第30話:父上に領地改革を提案したら謀反を疑われたんだが!?
父に呼び出されたのは、祝言から三日目の朝だった。
その日も俺は、夜明けとともに庭へ出ていた。
木槍を握る手には、昨日潰れた水ぶくれの跡が残っている。掌の皮膚はまだ薄く、柄が擦れるたびに鈍い痛みが走った。
十衛門は、俺の構えを見て小さく頷いた。
「昨日より、足の運びがよくなっております」
「本当か?」
「はい。ただし、上体が前へ流れすぎております」
俺は足元を見た。
確かに、突きを繰り出したあと、身体の重みが左足に偏っている。
「これでは、槍をかわされたときに踏みとどまれませぬ」
「……なるほど」
「一度、ゆっくりと動いてみてくだされ」
言われたとおり、足を踏み出す。
腰を回す。
腕を伸ばす。
槍の穂先が、朝の空気を切った。
「そうです。今の形を覚えてくだされ」
十衛門は俺の背後へ回り、肩の位置を直した。
大きな手だった。
節くれだった指には古い傷がいくつも走り、掌には分厚い胼胝ができている。
この男は、いったい何年、槍を握ってきたのだろう。
俺はまだ、その半分も知らない。
「……十衛門」
「はっ」
「お前は、いつから父上に仕えている?」
「信秀さまにお仕えしてから、かれこれ二十年ほどになります」
「二十年か」
「若殿がお生まれになる前からでございますな」
十衛門はそう言って、珍しく少し笑った。
「昔の父上は、どんな人だった?」
十衛門の手が止まった。
「……信秀さま、でございますか」
「ああ」
俺は木槍を下ろした。
「俺は父上のことを、あまり知らない気がする」
十衛門は少し考え込んだ。
「……昔から、よく働かれるお方でございました」
「働く?」
「戦に出れば自ら先頭に立ち、城へ戻れば夜更けまで家臣の報告を聞いておられました。時には商人を呼び、銭の出入りについても細かくお尋ねになりました」
俺は黙って聞いていた。
「若殿がまだ幼かった頃も、信秀さまは尾張のあちらこちらを駆け回っておられました」
「……そうだったのか」
「今の織田家があるのは、信秀さまが積み重ねてこられたものがあってこそにございます」
俺は庭の向こうへ目を向けた。
父、織田信秀。
歴史の教科書では、信長の父として数行で説明される人物だ。
だが、この時代の彼は、まだ生きている。
俺と同じように悩み、決断し、失敗する、一人の人間なのだ。
「……一度、きちんと話をしてみたいな」
俺がそう言ったときだった。
「若殿!」
廊下から、若い小姓が駆けてきた。
まだ十代半ばほどだろう。丸い顔に、やや垂れた眉。息を切らしながら庭先に膝をついた。
「信秀さまより、お呼び出しにございます!」
俺は十衛門と顔を見合わせた。
「……ちょうどいい」
十衛門は、なぜか少しだけ嫌そうな顔をした。
*
父の居室は、屋敷の奥にあった。
長い廊下を進むにつれ、人の気配が少なくなっていく。
庭に面した座敷の前には、二人の武士が控えていた。
十衛門が俺の一歩後ろで立ち止まる。
「若殿。くれぐれも、お言葉にはお気をつけくだされ」
「分かっている」
「本当に?」
「……十衛門」
「はっ」
「お前は俺を何だと思っている」
十衛門は少し考えた。
「……率直に申し上げても?」
「いや、やめておこう」
俺は障子へ向き直った。
中から、低い声がした。
「入れ」
俺は膝をつき、障子を開けた。
*
織田信秀は、思っていた以上に大きな男だった。
年の頃は四十代。
広い額に、太く濃い眉。鼻筋は高く、頬骨が張っている。短く整えられた髭が口元を覆い、その下には固く結ばれた唇があった。
俺と同じ血が流れていることは、顔を見れば分かる。
特に目元が似ていた。
ただし、その目に宿る鋭さは、俺の比ではなかった。
信秀は濃紺の小袖をまとい、座敷の中央に座っていた。
背後の床の間には一幅の掛け軸が飾られ、脇には黒漆の刀掛けが置かれている。
部屋には、墨と香の匂いが漂っていた。
「……参りました」
俺が頭を下げると、父はしばらく黙っていた。
「座れ」
「はい」
俺は向かいに腰を下ろした。
信秀は俺をじっと見つめていた。
まるで、初めて見る珍しい生き物を観察するような目だった。
「……信長」
「はい」
「お前、何を企んでおる」
