ」


 十衛門は、長い間、俺を見つめていた。


 やがて、静かに口を開いた。


「……若殿のお心は、承りました」


 俺は、少しだけ息を吐いた。


「……止めないのか」


「若殿がご自分の銭を、どなたにお渡しになるか。それを逐一、私が止める立場にはございませぬ」


 十衛門は、そう言って書付を畳んだ。


「ただし、父上の沙汰とは別のものだということは、明らかにしておかれたほうがよろしいでしょう」


「……分かった」


 俺は頷いた。


 十衛門は、それ以上何も言わなかった。


 見舞いを届ける使いの手配についても、誰が金を出したのかについても、あえて詳しく尋ねようとはしなかった。


 俺は、その沈黙の意味を理解していた。


     *


 見舞いを届けたのは、その日の午後だった。


 俺自身が弥七の家を訪ねることも考えたが、若殿が突然現れれば、遺された妻はかえって恐縮するだろうと十衛門に言われ、結局、信頼できる年配の家人に託すことにした。


 渡したのは、俺の手元にあった銭の一部と、米を買うための金だった。


 大金ではない。


 それでも、幼い娘を抱えた家が、しばらくの間、食べるものに困らずに済む程度にはなるはずだった。


 家人には、織田家からの正式な褒賞ではなく、若殿個人からの見舞いであることを伝えるように命じた。


 弥七の妻から、返事が届いたのは夕方だった。


 使いの家人によれば、彼女は最初、金を受け取ることをためらったという。夫が戦で死んだのは武家に仕える者として当然のことであり、若殿から特別な見舞いをいただく理由がない、と。


 だが、家人が幼い娘のために使ってほしいと伝えると、彼女はしばらく黙ったあと、深く頭を下げて受け取ったそうだ。


「……泣いていたか」


 俺が尋ねると、家人は少し考えた。


「奥方は、涙をお見せになりませなんだ。ただ、お子さまが父上はいつ帰るのかと尋ねたときには、返事ができずにおられました」


 俺は、何も言えなかった。


 その光景を想像するだけで、胸の奥が痛んだ。


「……そうか」


 俺は、家人を下がらせた。


 机の上には、戦の記録が置かれている。


 川の位置や敵の動き、兵の配置を書き留めた紙だ。


 俺は、それを広げた。


 弥七の死を思い出さないためではない。


 むしろ、忘れないためだった。


 だが、何度見返しても、あの男を救う方法は見つからなかった。


     *


 翌日、俺は十衛門を連れて、再び村々を見回ることにした。


 戦のあと、東の街道が通れるようになったことは確認できていたが、敵が退いたからといって、すぐに以前の暮らしへ戻れるわけではない。通行を控えていた商人たちが再び荷を運び始めるには、街道が安全であることを知らせる必要があり、村々でも、兵が近くまで来たという噂が広がっているらしかった。


 父から許されているのは、あくまで村の様子を見て回り、話を聞くことだけだ。


 勝手に税を変えたり、人を動員したりすることはできない。


 それでも、現場を見なければ分からないことがある。


 俺は、馬を進めながら、以前訪ねた三つの村のことを思い出していた。


 熱を出した者がいた村。


 水の取り分を巡って揉めていた村。


 そして、吉乃のいる村。


 最後の村を思い浮かべたとき、胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが広がった。


 前の人生で失った女性が、今は生きている。


 それだけで、俺は何度も救われていた。


 だが、同時に恐ろしくもあった。


 吉乃は、前の人生で、俺と出会ってから二か月ほどで熱を出し、亡くなった。


 今の人生でも、同じことが起きるとは限らない。


 それでも、あの日が近づいてくることを思うと、胸の奥が冷たくなった。


 弥七の死を見たばかりの俺には、なおさらだった。


     *


 吉乃の村へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 村の入り口では、畑仕事を終えた男たちが鍬を担いで歩いていた。道端には薪が積まれ、家々の軒先には洗った布が干されている。


