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第34話:好きな娘に会いに来たのに戦の知らせが届いたんだが!?

 戦が始まる。


 そう聞いて、俺が最初に考えたのは、敵をどう倒すかではなかった。


 吉乃の村は、無事だろうか。


 そんなことだった。


 今川方に通じる武装した者たちが、尾張東部の街道に現れたという。


 その街道がどこを通り、どの村に近いのか。


 俺には、まだ正確に分からない。


「若殿、お急ぎください」


 土山十衛門に促され、俺は廊下を進んだ。


 足音が板張りの床に響く。


 行き交う家臣たちの表情は険しく、普段なら頭を下げて通り過ぎる者まで、今日は早足で駆けていた。


 城の空気が変わっている。


 つい先ほどまで、俺は村の水利について考えていた。


 堰の修繕を誰が負担するか。


 病人が出たとき、どうやって医者を呼ぶか。


 そんなことを真剣に悩んでいたのだ。


 だが、武装した者が数十人現れたという知らせ一つで、それらはすべて後回しになる。


 戦国時代とは、そういう場所なのだろう。


 俺は、改めて思い知らされた。


     *


 広間には、すでに十人ほどの家臣が集まっていた。


 上座に座るのは、父・織田信秀。


 広い肩幅に、厚い胸板。


 日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、太い眉の下から鋭い眼光が周囲を見渡している。


 まだ四十代の男だが、その存在感は俺が現代で見てきたどんな大人とも違っていた。


 人の上に立つことに慣れた男。


 命令一つで何百人もの人間を動かせる男。


 そして、実際に何度も戦場を経験してきた男だった。


「信長、来たか」


「はっ」


 俺は頭を下げ、末席に座った。


 十衛門も、その少し後ろに控える。


 広間の中央には、尾張東部の地形を描いた絵図が広げられていた。


 川。


 街道。


 村。


 そして、ところどころに記された小さな城や砦。


 信秀は、その一角を指差した。


「ここだ」


 俺は身を乗り出した。


 街道が林の間を抜け、浅い川を渡る場所だった。


「今朝、こちらの境に近い村から知らせが届いた」


 信秀の声は低かった。


「武装した者が三十ほど、街道に現れたという」


 三十人。


 現代なら、学校の一クラス程度の人数だ。


 だが、全員が槍や刀を持っていると考えれば、決して少なくない。


「今川の兵でございますか」


 年配の家臣が尋ねた。


 信秀は首を振った。


「まだ分からぬ」


 俺は、少し意外に思った。


 今川方の者だという報告だったはずだ。


 しかし、信秀は断定しなかった。


「今川に通じる土豪の手勢かもしれぬ。あるいは、今川の名を借りて勝手に動く者かもしれぬ」


 別の家臣が口を開いた。


「野盗の類いではございませぬか」


「その可能性もある」


 信秀は頷いた。


「だが、ただの野盗にしては動きが妙だ」


「と、申されますと?」


「村の米を奪わず、街道を通る荷駄ばかりを調べておるという」


 俺は顔を上げた。


 荷駄。


 つまり、物資を運ぶ馬や人足だ。


「……通行を妨げているのですか」


 思わず口を挟むと、信秀の視線が俺に向いた。


「そうだ」


 父は頷いた。


「ただし、すべての荷を奪っているわけではない。通行料を要求された者もおれば、そのまま通された者もおる」


 俺は考え込んだ。


 単なる略奪なら、奪えるものは奪うはずだ。


 だが、相手は荷を選んでいる。


 何かを探しているのか。


 それとも、街道の支配権を主張しているのか。


「……誰が通されて、誰が止められたのでしょう」


 俺が尋ねると、信秀の眉がわずかに動いた。


「何?」


「荷の種類によって違うのであれば、目的が分かるかもしれませぬ」


 広間が静かになった。


 信秀は、しばらく俺を見つめていた。


 やがて、使者のほうを向いた。


「聞いておるか」


 使者は慌てて頭を下げた。


「い、いえ。そこまでは……」


「ならば調べよ」


「はっ!」


 使者が下がる。


 信秀は、再び俺を見た。


「……悪くない問いだ」


 俺は少し驚いた。