いきなりだった。
俺は瞬きをした。
「……企む、とは?」
「とぼけるな」
父の声が低くなった。
「祝言の翌朝から槍を振り回し、家臣を呼んでは領地のことを尋ね回っておるそうではないか」
俺は思わず十衛門を振り返った。
十衛門は何も言わず、静かに頭を下げている。
どうやら、すでに報告が届いていたらしい。
「……そのことでございますか」
「そのこと、ではない」
信秀は膝に置いた手を握った。
「今まで政にろくな関心を示さなかったお前が、突然、村の戸数や田畑の収穫を調べたいと言い出した」
「はい」
「医者の数まで知りたいそうだな」
「はい」
「……何のためだ」
俺は姿勢を正した。
「領地を知るためにございます」
父の眉が動いた。
「領地を?」
「はい」
「……誰の領地だ」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
信秀の視線が鋭くなる。
「まだ、お前の領地ではないぞ」
そこで、ようやく気づいた。
俺は、少し急ぎすぎたのだ。
現代の感覚で考えれば、跡取り息子が家業を学ぼうとするのは自然なことだ。
だが、ここは戦国時代。
親子であっても、権力をめぐって争うことがある。
まして俺は、うつけ者として知られる織田家の嫡男だ。
そんな男が突然、兵や領地の実情を調べ始めたら。
父が警戒するのも、無理はなかった。
「……父上」
俺は深く頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
信秀は黙っていた。
「父上の許しも得ず、勝手に話を進めようといたしました」
「…………」
「ですが、家督を奪おうなどという考えは、毛頭ございませぬ」
信秀の目が細くなった。
「……では、なぜだ」
俺は顔を上げた。
「俺が、あまりにも何も知らぬからにございます」
父の表情が、わずかに変わった。
「今まで俺は、織田家の嫡男でありながら、領地のことも、兵のことも、家臣のことも、まともに知ろうとしませんでした」
俺は言葉を続けた。
「しかし、いずれ父上の跡を継ぐのであれば、知らぬままでは済みませぬ」
信秀は何も言わなかった。
「父上が築かれたものを、俺の無知で失うわけにはまいりませぬ」
その言葉を口にしたとき、初めて父の顔を正面から見た気がした。
深く刻まれた眉間の皺。
目尻に残る疲労の影。
整えられてはいるものの、節くれだった指。
この男は、長い年月をかけて織田家を支えてきたのだ。
俺が何度も逃げ出そうとした、この世界で。
「……ほう」
信秀が、ようやく口を開いた。
「それで、何を知りたい」
俺は息を整えた。
「まずは、尾張の村々についてでございます」
*
俺は、昨夜から考えていたことを話した。
村の戸数。
田畑の広さ。
年貢の負担。
兵として動員できる人数。
そして、病が流行した際の備え。
信秀は腕を組み、黙って聞いていた。
「……つまり、お前は村の様子を詳しく調べたいと申すのだな」
「はい」
「それを知って、どうする」
「まずは、どこに問題があるのかを知りとうございます」
信秀は鼻を鳴らした。
「問題など、どこにでもある」
「存じております」
「年貢を納められぬ村もあれば、水をめぐって争う村もある。病が流行ることも、凶作になることもある」
「はい」
「それらを、すべて救えると思うか」
俺は答えられなかった。
信秀は続けた。
「領地を治めるというのは、そういうことだ」
父は傍らに置かれた書付を手に取った。
「ある村で堤が壊れたとする。直すには人手と銭がいる。だが、その銭を使えば、別の城の修繕が遅れる」
俺は黙って聞いていた。
「城を直さねば、敵が攻めてきたときに守りきれぬ。堤を直さねば、村の田が水に沈む」
信秀は書付を置いた。
「どちらを選ぶ」
俺はすぐには答えなかった。
前の人生なら、迷わず村を救うと言っていたかもしれない。
だが、それだけでは済まないことを、今は知っている。
城が落ちれば、もっと多くの人間が死ぬかもしれない。
しかし、村を見捨てれば、そこに暮らす人々は生活を失う。
「……状況を確かめとうございます」
俺は答えた。
「堤が壊れた村の戸数と被害、城の傷み具合、敵が攻めてくる可能性。それらを知らずに、どちらかを選ぶことはできませぬ」