 以前訪れたときと変わらぬ光景だったが、今日はどこか静かに感じられた。


 井戸のそばへ近づくと、見覚えのある後ろ姿があった。


 吉乃だ。


 粗末な小袖の袖をたくし上げ、桶に水を汲んでいる。陽光を受けた黒髪が肩のあたりで揺れ、井戸の縁に置かれた桶の水面には、彼女の顔がぼんやりと映っていた。


 俺は、思わず足を止めた。


 生きている。


 その当たり前の事実が、今の俺にはひどくありがたかった。


「……吉乃」


 声をかけると、彼女が振り返った。


 大きな目が俺を捉え、次の瞬間、少し驚いたように見開かれる。


「……若殿さま?」


 吉乃は慌てて桶を置き、頭を下げた。


「これは、ようこそおいでくださいました」


「……ああ」


 俺は、どうにか笑おうとした。


 だが、うまくいかなかった。


 吉乃は、そんな俺の顔をじっと見つめた。


「……若殿さま」


「何だ」


「お顔の色が、あまりよろしくございませんね」


 俺は、思わず目を逸らした。


「……そうか?」


「はい。お疲れでございますか」


「……少しな」


 吉乃は、しばらく俺を見つめていた。


 それから、井戸のそばに置いてあった小さな腰掛けを指差した。


「よろしければ、こちらへお座りくださいませ」


 俺は、少し迷った。


 若殿が村の井戸端で腰掛けに座り込むなど、十衛門に何か言われるかもしれない。


 だが、振り返ると、十衛門は少し離れた場所で村の男と話していた。


 こちらへ目を向ける気配はない。


 俺は、腰掛けに座った。


 吉乃は桶から柄杓で水を汲み、俺に差し出した。


「冷たい水でございますが」


「……ありがとう」


 俺は、柄杓を受け取った。


 井戸水は、ひんやりとしていた。


 口に含むと、乾いていた喉が少し潤った。


 俺が飲み終えるのを待ってから、吉乃は静かに尋ねた。


「……戦へ行かれたと、聞きました」


 俺は、顔を上げた。


「……ああ」


「お怪我は、ございませんでしたか」


「ない。……手に少し傷ができたくらいだ」


 俺が手のひらを見せると、吉乃は小さく眉を寄せた。


「……痛そうでございますね」


「大したことはない」


「そうおっしゃる方ほど、無理をなさるものです」


 俺は、思わず苦笑した。


「……お前、俺を叱っているのか」


 吉乃は、少しだけ目を細めた。


「叱っているつもりはございませんが、若殿さまはご自分のお体を、あまり大切になさっておられぬように見えます」


 俺は、言葉に詰まった。


 吉乃は続けた。


「戦へ行かれるのは、お立場のある方のお務めなのでしょう。ですが、だからといって、お怪我をしてもよいわけではございません」


 その言葉は、穏やかだった。


 だが、妙に胸に刺さった。


 俺は、しばらく黙っていた。


 吉乃は、俺の顔を見つめている。


 前の人生で、何度も見た顔だった。


 だが、今の彼女は、俺のことをほとんど知らない。


 それでも、こうして心配してくれる。


 俺は、胸の奥が少しだけ苦しくなった。


     *


「……吉乃」


「はい」


「……一人、死んだんだ」


 自分でも、なぜそんな話を始めたのか分からなかった。


 だが、口に出してしまうと、もう止められなかった。


「……弥七という男だ。俺より少し年上で、妻と二歳の娘がいた」


 吉乃は、黙って聞いていた。


「出陣前に話したんだ。娘が、ようやく言葉を覚え始めたと嬉しそうに言っていた」


 俺は、柄杓を握る手に力を込めた。


「……俺は、必ず帰れと言った」


 吉乃は、何も言わなかった。


「家族が待っているんだから、生きて帰れと。……そう言ったんだ」


 俺は、井戸の水面を見つめた。


 昼の陽光が、水面に細かな光を散らしている。


「……だが、あいつは死んだ」


 声が、少し震えた。


「俺の目の前で、矢を受けて倒れた。……最後まで、娘のことを気にしていた」


 吉乃は、しばらく黙っていた。


 俺は、続けた。


「……何もできなかった。医者を呼べと言っても、間に合わなかった」


 井戸のそばを、風が通り抜けた。


 干してあった布が、かすかに揺れる。


