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第29話:槍の稽古を始めたら家臣が容赦なさすぎるんだが!?

 木槍の先端が、俺の喉元で止まった。


 あと指二本分。


 それだけ距離が縮まっていれば、俺はまともに声を出すこともできなかっただろう。


「……参りました」


 俺がそう告げると、土山十衛門は静かに槍を引いた。


「これで十七本にございます」


「数えていたのか」


「当然でございます」


 十衛門は、まるで朝食の献立でも報告するような顔をしていた。


 俺は膝に手をつき、荒い息を吐いた。


 春の朝だというのに、背中は汗でびっしょりと濡れている。握り続けた木槍の柄が手のひらに擦れ、指の付け根には早くも赤い筋が浮かんでいた。


 昨日、祝言を挙げたばかりだった。


 そして今日、俺は十七回も死んでいる。


 もちろん、稽古の上での話だ。


 しかし、十衛門の突きは冗談では済まない鋭さを持っていた。


「若殿。お疲れであれば、ひとまずお休みを」


「……いや」


 俺は息を整え、木槍を構え直した。


「もう一度だ」


 十衛門は、しばらく俺の顔を見つめていた。


 太い眉の下にある鋭い目は、普段よりも幾分柔らかく見えた。


「承知いたしました」


 十衛門が腰を落とす。


 俺もそれに倣った。


 左足を前へ。


 右足を半歩引く。


 柄を握る手に力を込めすぎない。


 先ほど教わったことを、一つずつ思い出す。


 十衛門が踏み込んだ。


 俺は反射的に槍を払おうとした。


 だが、相手の穂先は途中で軌道を変え、俺の肩口を捉えた。


「ぐっ!」


 衝撃で足がもつれた。


 倒れかけたところへ、十衛門の足が入る。


 次の瞬間、俺は庭の土を見上げていた。


「十八本にございます」


「……分かっている」


 俺は空を仰いだ。


 雲一つない、見事な青空だった。


 こんな日に、俺は何をしているのだろう。


 祝言の翌朝である。


 本来なら、新妻と穏やかに朝食を囲んでいてもおかしくない。


 それなのに、俺は四十近い武士に地面へ叩きつけられている。


 しかも、自分から頼んだ。


 我ながら、随分と物好きな男になったものだ。


 だが、不思議と後悔はなかった。


     *


「若殿。先ほどから、同じ過ちを繰り返しておられます」


 十衛門は木槍を地面に立てた。


「相手の穂先ばかり見ていてはなりませぬ」


「……穂先を見るなと?」


「見てはなりませぬ、とは申しておりません。そこだけを見るな、と申し上げております」


 十衛門は自らの胸元を指した。


「肩、腰、足。人が動くとき、身体のどこかに必ず兆しが現れます」


「……なるほど」


「若殿は槍が動いてから反応なさる。ゆえに、一歩遅れるのでございます」


 俺は十衛門の立ち姿を見た。


 広い肩。


 厚い胸板。


 わずかに外へ開いた足先。


 重心は低いが、力んでいるようには見えない。


 彼は槍を構えたまま、ほんの少し右足を動かした。


「今、どこをご覧になりました?」


「……足だ」


「では、次は?」


「腰か?」


「左様」


 十衛門は頷いた。


「槍は腕だけで突くものではございませぬ。身体を運び、その力を穂先へ伝えるのでございます」


 俺は真似をしてみた。


 右足を踏み込み、腰を回し、木槍を前へ突き出す。


 しかし、どうにも動きがぎこちない。


「……こうか?」


「腰が遅れております」


 もう一度。


「肩に力が入りすぎです」


 さらにもう一度。


「足幅が狭うございます」


 俺は木槍を下ろした。


「……十衛門」


「はっ」


「俺は、そんなにひどいか?」


 十衛門は一瞬だけ考えた。


「率直に申し上げても?」


「頼む」


「戦場であれば、最初の一突きで討たれております」


 容赦がない。


 だが、今の俺にはその言葉がありがたかった。


 お世辞を言われても、強くはなれない。


「……ならば、最初の一突きを凌げるようになるまで付き合ってくれ」


 十衛門の口元が、わずかに緩んだ。


「無論にございます」


     *


 稽古を終えたのは、朝日が屋根の上へ昇った頃だった。


 俺は結局、二十三本取られた。


 一度も勝てなかった。


 最後の数本に至っては、槍を構えるだけで腕が震えていた。


 十衛門は、そんな俺を見て稽古を切り上げた。