信秀の目が細くなった。
「……両方を救う、と言わぬのか」
「救えるのであれば、そういたします」
俺は父を見た。
「ですが、救えぬこともあるのでしょう」
信秀は黙っていた。
「そのときは、選ばねばなりませぬ」
俺は膝の上で拳を握った。
「だからこそ、知らなければならないのです」
長い沈黙が流れた。
庭先で、鳥が一声鳴いた。
やがて、信秀が低く笑った。
「……ふん」
父は俺を見据えた。
「少しは、まともなことを言うようになったではないか」
俺は頭を下げた。
「恐れ入ります」
「だが、言うだけなら誰にでもできる」
「はい」
「本当に領地を知りたいというのであれば、自分の足で見てこい」
俺は顔を上げた。
「……よろしいのですか」
「ただし、勝手に村を動かすことは許さぬ」
信秀は厳しい声で続けた。
「年貢を減らすことも、人を集めることも、俺の許しなく行ってはならぬ」
「承知いたしました」
「十衛門をつける。まずは近隣の村を見て回れ」
俺は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
信秀は、しばらく俺を見ていた。
そして、ぽつりと言った。
「……信長」
「はい」
「お前は、何かあったのか」
俺は息を止めた。
父の目は、まっすぐ俺を捉えていた。
「祝言を境に、人が変わったようだ」
「…………」
「以前のお前は、俺とまともに目を合わせようともしなかった」
俺は言葉を失った。
信秀は続けた。
「今のお前は、何かを恐れているようにも見える。だが、逃げようとはしておらぬ」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
父には、何も話せない。
何度も死んだことも。
未来から来たことも。
吉乃という娘を救うために、時間を巻き戻したことも。
だが、嘘をつく必要もなかった。
「……失いたくないものが、できました」
俺は答えた。
信秀はしばらく黙っていた。
やがて、静かに頷いた。
「……そうか」
それ以上は、何も尋ねなかった。
*
座敷を出ると、十衛門が廊下で待っていた。
俺の顔を見るなり、眉を上げる。
「……若殿」
「何だ」
「ご無事でございましたか」
「父上に会ってきただけだぞ」
「左様でございますが」
十衛門は、少しだけ肩の力を抜いた。
「何か、お叱りを受けましたか」
「まあ、少しな」
「やはり」
「だが、村を見て回る許しをもらった」
十衛門の表情が変わった。
「……まことにございますか」
「ああ。お前も同行するようにとのことだ」
十衛門はしばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
俺は廊下を歩き始めた。
十衛門が隣に並ぶ。
「……若殿」
「何だ?」
「信秀さまは、何と仰せでしたか」
「自分の足で見てこい、と」
十衛門は頷いた。
「……信秀さまらしいお言葉にございます」
「そうだな」
俺は庭の向こうを見た。
春の空が広がっている。
この空の下に、吉乃がいる。
まだ俺を知らない、あの娘が。
俺は、思わず歩みを速めそうになった。
だが、足を止めた。
今すぐ会いに行きたい。
その気持ちは、少しも変わっていない。
しかし、焦ってはいけない。
吉乃の命を救うためには、まず何が起こったのかを知らなければならない。
あの熱は、何の病だったのか。
村では、ほかにも同じ症状の者がいたのか。
薬はあったのか。
医者は呼ばれたのか。
前の人生で、俺は何一つ確かめられなかった。
今度は、違う。
俺は、そのための力を手に入れる。
*
その日の夕刻、俺は濃姫と庭を歩いていた。
日が傾き、庭石の影が長く伸びている。
池の水面には、赤く染まった空が映っていた。
濃姫は俺の隣を、静かな足取りで歩いていた。
薄紫の小袖の裾が、歩くたびに柔らかく揺れる。
「……父上に、お会いになったそうですね」
「ああ」
「何か、お話がございましたか」
「村を見て回る許しをもらった」
濃姫が目を見開いた。
「村を、でございますか?」
「ああ。領地のことを知りたいと思ってな」
「……信長さまは、本当に熱心でいらっしゃるのですね」
