第26話:好きな女と過ごす夜を楽しみにしていたら、突然全てがおわったんだが!?
三日後。
吉乃と一晩過ごす。
その約束をしてから、俺の頭は完全におかしくなっていた。
「若殿」
「はい!」
「その書状、逆さまでございます」
「…………」
俺は手元を見た。
本当だ。
逆さまだ。
「……読みにくいと思いました」
「当たり前でございます!」
家臣が頭を抱えた。
「このところ、どうなされたのです?」
「……ちょっと」
「ちょっと?」
「……大事な予定がありまして」
家臣の目が細くなった。
「吉乃という娘のことでございますな?」
「…………」
どうして分かるんだ。
俺の周り、名探偵しかいないの?
「若殿」
「はい」
「女人と会うのも結構ですが、政務はきちんとなさってくださいませ」
「……はい」
「それから、奥方様へのお気遣いもお忘れなく」
「……はい」
俺は小さく頷いた。
分かっている。
濃姫のことも、ちゃんと考えなきゃいけない。
でも。
今は、三日後のことで頭がいっぱいだった。
*
その日の午後。
俺は城下へ出かけた。
目的は一つ。
吉乃への贈り物を買うためだ。
「……何がいいかな」
俺は店先に並んだ品物を眺めた。
櫛。
簪。
手鏡。
小さな香袋。
どれも可愛らしい。
でも、吉乃には何が似合うだろう。
あまり高価なものを贈ると、かえって気を遣わせてしまうかもしれない。
「……これかな」
俺は小さな櫛を手に取った。
木製で、派手な飾りはない。
でも、丁寧に磨かれていて、手触りがいい。
吉乃の長い髪に、きっと似合う。
「これ、ください」
店主が頭を下げた。
「ありがとうございます」
俺は櫛を包んでもらった。
胸が少し高鳴った。
吉乃、喜んでくれるかな。
あの笑顔が見たい。
ただ、それだけだった。
*
城へ戻ると、濃姫が縁側で針仕事をしていた。
「お帰りなさいませ、信長さま」
「ただいま」
濃姫は俺の手元を見た。
「……何か、お買い求めになったのですか?」
「えっ?」
俺は包みを見た。
しまった。
隠すつもりはなかったけど、見られると気まずい。
「……櫛です」
「まあ」
濃姫が微笑んだ。
「吉乃様への贈り物でございますか?」
「……はい」
俺は正直に答えた。
濃姫は小さく頷いた。
「きっと、お喜びになりますよ」
「……そうでしょうか」
「はい」
濃姫は針を置いた。
「吉乃様は、信長さまからいただいたものなら、何でも大切になさるでしょう」
「…………」
俺は濃姫を見た。
この人は、どうしてこんなに優しいんだろう。
「……濃姫」
「はい?」
「今度、また城下へ行きませんか?」
濃姫が目を丸くした。
「……私と、でございますか?」
「はい」
俺は頷いた。
「この前、楽しかったので」
濃姫の顔がぱっと明るくなった。
「……ぜひ!」
その笑顔を見て、俺も少し嬉しくなった。
吉乃だけじゃない。
濃姫のことも、大切にしたい。
その気持ちは、本当だった。
*
翌日。
俺は朝から落ち着かなかった。
明日。
いよいよ明日だ。
吉乃と一晩過ごす。
「…………」
どうしよう。
何を話せばいいんだ。
いや、いつも通りでいいのか?
でも、いつも通りって何だ?
お茶を飲んで、干し柿を食べて、それから?
……分からない。
前世の俺は、恋愛経験ゼロ。
告白したこともなければ、されたこともない。
そんな男が、いきなり初恋の相手と一晩過ごすことになった。
無理だ。
難易度が高すぎる。
「……信長さま」
「はい!?」
濃姫が俺を見ていた。
「そんなに緊張なさらなくても」
「……え?」
「明日のことでございましょう?」
「…………」
また読まれた。
俺の顔、どれだけ分かりやすいんだ。
濃姫が小さく笑った。
「ふふっ」
そして。
「信長さま」
「はい」
「吉乃様には、優しくして差し上げてくださいね」
「……はい」
「それから」
濃姫は少し頬を染めた。
「……あまり、無理をなさらぬよう」
「…………」
俺は固まった。
待って。
それ、どういう意味?
