第32話:死んだはずの恋人に再会したら初対面扱いされたんだが!?
吉乃は、生きていた。
井戸端に立つ娘は、俺のことを不思議そうに見上げている。
春の日差しを受けた頬はほんのりと赤く、額には水汲みの途中で浮かんだらしい細かな汗が光っていた。
大きな瞳。
柔らかな頬。
笑うと少しだけ細くなる目元。
現代の芸能人で例えるなら、今田美桜に似た、愛嬌のある顔立ちだった。
何も変わっていない。
俺が知っている吉乃が、そこにいた。
「……あの、お侍さま?」
吉乃が首を傾げた。
「どこか、お加減でも悪いのですか?」
俺は慌てて目元を拭った。
「いや、何でもない」
「でも、泣いていらっしゃるように見えますけれど」
「……目に、砂が入った」
吉乃は俺の顔を見つめた。
それから、足元へ視線を落とした。
「今日は、そんなに風が強くありませんけれど」
「…………」
そうだった。
この娘は、意外と遠慮がない。
前の人生でも、俺の言い訳を容赦なく見破っていた。
懐かしさに胸が詰まる。
俺は、どうにか笑みを作った。
「……気のせいだ」
「そうですか?」
吉乃はまだ納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
代わりに、手元の桶を持ち直した。
「お水をお探しですか?」
「ああ……いや」
俺は井戸を見た。
石を積み上げた井戸の縁には、長年使われてきたらしい擦り傷がいくつも残っている。
滑車から垂れた縄は湿っており、その先には木桶が吊るされていた。
前の人生。
俺は、この井戸で吉乃と出会った。
水を汲むのを手伝おうとして、盛大に水を跳ねさせたのだ。
あのとき吉乃は、最初こそ驚いていたものの、最後には声を上げて笑ってくれた。
俺はその笑顔が見たくて、何度も村へ通うようになった。
「……水を汲むのは、大変か?」
俺が尋ねると、吉乃は目を瞬かせた。
「え?」
「その桶だ。重いだろう」
吉乃は自分の手元を見た。
「まあ、軽くはありませんけれど、毎日のことですから」
「……そうか」
「お侍さまは、水汲みをなさったことがないのですか?」
「……あまりない」
「では、一度やってみます?」
吉乃は、いたずらっぽく笑った。
俺は思わず彼女を見つめた。
その笑い方まで、同じだった。
「……そうだな」
俺は袖をまくった。
「やってみよう」
*
結果から言えば、俺はまた水を跳ねさせた。
ただし、前回とは違う。
今度は井戸から桶を引き上げる途中で縄が滑り、木桶が縁にぶつかったのだ。
水が勢いよくこぼれ、俺の袖を濡らした。
「……っ!」
吉乃が息を呑んだ。
そして、次の瞬間。
「あはははっ!」
声を上げて笑い始めた。
「お侍さま、本当に慣れていらっしゃらないのですね!」
「……面目ない」
「そんなに力いっぱい引かなくても大丈夫ですよ」
吉乃は笑いながら俺の隣に立った。
「ほら、こうして少しずつ引き上げるんです」
彼女の手が縄に触れた。
細い指だった。
爪は短く切り揃えられ、指先には水仕事で荒れた跡がある。
俺は、その手を知っていた。
茶碗を差し出してくれた手。
干し柿を半分に割ってくれた手。
最後に握ったとき、もう温かくなかった手。
喉の奥が、急に苦しくなった。
「……お侍さま?」
吉乃が俺を見上げた。
「本当に、大丈夫ですか?」
「……ああ」
俺は頷いた。
「少し、考え事をしていた」
「水汲みをしながら?」
「……そうだ」
「それでは、またこぼしてしまいますよ」
吉乃はくすくすと笑った。
俺も、ようやく自然に笑えた。
この笑顔を、もう一度見ることができた。
それだけで、死んだ甲斐があった。
そう思いかけて、俺は自分の考えを打ち消した。
違う。
俺は、死ぬために戻ってきたのではない。
今度こそ、生きるために戻ってきたのだ。
*
「若殿!」
背後から声がした。
振り返ると、土山十衛門がこちらへ歩いてきていた。
その後ろには、村役人らしい初老の男が控えている。
「こちらにおられましたか」
「ああ。すまない、十衛門」
十衛門は俺の濡れた袖を見た。
次に、井戸の桶を見た。
最後に、吉乃へ視線を移した。
太い眉が、わずかに動いた。
「……若殿」
「何だ」
「水汲みの稽古まで始められたのでございますか」
「……違う」
「左様でございますか」
まったく信じていない顔だった。
そのとき、村役人が慌てて膝をついた。
