第22話:嫁に側室の許可を求めたら、思ってたよりずっと重い話になったんだが!?
濃姫が、俺を見つめている。
「吉乃様を、側室になさるおつもりですか?」
「…………」
どうしよう。
何て答えればいいんだ。
側室。
現代風に言えば、妻公認の第二の奥さんみたいなものだ。
もちろん、正室と同じ立場ではない。
家臣から聞いた話では、側室を迎えるにも家の事情や身分が関係するらしい。
でも。
俺は吉乃が好きだ。
吉乃も、俺を慕ってくれている。
だからといって、濃姫を傷つけていいわけじゃない。
「……信長さま」
「は、はい!」
「お返事をいただけませんか?」
濃姫の声は穏やかだった。
怒っていない。
少なくとも、表面上は。
「……考えては、います」
俺は正直に答えた。
濃姫が静かに頷いた。
「左様でございますか」
「でも、まだ何も決めていません」
「……はい」
「吉乃さんにも、約束はしていません」
これは本当だ。
好きだとは伝えた。
でも、側室になってほしいとは言っていない。
濃姫はしばらく黙っていた。
そして。
「……私に、許しをお求めですか?」
「…………」
俺は俯いた。
そうだ。
結局、そういうことになる。
俺は妻に、別の女を好きになったことを認めてもらおうとしている。
なんて身勝手なんだ。
「……ごめんなさい」
俺は頭を下げた。
濃姫が少し驚いた顔をした。
「なぜ、謝られるのです?」
「だって……」
俺は言葉を探した。
「濃姫は、嫌でしょう?」
「…………」
濃姫はすぐには答えなかった。
その沈黙が、何よりも答えだった。
*
「……信長さま」
しばらくして、濃姫が口を開いた。
「私は、織田家へ嫁いだ身にございます」
「……はい」
「武家の正室が、夫に側室を迎えられることは、珍しいことではございませぬ」
「……そうですね」
「いずれは、そのような日が来ることも覚悟しておりました」
濃姫は静かに続けた。
「ですが……」
そこで、少し言葉が止まった。
「……こんなに早いとは、思っておりませんでした」
「…………」
胸が痛んだ。
俺たちは結婚して、まだ間もない。
しかも、夫婦らしいことは何もしていない。
初夜には俺が逃げた。
その後も、別々の布団で眠っている。
濃姫は、ずっと待ってくれていた。
なのに俺は、別の女を好きになった。
「……私に、至らぬところがございましたか?」
「違います!」
俺は思わず大きな声を出した。
濃姫が驚いた。
「濃姫は何も悪くありません!」
「……では、なぜ?」
「…………」
答えられない。
吉乃が好きだから。
それだけだ。
でも、そんな答えで濃姫が納得できるはずがない。
「……俺が、勝手なんです」
俺は小さく言った。
濃姫はしばらく俺を見つめていた。
*
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「……はい」
「吉乃様とは、まだ男女の仲ではないのですね?」
「ありません!」
即答した。
濃姫が少し目を丸くした。
「本当に?」
「本当です!」
「……手をお取りになったことは?」
「ありません!」
「口づけは?」
「ありません!」
「……では、抱きしめたことも?」
「ありません!」
濃姫が黙った。
そして。
「……まあ」
少し不思議そうに首を傾げた。
「本当に、お茶だけなのですね」
「そうです!」
俺は力強く頷いた。
濃姫は小さく息を吐いた。
「……信長さまは、やはり淡白なお方なのですね」
「…………」
またそれ?
