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第28話:死んだらまた祝言に戻ったんだが!?

 冷たかった。


 それが、最後の記憶だった。


 短刀の刃が首筋に触れた瞬間の冷たさ。指先に伝わった、金属の硬い感触。


 そして、眠っている濃姫の横顔。


 俺はあの人を置き去りにした。


 吉乃を取り戻すために。


 もう一度、あの娘の笑顔を見るために。


 すべてを捨てる覚悟で、自らの首を切った。


 だが、次に感じたのは痛みではなかった。


 小鳥の声だった。


 遠くで鶏が鳴いている。


 障子の向こうから淡い光が差し込み、畳の上に細長い影を落としていた。庭木を渡る風が、まだ冷たい。


 俺は目を開けた。


 見知らぬ天井があった。


 いや、違う。


 見覚えがある。


 煤けた梁。天井板の木目。枕元に置かれた漆塗りの小箱。


 俺は跳ね起きた。


「……吉乃!」


 叫んだ声は、静かな部屋に吸い込まれた。


 誰も答えない。


 俺は反射的に首を押さえた。


 傷はなかった。


 皮膚は滑らかで、指先には規則正しい脈が伝わってくる。


 生きている。


 俺はまた、生きている。


 震える手を見つめた。


 前の人生より、少し小さい。


 手の甲には、槍の稽古でできた傷もない。


 腕を伸ばしてみる。筋肉のつき方も、以前とは違っていた。


 若い身体だ。


 俺は寝具を押しのけ、立ち上がった。


 部屋の隅には衣桁が置かれ、鮮やかな小袖と袴が掛けられている。その傍らには、祝いの席で用いるらしい品々が整然と並べられていた。


 まさか。


 俺は障子を開けた。


 春だった。


 庭の梅がほころび、朝露に濡れた飛び石が薄い光を反射している。冷えた空気の中に、土と若草の匂いが混じっていた。


 あの夏ではない。


 吉乃が死んだ、蒸し暑い日の朝ではない。


「……戻った」


 声が震えた。


「本当に、戻れたのか……」


 俺はその場に膝をついた。


 吉乃が生きている。


 まだ、あの娘は死んでいない。


 井戸端で水を汲み、母親と暮らし、何も知らずに笑っている。


 そう思うと、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。


 だが、安心するには早かった。


 俺はまだ、いつに戻ったのかを知らない。


 何度も繰り返した人生の中で、時間が巻き戻る規則など、一つも分かっていなかった。


 今回も、偶然かもしれない。


 次がある保証もない。


 だからこそ、確かめなければならなかった。


     *


「若殿。お目覚めでございますか」


 障子の向こうから、男の声がした。


 低く、よく通る声だった。


 俺は顔を上げた。


 知っている。


 この声を、俺は知っている。


「……十衛門か」


 障子の向こうで、わずかに間が空いた。


「はっ。土山十衛門にございます」


「入ってくれ」


「失礼いたします」


 障子が静かに開いた。


 現れたのは、肩幅の広い武士だった。


 年の頃は四十前後だろうか。日に焼けた浅黒い肌に、骨張った頬。太い眉の下には鋭い目があり、左の眉尻には古い刀傷が一本走っている。


 髪はきっちりと結われ、身につけた小袖にも乱れがない。


 厚い胸板と節くれだった指は、長年武芸に励んできたことを物語っていた。


 土山十衛門。


 俺の武芸の指南役であり、織田家に仕える家臣だった。


 その名が、今ははっきりと意識に浮かんでいる。


 不思議な感覚だった。


 前の人生でも、俺はこの男と毎日のように顔を合わせていた。


 槍の稽古で何度も地面に転がされ、政務を怠れば叱られ、吉乃に会いに行けば小言を言われた。


 村で賊と戦ったときも、そばにいた。


 吉乃が死んだ日も、そばにいた。


 それなのに。


 俺は、この男をどれほど知っていただろう。


 俺にとって彼は、ただの「家臣」だった。


 厳しい男。


 口うるさい男。


 俺に面倒なことをさせる男。


 そんなふうにしか見ていなかった。