濃姫は微笑んでいる。
完全に、何かを察している顔だ。
……やめて。
そんな優しい顔で見ないで。
俺、余計に緊張するから。
*
その夜。
俺は布団の中で、明日のことを考えていた。
櫛は用意した。
着物も、きれいなものを選んだ。
家臣には、明日は村へ行くと伝えてある。
濃姫にも話した。
準備はできた。
あとは、明日を待つだけだ。
「……吉乃さん」
俺は小さく呟いた。
明日、会える。
明日、あの笑顔が見られる。
そう思うと、胸が温かくなった。
俺は目を閉じた。
今度こそ、幸せな時間を過ごせる。
そう信じていた。
*
翌朝。
俺はいつもより早く目が覚めた。
まず、首を触った。
「……ある」
よし。
今日も生きてる。
俺は布団から起き上がった。
隣では濃姫がまだ眠っている。
起こさないように、そっと立ち上がった。
顔を洗う。
髪を整える。
着物を着る。
櫛の包みを懐に入れる。
完璧だ。
……いや、完璧ではない。
心の準備が全然できていない。
でも、もう行くしかない。
「……よし」
俺は深く息を吸った。
そのとき。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえた。
「若殿!」
家臣の声だった。
俺は振り返った。
「どうしたんですか?」
家臣が駆け込んできた。
顔色が悪い。
息も切れている。
「……若殿」
「はい?」
家臣は一瞬、言葉を詰まらせた。
そして。
「……吉乃という娘の家から、使いが参っております」
「…………」
俺の心臓が跳ねた。
吉乃の家から?
何だろう。
もしかして、今日の約束について?
「……何かあったんですか?」
家臣は俯いた。
そして、震える声で言った。
「……吉乃が、昨夜から高い熱を出しているそうでございます」
「…………」
俺は固まった。
熱?
吉乃が?
「……どれくらいですか?」
「それが……」
家臣は少し迷った。
「……かなり、容体が悪いとのことで」
「…………」
頭が真っ白になった。
容体が悪い?
吉乃が?
昨日まで元気だったのに?
「……医者は?」
「すでに呼んでいるそうでございます」
「……行きます」
俺は即答した。
「今すぐ、村へ行きます!」
家臣が慌てて頭を下げた。
「馬を用意いたします!」
*
俺は馬を走らせた。
いつもの道。
何度も通った道。
でも、今日は景色が違って見えた。
早く。
早く着いてくれ。
吉乃が待っている。
きっと大丈夫だ。
熱が出ただけだ。
風邪かもしれない。
少し休めば治る。
そうだ。
きっと、そうだ。
「……吉乃さん」
俺は馬を急がせた。
懐の中で、櫛の包みが揺れた。
今日、渡すつもりだった。
吉乃が笑ってくれると思っていた。
なのに。
どうして。
*
吉乃の家に着くと、母親が庭先に立っていた。
俺を見つけた瞬間、駆け寄ってきた。
「若殿様……!」
母親の顔は、涙で濡れていた。
「……吉乃さんは?」
俺は馬から飛び降りた。
「吉乃さんは、どこですか!?」
母親は口を開いた。
でも、声が出なかった。
俺は家の中へ駆け込んだ。
廊下を進む。
いつもの部屋。
いつも茶を飲んでいた部屋。
そこに。
吉乃が横になっていた。
「……吉乃さん?」
俺は近づいた。
吉乃は目を閉じていた。
顔色が悪い。
唇も青白い。
「……吉乃さん」
俺はそっと肩に触れた。
冷たい。
いや。
冷たすぎる。
「……え?」
俺は固まった。
どうして?
