第36話:敵を退けたのに勝った気がしないんだが!?
夕暮れの川辺には、戦が始まる前と変わらない水音が響いていた。
浅瀬に転がる石の間を澄んだ水が流れ、対岸の雑木林では、枝から枝へ移った小鳥が短く鳴いている。西へ傾いた陽光は川面に細かな光を散らし、遠くの山並みを淡い朱色に染めていたが、その穏やかな景色とは裏腹に、俺たちの足元には踏み荒らされた草と折れた矢が散乱し、泥の上には血の乾きかけた跡がいくつも残されていた。
つい半刻ほど前まで、ここでは人間同士が槍を突き合わせ、弓を射かけ、互いの命を奪おうとしていたのだ。
俺は川岸の少し高くなった場所に立ち、対岸の林を見つめていた。
敵の姿は、もう見えない。
だが、姿が見えないことと、敵がいなくなったことは違う。先ほどの戦でそれを思い知らされた俺には、木々の間に広がる暗がりの一つ一つが、今にも矢を放ってきそうな場所に見えていた。
「若殿、あまり前へ出られませぬよう」
背後から十衛門の声がした。
振り返ると、彼は槍を肩に担ぎ、川向こうを警戒しながらこちらへ歩いてきた。額には汗が滲み、袖口には返り血らしい黒ずんだ染みがついていたが、その足取りには疲労を感じさせるものがなかった。
「……分かっている」
俺は答え、半歩だけ後ろへ下がった。
十衛門はそれを確かめると、俺の隣に立った。
「権六どのが、物見を出されました。敵がどこまで退いたか確かめるまでは、こちらから動きませぬ」
「……追わないのか」
「追えば、また林の中で待ち伏せされるやもしれませぬ。こちらは敵の数も、背後の様子も分かっておりませぬゆえ」
俺は頷いた。
川向こうに見えた敵は五十人ほどだったが、こちら側の林からも十数人が現れた。彼らが最初から同じ一団だったのか、さらに別の兵が控えているのかさえ、まだ分かっていない。
こちらには百二十人いる。
数の上では優勢かもしれないが、知らない林へ踏み込めば、その優勢が簡単に覆ることもあるのだろう。
「……権六は、最初から追わないつもりだったのか」
「敵の狙いが分からぬうちは、深追いせぬおつもりだったのでしょう。ただ、向こうがあれほど早く退くとは、権六どのも考えておられなかったかもしれませぬ」
十衛門はそう言って、川の下流へ視線を移した。
そこでは数人の兵が長い枝を使い、水際に落ちた槍や盾を引き寄せていた。少し離れた場所には負傷者が集められ、布を裂いて傷口を押さえる者や、水を汲んでくる者が忙しく行き来している。
そのさらに奥には、動かなくなった兵たちが横たえられていた。
俺は、無意識に目を逸らした。
*
やがて、勝家が兵を集めて状況を確かめ始めた。
川の手前に置かれた荷駄は無事で、兵糧や矢を奪われた形跡もない。こちら側の林へ回り込んできた敵も、荷を守る兵たちに阻まれ、ほとんど何もできずに退いていた。
敵が街道を押さえるために設けたらしい粗末な柵も、川向こうに残されているという。
「若殿が右手の林に気づかれなければ、荷駄を荒らされていたやもしれませぬな」
勝家は俺に向かってそう言った。
褒められているのだと分かったが、俺はどう答えればよいのか分からなかった。
「……たまたまだ」
「たまたまでも、気づかれたことに変わりはございませぬ」
勝家は、あっさりと言った。
「ただし、次は敵が姿を見せる前に、こちらから林を確かめておかねばなりませぬ。あの場所を空けたのは、我らの落ち度でもございます」
その言葉に、俺は少し驚いた。
勝家は俺の働きを認めながら、同時に自分たちの判断が十分ではなかったことも認めている。
勝ったのだから問題ない、とは考えないのだ。
「……権六」
「はっ」
「俺は、川向こうの敵ばかり見ていた。右の林に気づいたのも、偶然、枝が揺れたからだ」
勝家は黙って聞いていた。
「もし、風が強かったら、気づかなかったと思う」
「左様でしょうな」
思いのほか簡単に肯定され、俺は言葉に詰まった。
勝家は、対岸の林へ顎を向けた。
「ゆえに、次は偶然に頼らぬようにするのでございます。若殿が気づかれたことは手柄ですが、次も同じように見つけられるとは限りませぬ」
俺は、その言葉を胸の中で繰り返した。
偶然に頼らない。
今回の俺は、たまたま敵を見つけただけだ。
それでも荷駄を守れたのは事実であり、次に同じことが起きたときには、もっと早く気づけるようにしなければならない。
