第35話:初陣で槍を握ったら足が震えてくるんだが!?
戦場へ向かう道は、驚くほど穏やかだった。
春の陽光が街道を照らし、田の畦には小さな草花が咲いている。遠くの山々は薄い霞に包まれ、風が吹くたびに若葉がさらさらと音を立てた。
道端では農夫が鍬を振るっていた。兵の列に気づくと手を止め、泥のついた手を膝に当てて深く頭を下げる。
そのすぐ向こうでは、子どもが二人、追いかけっこをしていた。
俺たちは、これから人を殺しに行く。
なのに、世の中は何事もないように動いている。
そのことが、ひどく不思議だった。
「若殿。手綱を少し緩めなされ」
隣を進む土山十衛門に声をかけられ、俺は自分の手元を見た。
革の手綱を握る指が白くなっていた。
「……これでいいか」
「はい。馬まで緊張させてはなりませぬ」
十衛門は前を向いたまま答えた。
左眉の端に残る古傷が、陽光を受けて白く浮かんでいる。
その顔には、普段と変わらぬ落ち着きがあった。
俺は少し腹が立った。
こっちは、朝から胃が痛いというのに。
「……お前は平気なのか」
「何がでございます」
「これから戦うことだ」
十衛門は、少しだけこちらを見た。
「平気なわけがございませぬ」
「……そうは見えないが」
「若殿。怖い顔をしておれば、敵が逃げてくれるわけではございませぬ」
それはそうだ。
だが、もう少し何かないのだろうか。
俺が黙っていると、十衛門は続けた。
「それより、足元をご覧くだされ」
「……足元?」
「昨夜の雨で道が緩んでおります。馬を急がせれば、足を取られますぞ」
俺は視線を下げた。
確かに、街道には深い轍が刻まれ、その底に濁った水が溜まっていた。
荷を積んだ馬が通るたび、泥が跳ねる。
草鞋を履いた兵たちは、滑りやすい場所を避けながら歩いていた。
俺は手綱を緩め、馬の歩幅に合わせて体を揺らした。
戦う前に落馬して死ぬ。
そんな間抜けな結末だけは避けたい。
*
今回の兵を率いるのは、柴田権六勝家だった。
大柄な体に厚い肩。日に焼けた首筋には太い筋が浮かび、声を張り上げると、街道の後ろまでよく響いた。
「荷駄は後ろへ回せ!」
「槍持ちは間を空けすぎるな!」
「勝手に列を離れるなよ!」
勝家が命じるたび、兵たちは素早く動いた。
百二十人という数は、現代の感覚ではそれほど多くない。
学校の一学年ほどだろうか。
だが、細い街道に百人以上が並ぶと、列は思いのほか長くなる。
先頭が曲がり角を抜けても、最後尾はまだ手前にいる。
兵たちは槍や弓を携え、鎧の上から荷を背負っていた。腰には水を入れた竹筒を下げ、草鞋の替えを結びつけている者もいる。
荷駄には握り飯や干した食べ物、矢の束などが積まれていた。
俺は、その列を見渡した。
出陣前には、百二十人もいれば五十人程度の敵には勝てるのではないかと思っていた。
だが、実際にこうして歩いてみると、全員が一度に戦えるわけではないと分かる。
道は狭い。
林もある。
川もある。
前にいる兵が倒れれば、後ろの兵は進めない。
どれほど人数がいても、戦える場所が限られているのだ。
「……十衛門」
「はっ」
「百二十人いても、全員で一度に戦えるわけではないんだな」
十衛門は頷いた。
「左様にございます」
「……では、後ろの兵は何をする?」
「前の兵が疲れれば代わります。敵が回り込めば、それを防ぎます。荷駄を守る者も必要にございます」
俺は、もう一度列を見た。
戦とは、単に人数の多いほうが勝つものではない。
その人数を、どこで、どう使うか。
それが重要なのだろう。
頭では分かる。
だが、実際に自分が指揮を執れと言われたら、何もできる気がしなかった。
*
昼前、先に出ていた物見が戻ってきた。
男は馬から飛び降りると、勝家の前に膝をついた。
「権六さま! 敵は川向こうの林におります!」
「数は」
「見えたところで五十余り! ただし、林の奥にも人の気配がございます!」
「旗は」
「今川の紋は見えませぬ。見慣れぬ旗が二つ!」
「馬は」
「三頭ほど!」
「荷駄は」
「見えませぬ!」
勝家は、顎に手を当てた。
「……長居するつもりはないか」
俺は顔を上げた。