 名前を聞いたことがなかったわけではない。


 覚えようとしなかったのだ。


 中田龍之介として生きていた頃も、俺は人と深く関わることを避けていた。


 他人の名前を覚えれば、その人との関係が生まれる。


 関係が生まれれば、期待される。


 期待されれば、失敗するのが怖くなる。


 だから、なるべく関わらないようにしていた。


 織田信長になってからも、それは変わらなかった。


 自分が死なないことばかり考え、周囲の人間を、俺を生かすために動いてくれる存在として見ていた。


 だが、今は違う。


 この男にも人生がある。


 家族があり、積み重ねてきた年月があり、俺の知らない苦労がある。


 俺が無謀な命令を下せば、十衛門は命を落とすかもしれない。


 俺が領地を守れなければ、彼の大切な人たちも危険にさらされる。


 そんな当たり前のことを、俺は今になって理解した。


「……若殿?」


 十衛門が怪訝そうに眉を寄せた。


「いかがなされました。お顔の色が優れませぬが」


「……十衛門」


「はっ」


「今まで、世話をかけたな」


 十衛門は目を瞬かせた。


「……は?」


「いや。随分と苦労をかけてきたと思ってな」


「若殿……?」


 十衛門の顔に、困惑が浮かんだ。


 それも当然だ。


 彼にとっては、昨日までの俺と今日の俺は、同じ人間なのだから。


 俺だけが、まだ起きていない出来事を覚えている。


「……ところで、今日は何日だ?」


 十衛門はますます不思議そうな顔をした。


「本日は、天文十八年の祝言の日にございます」


 俺は息を止めた。


「……祝言?」


「はい。美濃の斎藤家より、姫君をお迎えする日でございます」


 濃姫。


 俺は、思わず目を閉じた。


 戻ったのだ。


 あの日に。


 濃姫と夫婦になった、最初の日に。


 あの夜、短刀を恐れて納屋へ逃げ込んだ、情けない祝言の日に。


 すべてが始まる前へ。


「……そうか」


 俺は深く息を吐いた。


 吉乃に出会うまで、まだ時間がある。


 あの娘が命を落とす日まで、何年もの猶予があるはずだ。


 その時間を、今度は無駄にしない。


「十衛門」


「はっ」


「祝言が済んだら、明日から槍の稽古を頼みたい」


 十衛門の表情が止まった。


「……槍の稽古、でございますか」


「ああ」


「若殿のほうから?」


「そうだ」


 十衛門はしばらく黙っていた。


 やがて、俺の顔をじっと見つめた。


「……何か、心境の変化でもございましたか」


「ある」


 俺は答えた。


「俺は、強くならなければならない」


「…………」


「槍も、刀も、弓も。兵の動かし方も、領地の治め方も、何もかもだ」


 十衛門の目が、わずかに細くなった。


「……若殿」


「今まで俺は、自分のことしか考えていなかった」


 言葉にすると、胸が痛んだ。


「だが、俺が間違えれば、死ぬのは俺だけではない」


 十衛門は何も言わなかった。


「だから、教えてほしい」


 俺はまっすぐに彼を見た。


「織田家の当主となるために、俺が何を学ぶべきなのか」


 十衛門の顔から、困惑が消えた。


 代わりに浮かんだのは、厳しい武士の表情だった。


「……承知いたしました」


 彼は深く頭を下げた。


「若殿がそのお覚悟であれば、この十衛門、いかなる厳しい稽古も遠慮いたしませぬ」


「望むところだ」


 俺は頷いた。


 十衛門は顔を上げた。


 その口元に、ほんのわずかに笑みが浮かんでいた。


     *


 祝言の支度が進むにつれ、屋敷の中は慌ただしくなっていった。


 廊下を行き交う侍女たちの衣擦れの音。膳を運ぶ者の足音。庭先では、客人を迎える家臣たちが声を掛け合っている。


 俺は着替えを済ませ、鏡の前に座った。


 銅鏡に映るのは、まだ若い織田信長の顔だった。


 細い顎。


 鋭さを帯び始めた目元。


 黒々とした髪。


 現代で暮らしていた中田龍之介とは、似ても似つかない。


 だが、もうこの顔を見ても驚かなかった。


 俺は、この男として生きてきた。


 短い人生を、何度も。


 そのたびに逃げ、失敗し、死んだ。