 褒められた。


 父に。


 だが、喜ぶ暇はなかった。


 信秀はすぐに絵図へ視線を戻した。


「問題は、奴らが何を狙っておるかだ」


     *


 軍議は、俺が想像していたものとは随分違っていた。


 歴史の教科書では、戦は大将同士の決断で始まる。


 織田信長が出陣した。


 今川義元が兵を進めた。


 そんなふうに、簡単に書かれている。


 だが、実際には違った。


 敵が何人いるのか。


 誰が率いているのか。


 どこから来たのか。


 どこへ帰るつもりなのか。


 そもそも、本当に敵なのか。


 それすら分からないまま、何人もの家臣が意見を交わしている。


「すぐに兵を出すべきです」


 若い家臣が言った。


「三十ほどならば、百を差し向ければ十分にございましょう」


 すると、別の家臣が首を振った。


「敵が三十だけとは限らぬ」


「何を申す。村人が見たのは三十だぞ」


「見えたのが三十というだけだ」


 俺は、その言葉に頷いた。


 確かに。


 林の向こうに、さらに兵が隠れている可能性もある。


「……では、まず偵察を」


 俺が言うと、信秀がこちらを見た。


「誰を行かせる」


「……土地に詳しい者を」


「何人だ」


「……三人ほどでしょうか」


「なぜ三人だ」


 俺は口を閉じた。


 なぜ。


 そう聞かれると、答えられない。


 何となく、三人くらいがよさそうだと思っただけだった。


 信秀は、俺の顔を見て鼻を鳴らした。


「数には理由が要る」


「……はっ」


「一人なら見つかりにくいが、捕らえられれば知らせが戻らぬ。大勢なら身を守れるが、敵に気づかれやすい」


 俺は頷いた。


「……なるほど」


「何を見て、いつまでに戻るかも決めねばならぬ」


 信秀は、絵図を指差した。


「敵の数だけ見て帰ってきても役には立たぬ。旗印、武具、馬の数、荷の有無、進む方角。何を確かめるべきか、先に考えておけ」


 俺は、思わず背筋を伸ばした。


 これが、戦を知っている人間の考え方なのだ。


 俺は、敵を見に行けば何か分かると思っていた。


 だが、何を調べるか決めていなければ、情報は役に立たない。


 信秀は、家臣たちに命じた。


「街道の東西に、それぞれ物見を出せ。敵を刺激するな。姿を見られても、無理に戦うな」


「はっ!」


「それから、近くの村へ知らせよ。荷駄をしばらく止めさせる」


 俺は顔を上げた。


「……父上」


「何だ」


「荷駄を止めれば、商人たちが困るのでは」


「困るだろうな」


 信秀は、平然と答えた。


「だが、荷を奪われるよりはましだ」


「……はい」


「それに、街道が危ないと知れれば、商人は別の道を選ぶ。そうなれば、こちらの市に物が入らなくなる」


 俺は黙った。


 戦とは、兵が槍を交えることだけではない。


 道を塞ぐ。


 物資を止める。


 人の行き来を妨げる。


 それだけで、領地の暮らしは変わってしまう。


 俺は、ようやくその意味を理解し始めていた。


     *


 軍議が終わる頃には、昼を過ぎていた。


 俺は広間を出ようとしたが、信秀に呼び止められた。


「信長」


「はっ」


「お前、戦に出たいか」


 突然の問いだった。


 俺は足を止めた。


 戦に出たいか。


 そんなこと、考えたこともなかった。


 いや。


 正確には、考えないようにしていた。


 俺は、死ぬのが怖い。


 何度死んでも、その恐怖に慣れることはなかった。


 本能寺の炎。


 家康が死んだあとの処刑。


 そして、吉乃を失った夜。


 喉に刃を当てたときの冷たさ。


 すべて、今でも鮮明に覚えている。


 戦場へ行けば、また死ぬかもしれない。


 今度こそ、時間が戻らないかもしれない。


 俺は、ゆっくりと息を吸った。


「……怖うございます」


 信秀の眉が動いた。


「何?」


「戦は、怖うございます」


 広間の隅で、十衛門がわずかに顔を上げた。


 俺は続けた。


「槍の稽古でも、十衛門には何度も打ち倒されております。実際の戦場で、自分がどれほど役に立つかも分かりませぬ」


 信秀は黙っていた。


「ですが」


 俺は顔を上げた。


「……知らぬままでいたくはございませぬ」


 信秀の目を、まっすぐ見た。