「本日はここまでにいたしましょう」


「……まだ、できる」


「できませぬ」


 即答だった。


「今の若殿は、槍を握る力すら残っておられませぬ。無理を重ねれば、怪我をいたします」


 俺は自分の手を見た。


 確かに、指がうまく開かなかった。


「……分かった」


 十衛門が少し意外そうな顔をした。


「素直にお聞き入れになるのですな」


「お前がそう言うなら、そうなのだろう」


 俺は木槍を差し出した。


 十衛門はそれを受け取り、しばらく黙っていた。


「……若殿」


「何だ?」


「昨夜、何かございましたか」


 俺は顔を上げた。


「どうしてそう思う?」


「昨日までの若殿とは、まるで別人のように見受けられます」


 その言葉に、胸が小さく跳ねた。


 実際、俺は別人なのだ。


 少なくとも、十衛門の知る昨日の信長とは違う。


「……少し、夢を見た」


「夢、でございますか」


「ああ」


 俺は庭の梅を見上げた。


「大切なものを、何もかも失う夢だ」


 十衛門は黙っていた。


「目が覚めて、ようやく分かった。俺は、失うことばかり恐れて、守るための努力を何一つしていなかった」


 春風が吹いた。


 梅の花びらが一枚、俺たちの間を横切った。


「だから、変わろうと思った」


 十衛門は長い沈黙のあと、静かに頭を下げた。


「……そのお覚悟、しかと承りました」


     *


 部屋へ戻ると、濃姫が待っていた。


 朝の光を受けた座敷には、すでに食事の膳が用意されている。


 濃姫は淡い藤色の小袖をまとい、黒髪を後ろでまとめていた。


 祝言の席で見た華やかな姿とは違い、今日は飾り気が少ない。


 それでも、切れ長の目と端正な顔立ちは目を引いた。


 俺を見るなり、濃姫の眉が寄った。


「……信長さま」


「おはよう、濃姫」


「おはようございます。……では、ございませぬ」


 彼女は立ち上がった。


「そのお姿は、いったいどうなされたのです?」


 俺は自分の身体を見下ろした。


 稽古着には土がつき、袖口は汗で濡れている。


 右肘には擦り傷までできていた。


「槍の稽古をしていた」


「槍の?」


「ああ。十衛門に相手をしてもらった」


 濃姫は驚いたように目を見開いた。


「祝言の翌朝からでございますか?」


「そうだ」


「……ずいぶんと熱心でいらっしゃるのですね」


 俺は苦笑した。


「熱心というより、下手すぎるのだ」


「まあ」


 濃姫は小さく笑った。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなった。


 前の人生で、何度も見た笑顔だった。


 しかし、この濃姫はまだ俺を知らない。


 昨日、初めて夫婦になったばかりなのだ。


 俺は、そのことを忘れないようにしなければならなかった。


「……ところで、信長さま」


「何だ?」


「お怪我をなさっているではありませんか」


 濃姫が俺の右肘を指した。


「ああ。少し擦っただけだ」


「少し、ではございませぬ」


 彼女は侍女を呼び、水と清潔な布を持ってこさせた。


 そして、俺の前に膝をついた。


「腕をお出しください」


「自分でできるぞ」


「私がいたします」


 有無を言わせない口調だった。


 俺はおとなしく腕を差し出した。


 濃姫は布を水に浸し、傷の周囲についた土を丁寧に拭い始めた。


 冷たい水が皮膚に触れる。


 少し痛んだが、俺は黙っていた。


「……信長さま」


「何だ?」


「無理をなさってはなりませぬ」


「分かっている」


「本当に?」


「……できるだけ」


 濃姫は呆れたように息を吐いた。


「まったく」


 その仕草が、あまりにも懐かしかった。


 俺は思わず彼女を見つめた。


「……どうかなさいました?」


「いや」


 俺は首を振った。


「お前がいてくれて、よかったと思ってな」


 濃姫の手が止まった。


 白い頬に、ほんのりと赤みが差す。


「……そのようなことを、急に仰られては困ります」


「なぜ?」


「……心の準備が、できておりませぬ」


 俺は少し笑った。


 彼女は視線を落とし、再び傷の手当てを始めた。


 俺はその横顔を見ながら、心の中で呟いた。


 今度は、ちゃんと守る。


 お前も。


 吉乃も。


 俺のそばにいる人たちを。


     *


 朝食を終えたあと、俺は十衛門を呼んだ。