 そして最後には、愛した娘を失った。


 俺は鏡の中の自分を見据えた。


「……織田信長」


 小さく呟いた。


 歴史の教科書に載っていた名前。


 本能寺で討たれる男。


 俺はずっと、その結末から逃げようとしていた。


 だが、今は違う。


 信長として生きることから逃げていては、吉乃を守ることも、濃姫を幸せにすることもできない。


 俺は、鏡から目を離した。


     *


 祝言の席で、俺は濃姫と対面した。


 彼女が座敷へ入ってきた瞬間、思わず息を呑んだ。


 美しかった。


 艶やかな黒髪を丁寧に結い上げ、白を基調とした華やかな装束をまとっている。


 切れ長の目。


 すっと通った鼻筋。


 端正な輪郭。


 現代の芸能人で例えるなら、柴咲コウだろう。


 凛とした、正統派の美人だった。


 ただ美しいだけではない。


 背筋を伸ばして歩く姿には、武家の姫として育てられた気品と、容易には人に屈しない意志の強さが感じられた。


 俺は、その姿を知っている。


 この人が笑う顔も。


 怒る顔も。


 嫉妬を隠そうとして、少しだけ唇を尖らせる顔も。


 そして。


 俺が吉乃を失って泣き崩れた夜、何も言わずに抱きしめてくれた温もりも。


 すべて、覚えている。


 だが、濃姫は俺を知らない。


 彼女にとって、俺は今日初めて顔を合わせる夫なのだ。


 その事実が、胸を締めつけた。


「……斎藤道三が娘、帰蝶にございます。呼び方は濃でかまいませぬ」


 濃姫は静かに頭を下げた。


「本日より、信長さまの妻としてお仕えいたします」


 俺は彼女を見つめた。


 前の人生で、何度この声を聞いただろう。


「……織田信長だ」


 俺も頭を下げた。


「こちらこそ、よろしく頼む」


 濃姫が、わずかに目を見開いた。


 おそらく、うつけ者と聞かされていた夫が、思いのほか普通に挨拶をしたことに驚いたのだろう。


 その表情が、少しおかしかった。


 だが、笑うことはできなかった。


 俺には、この人に謝らなければならないことがある。


 もちろん、今ここで話しても理解されないだろう。


 それでも。


 心の中で、俺は頭を下げた。


 濃姫。


 前の人生では、すまなかった。


 お前が眠っている間に、俺は勝手に死んだ。


 お前がどんな気持ちで朝を迎えたのか、俺には分からない。


 だが、今度は。


 今度こそ、お前の人生も大切にしたい。


     *


 祝言は滞りなく進んだ。


 盃が交わされ、祝いの膳が運ばれる。


 座敷には香の匂いが漂い、庭先からは春風が入り込んでいた。


 俺は濃姫の隣に座りながら、参列する家臣たちを眺めていた。


 以前の俺は、彼らの顔をまともに見ていなかった。


 誰がどの役目を担っているのか。


 誰が何を得意としているのか。


 誰がどのような家族を抱えているのか。


 ほとんど知らなかった。


 俺は織田信長という立場に怯え、その責任を理解しようとしていなかったのだ。


 だが、今は違う。


 彼らは俺の命令で動く。


 俺の判断で戦い、俺の判断で死ぬこともある。


 その重さを、ようやく理解した。


「……信長さま」


 隣から、濃姫が小さく声をかけてきた。


「何だ?」


「先ほどから、ずいぶんと真剣なお顔をしていらっしゃいますね」


「そうか?」


「はい」


 濃姫は少し微笑んだ。


「父から伺っていたお話とは、随分と違うようでございます」


「……道三殿は、俺を何と言っていた?」


「うつけ者、と」


 即答だった。


 俺は思わず苦笑した。


「ひどい言われようだな」


「ですが」


 濃姫は俺を見た。


「私は、そうは思いませぬ」


「……なぜ?」


「まだ、お会いして間もないのでございますが」


 彼女は少し考えた。


「信長さまは、何かを決意なさったお方の目をしておられます」


 俺は言葉を失った。


 濃姫は続けた。


「その目が、少し気になりました」


「……そうか」


 俺は盃を置いた。


 やはり、この人は鋭い。


 前の人生でも、俺が吉乃を想う気持ちを誰より早く見抜いていた。