俺がそんなことを考えていると、物見の一人が戻ってきた。
「権六さま! 敵は東の山道へ退いております。川向こうには、負傷した者を運んだ跡がございますが、追手を誘う動きは見えませぬ!」
「旗は」
「二つとも引き払われております!」
勝家は頷き、近くの家臣に命じた。
「明るいうちに川向こうを確かめる。ただし、林の奥へは入るな。柵を壊し、街道が通れることを見届けたら戻れ」
命令を受けた兵たちが動き始める。
俺は、その背中を見送った。
敵は退いた。
街道も取り戻せそうだ。
これで、俺たちの勝ちなのだろう。
だが、胸の中には、勝利を喜ぶ気持ちが少しも湧いてこなかった。
*
負傷者の数を確かめる作業は、思っていた以上に時間がかかった。
槍を受けて動けない者もいれば、矢傷を負いながら自分の足で歩いている者もいる。鎧の下に傷を隠している者までいたため、一人ずつ声をかけ、衣服を緩めて確かめなければならなかった。
俺は、十衛門に連れられて負傷者の集められた場所へ向かった。
草の上には、血で汚れた布が積み重ねられていた。傷口を洗うために汲まれた水は、何度も替えられたのだろう、近くの地面が黒く濡れている。
矢を受けた兵が、歯を食いしばりながら腕を押さえていた。
別の兵は、脛を布で固く縛られ、仲間の肩を借りて座っている。
少し離れたところでは、腹に傷を負った男が横たわり、苦しそうな呼吸を繰り返していた。
「……医者は」
俺は尋ねた。
「呼びに行かせております」
十衛門が答えた。
「ただ、ここまで来るには時間がかかりましょう」
「……そうか」
俺は、横たわる男を見た。
顔色が悪い。
額には大粒の汗が浮かび、唇が乾いていた。
現代なら、病院へ運ぶことを考えるのだろう。
だが、ここには救急車もなければ、十分な薬もない。
医者が来たところで、助かるとは限らない。
俺は、自分の無力さを改めて思い知らされた。
やがて、負傷者の世話をしていた兵が、十衛門に小さく首を振った。
十衛門は男のそばに膝をつき、しばらくその顔を見つめたあと、静かに手を合わせた。
俺は、その意味を理解するまでに少し時間がかかった。
また、一人死んだのだ。
戦が終わったように見えても、人はまだ死んでいく。
*
日が山の端に近づく頃、ようやく味方の損害がまとまった。
出陣した百二十人のうち、その場で命を落とした者が四人。
傷を負って後に息を引き取った者が一人。
重傷者が三人、軽傷者が九人。
死者は、合わせて五人になった。
俺は、報告を聞きながら、その数字を頭の中で繰り返した。
五人。
たった五人、と言う者もいるかもしれない。
百二十人のうち五人なら、戦の損害としては少ないほうなのかもしれない。
だが、その五人の中には弥七がいた。
妻と、二歳の娘がいる男だ。
出陣前、俺に向かって笑っていた男だ。
彼の家では、今頃、夕飯の支度をしているのだろうか。
妻は、夫が帰ってきたら温かいものを食べさせようと考えているかもしれない。
娘は、父親の顔を覚えているだろうか。
まだ二歳だ。
今日の朝、父親が出かけたことさえ、明日には忘れてしまうかもしれない。
だが、帰ってこないことには、いつか気づく。
俺は、唇を噛んだ。
「……若殿」
十衛門が声をかけた。
「死者の名を、お確かめになりますか」
俺は、顔を上げた。
「……ああ」
十衛門は、近くの兵から名を書き留めた紙を受け取った。
紙には、五人の名と、それぞれの所属が記されていた。
俺は、一人ずつ目を通した。
弥七。
それから、俺の知らない四人の名前。
年齢も、家族の有無も、どんな人間だったのかも分からない。
俺は、そのことが急に恐ろしくなった。
弥七のことを知っているのは、たまたま出陣前に話したからだ。
もし、あのとき声をかけていなければ、俺は彼の名さえ覚えていなかったかもしれない。
そして、残りの四人については、今もほとんど何も知らない。
「……十衛門」
「はっ」
「この者たちの家族は、どうなる」
十衛門は、少し考えてから答えた。
「家によって異なります。田畑を持つ者もおれば、ほかの者のもとで働く者もおります。残された者が家を継げる場合もあれば、難しい場合もございましょう」
「……織田家から、何か渡されるのか」
「戦で働いた者への褒美や、遺された家への沙汰はございます。ただ、どの家にも同じように与えられるわけではございませぬ」