 今度は武芸の稽古ではない。


 織田家の領地について、話を聞くためだった。


 座敷に広げられたのは、尾張周辺の地図だった。


 紙には川や街道、城や村の位置が描き込まれている。


 十衛門はその一角を指した。


「現在、織田家が抱える懸念の一つは、尾張国内の諸勢力との関係にございます」


 俺は頷いた。


 尾張は、まだ一つにまとまっていない。


 俺の父、織田信秀は勢力を広げているものの、国内には対立する織田一族や有力な国人たちが存在していた。


 さらに、東には今川家。


 北には美濃の斎藤家。


 その間で、織田家は生き残らなければならない。


「……十衛門」


「はっ」


「父上は、今川との関係をどう考えている?」


 十衛門は少し驚いた顔をした。


「……若殿から、そのようなことをお尋ねになるとは」


「答えてくれ」


「はっ」


 十衛門は地図の東側へ指を滑らせた。


「今川家は三河へ勢力を伸ばしております。尾張東部においても、油断できぬ相手にございます」


 俺は地図を見つめた。


 三河。


 今川。


 そして、松平。


 歴史の授業で覚えた名前が、次々と頭に浮かぶ。


 今川義元。


 徳川家康。


 桶狭間の戦い。


 まだ、あの合戦は起きていない。


 俺は、未来を知っている。


 だが、知っていることと、理解していることは違う。


 前の人生で、俺はその違いを思い知らされた。


 明智光秀に優しくしただけで、徳川家康が死んだ。


 歴史を変えることは、思っているほど単純ではない。


 誰かを救えば、別の誰かが死ぬかもしれない。


 何かを避ければ、別の災厄が起こるかもしれない。


 だからこそ、慎重にならなければならない。


 だが、慎重であることと、何もしないことは違う。


「……十衛門」


「はっ」


「この地図に、村の位置も書き込めるか?」


「村、でございますか」


「ああ。城や街道だけではなく、村ごとの戸数や田畑の広さも知りたい」


 十衛門の眉が上がった。


「……何のために?」


「戦になれば、兵糧が必要になる。兵を出すのも、税を納めるのも、村の人間だろう」


「左様にございます」


「ならば、どこにどれだけの人が住み、どの程度の負担を抱えているのか、知っておくべきだ」


 十衛門は俺を見つめた。


 俺は続けた。


「それに、村には医者が足りているのか?」


「……医者、でございますか」


「ああ」


 俺は地図の上に置いた指を動かした。


「病が流行れば、人が死ぬ。田畑を耕す者が減れば、領地も衰える」


 十衛門は黙って聞いていた。


「病人が出たとき、誰が診るのか。薬はどこから手に入れるのか。そういうことも、調べたい」


 俺の声は、少しだけ強くなっていた。


 吉乃。


 あの娘は、突然の熱で死んだ。


 原因も分からないまま。


 俺が駆けつけたときには、もう手遅れだった。


 あのとき、医者がいたら。


 適切な手当てができていたら。


 もっと早く異変に気づいていたら。


 何かが変わっていたかもしれない。


 だが、それは吉乃だけの問題ではない。


 同じように病で死ぬ人間が、この時代には大勢いるはずだ。


 俺は、その現実からも目を背けたくなかった。


「……若殿」


 十衛門が静かに口を開いた。


「お考えは理解いたしました。しかし、村々の内情を詳しく調べるとなれば、人手も費用もかかります」


「分かっている」


「また、若殿の一存で進められることにも限りがございます。今はまだ、信秀さまが織田家を率いておられますゆえ」


 俺は頷いた。


「だから、まずは父上に話を通す」


 十衛門は、今度こそ驚きを隠さなかった。


「……信秀さまに?」


「ああ」


 俺は地図を見下ろした。


「俺はまだ、織田家の当主ではない。勝手に何でも決められる立場ではないからな」


 十衛門はしばらく黙っていた。


 やがて、深々と頭を下げた。


「……承知いたしました。必要な情報を集めてまいります」


「頼む」


 十衛門が座敷を退出すると、俺は一人、地図の前に残った。


 尾張の村々。


 その中の一つに、吉乃が暮らしている。


 俺はまだ、あの娘に会っていない。


 吉乃にとって、俺は見知らぬ男だ。


 今すぐ会いに行くことも、できるかもしれない。


 だが、俺は地図から目を離さなかった。


 会いたい。


 今すぐ、あの笑顔を見たい。