「こ、これは若殿さま! そのようなお姿で井戸仕事など!」
吉乃の顔から、笑みが消えた。
「……若殿、さま?」
俺は、しまったと思った。
吉乃は俺と十衛門を交互に見た。
そして、みるみる顔色を変えた。
「も、申し訳ございません!」
彼女は慌てて地面に膝をついた。
「まさか、織田家の若殿さまとは存じませず!」
「吉乃、顔を上げてくれ」
言ってから、俺は息を止めた。
吉乃が、はっと顔を上げる。
「……どうして、私の名を?」
まずい。
前の人生では何度も呼んだ名前だった。
だが、今の俺は、まだ彼女から名乗られていない。
「……先ほど、村の者から聞いた」
咄嗟に答えた。
吉乃は不思議そうに眉を寄せた。
「そうでしたか?」
「ああ」
十衛門が、横から静かに口を挟んだ。
「若殿」
「……何だ」
「私は、まだこちらの娘の名を存じませぬが」
余計なことを。
俺は十衛門を睨んだ。
十衛門は平然としていた。
吉乃は、ますます困惑した様子で俺を見上げている。
「……以前、どこかでお会いしましたでしょうか?」
その問いに、俺は答えられなかった。
会っている。
何度も。
お前の笑顔も、泣き顔も知っている。
俺を好きだと言ってくれた声も、覚えている。
だが、それはこの娘の記憶ではない。
「……いや」
俺は首を振った。
「初めてだ」
吉乃は、少し安心したように微笑んだ。
「そうでございましたか」
その笑顔を見て、俺は胸の奥が痛んだ。
俺たちは、初対面なのだ。
この人生では。
*
村役人の家で、俺は村の暮らしについて話を聞いた。
戸数は二十四。
村人は百人余り。
主な生業は稲作と畑作で、川沿いの田には水が行き渡るものの、林に近い畑では乾燥に悩まされることがあるという。
昨年は大きな凶作こそなかったが、秋の長雨で収穫を損ねた家が数軒あった。
俺は十衛門に書付を取らせながら、村役人の話を聞いた。
「……病人はいるか?」
俺が尋ねると、村役人は少し考えた。
「今のところ、重い病の者はおりませぬ」
俺は胸を撫で下ろした。
「熱を出した者は?」
「子どもが風邪を引くことはございますが、近頃は大きな流行り病もございませぬ」
「……そうか」
よかった。
少なくとも、今はまだ。
俺は続けて尋ねた。
「この村で病人が出たとき、誰が面倒を見る?」
「家族が看病いたします。薬草に詳しい者もおりますゆえ」
「医者は?」
「町から呼ぶこともございますが、なかなか……」
村役人は言葉を濁した。
理由は分かる。
銭がかかるのだ。
俺は、前の村で聞いた話を思い出した。
医者を呼べない家。
熱を出して亡くなった十六歳の娘。
この時代では、若く健康な人間であっても、病によって突然命を落とす。
吉乃も、その一人だった。
「……十衛門」
「はっ」
「この村から町まで、どのくらいかかる?」
「徒歩であれば、半日ほどにございます」
「医者を呼びに行って、戻るまでには一日か」
「左様にございます」
俺は考え込んだ。
一日。
吉乃が倒れてから亡くなるまでの時間を思えば、決して短くない。
医者が来る頃には、手遅れになっているかもしれない。
「……村の者が病になったとき、すぐに知らせを出せるようにしたい」
俺が言うと、十衛門が顔を上げた。
「若殿」
「何だ?」
「それは、どの村でも、でございますか」
「ああ。できればな」
十衛門は眉を寄せた。
「……人手が足りませぬ」
「分かっている」
「知らせを受ける者を置き、馬を走らせ、医者を手配するとなれば、相応の費用もかかります」
「それも分かっている」
俺は頷いた。
「だから、まずは試したい」
十衛門は黙っていた。
「すべての村で一度に始めることはできない。だが、いくつかの村で仕組みを作り、どの程度の人手と銭が必要なのか確かめることはできるだろう」
十衛門は、しばらく俺を見つめていた。
「……なるほど」
彼は静かに頷いた。
「まずは、小さく始めるということでございますな」
「ああ」
「であれば、信秀さまにもお話ししやすいかと存じます」
俺は少し安心した。
十衛門は、俺の考えを頭ごなしに否定しない。
現実的な問題を指摘し、そのうえで実行できる方法を探してくれる。
この男がいてくれて、本当によかった。
*
話が一段落した頃、村役人の妻が茶を運んできた。
その後ろに、吉乃がいた。
俺は思わず顔を上げた。
「……吉乃?」
