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第25話:好きな女と一晩過ごす約束をしたら、嫁が背中を押してくれたんだが!?

 人間というのは、実に面倒くさい生き物だ。


 好きな人と一緒にいたい。


 ただそれだけのことが、こんなにも難しい。


 しかも俺の場合、相手は二人いる。


 いや、正確には違う。


 好きなのは吉乃だ。


 濃姫は妻で、大切にしたい人だ。


 でも、その二つの気持ちをどう整理すればいいのか、俺には分からない。


「……はあ」


「若殿」


「はい」


「本日、七度目のため息でございます」


「数えないでください」


 家臣が呆れた顔で俺を見ている。


「このところ、政務より女人のことをお考えになっている時間のほうが長いのでは?」


「……否定できません」


「否定してくださいませ!」


 怒られた。


 もっともだ。


 俺は織田信長。


 尾張の領民を守らなければならない立場だ。


 恋愛で頭がいっぱいになっている場合じゃない。


「……仕事します」


「それがよろしい」


 家臣が書状を差し出した。


 俺は受け取った。


 年貢についての報告。


 村の用水路についての相談。


 隣国の動向。


 どれも大事なことだ。


 俺は真剣に読み始めた。


 そして、三分後。


「……吉乃さん、元気かな」


「若殿!!」


 駄目だった。


     *


 それから数日。


 俺は吉乃の村へ行かなかった。


 別に、嫌いになったわけじゃない。


 むしろ逆だ。


 会いたくて仕方がなかった。


 でも、吉乃には吉乃の人生がある。


 俺が毎日のように訪ねていたら、いつまで経っても前に進めない。


 だから、少し距離を置こうと思った。


 ……思ったんだけど。


「信長さま」


「はい?」


 濃姫が茶を運んできた。


「お口に合いますでしょうか」


「ありがとうございます」


 俺は一口飲んだ。


「美味しいです」


 濃姫が嬉しそうに微笑んだ。


「それはようございました」


 俺は茶碗を見つめた。


 吉乃の淹れてくれる茶とは、少し味が違う。


 濃姫の茶は香りがよく、上品な味がした。


 吉乃の茶は、もっと素朴で、どこか落ち着く味がする。


 どちらも美味しい。


 でも。


 今は吉乃の茶が飲みたかった。


「……信長さま」


「はい?」


「また、吉乃様のことをお考えですか?」


「ぶっ!」


 俺は茶を吹きかけた。


 危ない。


 寸前で堪えた。


「……どうして分かったんですか?」


 濃姫が小さく笑った。


「お顔に書いてございます」


「…………」


 そんな馬鹿な。


 俺の顔、どれだけ分かりやすいんだ。


「このところ、村へお出かけになりませんね」


「……はい」


「なぜでございます?」


「……吉乃さんの邪魔をしたくないので」


 濃姫は少し黙った。


「……邪魔、でございますか」


「はい」


 俺は茶碗を置いた。


「吉乃さんには、普通に幸せになってほしいんです」


「……はい」


「でも、俺が会いに行ったら、また期待させてしまうかもしれない」


 濃姫は静かに聞いていた。


「だから、少し離れたほうがいいのかなって」


 しばらく沈黙が続いた。


 そして。


「……信長さま」


「はい」


「それは、吉乃様がお望みになったことでございますか?」


「…………」


 俺は固まった。


「……いえ」


「では、信長さまがお一人でお決めになったのですね」


「……はい」


 濃姫は小さく頷いた。


「吉乃様は、もう少しお会いしたいと仰ったのでしょう?」


「……そうです」


「ならば、なぜそのお気持ちを無視なさるのです?」


「…………」


 言い返せなかった。


 確かに。


 吉乃は、もう少しだけ会いたいと言ってくれた。


 それなのに俺は、勝手に距離を置いていた。


「……でも」


 俺は濃姫を見た。


「濃姫は、嫌じゃないんですか?」


 濃姫は少し目を伏せた。


「……嫌でございますよ」


「…………」


 即答だった。


 胸が痛んだ。


「ですが」


 濃姫は顔を上げた。


「信長さまが吉乃様をお慕いしていることは、もう存じております」


「……はい」


「それを知らぬふりをして、お二人を引き離したところで……」


 濃姫は少し笑った。


「信長さまのお心が、私に向くわけではございませんでしょう?」


「…………」


 俺は黙った。


 濃姫は本当に賢い。


 そして、残酷なくらい正直だ。