 俺が笑っていても、苦しんでいても。


 濃姫は、いつも気づいていた。


「……濃姫」


「はい」


「俺は、立派な夫になれるか分からない」


 濃姫が静かにこちらを見た。


「だが、少なくとも、逃げることだけはやめようと思っている」


「…………」


「お前にも、織田家にも、きちんと向き合いたい」


 濃姫はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと微笑んだ。


「……それを伺えただけで、十分にございます」


 俺は、その笑顔を見つめた。


 前の人生では、何度もこの人を傷つけた。


 今度は、同じ過ちを繰り返したくない。


 だが。


 吉乃を諦めるつもりもなかった。


     *


 夜になった。


 祝言を終え、俺たちは寝所へ通された。


 灯明の炎が揺れ、畳の上に二人の影を落としている。


 濃姫は昼間の華やかな衣装から、白い小袖に着替えていた。


 結い上げていた髪は解かれ、黒い流れとなって背中に落ちている。


 昼間の凛とした姿とは違い、どこか年相応のあどけなさがあった。


「……信長さま」


 濃姫が少し緊張した声で呼んだ。


「何だ?」


「その……」


 彼女の視線が、傍らに置かれた小さな包みに向いた。


 俺は、その中身を知っていた。


 短刀だ。


 斎藤道三から渡された、俺を見極めるための刃。


 前の人生では、俺はその短刀に怯えて逃げ出した。


 そして、納屋で一晩を明かした。


 だが、今は笑えなかった。


 俺はあの短刀で、自らの人生を終わらせたのだから。


「……濃姫」


「はい」


「そこに、短刀があるな」


 濃姫の表情が強張った。


 俺は続けた。


「道三殿から預かったものだろう」


「……ご存じでしたか」


「ああ」


 濃姫は俯いた。


「父は、もし信長さまが織田家を滅ぼすような愚かな方であれば、そのときは……」


「討て、と?」


 濃姫は黙って頷いた。


 俺は小さく息を吐いた。


「……道三殿らしいな」


「お怒りにならないのですか?」


「怒っても仕方がない」


 俺は静かに答えた。


「美濃の娘を、尾張のうつけ者に嫁がせるのだ。父親としては心配だろう」


 濃姫が目を見開いた。


「それに、織田家の行く末を見極めたいという気持ちも分かる」


「……信長さま」


「だが」


 俺は濃姫を見た。


「俺は、簡単に死ぬつもりはない」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。


 俺は、すでに何度も死んでいる。


 そして、最後の一度は自ら選んだ。


 濃姫はそれを知らない。


「……守りたいものがある」


 俺は続けた。


「そのために、今度こそ生き抜くつもりだ」


 濃姫は静かに俺を見つめていた。


 やがて、短刀の包みを手に取った。


 そして、俺の前に差し出した。


「……では、こちらは信長さまにお預けいたします」


「いいのか?」


「はい」


 濃姫は微笑んだ。


「今宵、お話しして分かりました」


「何がだ?」


「父の申したうつけ者という評判は、信じるに足りませぬ」


 俺は思わず笑った。


「買いかぶりすぎだ」


「そうでしょうか」


「ああ。俺はまだ、何も成し遂げていない」


 濃姫は首を横に振った。


「ならば、これからお見せくださいませ」


 その言葉に、俺は頷いた。


「……そうしよう」


     *


 濃姫が眠ったあとも、俺はしばらく起きていた。


 障子の向こうには、春の月が浮かんでいる。


 夜風が庭木を揺らし、遠くで犬の鳴く声がした。


 俺は膝の上に置いた短刀を見つめた。


 前の人生を終わらせたものと、同じ刃。


 あの夜、俺は吉乃を取り戻したい一心で、すべてを捨てた。


 濃姫も。


 家臣も。


 領民も。


 自分が生きてきた時間さえも。


 だが、こうして戻ってきた今、分かることがある。


 吉乃一人を救うために、他の誰かの命を軽んじていいわけではない。


 あの村で初めて戦った日、俺は死んだ兵たちを見て震えた。