俺は苦笑した。
「今まで何もしてこなかっただけだ」
濃姫は少し考えた。
「……私も、何かお手伝いできることはございませぬか」
俺は彼女を見た。
「手伝い?」
「はい」
「……例えば?」
濃姫は少しだけ首を傾げた。
「私も、美濃では父のもとで、城や領地のことを多少は学んでまいりました」
俺は思わず足を止めた。
そうだった。
濃姫は、斎藤道三の娘だ。
ただ美しいだけの姫ではない。
武芸に秀で、政治にも関心がある。
前の人生で、俺はその能力を十分に生かせていただろうか。
いや。
きっと、できていなかった。
「……濃姫」
「はい」
「ぜひ、力を貸してほしい」
濃姫の顔が、ぱっと明るくなった。
「……よろしいのですか?」
「もちろんだ」
俺は頷いた。
「俺はまだ、知らないことばかりだ。お前の知恵も借りたい」
濃姫は嬉しそうに微笑んだ。
「……承知いたしました」
その笑顔を見て、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
前の人生では、俺はこの人を傷つけた。
今度は、ただ守るだけではなく、共に歩いていきたい。
そう思った。
*
夜。
俺は一人、机に向かっていた。
目の前には、十衛門が用意してくれた村々の書付が広げられている。
戸数。
田畑の広さ。
年貢の量。
村役人の名前。
俺は一つずつ目を通していた。
まだ、分からないことだらけだった。
数字を見ても、その村が豊かなのか貧しいのか、すぐには判断できない。
だが、少なくとも。
今の俺は、それを知ろうとしている。
俺は筆を置き、窓の外を見た。
月が昇っていた。
吉乃。
あの娘が死んだ夜も、月が出ていた。
俺は、あのときのことを忘れない。
冷たくなった手。
閉じられた瞼。
渡せなかった木の櫛。
そして、母親の涙。
俺は拳を握った。
今度は、間に合わせる。
あの娘が倒れる前に。
手遅れになる前に。
必ず。
そのとき、障子の向こうから声がした。
「……信長さま」
濃姫だった。
「まだ、お休みにならないのですか」
「ああ。もう少しだけ」
障子が開き、濃姫が顔を覗かせた。
その手には、湯気の立つ茶碗があった。
「……お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう」
濃姫は俺の隣に座り、茶碗を差し出した。
俺はそれを受け取った。
温かい。
湯気が顔に触れた。
「……信長さま」
「何だ?」
「何を、それほど急いでいらっしゃるのです?」
俺は茶碗を持つ手を止めた。
濃姫は静かに俺を見つめていた。
「槍の稽古も、領地のお勉強も。まるで、何かに追われているように見えます」
俺は答えられなかった。
濃姫は続けた。
「……私には、まだ信長さまのお考えが分かりませぬ」
その声には、責めるような響きはなかった。
ただ、少し寂しそうだった。
俺は茶碗を置いた。
「……濃姫」
「はい」
「俺は、怖いのだと思う」
濃姫が目を瞬かせた。
「……怖い?」
「ああ」
俺は窓の外を見た。
「大切なものを、失うことが」
濃姫は黙っていた。
「だから、今のうちにできることをしておきたい」
俺は彼女を見た。
「いつか、何かが起きたとき。何もできなかったと後悔しないように」
濃姫はしばらく俺を見つめていた。
やがて、静かに頷いた。
「……そうでございましたか」
そして、少し微笑んだ。
「ですが、信長さま」
「何だ?」
「お一人で、すべてを背負おうとなさらないでくださいませ」
俺は目を見開いた。
「……私も、おります」
濃姫は、そう言った。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
前の人生でも、この人は同じように俺を支えてくれた。
俺がどれほど情けなくても。
どれほど間違えても。
最後まで。
「……ありがとう」
俺は小さく答えた。
濃姫は微笑んだ。
俺は、そっと茶碗を持ち上げた。
温かい茶が、喉を通っていく。
この時間を、今度は大切にしよう。
そう思った。
そして。
明日から始まる村の視察が、俺の四度目の人生を大きく変えることになるとは、このときの俺はまだ知らなかった。