 遠くで、子どもたちの笑い声が聞こえた。


 俺は、その声を聞きながら、弥七の娘のことを考えていた。


「……残された妻と娘に、少しだけ金を送った」


 吉乃が、顔を上げた。


「……そうでございましたか」


「だが、金を送ったところで、弥七は戻らない」


 俺は、苦笑した。


「……結局、俺は何をしたかったんだろうな」


 吉乃は、しばらく考えているようだった。


 それから、静かに口を開いた。


「……若殿さま」


「……何だ」


「人は、いつか必ず死にます」


 俺は、顔を上げた。


 吉乃の表情は、穏やかだった。


「どれほど大切に思う方でも、いつまでも傍にいていただけるわけではございません。病で亡くなる方もおられますし、戦で命を落とされる方もおられます」


 俺は、黙って聞いていた。


「……死は、避けられません」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。


 前の人生で、吉乃が死んだときのことを思い出した。


 熱に浮かされた彼女の手を握り、何度も名前を呼んだ。


 医者を呼び、薬を探し、必死に祈った。


 だが、吉乃は死んだ。


 そして俺は、その現実を受け入れられなかった。


 だから、自分も死んだ。


 もう一度、彼女に会うために。


「……分かっている」


 俺は、低い声で答えた。


 吉乃は、少しだけ首を傾げた。


「……ですが、若殿さま」


「……何だ」


「死を避けられぬからといって、助けようとすることが無駄になるわけではございません」


 俺は、顔を上げた。


 吉乃は、井戸の縁にそっと手を置いた。


「その弥七さまも、きっと生きて帰りたかったのでしょう。奥方さまと、お子さまのもとへ」


「……ああ」


「若殿さまが生きて帰れとおっしゃったことは、間違っておりませぬ」


 俺は、何も言えなかった。


「それに、残された奥方さまとお子さまへ見舞いを送られたのでしょう」


「……ああ」


「ならば、そのお二人がこれから暮らしてゆくために、少しでも役立つのではございませんか」


 俺は、ゆっくりと顔を上げた。


 吉乃は、静かに続けた。


「亡くなった方を思うことは、大切でございます。ですが、亡くなった方を思うあまり、生きている方まで不幸になってしまっては、悲しゅうございます」


 俺は、その言葉を聞きながら、胸の奥に何かが沈んでいくのを感じた。


 弥七は、もう戻らない。


 だが、妻と娘は生きている。


 俺が送った金は、弥七を生き返らせることはできない。


 それでも、二人が明日を生きるための助けにはなるかもしれない。


 そして。


 俺自身も、まだ生きている。


 前の人生では、吉乃を失った悲しみに耐えられず、自分の命を絶った。


 だが、今の吉乃は、そのことを知らない。


 知らないまま、俺に生きることの意味を語っている。


 俺は、しばらく何も言えなかった。


     *


「……吉乃」


「はい」


「……お前は、怖くないのか」


 吉乃は、少し驚いたように目を見開いた。


「何がでございますか」


「……死ぬことだ」


 吉乃は、しばらく考えていた。


 井戸の向こうでは、畑仕事を終えた女たちが籠を抱えて歩いている。


 誰かが吉乃に声をかけたが、彼女は軽く会釈を返しただけで、すぐに俺へ視線を戻した。


「……怖くない、と申せば嘘になります」


 吉乃は、静かに答えた。


「痛いのも、苦しいのも嫌でございますし、できることなら長く生きていたいと思います」


 俺は、少しだけ安心した。


 彼女が、死を恐れない人間ではないことに。


「……なら、なぜそんなに落ち着いていられるんだ」


 吉乃は、小さく笑った。


「落ち着いているように見えるだけかもしれませぬ」


 それから、井戸の水面へ目を落とした。


「ただ、どれほど恐れても、いつか来るものは来るのでしょう。ならば、その日が来るまでは、できるだけ穏やかに暮らしたいと思うのです」


 俺は、黙っていた。


「朝になれば水を汲み、畑を手伝い、腹が減れば飯を食べる。そうして一日を過ごし、また明日を迎える。……それだけのことでございますが、私は、そういう暮らしが好きでございます」