 それでも、俺には先にやるべきことがあった。


 吉乃が倒れる日まで、時間は残されている。


 その時間を、ただ再会を待つためだけに使うわけにはいかない。


 俺は、織田信長として力をつけなければならない。


 誰かの命を救うために、必要なことを実行できる男にならなければならない。


 俺は地図の上に手を置いた。


 戦のためだけではない。


 人を生かすためにも、領地を知らなければならないのだ。


     *


 夕刻。


 俺は再び庭へ出た。


 朝の稽古で痛めた腕は、まだ重い。


 手のひらには小さな水ぶくれができていた。


 それでも、木槍を握った。


 十衛門から教わった構えを思い出す。


 左足を前へ。


 右足を引く。


 肩の力を抜く。


 腰を落とす。


 そして、突く。


 木槍が空気を切った。


 まだ、遅い。


 もう一度。


 今度は、足の運びを意識する。


 突く。


 さらにもう一度。


 十回。


 二十回。


 三十回。


 やがて、背後から声がした。


「……信長さま」


 振り返ると、濃姫が縁側に立っていた。


 夕日を受けた黒髪が、柔らかく輝いている。


「まだ、稽古をなさっていたのですか」


「ああ」


「朝も、あれほどお励みでしたのに」


「少しでも、身体に覚えさせたくてな」


 濃姫は俺の手元を見た。


「……手が、赤くなっております」


「まだ慣れていないからな」


 濃姫はしばらく考えていた。


 そして、意外なことを言った。


「……私も、お相手いたしましょうか」


 俺は動きを止めた。


 そうだった。


 濃姫は、武芸に秀でている。


 前の人生では、槍を持った俺をわずか数秒で地面に転がした。


 しかも、弓の腕前も相当なものだった。


 俺はそのことを、よく覚えている。


「……頼めるか?」


 濃姫が少し驚いた顔をした。


「よろしいのですか?」


「もちろんだ」


「では、少々お待ちくださいませ」


 濃姫は小さく微笑むと、屋敷の奥へ戻っていった。


 やがて、動きやすい装束に着替えて現れた。


 手には木槍を持っている。


 その姿を見た瞬間、俺は思わず息を呑んだ。


 美しい。


 だが、先ほどまでとは違う美しさだった。


 濃姫は静かに構えた。


 背筋は真っ直ぐに伸び、足の運びには無駄がない。


 その立ち姿には、十衛門に通じるものがあった。


「……参ります」


「ああ」


 俺は槍を構えた。


 濃姫が踏み込んだ。


 速い。


 俺は反射的に槍を合わせた。


 だが、彼女の穂先は俺の槍を滑るように受け流し、そのまま胸元へ迫った。


「……っ!」


 俺は慌てて後退した。


 しかし、足がもつれた。


 次の瞬間、俺は地面に尻餅をついていた。


 濃姫の木槍が、俺の喉元で止まっている。


「……参りました」


 俺がそう告げると、濃姫は槍を引いた。


「お怪我はございませぬか?」


「ああ。大丈夫だ」


 俺は苦笑した。


「……やはり、強いな」


 濃姫は少し頬を染めた。


「恐れ入ります」


 俺は立ち上がった。


 以前なら、ここで情けなく笑って終わっていただろう。


 だが、今は違う。


「……濃姫」


「はい」


「今の動き、もう一度見せてくれないか」


 濃姫が目を見開いた。


「……もう一度、でございますか?」


「ああ」


 俺は木槍を握り直した。


「どうやって俺の槍を払ったのか、知りたい」


 濃姫はしばらく俺を見つめていた。


 やがて、嬉しそうに微笑んだ。


「……承知いたしました」


 彼女は再び槍を構えた。


 夕日が庭を赤く染めていた。


 俺は、その動きを一つも見逃すまいと目を凝らした。


 まだ、俺は弱い。


 十衛門にも勝てない。


 濃姫にも勝てない。


 戦場に立てば、あっけなく命を落とすかもしれない。


 だが、それでいい。


 今の自分の弱さを知ることが、強くなるための第一歩なのだから。


 俺は深く息を吸った。


「……もう一度、頼む」


 濃姫が頷いた。


 そして、再び踏み込んできた。


 俺は、今度こそその動きを見極めようとした。


 四度目の人生。


 俺はまだ、何も成し遂げていない。


 だが、少なくとも。


 昨日までの俺とは、違う道を歩き始めていた。

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