熱があるんじゃなかったの?
高い熱が出ているって。
なのに。
どうして、こんなに冷たいんだ?
「……吉乃さん?」
返事がない。
俺はもう一度呼んだ。
「……吉乃さん」
返事がない。
俺は吉乃の手を握った。
いつも、茶碗を差し出してくれた手。
薪を束ねていた手。
俺に向かって、嬉しそうに振ってくれた手。
その手が。
動かない。
「…………」
俺は息を呑んだ。
嫌だ。
待って。
そんなはずない。
だって。
今日、約束してたじゃないか。
今日、一緒に過ごすって。
吉乃が言ってくれたじゃないか。
「……吉乃さん」
俺は手を握りしめた。
「……起きてください」
返事がない。
「……今日、約束してたでしょう?」
返事がない。
「……櫛も、買ってきたんです」
俺は懐から包みを取り出した。
震える手で開く。
小さな木の櫛。
吉乃に似合うと思って選んだもの。
「……ほら」
俺は櫛を見せた。
「……これ、吉乃さんに」
返事がない。
「……喜んでくれると思って」
声が震えた。
「……だから」
俺は吉乃の顔を見た。
「……笑ってくださいよ」
返事がない。
何も。
何も返ってこない。
*
「……若殿様」
背後から、母親の声がした。
俺は振り返った。
母親は泣いていた。
「……吉乃は」
そこで言葉が止まった。
俺は首を横に振った。
「……まだ」
声が出なかった。
「……まだ、何とかなるでしょう?」
母親は何も言わなかった。
「……医者を呼んでください」
俺は言った。
「もっと腕のいい医者を」
母親が俯いた。
「……若殿様」
「京からでも呼びます!」
俺は立ち上がった。
「金なら出します! 薬も、何でも!」
家臣が俺の肩に手を置いた。
「……若殿」
「何ですか!?」
家臣は静かに首を横に振った。
「……もう、息をしておりませぬ」
「…………」
俺は固まった。
息を。
していない。
吉乃が。
死んだ。
「…………」
頭が真っ白になった。
何も考えられなかった。
ただ、吉乃の顔を見つめた。
昨日まで、元気だったのに。
俺に会いたいって言ってくれたのに。
一晩、一緒に過ごしたいって。
そう言ってくれたのに。
どうして。
どうして、こんなことになるんだ。
*
俺は吉乃の隣に座った。
手を握ったまま、動けなかった。
母親が泣いている。
家臣も黙っている。
外では、鳥が鳴いていた。
いつもと同じ朝だった。
なのに。
吉乃だけが、いない。
「……おかしいだろ」
俺は小さく呟いた。
誰も答えなかった。
「……こんなの、おかしいだろ」
俺は吉乃の手を握りしめた。
涙が落ちた。
吉乃の手の上に。
「……俺、まだ」
声が震えた。
「……何もしてないのに」
好きだって伝えた。
でも、手も繋いでいない。
抱きしめてもいない。
口づけもしていない。
ただ、お茶を飲んで、笑っていただけだ。
それだけだった。
「……もっと」
涙が止まらなかった。
「……もっと、一緒にいたかった」
俺は俯いた。
吉乃の手を、額に押し当てた。
「……吉乃さん」
何度呼んでも。
返事はなかった。
*
どれくらい時間が経ったのか、分からない。
家臣が何度か声をかけてきた。
でも、俺は動けなかった。
吉乃の手を離したら、本当に終わってしまう気がした。
やがて、母親がそっと近づいてきた。
「……若殿様」
「…………」
「吉乃は、昨日……」
母親の声が震えた。
「……若殿様がお越しになるのを、楽しみにしておりました」
「…………」
俺は顔を上げた。
「……何度も、髪を梳いておりました」
母親が涙を拭った。
「何を着ようかと、ずっと迷って……」
「…………」
俺は櫛を見た。
吉乃に渡すはずだった櫛。