俺は、紙に目を落とした。
弥七の名が、そこにある。
たった二文字だった。
人間一人の人生が、紙の上ではこんなにも小さくなるのかと思った。
「……そうか」
俺は、紙を十衛門へ返した。
だが、弥七の名だけは、いつまでも頭から離れなかった。
*
川向こうへ渡った兵たちが戻ったのは、空が薄紫色に変わり始めた頃だった。
敵が築いた柵は壊され、街道を塞いでいた木材も脇へ寄せられたという。
敵の亡骸が三つ残されていたが、それ以外の者は負傷者を連れて退いたらしく、林の奥へ続く足跡がいくつも見つかった。
勝家は、兵たちを前にして言った。
「街道は取り戻した。敵も退いた。これ以上、無理に追う必要はない」
兵たちの間に、安堵したような空気が広がった。
何人かが小さく笑い、隣の者の肩を叩いている。
生き残ったことを喜んでいるのだろう。
俺は、その様子を見つめていた。
彼らが笑うことを、責める気にはなれなかった。
むしろ、笑えることが羨ましかった。
俺は、まだ自分が生きていることを喜べずにいた。
勝家は続けた。
「今夜はこの近くで陣を取る。負傷者を先に休ませ、明朝、城へ戻る」
兵たちは、それぞれの持ち場へ散っていった。
俺も十衛門に促され、川から少し離れた場所へ移動した。
そこでようやく、自分の足がひどく疲れていることに気づいた。
膝が重く、太腿が張っている。
槍を握っていた手のひらには、小さな水膨れができていた。
稽古では何度も槍を振ってきたが、今日ほど体が疲れたことはなかった。
実際に槍を突いた回数など、数えるほどしかない。
それでも、全身の力を使い果たしたようだった。
*
夜になると、川辺には小さな火がいくつも灯された。
湿った薪はなかなか燃えず、白い煙を上げていた。風向きが変わるたび、その煙が顔にかかり、俺は何度も目を細めた。
兵たちは火の周りに集まり、握り飯を食べたり、水を飲んだりしている。
鎧を脱いで肩を揉む者もいれば、疲れ切って横になっている者もいた。
俺の前にも、握り飯が二つ置かれた。
だが、食欲はなかった。
昼から何も食べていないはずなのに、胃の奥が重く、米を口に運ぶ気になれない。
「若殿。お食べくだされ」
十衛門が言った。
「……食べたくない」
「それでも、お食べくだされ。明日も歩かねばなりませぬ」
俺は、しばらく握り飯を見つめた。
やがて、一つを手に取った。
冷えた米は少し硬くなっていたが、噛めば塩の味がした。
口の中が乾いていて、うまく飲み込めない。
竹筒の水を少し飲み、ようやく喉へ流し込んだ。
「……十衛門」
「はっ」
「お前は、初陣のとき、どうだった」
十衛門は、握り飯を食べる手を止めた。
火の向こうでは、兵たちが何かを話している。
遠くから、川の流れる音が聞こえた。
「……怖うございました」
十衛門は、静かに答えた。
「今の若殿より、よほど情けなかったかもしれませぬ」
俺は、思わず顔を上げた。
「……本当か」
「はい。敵の姿を見た途端、足が竦みました。槍を握る手も震え、声を出そうとしても喉が詰まりました」
十衛門は、少しだけ笑った。
「そのとき、年上の兵に背中を叩かれましてな。痛くて、ようやく我に返りました」
「……そうだったのか」
「戦場に慣れる者はおります。ですが、怖くなくなるわけではございませぬ」
十衛門は、火の中へ小枝を一本放り込んだ。
乾いた音を立てて、火の粉が舞い上がった。
「怖さを忘れた者ほど、無茶をいたします」
俺は、その言葉を考えた。
今日の俺は、何度も怖くて動けなくなった。
だが、もし恐怖を感じなかったら、川向こうへ飛び出していたかもしれない。
林の中へ追いかけていたかもしれない。
そして、死んでいたかもしれない。
「……十衛門」
「はっ」
「俺は、弥七に必ず帰れと言った」
十衛門は、黙っていた。
「妻と娘がいると聞いて、だから生きて帰れと。……それなのに、俺の目の前で死んだ」
俺は、握り飯を置いた。
「……あいつは、俺が助けるべきだったんじゃないか」
十衛門は、しばらく何も言わなかった。
火が薪を食う音だけが、二人の間に響いていた。
「若殿」
やがて、十衛門が口を開いた。
「弥七は、若殿をお守りするためだけに、あの場にいたわけではございませぬ」
俺は、顔を上げた。
「……どういうことだ」