 人を殺すことが怖かった。


 誰かに恨まれることが怖かった。


 自分が責任を負うことが、何より怖かった。


 だから、できる限り戦を避けようとした。


 それが優しさだと思っていた。


 だが、違う。


 戦わなければ守れないものもある。


 敵を討たなければ、味方が討たれることもある。


 決断を先延ばしにした結果、失われる命もある。


 俺は、織田信長なのだ。


 中田龍之介としての記憶を持っていても、この身体は織田家の跡取りのものだ。


 この時代に生きる以上、俺には果たすべき責任がある。


「……吉乃」


 小さく名前を呼んだ。


 大きな瞳。


 柔らかな頬。


 笑うと、ぱっと花が咲いたように明るくなる顔。


 現代の芸能人で例えるなら、今田美桜に似た可愛らしい娘だった。


 だが、俺にとって吉乃は、そんな言葉では言い尽くせない存在だった。


 あの娘は、俺を織田信長としてではなく、一人の人間として見てくれた。


 井戸で水を被った間抜けな男として。


 お茶を飲み、干し柿を喜ぶ、ただの男として。


 だからこそ、俺は吉乃の前では自然に笑えた。


 そして。


 その笑顔を、二度と失いたくなかった。


「……今度こそ」


 俺は短刀を鞘に収めた。


 刃を使うべき相手は、自分ではない。


 俺が向き合うべきものは、この時代そのものだ。


 病を知る。


 薬を探す。


 医者を集める。


 必要ならば、歴史に残る出来事を変える。


 それでも足りなければ、俺自身が知識を身につける。


 前の人生で吉乃が何の病に倒れたのか、俺は知らない。


 原因も、治療法も分からない。


 だが、まだ時間はある。


 少なくとも、あの娘が命を落とす日まで、何年もの猶予があるはずだ。


 その時間を、今度は無駄にしない。


     *


 翌朝。


 夜明け前の庭に、乾いた足音が響いていた。


 俺は稽古着に着替え、木槍を握っていた。


 向かいに立つ土山十衛門は、腕を組んでこちらを見ている。


「……若殿」


「何だ」


「本当に、稽古をなさるおつもりですか」


「そのために呼んだ」


「昨日は祝言でございましたぞ」


「知っている」


「普通は、もう少しお休みになるものですが」


「休んでいる暇はない」


 十衛門は俺をじっと見た。


 その鋭い目が、わずかに細くなる。


「……承知いたしました」


 十衛門は木槍を構えた。


 重心が低い。


 足の運びに無駄がない。


 何度も実戦を潜り抜けてきた男の構えだった。


 以前の俺は、ただ怖いと思っていた。


 だが、今は違う。


 その動きを、少しでも盗みたいと思った。


「参りますぞ」


「頼む」


 十衛門が踏み込んだ。


 鋭い突きが迫る。


 俺は慌てて木槍を合わせた。


 しかし、次の瞬間には体勢を崩され、背中から地面に倒れていた。


「ぐっ……!」


 肺から息が押し出される。


 土の匂いが鼻をついた。


 痛い。


 相変わらず、容赦がない。


「……若殿」


 十衛門が俺を見下ろした。


「本日は、ここまでになさいますか」


 俺はゆっくり起き上がった。


 手のひらについた土を払い、木槍を握り直す。


「……もう一度」


 十衛門の眉が上がった。


「今、何と?」


「もう一度、頼む」


 俺は構えた。


「次は、今の突きを受けてみせる」


 十衛門はしばらく黙っていた。


 やがて、その口元に微かな笑みが浮かんだ。


「……よろしい」


 再び木槍が構えられる。


 朝日が庭の白砂を照らし始めていた。


 俺は息を整えた。


 吉乃を救う。


 濃姫を守る。


 家臣も、領民も、できる限り死なせない。


 そのためには、強くならなければならない。


 口先だけではない。


 本当に。


「……参るぞ、十衛門」


「はっ!」


 俺は地面を蹴った。


 四度目の人生が、ようやく動き始めた。


 今度の俺は、歴史から逃げない。


 俺自身が、歴史を変える。

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