「……なぜだ?」
勝家がこちらを見た。
「若殿。五十人もいれば、食い物が要ります」
「……ああ」
「荷が見えぬということは、近くに根拠地があるか、長く居座るつもりがないか。あるいは林の中に隠しているか」
俺は頷いた。
敵の数だけではなく、食料や荷の有無からも動きを考える。
父が軍議で言っていたことを思い出した。
勝家は物見に尋ねた。
「川の深さは」
「浅瀬では膝ほどにございます。ただし、石が多く、足場は悪うございます」
「ほかに渡れる場所は」
「上流に一か所。下流は深く、馬では難しいかと」
勝家は、しばらく考えた。
「……川の手前で止まる。先に渡るな」
命令が伝わると、兵たちは街道から少し広い場所へ移動した。
そこは川沿いの低い平地で、片側には雑木林、反対側には田が広がっていた。
田にはまだ水が張られておらず、乾いた土の表面に細かなひびが入っている。
川幅は、十数歩ほど。
水は澄んでいたが、ところどころに大きな石があり、流れが白く泡立っていた。
向こう岸には葦が生い茂り、その奥に暗い林が続いている。
木々の間は、昼間だというのに薄暗かった。
俺は、その林を見つめた。
あそこに、人がいる。
俺たちを殺そうとする人間が。
そう考えた途端、喉がひどく渇いた。
*
最初の矢は、何の前触れもなく飛んできた。
ひゅっ。
短く、鋭い音。
次の瞬間、俺の少し後ろで鈍い音がした。
「ぐあっ!」
振り返ると、兵の一人が肩を押さえて倒れていた。
指の間から、赤い血が溢れている。
肩には、矢が刺さっていた。
「伏せろ!」
十衛門の怒声が響いた。
俺は反射的に身を屈めた。
続けて、矢が飛んでくる。
地面に突き刺さる音。
盾に当たる乾いた音。
誰かの悲鳴。
馬が甲高く嘶き、後ろ脚で地面を蹴った。
兵たちは慌てて盾を立て、槍を構える。
俺は、その場にしゃがみ込んだまま動けなかった。
目の前に、矢が一本刺さっている。
矢羽が、まだ小さく震えていた。
あと少し位置が違えば、俺の体に刺さっていたかもしれない。
そう思った瞬間、背筋が冷たくなった。
「若殿!」
十衛門が俺の肩を掴んだ。
「後ろへ!」
俺は頷こうとした。
だが、足が動かなかった。
膝が震えている。
力を入れても、うまく立ち上がれない。
自分の体なのに、自分のものではないようだった。
「……くそ」
小さく呟いた。
情けない。
あれほど稽古をしたのに。
槍を握っているだけで、精一杯だった。
*
川向こうの茂みが揺れた。
槍を持った男たちが姿を現す。
数は二十ほど。
頭に布を巻いた者。
簡素な胴丸を着た者。
鎧もつけず、槍だけを握っている者もいた。
彼らは、こちらへ向かって叫んだ。
「織田の犬ども!」
「ここから先は通さぬぞ!」
声が川面を渡ってくる。
俺は、思わず息を止めた。
敵だ。
だが、怪物ではない。
俺たちと同じ人間だ。
若い者もいれば、年配の者もいる。
彼らにも家族がいるのかもしれない。
それでも、今は互いに殺し合おうとしている。
「槍を揃えろ!」
勝家が叫んだ。
「勝手に前へ出るな!」
兵たちは槍を構えた。
長い穂先が、川向こうへ向けられる。
俺も十衛門の隣で槍を構えた。
だが、手のひらに汗が滲み、柄が滑りそうになった。
敵が浅瀬へ踏み込んでくる。
水が跳ねる。
石を踏む音が聞こえる。
二十歩。
十五歩。
十歩。
俺は、思わず後ずさった。
「若殿!」
十衛門が叫んだ。
「槍先を下げすぎです!」
俺は慌てて持ち直した。
その瞬間、敵の一人がこちらへ駆けてきた。
俺と同じくらいの年齢の男だった。
口を大きく開け、何かを叫んでいる。
槍の穂先が、俺の胸へ向けられた。
俺は、反射的に目を閉じた。
がつん。
硬い音がした。
「目を開けろ!」
十衛門の怒声。
俺は、はっとして目を開けた。
十衛門の槍が、敵の槍を横へ払っていた。
そして、次の瞬間。
十衛門が敵の胸元へ槍を突き出した。
男が短く呻いた。
膝を折る。
そのまま、水の中へ倒れた。
赤いものが、水面に広がった。
俺は、動けなかった。
十衛門が人を殺した。
目の前で。
あまりにも、あっけなく。
「若殿!」
十衛門が叫んだ。