吉乃は、少し驚いたように俺を見た。
「はい」
村役人の妻が頭を下げた。
「この娘は、近所に住んでおります吉乃と申します。今日は人手が足りませぬので、手伝いに来てもらいました」
「……そうか」
俺は頷いた。
吉乃は盆を持ち、俺の前へ茶碗を置いた。
「どうぞ、若殿さま」
その呼び方に、胸が少し痛んだ。
前の人生では、いつからか「信長さま」と呼んでくれるようになった。
最初は遠慮がちだった声が、次第に柔らかくなった。
あの変化を、俺はよく覚えている。
「……ありがとう」
俺が礼を言うと、吉乃は小さく微笑んだ。
「いえ」
そして、少しだけ声を落とした。
「……お袖は、乾きましたか?」
俺は思わず笑った。
「ああ。おかげさまで」
「それは、ようございました」
吉乃も笑った。
村役人の妻が、不思議そうに俺たちを見ていた。
十衛門は、何も言わなかった。
ただ、俺の顔を一度見てから、静かに茶碗を持ち上げた。
*
村を出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
俺は馬に乗る前に、井戸のほうを振り返った。
吉乃が、そこにいた。
先ほどと同じように、桶を持っている。
俺に気づくと、少し驚いた顔をした。
そして、小さく頭を下げた。
俺は馬の手綱を握ったまま、しばらく彼女を見つめた。
「……若殿」
十衛門が声をかけた。
「そろそろ、参りましょう」
「ああ」
俺は頷いた。
だが、すぐには馬を進められなかった。
吉乃が、こちらへ歩いてきたからだ。
「あの、若殿さま」
「……何だ?」
吉乃は少し緊張した様子で、俺を見上げた。
「今日は、ありがとうございました」
「……礼を言われるようなことは、していないぞ」
「いえ」
吉乃は首を振った。
「村のことを、あんなに詳しく聞いてくださるお侍さまは、初めてでしたから」
俺は黙った。
「村の者も、驚いておりました」
「……そうか」
「はい」
吉乃は微笑んだ。
その笑顔を見て、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……吉乃」
「はい」
「また、来てもいいか?」
吉乃は目を瞬かせた。
「……この村へ、でございますか?」
「ああ」
「もちろんでございます」
彼女は少し笑った。
「若殿さまのお許しをいただくような村ではございませんけれど」
「……そうだな」
俺も笑った。
吉乃は少し考えたあと、言った。
「今度いらしたときは、もう少し上手に水を汲めるようになってくださいませ」
俺は思わず吹き出した。
「……努力する」
「ふふっ。楽しみにしております」
その言葉が、胸に残った。
楽しみにしております。
前の人生でも、吉乃は何度もそう言ってくれた。
次に会う日を。
一緒に茶を飲む時間を。
約束した夜を。
だが、最後の約束だけは果たせなかった。
今度は、違う。
俺は、必ず会いに来る。
「……では、またな」
「はい。お気をつけて」
吉乃は、深く頭を下げた。
俺は馬を進めた。
背後で、井戸の滑車が軋む音がした。
*
村を離れてしばらくすると、十衛門が口を開いた。
「……若殿」
「何だ?」
「先ほどの娘でございますが」
俺は手綱を握る手に力を込めた。
「……吉乃が、どうした」
「随分と、お気に召したご様子にございましたな」
俺は十衛門を見た。
彼は前を向いたまま、平然としていた。
「……そう見えたか」
「はい」
即答だった。
「若殿が、あのように娘と楽しげに話されるところは、初めて拝見いたしました」
俺は少し考えた。
そして、正直に答えた。
「……気になる娘だ」
十衛門は頷いた。
「左様でございますか」
「……何も言わないのか?」
「何を、でございますか」
「祝言を挙げたばかりなのに、ほかの娘に目を向けるのはどうか、とか」
十衛門は少し考えた。
「……若殿」
「何だ」
「信秀さまにも、複数のお方がおられます」
「……そうだったな」
「武家において、珍しいことではございませぬ」
十衛門は淡々と答えた。
「ただし」
その声が、少しだけ厳しくなった。
「お相手が村の娘であるならば、なおさら慎重になさるべきかと」
俺は十衛門を見た。
「……なぜだ?」
「若殿にとっては、一時の情であっても、娘にとっては一生を左右することでございます」
俺は息を止めた。
十衛門は続けた。