「いつか私が兵を預かるのであれば、兵が何を恐れ、何に苦しむのか、知らねばならぬと思います」


 父は、しばらく俺を見つめていた。


 そして、低く笑った。


「……怖いと申したか」


「はっ」


「正直なことだ」


 俺は、少し身構えた。


 臆病者だと叱られるかもしれない。


 だが、信秀は怒らなかった。


「怖くないと言う者ほど、早く死ぬ」


 その言葉に、俺は目を見開いた。


「……父上」


「戦場で恐れを知らぬ者は、敵の槍を軽く見る。自分だけは死なぬと思っておる」


 信秀は、俺を見た。


「だが、恐れて動けぬ者もまた、兵を死なせる」


 俺は黙った。


「怖いなら、怖いまま考えろ」


 父は言った。


「どこへ進むか。どこで止まるか。いつ退くか。それを決めるのが、兵を預かる者の務めだ」


 俺は深く頭を下げた。


「……肝に銘じます」


 信秀は頷いた。


「今回、物見の知らせ次第では兵を出す」


「はっ」


「その折は、お前も加われ」


 俺は顔を上げた。


「……よろしいのですか」


「ただし、勝手な真似は許さぬ」


 信秀の声が厳しくなった。


「お前に兵を預けるつもりは、まだない。経験のある者の指図に従い、戦場を見てこい」


「……承知いたしました」


「十衛門」


「はっ!」


 十衛門が進み出た。


「信長を任せる」


「承知いたしました」


「甘やかすな」


 十衛門は、少しだけ口元を緩めた。


「その点は、ご安心くだされ」


 ……嫌な予感しかしない。


     *


 その日の夕方、俺は十衛門とともに兵の詰所を訪れた。


 城の一角に設けられた広い庭では、十数人の男たちが槍の手入れをしていた。


 年齢はまちまちだった。


 二十歳そこそこの若者もいれば、白髪の混じった男もいる。


 顔に傷のある者。


 腕の太い者。


 痩せている者。


 どこにでもいそうな、普通の男たちだった。


 だが、その手には槍がある。


 彼らは、これから人を殺すかもしれない。


 そして、殺されるかもしれない。


「……十衛門」


「はっ」


「この者たちは、皆、戦に慣れているのか」


 十衛門は首を振った。


「いえ。経験の浅い者もおります」


「……そうか」


「普段は田畑を耕している者もおりますゆえ」


 俺は、男たちを見た。


 そのうちの一人が、俺たちに気づいて頭を下げた。


「若殿さま!」


 ほかの者たちも、慌てて姿勢を正した。


「……楽にしてくれ」


 俺が言うと、男たちは顔を見合わせた。


 どうやら、若殿が詰所へ来ること自体、珍しいらしい。


 俺は、一番近くにいた若い男に声をかけた。


「名は?」


「はっ! 弥七と申します!」


 弥七は、緊張した様子で答えた。


 年は、俺より少し上だろうか。


 日に焼けた顔に、まだ少年のようなあどけなさが残っている。


「……戦に出たことはあるか」


「一度だけ、ございます」


「……怖かったか?」


 弥七は、目を瞬かせた。


 周囲の男たちが、少しざわついた。


 若殿が、そんなことを尋ねるとは思わなかったのだろう。


 弥七は、しばらく迷っていた。


 そして、小さな声で答えた。


「……怖うございました」


 俺は頷いた。


「……そうか」


「敵の槍が、目の前まで来まして……」


 弥七は、自分の胸元を見た。


「逃げようと思ったのですが、足が動かず……」


 俺は、息を呑んだ。


「……どうなった」


「隣にいた者が、敵を突き倒してくれました」


 弥七は、少し俯いた。


「その者は、次の戦で亡くなりました」


 俺は、何も言えなかった。


 十衛門も、黙っていた。


 しばらくして、俺は尋ねた。


「……家族はいるのか」


「はい。妻と、二つになる娘が」


 弥七の顔が、少し和らいだ。


「娘は、ようやく言葉を覚え始めまして」


 俺は頷いた。


 この男には、帰る場所がある。


 帰りを待つ妻がいる。


 父親の顔を見れば笑う、小さな娘がいる。


 戦場で死ねば、そのすべてを失うのだ。


 俺は、胸の奥が重くなるのを感じた。


「……必ず帰れ」


 思わず、そう言っていた。


 弥七は、驚いた顔をした。


「……若殿さま?」


「家族が待っているのだろう」