「戦場で目を閉じてはなりませぬ!」
「……あ、ああ」
「敵は、待ってくれませぬ!」
俺は、必死に頷いた。
だが、頭の中は真っ白だった。
*
戦は、俺が想像していたようなものではなかった。
大勢が一斉に突撃し、刀を振り回す。
そんな光景を思い浮かべていた。
だが、実際には違った。
槍を構えて睨み合う。
誰かが一歩進む。
誰かが後ずさる。
矢が飛ぶ。
悲鳴が上がる。
その繰り返しだった。
敵も、簡単には近づいてこない。
こちらも、むやみに川を渡らない。
互いに相手の隙を探し、少しずつ位置を変えている。
だが、ひとたび槍が届く距離になれば、すべてが一瞬だった。
「ぐあっ!」
近くで、兵が倒れた。
太腿に槍を受けている。
仲間が二人がかりで引きずり、後ろへ下げた。
別の場所では、敵兵が水の中へ倒れていた。
川が、薄く赤く染まっている。
俺は、胃の奥がひっくり返るような感覚を覚えた。
吐きそうだった。
だが、吐いている暇もなかった。
「若殿! 右です!」
十衛門の声。
俺は、慌てて右を見た。
敵の一人が、こちらへ回り込もうとしていた。
俺は槍を構えた。
今度こそ、目を閉じなかった。
敵が近づく。
槍を突き出す。
俺も、必死に槍を出した。
がつん。
穂先が、相手の槍に当たった。
手が痺れた。
相手が、さらに踏み込んでくる。
俺は、思わず後ろへ下がった。
足が、ぬかるみに取られた。
「うわっ!」
体勢が崩れる。
その瞬間、十衛門が横から槍を突き出した。
敵が後退する。
「足元を見ろと申したでしょう!」
十衛門が怒鳴った。
「……す、すまん!」
「謝る暇があれば、立ちなされ!」
俺は、必死に立ち上がった。
情けない。
本当に、情けない。
稽古では、少しずつ槍を扱えるようになってきたと思っていた。
だが、実際の戦場では、何もできない。
敵の動きを見るだけで精一杯だった。
*
しばらくすると、敵の動きが変わった。
川向こうの兵たちは、こちらへ槍を突き出しながらも、なかなか踏み込んでこなくなった。
矢も、最初ほど飛んでこない。
俺は、荒い息を吐きながら林を見た。
敵は、何をしているのだろう。
こちらを攻めたいのなら、もっと強く押してくるはずだ。
だが、敵は一定の距離を保っている。
まるで、俺たちをこの場所に釘づけにしているようだった。
そのとき、ふと視界の端に何かが動いた。
こちら側の林。
川から少し離れた、街道の脇だ。
枝が、不自然に揺れている。
風だろうか。
俺は空を見た。
木々の上の葉は、ほとんど動いていない。
なのに、低い茂みだけが揺れている。
さらに目を凝らすと、木の幹の間に黒い影が見えた。
一つ。
二つ。
いや、もっといる。
俺は、息を呑んだ。
「……十衛門」
「はっ!」
「あそこだ!」
俺は、街道脇の林を指差した。
「……人がいる!」
十衛門が、すぐに視線を向けた。
その表情が変わった。
「……伏兵か!」
俺は、慌てて続けた。
「川向こうの敵は、俺たちをここに引きつけているんじゃないか!?」
十衛門は、すぐに近くの兵へ命じた。
「権六どのへ知らせよ! 右手の林に敵影あり!」
兵が駆け出した。
俺は、林を見つめた。
影が動いている。
こちらへ近づいてくる。
しかも、その先には荷駄があった。
兵糧。
矢。
水。
そして、負傷者を運ぶための道具。
もし、あそこを襲われたら。
「……荷駄が危ない!」
俺は叫んだ。
十衛門が頷いた。
「若殿、よくお気づきになられました!」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
初めてだった。
戦場で、自分の判断が役に立った。
だが、喜んでいる暇はなかった。
勝家の怒声が響いた。
「右手の林へ備えろ!」
兵たちが動く。
後方にいた槍持ちが、荷駄の前へ回った。
弓兵が数人、林へ向けて矢を番える。
俺は、その様子を見ていた。
勝家は、迷わなかった。
敵の姿がはっきり見える前に、守りを固めたのだ。
次の瞬間。
林の中から、男たちが飛び出してきた。
十数人。
槍を持った者。
刀を抜いた者。
彼らは、荷駄へ向かって駆けてきた。
