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第33話:未来を知っているのに村の問題ひとつ解決できないんだが!?

 未来の知識があれば、戦国時代でも多少は役に立つ。


 俺は、そう思っていた。


 少なくとも、現代の日本で二十年以上生きてきた人間だ。


 上下水道の仕組みも知っているし、細菌が病を引き起こすことも知っている。


 学校では日本史を習った。


 政治の仕組みだって、何となく理解している。


 だから、戦国時代の村を少しでも暮らしやすくすることくらい、できると思っていた。


 ……思っていたのだが。


「若殿。そのようなことをなされては、村が二つに割れまする」


 土山十衛門の言葉に、俺は口を閉じた。


 目の前には、二人の村役人が座っている。


 どちらも四十代から五十代ほどの男で、日に焼けた顔には深い皺が刻まれていた。


 一人は、川上の村の庄屋、権兵衛。


 もう一人は、川下の村の庄屋、与助。


 二人とも俺に対しては丁寧に頭を下げているが、互いを見る目は険しい。


「……どういうことだ?」


 俺が尋ねると、十衛門は床に広げた絵図を指差した。


「若殿は、川の水を公平に分けよと仰せになりましたな」


「ああ」


「されど、この川の水は、昔から川上の村が先に使っております」


 権兵衛が深く頷いた。


「左様にございます。我らの父祖の代より、そう決まっておりまする」


 すると、与助がすぐに口を開いた。


「しかし、それでは我らの田に水が回りませぬ!」


「それは、お前たちが田を広げたからではないか!」


「田を増やさねば、年貢を納められぬではないか!」


「勝手に増やした田のために、こちらの水を奪われてたまるか!」


 たちまち言い争いが始まった。


 俺は思わず額を押さえた。


 ……なるほど。


 水を公平に分ければ解決する。


 そんな単純な話ではなかったらしい。


     *


 事の始まりは、三日前に遡る。


 吉乃の住む村を視察した翌日、俺は父・織田信秀に報告を行った。


 村の戸数。


 田畑の状態。


 病人の有無。


 医者を呼ぶまでにかかる時間。


 そして、川の水をめぐる争い。


 信秀は、俺の書付を一通り読んだ。


「……それで?」


 低い声だった。


「お前は、何をしたいのだ」


「まず、川上と川下の村役人を集め、話し合いをさせたいと考えております」


「何を話し合わせる」


「水を使う順番でございます」


 信秀は俺を見た。


「それは、誰が決める」


「……双方の村役人が」


「決まらなかったら?」


 俺は答えに詰まった。


 信秀は書付を机に置いた。


「お前が決めるのか」


「……必要であれば」


「誰の権限でだ」


 その一言に、俺は口を閉じた。


 そうだった。


 俺はまだ、織田家の当主ではない。


 父の許可を得て村を見て回っているだけの、若殿にすぎない。


「……父上のお許しをいただければ」


 信秀は、しばらく俺を見つめていた。


 そして、鼻を鳴らした。


「話を聞くことは許す」


「……ありがとうございます」


「だが、勝手に決めるな」


 俺は頭を下げた。


「承知いたしました」


「村には、村の事情がある。何十年も続いてきた決まりを、思いつきで変えられては困る」


 その言葉を、俺は軽く考えていた。


 実際に村役人を集めるまでは。


     *


「……つまり」


 俺は絵図を見下ろした。


「川上の村には、昔から先に水を使う権利がある」


「左様にございます」


 権兵衛が答えた。


「だが、川下の村では田が増えたため、水が足りなくなっている」


「その通りにございます!」


 与助が身を乗り出した。


「去年など、田がひび割れるほどでございました!」


 俺は考え込んだ。


 水が足りない。


 ならば、用水路を広げればいいのではないか。


「……川を掘り広げることはできないのか?」


 俺が尋ねると、二人は同時に黙った。


 十衛門が口を開いた。


「若殿。誰が掘るのでございますか」


「……村人が」


「その間、田畑の仕事はどうなさいます」


「……交代で」


「道具は」


「……用意する」


「費用は」


「…………」


 俺は黙った。


 十衛門は、さらに続けた。


「仮に掘り広げたとして、川の流れが変われば、ほかの田に水が行かなくなるやもしれませぬ」


「……そうか」


「また、大雨の折に堤が崩れれば、被害はかえって大きくなります」


 俺は深く息を吐いた。


 現代なら、土木技師が測量して、設計図を作り、重機で工事をする。


 だが、ここには重機もない。


 正確な測量器具も、十分な資金もない。


 そして何より、俺自身に土木工事の知識がない。


 用水路を広げればいい。


 そんな思いつきで、人の暮らしを左右するわけにはいかなかった。