昨日、彼女は髪を梳いていた。
俺に会うために。
俺と過ごすために。
「……そうですか」
それしか言えなかった。
母親は小さく頷いた。
「……あの子は、幸せだったと思います」
「…………」
俺は首を横に振った。
「……違います」
母親が俺を見た。
「……まだ、幸せになれたはずです」
俺は吉乃を見つめた。
「……もっと、ずっと」
涙が落ちた。
何度も。
何度も。
*
夕方になって、俺はようやく城へ戻った。
濃姫が門のところで待っていた。
俺の顔を見た瞬間、表情が変わった。
「……信長さま?」
「…………」
俺は何も言えなかった。
濃姫が近づいてきた。
「……吉乃様は?」
俺は首を横に振った。
濃姫の目が大きく見開かれた。
「……そんな」
俺は俯いた。
「……死んじゃいました」
声が震えた。
「……吉乃さん、死んじゃいました」
濃姫は何も言わなかった。
ただ、俺を抱きしめた。
俺はその腕の中で、泣いた。
子供みたいに。
声を上げて。
何も考えられなくなるまで。
濃姫は、ずっと抱きしめてくれていた。
*
その夜。
俺は眠れなかった。
濃姫は隣にいてくれた。
でも、何も話さなかった。
俺は天井を見つめていた。
吉乃が死んだ。
突然。
あっけなく。
昨日まで笑っていた人が、もういない。
俺は何度も死んだ。
本能寺で首を斬られた。
家康を死なせた責任を取らされて、処刑された。
でも。
自分が死ぬより、ずっと辛かった。
「……濃姫」
「……はい」
「俺、吉乃さんを助けたかったです」
濃姫が俺の手を握った。
「……はい」
「何でもできると思ってました」
俺は小さく笑った。
「織田信長なんだから」
でも。
何もできなかった。
金も。
権力も。
家臣も。
全部、役に立たなかった。
たった一人の女の子を、助けられなかった。
「……信長さま」
濃姫が静かに言った。
「吉乃様は、信長さまをお慕いしておられました」
「……はい」
「そのお気持ちは、消えませぬ」
「…………」
俺は目を閉じた。
吉乃の笑顔が浮かんだ。
井戸で笑っていた顔。
お茶を淹れてくれた顔。
縁談を断ったときの、少し寂しそうな顔。
そして。
一晩、一緒に過ごしたいと言ってくれた顔。
「……吉乃さん」
俺は小さく呟いた。
もう一度、会いたい。
もう一度、あの笑顔が見たい。
ただ、それだけだった。
*
深夜。
俺はふと、目を開けた。
隣では濃姫が眠っている。
俺は天井を見つめた。
そして、思い出した。
俺は、何度も人生をやり直している。
本能寺で死んだあと。
家康を死なせて処刑されたあと。
そのたびに、過去へ戻った。
なら。
もし、もう一度戻れたら。
「…………」
俺はゆっくり身体を起こした。
吉乃が生きている時間へ。
あの井戸で、初めて出会う前へ。
戻れるかもしれない。
そうすれば。
今度こそ、助けられるかもしれない。
「……吉乃さん」
俺は小さく呟いた。
でも。
すぐに首を横に振った。
死ねば戻れる保証なんて、どこにもない。
次は本当に終わりかもしれない。
それに。
濃姫がいる。
俺を心配してくれる人がいる。
俺が守らなければならない領民もいる。
今ここで、自分の命を捨てるわけにはいかない。
「…………」
俺は拳を握った。
じゃあ、どうすればいい?
吉乃を助ける方法は、もうないのか?
俺は天井を見つめた。
答えは出なかった。
ただ、一つだけ。
はっきり分かったことがあった。
俺はもう、本能寺の変を避けるためだけに生きているんじゃない。
もし、もう一度人生をやり直せるなら。
今度こそ、吉乃を死なせない。
たとえ、歴史を全部変えることになっても。