 吉乃は、少し照れたように笑った。


 俺は、その笑顔を見つめた。


 前の人生で、何度も見た笑顔だった。


 だが、今は少し違って見えた。


 彼女は、ただ明るく、優しいだけの女性ではない。


 自分なりに死を考え、そのうえで生きることを選んでいる。


 俺は、初めてそのことに気づいたような気がした。


     *


 しばらくして、吉乃は立ち上がった。


「……若殿さま」


「……何だ」


「お話を伺って、少し安心いたしました」


 俺は、思わず眉を上げた。


「……安心?」


「はい。戦からお戻りになって、誰かが亡くなったことを、これほど悲しんでおられるのでしょう」


 吉乃は、俺を見つめた。


「それなら、若殿さまは、きっと兵の方々を大切になさるのでしょうね」


 俺は、返事に詰まった。


 そんな立派な人間ではない。


 今日だって、弥七のことばかり考えていた。


 ほかの四人のことは、名前を覚えるので精一杯だった。


「……俺は、まだ何も知らない」


 俺は、正直に答えた。


「戦のことも、領地のことも。……人を守る方法も、よく分からない」


 吉乃は、少しだけ目を細めた。


「でしたら、これからお知りになればよろしいのではございませんか」


 俺は、思わず笑った。


「……簡単に言うな」


「難しいことは、私には分かりませぬので」


 吉乃は、悪びれずに答えた。


 俺は、久しぶりに声を出して笑った。


 戦から帰って以来、初めてだったかもしれない。


 吉乃も、つられるように笑った。


 その笑顔を見ているうちに、胸の奥に張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ気がした。


     *


 帰る時刻が近づくと、十衛門が迎えに来た。


 村の男たちから話を聞き終えたらしく、手には何枚かの書付を持っている。


「若殿。そろそろお戻りになりませぬか」


「……ああ」


 俺は立ち上がった。


 吉乃も、慌てて頭を下げた。


「本日は、ありがとうございました」


「……礼を言うのは、俺のほうだ」


 吉乃は、少し不思議そうな顔をした。


「……何もしておりませぬが」


「いや。……話を聞いてくれた」


 俺がそう言うと、吉乃は小さく微笑んだ。


「それでしたら、いつでもお聞きいたします」


 俺は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 だが、同時に、前の人生の記憶が頭をよぎった。


 彼女は、まだ生きている。


 だが、いつまで生きていられるのか。


 俺には分からない。


 吉乃は、死は避けられないと言った。


 その言葉を、俺はまだ受け入れられずにいた。


 少なくとも、彼女の死についてだけは。


「……吉乃」


「はい」


「……また来てもいいか」


 吉乃は、少し驚いたように目を見開いた。


 それから、柔らかく笑った。


「もちろんでございます」


 俺は、ほっとした。


 だが、吉乃は続けた。


「ただし、次はもう少しお元気なお顔でお越しくださいませ」


 俺は、思わず苦笑した。


「……努力する」


「それから、井戸の水を汲むお稽古も、まだ終わっておりませぬよ」


 俺は、今度こそ笑った。


「……覚えていたのか」


「もちろんでございます」


 吉乃は、いたずらっぽく目を細めた。


「若殿さまが桶をひっくり返されるところを、もう一度見とうございますので」


「……ひどいな」


 俺がそう言うと、吉乃は声を立てて笑った。


 その笑い声が、春の風に乗って広がっていった。


     *


 村を離れると、十衛門が馬を寄せてきた。