「……ごめんなさい」


「謝らないでくださいませ」


 濃姫が微笑んだ。


「ただし」


「はい?」


「私との約束も、忘れないでくださいね」


「……はい」


 俺は頷いた。


 濃姫が小さく笑った。


「では、行っていらっしゃいませ」


「……え?」


「吉乃様のところへ」


「…………」


 俺は目を丸くした。


「……いいんですか?」


「私がよいと言わなければ、行かれないのですか?」


「……それは」


 濃姫が笑った。


「ふふっ。信長さまは、本当に不器用なお方ですね」


 返す言葉もない。


     *


 その日の午後。


 俺は久しぶりに吉乃の村へ向かった。


 馬に乗りながら、ずっと考えていた。


 濃姫は、どうしてあんなに優しいんだろう。


 いや、優しいだけじゃない。


 きっと、我慢している。


 俺が吉乃に会いに行くたび、少しずつ傷ついている。


 それでも、俺の背中を押してくれる。


「……俺、何か返せてるのかな」


 小さく呟いた。


 家臣が隣から言った。


「奥方様には、もう少しお気を遣われるべきでしょうな」


「……はい」


「それから、若殿」


「はい?」


「村へ行くのは構いませぬが、そろそろ井戸以外の仕事もなさってくださいませ」


「今日は井戸じゃありません!」


「存じております」


 家臣が真顔で頷いた。


「女人の視察でございましょう」


「違います!!」


 ……いや。


 完全には否定できない。


     *


 村へ着くと、吉乃は家の前で薪を束ねていた。


「あっ……!」


 俺に気づいた瞬間、手を止めた。


「信長さま!」


 吉乃が駆け寄ってきた。


 その顔には、はっきりと喜びが浮かんでいた。


「お久しゅうございます」


「……お久しぶりです」


 俺は笑った。


 吉乃も笑った。


 それだけで、胸の奥が温かくなった。


「もう、お越しにならないのかと思っておりました」


「……ごめんなさい」


 俺は頭を下げた。


「少し、考えていて」


「……何を、でございますか?」


「吉乃さんに会い続けてもいいのかなって」


 吉乃は少し黙った。


 そして。


「……私は、お会いしたかったです」


「…………」


 心臓が跳ねた。


「毎日、井戸のほうを見ておりました」


「……はい」


「また、信長さまがお越しになるのではないかと思って」


 吉乃が少し俯いた。


「……お恥ずかしいことを申しました」


「……俺もです」


 俺は小さく言った。


 吉乃が顔を上げた。


「俺も、毎日会いたかったです」


 吉乃の頬が赤くなった。


 そして、嬉しそうに微笑んだ。


「……ありがとうございます」


     *


 いつもの部屋で、いつものように茶を飲んだ。


 吉乃が用意してくれた菓子は、干し柿だった。


「……美味しい」


 俺が言うと、吉乃が笑った。


「ふふっ。信長さまは、いつも美味しそうに召し上がりますね」


「本当に美味しいので」


「ありがとうございます」


 しばらく、他愛のない話をした。


 村の畑のこと。


 最近生まれた子犬のこと。


 吉乃の母親が、干し柿を隠していた鼠に怒ったこと。


 俺は笑った。


 吉乃も笑った。


 楽しい。


 本当に楽しい。


 でも。


 今日は、少しだけ違う話もしたかった。


「……吉乃さん」


「はい?」


「この前の話なんですけど」


 吉乃の表情が少し変わった。


「……側室のことでございますか?」


「はい」


 俺は頷いた。


「吉乃さんが断ったこと、ちゃんと分かっています」


「……はい」


「だから、もう無理に頼んだりしません」


 吉乃が小さく頷いた。


「……ありがとうございます」


「でも」


 俺は吉乃を見た。


「好きだって気持ちは、変わっていません」


「…………」


 吉乃の頬が赤くなった。


「……私も、でございます」


 小さな声だった。


 でも、はっきり聞こえた。


 俺は胸がいっぱいになった。


     *


「……信長さま」


 しばらくして、吉乃が口を開いた。


「はい?」


「一つ、お願いがございます」


「何ですか?」


 吉乃は少し迷っていた。


 頬が赤い。


 視線が落ち着かない。


 どうしたんだろう。


「……あの」


「はい」


「……一度だけ」


 吉乃は深く息を吸った。


 そして。


「……一晩、私と一緒に過ごしていただけませんか?」


「…………」


 俺は固まった。


 え?