「若殿が声をかければ、娘の家も、村の者も、容易には断れませぬ」
その言葉が、胸に刺さった。
前の人生。
吉乃は、俺を好きだと言ってくれた。
だが、側室になることは断った。
誰かの二番目になるのは嫌だ、と。
俺はその言葉を、ただ恋愛感情の問題として受け取っていた。
しかし、今なら少し分かる。
側室になれば、吉乃の人生は大きく変わる。
実家から離れ、織田家の中で暮らすことになる。
俺が死ねば、その立場がどうなるかも分からない。
まして、子がいなければ。
吉乃は、そこまで考えていたのかもしれない。
「……十衛門」
「はっ」
「俺は、あの娘を軽く扱うつもりはない」
十衛門は俺を見た。
「……左様でございますか」
「ああ」
俺は前を向いた。
「だが、今すぐどうこうするつもりもない」
十衛門は、少しだけ表情を和らげた。
「それがよろしいかと存じます」
俺は頷いた。
吉乃は、俺を知らない。
俺だけが、あの娘との思い出を持っている。
だからこそ、急いではいけない。
今度は、吉乃自身に俺を知ってもらわなければならない。
織田信長として。
そして、一人の男として。
*
城へ戻ると、濃姫が出迎えてくれた。
淡い水色の小袖をまとい、長い黒髪を丁寧に結い上げている。
切れ長の瞳が、俺の顔を捉えた。
「お帰りなさいませ、信長さま」
「ただいま」
「村の様子はいかがでございましたか?」
「いろいろと、考えさせられた」
俺は草履を脱ぎながら答えた。
「水のことも、病のことも、知らないことばかりだった」
濃姫は頷いた。
「村によって、事情は異なりますから」
「ああ」
俺は彼女を見た。
「今夜、少し相談に乗ってくれないか」
濃姫の表情が明るくなった。
「もちろんでございます」
俺は微笑んだ。
その笑顔を見て、胸の奥に小さな痛みが走った。
濃姫。
この人も、俺の妻なのだ。
前の人生では、俺の恋心を知りながら、最後まで支えてくれた。
だが、それがどれほど苦しいことだったのか。
俺は、十分に考えていただろうか。
今度は、同じ過ちを繰り返したくない。
吉乃を守りたい。
だが、濃姫を傷つけていいわけではない。
俺は、二人の人生に責任を持たなければならない。
それが、織田信長として生きるということなのだろう。
*
夜。
俺は机に向かい、今日見てきた村のことを書き留めていた。
戸数。
田畑。
水の問題。
医者を呼ぶまでにかかる時間。
そして、村人たちの暮らし。
濃姫は隣に座り、書付を一枚ずつ読んでいた。
「……この村では、川の水をめぐって争いがあるのですね」
「ああ」
「であれば、川上と川下の村役人を集めて、話し合いをさせてはいかがでしょう」
「……なるほど」
「水を使う順番を決めるだけでも、多少は違うかもしれませぬ」
俺は頷いた。
濃姫は、やはり聡明だった。
俺が一日かけて見つけた問題に、彼女はすぐ具体的な案を出してくれる。
「……助かる」
俺が言うと、濃姫は少し微笑んだ。
「お役に立てるのであれば、嬉しゅうございます」
俺は筆を置いた。
そして、ふと窓の外を見た。
月が出ていた。
今夜も、吉乃はあの村で眠っているのだろう。
母親と話をしながら、夕餉を食べたのだろうか。
それとも、今日の出来事を思い出して笑っているのだろうか。
俺は、思わず微笑んだ。
「……信長さま?」
濃姫が声をかけた。
「何か、よいことでもございましたか?」
俺は、はっとした。
「……いや」
少し考えてから、答えた。
「今日、懐かしいものを見た気がしてな」
「懐かしいもの?」
「ああ」
俺は月を見た。
「……もう二度と見られないと思っていたものだ」
濃姫は不思議そうに俺を見つめていた。
だが、それ以上は尋ねなかった。
俺は再び筆を取った。
まだ、やるべきことは山ほどある。
吉乃が倒れる日まで、残された時間は長くない。
だが、俺は焦るまいと決めた。
この人生で、あの娘にもう一度好きになってもらう。
そして、今度こそ守り抜く。
俺は書付の端に、小さく印をつけた。
吉乃の村。
医者を呼ぶまで、半日以上。
病人が出た場合の連絡手段、未整備。
改善すべきことは、まだいくらでもある。
俺は、筆を走らせた。
窓の外では、春の夜風が静かに吹いていた。
その風が運んでくる未来を、俺はまだ知らない。
だが、今度は待つだけでは終わらせない。
俺は自分の手で、少しずつ変えていくつもりだった。