「射よ!」
勝家の命令。
弓弦が鳴った。
矢が、林へ向かって飛んでいく。
敵の一人が倒れた。
別の男が、慌てて木の陰へ隠れた。
残った者たちは、槍を構えた兵たちに阻まれ、足を止めた。
俺は、思わず息を吐いた。
間に合った。
もし、あのまま気づかなければ、荷駄を襲われていたかもしれない。
俺は、初めて戦場で何かを守れたのだ。
*
だが、敵はすぐには退かなかった。
林の中から矢が飛んでくる。
荷駄を守る兵たちが、盾を構えた。
勝家は、川向こうの敵を警戒しながら、後方へ兵を回していた。
俺は、その動きを見つめた。
百二十人。
最初は、多いと思っていた。
だが、川向こうの敵を抑え、荷駄を守り、負傷者を運び、林の伏兵にも備えるとなると、決して余裕はない。
勝家が、何度も兵の位置を変えている理由が分かった。
俺は、十衛門に尋ねた。
「……俺たちは、どうすればいい?」
「ここを守ります」
十衛門は答えた。
「若殿は、勝手に前へ出られませぬよう」
「……分かった」
俺は槍を構え直した。
敵が近づいてくる。
今度は、先ほどほど体が動かなくなることはなかった。
怖い。
もちろん、怖い。
だが、十衛門の言葉を思い出した。
槍先を下げるな。
足元を見ろ。
目を閉じるな。
俺は、必死にそれを守った。
敵の一人が、こちらへ槍を突き出してきた。
俺は、槍の柄を横へ動かした。
相手の穂先が逸れる。
十衛門が、すぐに横から槍を突き出した。
敵が後退した。
俺は、荒い息を吐いた。
倒せなかった。
だが、今度は自分の力で槍を受け流せた。
ほんの少し。
本当に、ほんの少しだけ。
稽古で覚えたことが、役に立った。
*
敵は、少しずつ後退し始めた。
林の中へ引いていく。
川向こうの兵たちも、姿を消し始めていた。
勝家が叫んだ。
「追うな! 川を越えるな!」
俺は、ようやく息を吐いた。
終わったのか。
そう思った。
そのときだった。
「若殿!」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、弥七がいた。
槍を握り、こちらへ駆けてくる。
顔は泥で汚れ、額には汗が浮かんでいた。
「……弥七?」
俺は、少し安心した。
生きていた。
あの若い足軽が。
妻と、二つになる娘がいると言っていた男が。
「若殿! お怪我はございませぬか!」
「ああ! 俺は大丈夫だ!」
俺は答えた。
弥七は、ほっとしたように笑った。
「それは、ようございました!」
その笑顔を見た瞬間。
俺は、背後の林に動く影を見た。
川向こうではない。
こちら側の、少し離れた藪の中だ。
敵は、まだ残っていた。
弓を持った男が、木の陰に立っていた。
弦が引かれている。
矢の先が、こちらを向いていた。
「……弥七!」
俺は叫んだ。
「伏せろ!」
弥七が、振り返った。
その瞬間。
ひゅっ。
短い音がした。
弥七の体が、びくりと揺れた。
俺は、何が起きたのか分からなかった。
弥七は、ゆっくりと自分の胸元を見た。
矢が、刺さっていた。
鎧の合わせ目のあたりから、黒い矢柄が突き出している。
「……え?」
弥七が、小さく呟いた。
そして、そのまま膝を折った。
「……弥七?」
俺は、声をかけた。
返事はなかった。
「弥七!」
駆け寄ろうとした俺の腕を、十衛門が掴んだ。
「若殿! 伏せなされ!」
次の矢が飛んできた。
俺のすぐ横を通り、地面に突き刺さる。
十衛門が俺を引き倒した。
「盾を!」
十衛門の怒声が響いた。
近くの兵たちが、木の盾を前へ出す。
別の兵が弓を構え、藪へ向かって矢を放った。
敵の姿が、木の陰へ消えた。
俺は、地面に這いつくばったまま、弥七を見ていた。
彼は、動かなかった。
*
敵の射手が退いたあと、俺は弥七のもとへ駆け寄った。
「弥七!」
地面に膝をつく。
弥七は、仰向けに倒れていた。
目が、半分開いている。
口元から、血が流れていた。
「……おい」
俺は、肩に手を置いた。
「弥七」
反応がない。
「……しっかりしろ」
俺は、必死に呼びかけた。
「お前、妻がいるんだろう」
弥七の胸が、わずかに動いた。
息をしている。
まだ、生きている。