 今。


 何て?


「……ひ、一晩?」


「はい」


 吉乃が真っ赤になって頷いた。


「信長さまと、二人きりで……」


「…………」


 待て。


 ちょっと待て。


 これ。


 そういう意味?


 そういう意味だよね?


 いや、違う可能性もある。


 一晩中お茶を飲むとか。


 干し柿を食べ続けるとか。


 ……いや。


 さすがに違うだろ。


「……吉乃さん」


「はい」


「その……」


 俺は言葉を探した。


 心臓がものすごい勢いで動いている。


「……本当に、いいんですか?」


 吉乃は俯いた。


 そして。


「……はい」


 小さく答えた。


「私は、信長さまの側室にはなれませぬ」


「……はい」


「ですが……」


 吉乃は顔を上げた。


 目が少し潤んでいた。


「……一度だけでも、信長さまの一番になりたいのです」


「…………」


 胸が締めつけられた。


 吉乃は微笑んだ。


「……我が儘でしょうか」


「……そんなことありません」


 俺は首を振った。


「全然、そんなことありません」


 吉乃は少し安心したように笑った。


     *


「……いつにしますか?」


 俺は尋ねた。


 声が震えていた。


 吉乃は少し考えた。


「……三日後では、いかがでしょう」


「三日後?」


「はい。母が親戚の家へ参りますので」


「…………」


 なるほど。


 お母さんがいない日。


 つまり、二人きり。


 ……完全にそういうことじゃないか!


「……分かりました」


 俺は頷いた。


「三日後、来ます」


 吉乃が嬉しそうに笑った。


「……お待ちしております」


 俺も笑った。


 でも。


 心臓はまだ落ち着かなかった。


 だって。


 俺、童貞なんですけど。


 しかも、相手は初恋の人。


 どうすればいいんだ。


 何を準備すればいいんだ。


 この時代に検索サイトはない。


 動画もない。


 恋愛指南書なんて、どこで手に入るんだ。


 助けて。


 誰か助けて。


     *


 城へ戻ると、濃姫が迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、信長さま」


「……ただいま」


 濃姫は俺の顔を見た。


「……何か、よいことがございましたか?」


「えっ!?」


 俺は固まった。


 顔に出てる?


 また?


「い、いえ! 別に!」


 濃姫が小さく笑った。


「ふふっ。分かりやすいお方ですね」


「…………」


 俺は俯いた。


 どうしよう。


 三日後。


 吉乃と一晩過ごす。


 それを濃姫に言うべきなのか?


 いや。


 言わないのは、もっと卑怯だ。


「……濃姫」


「はい?」


「三日後、村へ行こうと思っています」


 濃姫が頷いた。


「吉乃様のところですね」


「……はい」


「お泊まりに?」


「…………」


 俺は固まった。


 なんで分かるの?


 この人、本当に読心術使ってない?


「……はい」


 俺は小さく答えた。


 濃姫はしばらく黙った。


 そして。


「……そうでございますか」


 少しだけ目を伏せた。


「……ごめんなさい」


 俺は頭を下げた。


 濃姫は首を横に振った。


「謝らないでくださいませ」


「……でも」


「信長さま」


 濃姫は俺を見た。


「吉乃様を、大切になさってください」


「…………」


 胸が痛んだ。


「……はい」


 俺は頷いた。


 濃姫は微笑んだ。


 でも、その笑顔は少し寂しそうだった。


     *


 その夜。


 俺はなかなか眠れなかった。


 三日後。


 吉乃と一晩過ごす。


 初恋の相手と。


 初めての夜を。


「…………」


 心臓がうるさい。


 隣では濃姫が静かに眠っている。


 俺は天井を見つめた。


 吉乃が好きだ。


 本当に好きだ。


 だから、三日後が楽しみだった。


 でも。


 少しだけ怖かった。


 何かが変わってしまう気がした。


 俺と吉乃の関係も。


 濃姫との関係も。


 全部。


「……大丈夫」


 俺は小さく呟いた。


「きっと、大丈夫だ」


 そう言い聞かせて、目を閉じた。


 ……ただ。


 俺は、まだ知らなかった。


 三日後の約束が、永遠に果たされないことを。

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