「……若殿」


「何だ」


「少し、お顔の色が戻られましたな」


 俺は、思わず顔をしかめた。


「……そうか?」


「はい。先ほどまでは、死人のようなお顔をなさっておられました」


「……お前、言い方というものがあるだろう」


 十衛門は、珍しく小さく笑った。


「失礼いたしました」


 俺は、前を向いた。


 街道の両脇には、春の草が生い茂っている。


 遠くでは、農夫たちが畑仕事を続けていた。


 戦へ向かった日と、同じような景色だった。


 だが、今の俺には、少しだけ違って見えた。


 弥七は、もう帰らない。


 その事実は、変わらない。


 だが、妻と娘は生きている。


 俺も、生きている。


 そして、吉乃も。


 俺は、馬の手綱を握り直した。


「……十衛門」


「はっ」


「明日から、また稽古を頼む」


 十衛門は、少しだけ眉を上げた。


「もちろんでございます」


「……今度は、もう少しまともに槍を使えるようになりたい」


 十衛門は、頷いた。


「では、明日は少し厳しくいたしましょう」


 俺は、思わず顔をしかめた。


「……今までも十分厳しかっただろう」


「戦場では、敵はもっと厳しゅうございます」


 俺は、返す言葉がなかった。


 まったく、そのとおりだ。


     *


 その夜、俺は自室で、再び戦の記録を広げていた。


 川の位置。


 敵が現れた林。


 荷駄を置いた場所。


 伏兵が回り込んできた方向。


 そして、五人の死者の名。


 俺は、一人ずつ目を通した。


 弥七の名の横には、小さく書き加えた言葉がある。


 ――妻と娘へ見舞いを届けた。


 それを見つめながら、俺は吉乃の言葉を思い出していた。


 死は避けられない。


 どれほど大切な人でも、いつまでも傍にいてもらえるわけではない。


 亡くなった人を思うあまり、生きている人まで不幸になってしまっては悲しい。


 俺は、筆を置いた。


 前の人生で、吉乃を失ったとき。


 俺は、自分の命を絶った。


 あのときの俺には、それ以外の道が見えなかった。


 だが、今の吉乃は、俺に別の道があることを教えようとしているのかもしれない。


 もちろん、彼女自身はそんなつもりではないのだろう。


 ただ、自分の考えを話しただけだ。


 それでも、その言葉は俺の胸に深く残っていた。


 俺は、窓の外を見た。


 春の夜風が、庭木を揺らしている。


 遠くで、虫の声が聞こえた。


 吉乃は、今頃何をしているのだろう。


 夕飯を食べ、家族と話し、明日の支度をしているのかもしれない。


 その何気ない暮らしが、これからも続いてほしい。


 俺は、心からそう願った。


 だが。


 もし、また吉乃が病に倒れたら。


 もし、前の人生と同じように、命を落とすことになったら。


 俺は、今度こそ、その死を受け入れられるのだろうか。


 答えは、出なかった。


 俺は、しばらく窓の外を見つめていた。


 やがて、机の上の紙を丁寧に畳み、引き出しへしまった。


 明日になれば、また稽古が始まる。


 村々の様子も確かめなければならない。


 父から命じられた仕事もある。


 そして、吉乃に会いに行くことも。


 やるべきことは、いくらでもある。


 俺は、まだ何も知らない。


 だが、知らないままではいられない。


 弥七の死を、無駄にはしたくなかった。


 吉乃の言葉も、忘れたくなかった。


 俺は、静かに目を閉じた。


 明日も、生きていこう。


 そう思いながら、ゆっくりと息を吐いた。

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