「……十衛門!」
俺は叫んだ。
「医者を! 医者を呼んでくれ!」
十衛門が駆け寄ってきた。
弥七の傷を見た。
そして、顔を曇らせた。
「……若殿」
「早く!」
俺は怒鳴った。
「まだ息がある!」
十衛門は、静かに言った。
「矢を抜いてはなりませぬ」
「……分かっている!」
俺は、弥七の手を握った。
冷たかった。
いや。
まだ、温かい。
人間の手だ。
生きている人間の手だ。
「……弥七」
俺は、顔を近づけた。
「聞こえるか?」
弥七の唇が、わずかに動いた。
「……わか……」
俺は、息を呑んだ。
「……何だ?」
「……むす……め……」
娘。
俺は、胸が締めつけられた。
「……ああ」
声が震えた。
「分かっている」
弥七の目が、俺を見た。
焦点が合っているのか、分からなかった。
「……かえ……」
俺は、必死に頷いた。
「帰ろう」
弥七の手を、強く握った。
「一緒に帰ろう」
だが。
弥七の指から、少しずつ力が抜けていった。
胸の動きが、弱くなる。
唇が、わずかに開いた。
そして。
動かなくなった。
「……弥七?」
俺は、呼びかけた。
返事はない。
「……おい」
もう一度、肩を揺すった。
何も起きなかった。
十衛門が、静かに弥七の首元へ指を当てた。
しばらくして、手を離した。
「……若殿」
俺は、十衛門を見た。
彼は、ゆっくりと首を振った。
「……もう、お亡くなりにございます」
俺は、何も言えなかった。
*
必ず帰れ。
俺は、そう言った。
家族が待っているのだろう、と。
生きて帰ることを考えろ、と。
弥七は、深く頭を下げた。
ありがたきお言葉にございます、と。
あのときの顔が、頭に浮かんだ。
妻と娘の話をするとき、少し嬉しそうに笑っていた。
娘は、ようやく言葉を覚え始めたと言っていた。
その娘は、もう父親に会えない。
俺は、弥七の手を握ったまま、動けなかった。
「……若殿」
十衛門が、静かに声をかけた。
「離してやりなされ」
俺は、首を振った。
「……まだ」
「若殿」
「……まだ、温かいんだ」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
「……さっきまで、話していたんだぞ」
十衛門は、何も言わなかった。
「……笑っていたんだ」
俺は、弥七の顔を見た。
目が、半分開いたままだった。
俺は、震える手で、その瞼を閉じた。
涙が、頬を伝った。
こんなはずではなかった。
俺は、未来を知っている。
歴史を知っている。
戦の恐ろしさも、頭では分かっていた。
だが。
目の前の一人すら、救えなかった。
*
「若殿!」
勝家の声が響いた。
「そこを離れられよ!」
俺は顔を上げた。
勝家が、険しい顔でこちらへ歩いてきた。
「敵は、まだ近くにおります!」
俺は、何も答えられなかった。
勝家は、弥七の亡骸を見た。
そして、短く息を吐いた。
「……運べ」
近くの兵たちに命じる。
二人の兵が進み出た。
俺は、思わず弥七の体を庇うように身を乗り出した。
「……待ってくれ」
勝家が、俺を見た。
「若殿」
「……まだ」
「若殿!」
勝家の声が鋭くなった。
「ここは、戦場にございます!」
俺は、びくりとした。
「死者を悼むのは、帰ってからになされよ!」
俺は、何も言えなかった。
勝家は、俺を睨んだ。
「若殿がここで討たれれば、この者の死も無駄になりますぞ!」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
十衛門が、俺の肩に手を置いた。
「……若殿」
俺は、ゆっくりと弥七の手を離した。
兵たちが、亡骸を運んでいく。
俺は、その背中を見送った。
何もできなかった。
ただ、見ていることしかできなかった。
*
敵が林の奥へ退いたあと、勝家は兵たちに命じ、川の手前に陣を整え直した。
負傷者が集められ、布を裂いて傷口を押さえる者がいた。
矢を受けた兵が、歯を食いしばって呻いている。
血の匂いが、湿った土の匂いと混ざっていた。
俺は、少し離れた場所に座っていた。
手が、震えていた。
弥七の血が、指の間に残っている。