「あの者は、織田家の兵として戦っておりました。若殿もまた、同じ戦場に立っておられました。互いに命を守ろうとすることはできても、必ず守れるとは限りませぬ」
十衛門は、俺をまっすぐ見た。
「若殿が弥七に生きて帰れと仰ったことは、間違いではございませぬ。ですが、その言葉で、弥七の命を預かったわけではないのです」
俺は、何も答えられなかった。
頭では分かる。
俺が「帰れ」と言ったからといって、弥七が必ず帰れるわけではない。
それでも、あの笑顔を思い出すと、どうしても自分の言葉が空々しく感じられた。
「……俺は、何かしてやりたい」
ぽつりと呟いた。
十衛門は、少しだけ眉を動かした。
「……弥七に、でございますか」
「……ああ」
俺は、火を見つめた。
「いや、弥七にはもう何もできない。……だが、妻と娘がいる」
十衛門は黙っていた。
「まだ二歳なんだ。父親が死んだことも、きっとよく分からない」
俺は、膝の上で拳を握った。
「……せめて、残された二人が困らないようにできないだろうか」
十衛門は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「若殿のお気持ちは、分かりまする」
俺は顔を上げた。
「……なら」
「ですが、今はお休みくだされ。遺された家への沙汰は、城へ戻ってから確かめることもできます」
俺は、少し不満だった。
だが、十衛門の言うことも分かる。
俺は、まだ戦場にいる。
弥七の妻と娘がどこに住んでいるのかさえ、詳しく知らない。
今ここで、何かを決められるわけではないのだ。
「……分かった」
俺は、再び握り飯を手に取った。
冷えた米を、少しずつ噛んだ。
*
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
地面に敷いた藁の上へ横になっても、体の奥が落ち着かなかった。目を閉じるたびに、川を渡ってくる敵兵の顔や、矢を受けて倒れた弥七の姿が浮かんできた。
特に、弥七の最後の言葉が耳から離れなかった。
娘。
帰る。
彼は、最後まで家族のことを考えていた。
俺は、仰向けになって夜空を見上げた。
雲の切れ間から、星が見えていた。
現代でも見たことのある星空のはずなのに、周囲に明かりが少ないせいか、ひどく鮮やかに見える。
遠くでは、夜番の兵が小さな声で言葉を交わしていた。
時折、馬が鼻を鳴らす。
そのたびに、俺は反射的に体を起こしそうになった。
敵が来たのではないか。
また矢が飛んでくるのではないか。
そんな考えが、頭から離れない。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
今日、俺は初めて本当の戦を経験した。
敵の迂回に気づき、荷駄を守ることはできた。
それは、確かに一つの働きだったのだろう。
だが、その一方で、五人の兵が死んだ。
弥七も、その中にいる。
もし、俺がもっと早く敵に気づいていたら。
もし、もっと槍を上手に扱えていたら。
もし、弥七を後ろへ下がらせていたら。
考え始めると、いくらでも「もし」が浮かんでくる。
だが、どれだけ考えても、弥七は戻ってこない。
俺は、その事実を受け入れられずにいた。
*
翌朝、川辺には薄い霧が立ち込めていた。
夜の間に冷えた空気が水面を覆い、対岸の林は白い靄の向こうにぼんやりと浮かんでいる。
兵たちは夜明け前から動き始めていた。
荷をまとめる者。
馬に水を飲ませる者。
負傷者を運ぶための担架を作る者。
そして、亡くなった兵たちを運ぶ準備をする者。
俺は、その様子を黙って見つめていた。
弥七の亡骸は、ほかの死者たちとともに布で包まれていた。
昨日まで、あの布の下には笑う人間がいた。
娘の話をしていた。
俺に向かって、深く頭を下げていた。
今は、もう何も言わない。
俺は、ゆっくりと近づいた。
そして、五人の亡骸の前で膝をついた。
弥七だけではない。
ほかの四人にも、家族がいたのかもしれない。
待っている者がいたのかもしれない。
俺は、深く頭を下げた。
何を言えばよいのか分からなかった。
謝るべきなのか。
感謝するべきなのか。
それとも、何も言わないほうがよいのか。
結局、俺は黙ったまま、しばらく頭を下げていた。
*
帰路についた兵の列は、出陣したときよりも静かだった。
昨日は、道中で冗談を言い合う声や、家族の話をする声が聞こえていた。