「……今日は、ここまでにしよう」


 俺が言うと、権兵衛と与助は顔を見合わせた。


「若殿さま?」


「すぐに答えを出すことはできない。まずは、川と田を実際に見たい」


 俺は二人を見た。


「それから、双方の言い分をもう少し詳しく聞かせてくれ」


 権兵衛が、ゆっくりと頭を下げた。


「……承知いたしました」


 与助も、不満そうではあったが、頭を下げた。


 俺は十衛門を見た。


 十衛門は、小さく頷いた。


 どうやら、今の判断は間違っていなかったらしい。


     *


 川を見に行くと、問題はさらに複雑だった。


 川幅は場所によって大きく異なり、浅瀬には石が積み上がっている。


 ところどころに木杭が打たれ、水を田へ引き込むための小さな水路が設けられていた。


 川上の村では、水路の入口に土嚢のようなものを置き、水の流れを調整している。


 その水が川下へ流れる頃には、確かに量が減っていた。


「……なるほど」


 俺はしゃがみ込み、水の流れを見た。


 十衛門も隣に立った。


「いかがでございますか」


「……思っていたより、難しい」


「左様でございましょう」


 十衛門は、どこか満足そうだった。


 俺は苦笑した。


「……嬉しそうだな」


「若殿が、ようやく村の難しさをお分かりになったようでございますので」


「……意地が悪い」


「褒め言葉と受け取っておきまする」


 この男は、本当に遠慮がない。


 だが、今の俺には、それがありがたかった。


 俺が間違ったことを言えば、きちんと指摘してくれる。


 若殿だからといって、何でも肯定するような家臣ではない。


「……十衛門」


「はっ」


「お前なら、どうする?」


 十衛門は少し考えた。


「まずは、双方の村に、これまでの水の使い方を詳しく聞きまする」


「……うん」


「そのうえで、田の広さと、水が足りぬ時期を確かめます」


「……なるほど」


「もし、川上の村が必要以上に水を堰き止めているのであれば、そこは改めさせる余地がございましょう」


「……そうか」


「ただし、昔からの取り決めを破るとなれば、相応の理由が必要でございます」


 俺は頷いた。


 つまり、最初から公平という言葉を持ち出すのではなく、実際に何が起きているのか調べなければならない。


 当たり前のことだった。


 だが、俺はその当たり前のことすら、分かっていなかった。


     *


 昼過ぎ。


 俺たちは、吉乃の住む村へ向かった。


 川の水をめぐる争いについて、村人たちからも話を聞くためだった。


 村に入ると、子どもたちが道端で遊んでいた。


 小さな男の子が木の枝を振り回し、別の子どもを追いかけている。


 女の子たちは、石を並べて何やら遊んでいた。


 その光景を見て、俺は少し安心した。


 戦国時代でも、子どもは子どもなのだ。


 遊び、笑い、喧嘩をする。


 現代と変わらない。


「……若殿」


 十衛門が声をかけた。


「何だ?」


「あちらに、先日の娘がおります」


 俺は顔を上げた。


 井戸の近くに、吉乃がいた。


 今日は淡い茶色の小袖を着て、髪を後ろでまとめている。


 手には、洗ったばかりらしい布を抱えていた。


 俺たちに気づくと、吉乃は驚いた顔をした。


「……若殿さま?」


 俺は馬から降りた。


「また来た」


 吉乃は目を瞬かせた。


 そして、少し笑った。


「本当に、またいらしたのですね」


「ああ」


「今日は、水汲みの稽古でございますか?」


 十衛門が、横で咳払いをした。


 俺は思わず顔をしかめた。


「……違う」


「そうでしたか」


 吉乃は、くすくすと笑った。


 その笑顔を見て、俺の胸が温かくなった。


 だが、今日は遊びに来たわけではない。


「……吉乃」


「はい」


「この村では、水に困ることはあるか?」


 吉乃は少し考えた。


「田のお水でございますか?」


「ああ」


「ございますよ」


 彼女は頷いた。


「夏になると、川下の田では水が足りなくなることがあります」


「……そうか」


「でも、川上の村にも事情がございますから」


 俺は吉乃を見た。


「……事情?」


「はい」


 吉乃は、少し困ったように笑った。


「川上の村では、昔から水を引くための堰を直しているそうです。大雨で壊れたときも、村の人たちが直してきたのだとか」


「……なるほど」


「だから、川下の村が急に水を分けてほしいと言っても、簡単には納得できないのでしょうね」


 俺は黙った。


 その話は、まだ聞いていなかった。


 川上の村は、ただ水を独占しているわけではない。


 堰を維持するために、労力を負担してきたのだ。


「……吉乃は、どうすればいいと思う?」


 俺が尋ねると、彼女は目を丸くした。


「私でございますか?」


「ああ」


「……そんな、大したことは分かりませぬけれど」


 吉乃は少し考えた。