何度拭っても、赤黒い色が落ちない気がした。
「……若殿」
十衛門が、水の入った竹筒を差し出した。
「お飲みくだされ」
俺は受け取った。
だが、口をつける気にはなれなかった。
「……十衛門」
「はっ」
「俺は、何もできなかった」
十衛門は、黙っていた。
「槍も、まともに使えなかった」
「……はい」
「敵が来ても、足が動かなかった」
「……はい」
「弥七が倒れても、助けられなかった」
十衛門は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「若殿」
「……何だ」
「今日、若殿が林の伏兵にお気づきにならなければ、荷駄を奪われていたやもしれませぬ」
俺は顔を上げた。
「……だが」
「若殿のお知らせで、兵たちは備えることができました」
十衛門は、俺を見た。
「それは、確かに若殿のお働きにございます」
俺は、何も言えなかった。
確かに、あのとき俺は敵の動きに気づいた。
荷駄を守ることができた。
だが。
弥七は死んだ。
その事実が、胸の奥に重く沈んでいた。
「……一人も死なせたくなかった」
俺は、ぽつりと呟いた。
十衛門は、静かに首を振った。
「それは、叶わぬこともございます」
「……分かっている」
「若殿」
十衛門は、少しだけ声を強めた。
「兵を預かる者は、すべての命を救えるわけではございませぬ」
俺は、顔を伏せた。
「……はい」
「ですが、一人でも多く生きて帰らせるために、考え続けねばなりませぬ」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
十衛門は、川のほうを見ていた。
「今日、若殿はそれをなさいました」
俺は、唇を噛んだ。
嬉しくはなかった。
褒められても、何も嬉しくなかった。
だが、十衛門の言葉は、確かに胸に残った。
*
夕暮れが近づいていた。
川の向こうの林は、赤く染まり始めている。
鳥が鳴いていた。
風が、草を揺らしていた。
まるで、何事もなかったかのように。
俺は、弥七の亡骸が運ばれていった方角を見た。
あの男は、もう帰らない。
妻のもとへも。
二つの娘のもとへも。
俺は、そっと目を閉じた。
吉乃の顔が浮かんだ。
前の人生で、彼女を失ったときのことを思い出した。
あのときも、俺は何もできなかった。
医者を呼んでも。
薬を飲ませても。
必死に祈っても。
吉乃は、死んだ。
そして俺は、その現実に耐えられなかった。
だから、自分も死んだ。
もう一度、やり直せることを願って。
だが。
弥七には、やり直しなどない。
弥七の妻にも、娘にも。
俺だけが、何度も時間をやり直している。
それなのに。
目の前の一人すら、救えない。
俺は、ゆっくりと目を開けた。
十衛門が、少し離れた場所に立っていた。
勝家は、兵たちに指示を出している。
負傷者の呻き声が聞こえる。
戦は、まだ終わっていない。
俺は、震える足で立ち上がった。
槍を握る。
手のひらが、痛かった。
だが、今度は目を逸らさなかった。
俺は、川の向こうを見た。
敵は、まだあそこにいる。
そして、俺たちも、まだここにいる。
生きている。
それだけは、確かだった。
俺は、深く息を吸った。
そして、十衛門に声をかけた。
「……十衛門」
「はっ」
「次は、何をすればいい」
十衛門は、少しだけ目を細めた。
そして、静かに答えた。
「まずは、若殿」
「……何だ」
「その槍を、しっかりお持ちくだされ」
俺は、槍を握り直した。
「……ああ」
十衛門は頷いた。
「それから、権六どのの命令を待ちます」
俺は、川の向こうを見た。
夕暮れの林が、静かに揺れていた。
初陣。
俺は、敵を一人も倒していない。
弥七を救うこともできなかった。
だが、林の伏兵には気づいた。
荷駄を守るために、声を上げることができた。
それは、小さな働きだった。
それでも、何もできなかったわけではない。
俺は、まだ生きている。
弥七のいない明日を、生きなければならない。
そして、次に誰かの命が危険にさらされたとき。
今度こそ、少しでも多くの人を守れるようになりたい。
俺は、槍を握る手に力を込めた。