今日は、ほとんど誰も大きな声を出さない。
負傷者を乗せた荷車が、ゆっくりと轍を進んでいる。
車輪が石に乗り上げるたび、苦しそうな呻き声が聞こえた。
俺は、馬の上からその様子を見つめていた。
行きと同じ街道だ。
同じ田畑。
同じ山並み。
同じ春の空。
だが、俺には、まるで別の場所に見えた。
道端では、農夫が畑を耕していた。
兵の列に気づくと、手を止めて頭を下げる。
昨日と同じ光景だった。
だが、その農夫は、俺たちが何を見てきたのか知らない。
五人の兵が死んだことも。
弥七に二歳の娘がいることも。
きっと、知らない。
俺は、馬の首筋を見つめた。
戦に勝った。
敵を退け、街道を取り戻した。
父に報告すれば、一定の働きを認めてもらえるかもしれない。
だが。
俺は、少しも嬉しくなかった。
*
城へ戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。
門の前には、帰還を待っていた者たちが集まっていた。
兵の姿を見つけると、ほっとした顔をする者。
誰かの名を呼びながら、列の中を探す者。
負傷者の姿を見て、慌てて駆け寄る者。
俺は、その光景を見つめていた。
その中に、弥七の妻がいるのではないかと思った。
まだ若い女性が、幼い子どもの手を引いて立っている姿を想像した。
だが、俺には、どの顔が誰の家族なのか分からない。
弥七の妻が、ここへ来ているのかどうかも分からなかった。
「……若殿」
十衛門が、隣で声をかけた。
「まずは、信秀さまへご報告を」
俺は頷いた。
馬から降り、城の中へ向かった。
*
父は、広間で俺たちを待っていた。
勝家が進み出て、敵の数や動き、川辺での戦の様子を報告する。
俺は、その少し後ろに座っていた。
父は、時折短く質問を挟みながら、最後まで黙って聞いていた。
「……敵は退いたか」
「はっ。街道を塞いでいた柵も壊し、通行できることを確かめております」
「こちらの損害は」
「死者五名。重傷三名、軽傷九名にございます」
父は、静かに頷いた。
「……そうか」
その声に、特別な感情は感じられなかった。
俺は、少しだけ胸が痛んだ。
だが、父は続けた。
「死者の家には、しかるべき沙汰をする。負傷者の手当ても怠るな」
「はっ」
勝家が頭を下げた。
父は、俺へ視線を向けた。
「信長」
「……はい」
「初陣は、どうであった」
俺は、答えに詰まった。
怖かった。
足が震えた。
槍をまともに使えなかった。
敵の迂回には気づいたが、弥七を救えなかった。
言いたいことはいくつもあった。
だが、どれも言葉にならなかった。
しばらくして、俺はようやく口を開いた。
「……怖うございました」
父は、黙っていた。
「敵が近づいてくると、足が動きませなんだ。槍を構えても、手が震えました」
俺は、膝の上で拳を握った。
「……ただ、右手の林に敵がいることに気づき、荷駄を守るための知らせを出すことはできました」
父は、勝家を見た。
勝家が頷いた。
「若殿のお働きにございます。あれがなければ、荷駄を荒らされていたやもしれませぬ」
父は、再び俺を見た。
「……そうか」
そして、静かに言った。
「よく見ておったな」
俺は、顔を上げた。
父に褒められた。
それは、嬉しいはずだった。
だが、胸の奥にある重いものは、少しも軽くならなかった。
「……父上」
「何だ」
「……五人、死にました」
父は、黙っていた。
「そのうちの一人は、妻と二歳の娘がおります」
俺は、顔を伏せた。
「……出陣前に、生きて帰れと申しました」
父は、しばらく俺を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「信長」
「……はい」
「お前が戦へ出れば、これからも人は死ぬ」
俺は、顔を上げた。
父の表情は、厳しかった。
「敵も死ぬ。味方も死ぬ。お前が正しい判断をしても、死ぬ者は出る」
俺は、何も言えなかった。
「それでも、お前は兵を率いねばならぬ」
父は、俺をまっすぐ見た。
「死者を忘れるな。だが、死者だけを見て、生きている者を見失うな」
俺は、その言葉を胸の中で繰り返した。
死者だけを見て、生きている者を見失うな。
弥七は、もう戻らない。
だが、妻と娘は生きている。
俺は、ゆっくりと頭を下げた。
「……はい」