「川下の村の人たちも、堰を直すのを手伝えばよいのではないでしょうか」


 俺は、はっとした。


「……なるほど」


「そうすれば、川上の村の人たちも、少しは水を分けてくださるかもしれません」


 吉乃は、恥ずかしそうに笑った。


「……素人考えでございますけれど」


 俺は首を振った。


「いや」


 そして、心から言った。


「いい考えだと思う」


 吉乃は、少し驚いた顔をした。


「……本当でございますか?」


「ああ」


 俺は頷いた。


「ありがとう。助かった」


 吉乃は、頬を赤らめた。


「……お役に立てたのでしたら、嬉しゅうございます」


 その姿を見て、俺は思った。


 やはり、この娘は聡明だ。


 難しい学問を学んだわけではない。


 だが、村の暮らしをよく知っている。


 そして、誰か一方だけが得をする方法ではなく、双方が納得できる方法を考えられる。


 俺が机の上で考えていたことより、ずっと現実的だった。


     *


 その日の夕方。


 俺は再び、川上と川下の村役人を集めた。


「……堰の修繕について、聞きたい」


 俺が言うと、権兵衛が顔を上げた。


「修繕、でございますか?」


「ああ。川上の村では、毎年堰を直しているそうだな」


「左様にございます」


「どのくらいの人手が必要なのだ?」


 権兵衛は少し考えた。


「大きく壊れた年は、男手が十人以上、何日もかかりまする」


「……そうか」


 俺は与助を見た。


「川下の村では、その修繕を手伝ったことはあるか?」


 与助は、気まずそうに目を伏せた。


「……ございませぬ」


「なぜだ?」


「……堰は、川上の村のものでございますゆえ」


 俺は頷いた。


 なるほど。


 川上の村は、自分たちで堰を直している。


 川下の村は、その水を分けてほしいと願っている。


 ならば。


「……与助」


「はっ」


「川下の村でも、堰の修繕を手伝うことはできるか?」


 与助は目を見開いた。


「……それは」


「無理なら、無理と言ってくれ」


 俺は続けた。


「だが、もし手伝えるのであれば、川上の村にも、水を分けることを考えてもらえないだろうか」


 権兵衛が、険しい顔をした。


「若殿さま。それは……」


「もちろん、今すぐ決めろとは言わない」


 俺は手を上げた。


「まずは、双方の村で話し合ってほしい。どの程度の修繕が必要なのか、どのくらい水を分けられるのか。それを確かめてからだ」


 権兵衛は黙った。


 与助も、考え込んでいる。


 やがて、権兵衛が口を開いた。


「……川下の者が、堰の修繕を手伝うというのであれば」


 俺は顔を上げた。


「……うん」


「少しは、考えてもよろしゅうございます」


 与助が、驚いたように権兵衛を見た。


「……本当か?」


「ただし、勝手に水を引くことは許さぬぞ」


「分かっておる!」


 俺は、ほっと息を吐いた。


 まだ、何も解決していない。


 実際に話し合いがまとまるかどうかも分からない。


 だが、少なくとも、互いに怒鳴り合っていた二人が、初めて同じ方向を向いた。


 それだけでも、一歩前進だった。


     *


 帰り道。


 俺は十衛門に尋ねた。


「……どう思う?」


 十衛門は、しばらく考えた。


「悪くない案かと存じます」


「……本当か?」


「はい」


 俺は少し嬉しくなった。


 だが、十衛門は続けた。


「ただし、まだ何も決まっておりませぬ」


「……分かっている」


「双方の村が約束を守るかどうかも分かりませぬ」


「……ああ」


「また、堰の修繕に川下の者が加わるとなれば、誰が指図をするのかという問題も出てまいります」


 俺は額を押さえた。


「……問題ばかりだな」


「左様でございます」


 十衛門は、平然と答えた。


「領地を治めるとは、そういうことでございます」


 俺は苦笑した。


 未来の知識があれば、何でも解決できる。


 そんな考えは、もう捨てたほうがよさそうだった。


 俺が知っているのは、現代の仕組みだ。


 だが、この時代には、この時代の事情がある。


 人々が長い年月をかけて築いてきた決まりがある。


 それを無視して、正しいと思うことを押しつけても、うまくいくとは限らない。


 俺は、まだ何も知らないのだ。


     *


 城へ戻ると、濃姫が待っていた。


「お帰りなさいませ、信長さま」


「ただいま」


 俺は座敷に入り、今日の出来事を話した。


 川の水をめぐる争い。


 堰の修繕。


 村役人たちの言い分。


 そして、吉乃の助言。


 濃姫は、静かに聞いていた。


「……なるほど」


 彼女は頷いた。


「村の娘が、そのようなことを?」


「ああ」


「聡明な娘でございますね」


 俺は、少し嬉しくなった。


「そうだろう?」


 濃姫が、俺を見た。


 その目が、わずかに細くなった。