 俺は、彼を見た。


「ならば、生きて帰ることを考えろ」


 弥七は、しばらく俺を見つめていた。


 そして、深く頭を下げた。


「……ありがたきお言葉にございます」


 俺は頷いた。


 だが、すぐに気づいた。


 必ず帰れ。


 そんなことを、俺が簡単に言っていいのだろうか。


 戦場では、どれほど生きたいと願っても、死ぬ者がいる。


 俺は、それを知っている。


 それでも、そう言わずにはいられなかった。


     *


 詰所を出ると、十衛門が口を開いた。


「……若殿」


「何だ」


「先ほどの言葉でございますが」


 俺は、少し身構えた。


「……軽率だったか?」


 十衛門は、しばらく考えた。


「……難しいところにございます」


「……そうか」


「兵は、生きて帰りたいと思っております」


 俺は頷いた。


「ですが、戦場では、命じられれば死地へ進まねばならぬこともございます」


 俺は黙った。


「そのとき、若殿が必ず帰れと仰せになったことを思い出し、命令に迷う者が出るやもしれませぬ」


「……なるほど」


「もっとも」


 十衛門は、少しだけ表情を和らげた。


「兵の命を大切に思われること自体は、悪いことではございませぬ」


 俺は顔を上げた。


「……本当か」


「はい」


 十衛門は頷いた。


「ただし、若殿」


「何だ」


「兵を一人も死なせぬことと、兵を預かる責任とは、同じではございませぬ」


 俺は、その言葉を胸に刻んだ。


 全員を守りたい。


 それは、俺の願いだ。


 だが、戦場では、その願いが叶わないこともある。


 そのとき、俺はどうするのだろう。


 誰を助け、誰を見捨てるのか。


 そんな決断を、いつか下さなければならないのだろうか。


 考えただけで、胃の奥が冷たくなった。


     *


 夜。


 俺は濃姫に、出陣の可能性があることを伝えた。


 濃姫は、静かに話を聞いていた。


 黒髪を肩の後ろへ流し、膝の上で両手を重ねている。


 その姿は落ち着いていたが、指先がわずかに動いたのを、俺は見逃さなかった。


「……戦に出られるのですね」


「まだ、決まったわけではない」


 俺は答えた。


「物見の知らせ次第だ」


「左様でございますか」


 濃姫は頷いた。


 そして、少し間を置いてから言った。


「……お怪我のないように」


 俺は、彼女を見た。


「……心配か?」


 濃姫は、少しだけ微笑んだ。


「妻が夫の身を案じるのは、当然のことにございます」


 その言葉に、胸が温かくなった。


 俺は、そっと彼女の手を取った。


「……ありがとう」


 濃姫は、少し驚いたように俺を見た。


 そして、ゆっくりと指を握り返した。


「……信長さま」


「何だ?」


「戦に出られるのであれば、どうか十衛門どののお言葉を、よくお聞きくださいませ」


 俺は思わず笑った。


「……お前まで、そう言うのか」


「はい」


 濃姫は、真剣な顔で頷いた。


「信長さまは、時折、思い立ったことをすぐになさろうとされますから」


「……そんなにか?」


「ええ」


 即答だった。


 俺は、少し肩を落とした。


 どうやら、俺の性格はすっかり見抜かれているらしい。


 濃姫は、そんな俺を見て小さく笑った。


 その笑顔を見て、俺は思った。


 この人も、俺の帰りを待つのだ。


 吉乃だけではない。


 濃姫も。


 十衛門の家族も。


 兵たちの妻や子どもも。


 戦場へ行く男たちには、それぞれ帰る場所がある。


 俺は、そのことを忘れてはいけない。


     *


 翌朝。


 物見が戻ってきた。


 敵は、三十ではなかった。


 少なくとも五十。


 さらに、林の奥に別の一団がいる可能性があるという。


 その報告を聞いた信秀は、すぐに兵を集めるよう命じた。


 ただし、城の兵をすべて動かすわけではない。


 東の街道へ、百二十ほど。


 残りは、城と周辺の守りに残す。


 俺は、その理由を尋ねた。


「……なぜ、もっと多くの兵を出さないのですか」


 信秀は、俺を見た。


「城を空にして、どうする」


「……それは」


「敵が東にいるからといって、ほかが安全とは限らぬ」


 俺は頷いた。


 なるほど。