*
広間を出ると、廊下の向こうに濃姫が立っていた。
薄い色の小袖をまとい、黒髪をきちんと結い上げている。いつもと変わらぬ凛とした姿だったが、俺の顔を見ると、その目元がわずかに緩んだ。
「……信長さま」
「……ただいま」
俺がそう言うと、濃姫は静かに頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
それから、俺の顔をじっと見つめた。
「……お怪我は」
「ない」
俺は答えた。
「……少し、手が痛いくらいだ」
濃姫は、俺の手を取った。
手のひらには、槍を握り続けたせいでできた水膨れがあった。
濃姫は、その傷を見つめた。
「……ご無事で、何よりにございます」
俺は、何も言えなかった。
濃姫の手は、温かかった。
その温かさに触れた途端、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ気がした。
「……濃姫」
「はい」
「……俺は、怖かった」
濃姫は、黙って聞いていた。
「敵が近づいてきたとき、足が震えた。槍も、まともに使えなかった」
俺は、苦笑しようとした。
だが、うまく笑えなかった。
「……情けないだろう」
濃姫は、ゆっくりと首を振った。
「いいえ」
その声は、はっきりしていた。
「怖いと思われたのなら、それだけ命の重さを知っておられるのでしょう」
俺は、顔を上げた。
濃姫は、俺を見つめていた。
「ですが、信長さま」
「……何だ」
「次に戦へ出られるときは、今日よりも少しだけ強くなってお戻りくださいませ」
俺は、思わず笑いそうになった。
慰めてくれるのかと思ったら、最後は稽古の話か。
いかにも濃姫らしい。
「……分かった」
俺は、小さく頷いた。
「次は、もう少しまともに槍を使えるようにする」
濃姫は、ようやく微笑んだ。
「それでこそ、信長さまにございます」
*
その夜、俺は自室で一人、机に向かっていた。
目の前には、紙と筆が置かれている。
今日の戦について、忘れないうちに書き留めておこうと思ったのだ。
川の位置。
敵が現れた林。
荷駄を置いた場所。
敵が迂回してきた方向。
俺は、思い出せる限りのことを紙に記した。
川向こうの敵が、なぜあの場所で踏みとどまっていたのか。
なぜ、こちら側の林を十分に確かめなかったのか。
もし、敵の迂回に気づくのが遅れていたら、何が起きていたのか。
考えれば考えるほど、分からないことが増えていった。
俺は、筆を置いた。
紙の端には、五人の死者の名を書き留めていた。
弥七。
その名を見つめる。
彼の妻と娘は、今頃どうしているのだろう。
父は、死者の家にはしかるべき沙汰をすると言った。
それは、織田家としての務めなのだろう。
だが、それだけで十分なのだろうか。
俺は、弥七の顔を思い出した。
妻と娘の話をするとき、少し照れくさそうに笑っていた。
娘がようやく言葉を覚え始めたのだと、嬉しそうに話していた。
その娘は、もう父親に会えない。
俺は、膝の上で拳を握った。
金を渡したところで、弥七は戻らない。
それでも、残された二人が少しでも困らずに暮らせるなら。
俺は、もう一度筆を取った。
紙の端に、小さく書き加えた。
――弥七の妻と娘。
そして、その横に、もう一つ言葉を記した。
――何かできることはないか。
俺は、しばらくその文字を見つめていた。
戦には勝った。
街道を取り戻し、荷駄を守り、敵を退けた。
父にも、働きを認めてもらえた。
だが、俺は少しも勝った気がしなかった。
それでも、今日の出来事を忘れてはならない。
弥七の死も。
ほかの四人の死も。
自分が震えて動けなかったことも。
そして、偶然とはいえ、敵の迂回に気づけたことも。
すべてを覚えておかなければならない。
俺は、紙を丁寧に折りたたみ、机の引き出しへしまった。
窓の外では、春の夜風が木々を揺らしていた。
その音を聞きながら、俺は静かに目を閉じた。
明日になれば、また稽古が始まる。
領地のことも考えなければならない。
そして、弥七の妻と娘のことも。
やるべきことは、いくらでもある。
俺は、まだ何も知らない。
だが、知らないままではいられない。
今日、五人の兵が死んだ。
その事実を胸に刻み、俺はこれからも生きていかなければならない。
そう思いながら、俺はゆっくりと息を吐いた。