「……信長さま」


「何だ?」


「その娘のことを、随分とお気に召したご様子でございますね」


 俺は、ぎくりとした。


 濃姫は微笑んでいた。


 だが、その笑顔には、どこか探るようなものがあった。


「……いや」


 俺は言葉を探した。


「村のことを、よく知っている娘だと思ってな」


「左様でございますか」


 濃姫は、静かに頷いた。


 それ以上は、何も言わなかった。


 俺は、胸の奥に小さな罪悪感を覚えた。


 濃姫は、俺の妻だ。


 まだ祝言を挙げて間もない。


 そんな妻の前で、ほかの娘のことを嬉しそうに話してしまった。


 俺は、少し反省した。


「……濃姫」


「はい」


「今日の話で、何か気になることはあるか?」


 濃姫は少し考えた。


「……堰の修繕についてでございますが」


「ああ」


「もし川下の村が手伝うのであれば、誰がどの程度働いたか、書き留めておくとよいかもしれませぬ」


 俺は顔を上げた。


「……なるほど」


「後になって、働いた、働いていないと争いになることもございましょうから」


 俺は頷いた。


 さすがだった。


 吉乃は、村人の立場から解決策を考えた。


 濃姫は、領地を治める側の立場から、その後の問題を考えた。


 二人とも、俺にはない視点を持っている。


 俺は、改めて思った。


 自分一人で、何もかもできるわけではない。


 だからこそ、人の話を聞かなければならないのだ。


     *


 翌朝。


 俺は、十衛門とともに再び書付を整理していた。


 水の問題については、村役人たちの話し合いを待つことにした。


 その間に、病人への対応についても考える必要がある。


「……十衛門」


「はっ」


「村で病人が出たとき、城へ知らせを届ける仕組みを作りたい」


 十衛門は頷いた。


「先日のお話でございますな」


「ああ」


「しかし、すべての村から知らせを受けるとなれば、相当な数になります」


「……分かっている」


 俺は書付を広げた。


「だから、まずは三つの村だけで試したい」


 十衛門は、少し考えた。


「……三つ、でございますか」


「ああ。先日、俺たちが見て回った村だ」


 俺は指を折った。


「病人が出たら、村役人が知らせを出す。知らせを受けた者が、必要に応じて医者を呼ぶ」


「……費用は?」


「それを、これから考える」


 十衛門は、ため息をついた。


「若殿」


「何だ」


「また、先に仕組みを考えてから、銭のことを考えておられますな」


「……悪かった」


 十衛門は、少し笑った。


「いえ。以前よりは、随分とましになられました」


「……褒めているのか?」


「もちろんでございます」


 俺は苦笑した。


 だが、すぐに真顔に戻った。


 吉乃が倒れるまで、残された時間は長くない。


 前の人生では、出会ってから二か月ほどで、彼女は亡くなった。


 今回も同じことが起きるとは限らない。


 だが、起きない保証もない。


 俺は、できることを一つずつ進めるしかなかった。


 そのときだった。


 廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえた。


「若殿!」


 若い家臣が、息を切らして駆け込んできた。


「いかがした」


 十衛門が尋ねた。


 家臣は膝をついた。


「東の境より、急ぎの知らせにございます!」


 俺は顔を上げた。


「……何があった?」


 家臣は、緊張した声で答えた。


「今川方に通じる者どもが、境の村々に姿を現しております!」


 十衛門の表情が変わった。


「……数は?」


「詳しくは分かりませぬ。ただ、武装した者が数十人、街道を行き来しているとのこと!」


 俺は、思わず息を呑んだ。


 今川。


 その名を聞いた瞬間、頭の中に歴史の教科書が浮かんだ。


 今川義元。


 桶狭間の戦い。


 織田信長の名を天下に知らしめることになる、あの戦だ。


 だが、それはまだ先の話だ。


 今は、天文十八年。


 一五四九年。


 俺は、まだ織田家の当主ですらない。


 そして、歴史の知識があっても、目の前の敵が何を考えているのかは分からない。


「……十衛門」


「はっ」


「父上は?」


「すでに知らせが届いているはずにございます」


 俺は立ち上がった。


「行こう」


 十衛門が、深く頷いた。


「承知いたしました」


 俺は廊下へ足を踏み出した。


 胸の奥が、冷たくなっていた。


 村の水争いひとつ、満足に解決できない俺が。


 今度は、戦に向き合わなければならないらしい。


 ……まったく。


 戦国時代というのは、休む暇もない。


 だが、逃げるつもりはなかった。


 俺は、織田信長なのだから。

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