 敵のいる場所へ全兵力を集中させれば、別の場所が手薄になる。


 そんな基本的なことすら、俺はまだ理解していなかった。


 信秀は、十衛門に命じた。


「信長を連れていけ」


「はっ!」


「ただし、前へ出しすぎるな」


「承知いたしました」


 俺は、思わず顔を上げた。


「……父上」


「何だ」


「私も、戦に加わるのでございますか」


 信秀は、俺を見た。


「そのために、稽古をしておったのではないのか」


 俺は、言葉に詰まった。


 確かに。


 槍を握り、刀を振り、弓を引いてきた。


 だが、それはあくまで稽古だった。


 実際に人を殺すためのものだと、頭では分かっていても。


 心のどこかで、現実の戦場とは切り離して考えていたのかもしれない。


「……承知いたしました」


 俺は、深く頭を下げた。


 信秀は頷いた。


「行ってこい」


 その声は、驚くほど静かだった。


     *


 出陣の準備は、慌ただしく進んだ。


 槍。


 刀。


 弓。


 矢。


 そして、兵糧。


 俺は、十衛門に言われるまま、必要なものを確認した。


「若殿。水をお忘れなく」


「……ああ」


「草鞋の替えも」


「……分かった」


「それから、荷はなるべく軽く」


「……うん」


 俺は、ふと尋ねた。


「……十衛門」


「はっ」


「お前は、何度くらい戦に出た?」


 十衛門は、少し考えた。


「……数えておりませぬ」


 俺は目を見開いた。


「……そんなにか」


「小競り合いまで含めれば、相当な数になりますゆえ」


 十衛門は、平然と答えた。


 俺は、改めて彼の顔を見た。


 左眉の端にある古い傷。


 日に焼けた肌。


 太い腕。


 そして、どこか落ち着いた眼差し。


 この男は、何度も戦場を生き延びてきたのだ。


「……怖くないのか」


 俺が尋ねると、十衛門は少し笑った。


「怖うございますよ」


 俺は驚いた。


「……お前も?」


「当然にございます」


 十衛門は頷いた。


「槍が飛んでくれば、避けたくなります。矢が近くに刺されば、身がすくみます」


 俺は黙って聞いた。


「ですが、怖いからこそ、よく見て、よく考えるのでございます」


 その言葉に、俺は父の話を思い出した。


 怖いなら、怖いまま考えろ。


 父も、十衛門も、同じことを言っている。


 きっと、それが戦場で生き残るために必要なことなのだろう。


     *


 出陣の刻限が近づいた。


 俺は、馬の手綱を握りながら、東の空を見た。


 雲が、ゆっくりと流れている。


 春の風は穏やかだった。


 こんな日に、人が殺し合うのか。


 そんなことを考えてしまう。


 俺は、ふと吉乃の顔を思い浮かべた。


 井戸端で笑う姿。


 茶碗を差し出してくれた手。


 水汲みが下手だと、からかってきた声。


 また会いに来ると約束した。


 だが、その約束を果たせる保証はない。


 俺は、手綱を握る手に力を込めた。


 死にたくない。


 怖い。


 逃げたい。


 その気持ちは、今も消えていない。


 だが、逃げれば何が起きるのだろう。


 街道を押さえられれば、村へ物資が届かなくなる。


 敵がさらに進めば、吉乃の村も危険にさらされるかもしれない。


 濃姫のいる城だって、安全とは限らない。


 俺は、深く息を吸った。


 そして、ゆっくりと吐いた。


「……十衛門」


「はっ」


「行こう」


 十衛門は、俺を見た。


 その目が、わずかに細くなった。


「……承知いたしました」


 俺は馬に跨った。


 周囲では、兵たちが列を整えている。


 槍の穂先が、朝日に光っていた。


 馬の鼻息。


 草鞋が土を踏む音。


 鎧の金具が触れ合う音。


 そのすべてが、妙にはっきりと耳に届いた。


 俺は、前を向いた。


 戦場へ向かう。


 初めての、本当の戦場へ。


 歴史の教科書には、きっと載っていないような、小さな戦だ。


 だが、そこで死ぬ者にとっては、人生のすべてが終わる戦なのだ。


 俺は、そのことを忘れまいと思った。


 そして、馬を進めた。

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