違う。
違うんだ。
俺は淡白なんじゃない。
ただ、どうすればいいか分からないだけなんだ。
しかも、初めては本当に好きな人と迎えたい。
その本当に好きな人が、今は吉乃なんだ。
……いや。
そんなこと言ったら、濃姫が傷つく。
絶対に言えない。
「……そういうわけでは」
「よろしいのですよ」
濃姫が優しく微笑んだ。
「無理をなさる必要はございません」
「…………」
なんだろう。
優しさが痛い。
*
「ただし」
濃姫の声が少し変わった。
俺は背筋を伸ばした。
「はい!」
「側室を迎えるのであれば、いくつかお約束いただきたいことがございます」
「……約束?」
「はい」
濃姫は真剣な顔で俺を見た。
「まず、吉乃様を粗末に扱わぬこと」
「……え?」
予想外だった。
俺は濃姫を見つめた。
「吉乃様は、信長さまをお慕いしているのでしょう?」
「……はい」
「ならば、そのお気持ちを軽んじてはなりませぬ」
濃姫は静かに続けた。
「一時の気まぐれでお迎えになり、飽きたら捨てるようなことは、決してなさらぬように」
「……もちろんです」
俺は頷いた。
そんなこと、するつもりはない。
「それから」
「はい」
「吉乃様が、側室になることを望まれるかどうか、きちんとお確かめください」
「……はい」
「信長さまのお立場では、娘が断りたくとも断れぬことがございます」
「…………」
その言葉に、俺は黙った。
そうだ。
俺は織田信長だ。
俺が側室になってほしいと言えば、吉乃や家族は断りにくい。
たとえ吉乃が本当は普通の結婚を望んでいても。
俺は、自分が好きだという気持ちばかり考えていた。
「……分かりました」
俺は頷いた。
濃姫は小さく微笑んだ。
「それならば、ようございます」
そして。
「最後に、もう一つ」
「……はい」
濃姫は少し俯いた。
さっきまでの凛とした表情が、少しだけ揺らいだ。
「……私のことも、忘れないでくださいませ」
「…………」
俺は息を呑んだ。
「私は、信長さまの正室にございます」
「……はい」
「ですが、それ以前に……」
濃姫は言葉を探すように、少し黙った。
そして。
「……私も、信長さまに好いていただきたいのです」
「…………」
胸が締めつけられた。
濃姫は微笑んだ。
でも、その目には涙が浮かんでいた。
「欲張りでしょうか」
「……そんなことありません」
俺は首を振った。
「全然、そんなことありません」
濃姫は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
*
その夜。
俺はなかなか眠れなかった。
隣の布団では、濃姫が静かに横になっている。
俺は天井を見つめていた。
側室を迎えること自体は、濃姫も否定しなかった。
でも。
それは、喜んで許してくれたという意味じゃない。
武家の妻として、覚悟しているだけだ。
しかも、俺たちはまだ本当の夫婦になれていない。
そんな状態で、別の女を迎えようとしている。
「……俺、何やってるんだろう」
小さく呟いた。
すると。
「信長さま」
隣から声がした。
「……はい?」
「まだ、起きていらっしゃいますか?」
「はい」
濃姫が少し身体を起こした。
「……一つ、お願いがございます」
「何ですか?」
濃姫は少し迷ってから、口を開いた。
「今夜だけ、同じお布団で休んでもよろしいでしょうか」
「…………」
俺は固まった。
同じ布団。
濃姫と。
俺が。
「……え?」
「何もいたしませぬ」
濃姫が小さく笑った。
「ただ、おそばで眠りたいだけにございます」
「…………」
俺は少し考えた。
断る理由なんて、ない。
むしろ、ここで断ったら最低だ。
「……いいですよ」
俺は頷いた。
濃姫の顔が明るくなった。
「ありがとうございます」
濃姫が布団を持って、俺の隣に来た。
そして、そっと横になった。
近い。
ものすごく近い。
肩が触れそうだ。
いい匂いがする。
俺の心臓が、ものすごい勢いで動き始めた。
「……信長さま」
「は、はい!」
「そんなに緊張なさらなくても」
「すみません!」
濃姫が小さく笑った。
「ふふっ」
そして。
俺の手を、そっと握った。
「……おやすみなさいませ」
「……おやすみなさい」
俺は天井を見つめた。
手が温かい。
濃姫の手だ。
吉乃とは、まだ手も繋いでいない。
なのに俺は今、妻と手を繋いで眠ろうとしている。
なんだか、不思議な気分だった。
そして。
少しだけ、安心した。
*
翌朝。
目が覚めた。
まず、首を触った。
「……ある」
よかった。
今日も生きている。
……いや、待て。
なんか重い。
俺の腕の上に、何かが乗っている。
ゆっくり横を見る。
「…………」
濃姫だった。
俺の腕を枕にして、すやすや眠っている。
しかも。
ものすごく幸せそうな顔をしている。
「…………」
可愛い。
いや、待て。
これ、どうすればいいんだ?
腕が痺れている。
でも、動かしたら起こしてしまう。
俺は天井を見つめた。
助けて。
誰か助けて。
戦国武将って、こんなことまで耐えなきゃいけないの?
そのとき。
「……信長さま」
濃姫が目を開けた。
「お、おはようございます!」
「……おはようございます」
濃姫が微笑んだ。
そして、俺の腕に頬を寄せた。
「……昨夜は、よく眠れました」
「……それはよかったです」
「信長さまは?」
「……腕が痺れました」
濃姫が一瞬、目を丸くした。
そして。
「ふふふっ!」
声を上げて笑った。
俺もつられて笑った。
なんだろう。
こういう朝も、悪くない。
*
朝食のあと。
俺は家臣を呼んだ。
「……吉乃さんのことで、相談があります」
家臣が深いため息をついた。
「またでございますか」
「またです」
「今度は何を?」
「側室として迎えることを、考えています」
家臣の表情が変わった。
「……本気でございますか?」
「はい」
「奥方様には?」
「話しました」
「……何と?」
「吉乃さんを粗末にしないことと、本人の気持ちを確かめること。それから、濃姫のことも忘れないように、と」
家臣はしばらく黙っていた。
そして。
「……奥方様は、まことに立派なお方でございますな」
「……はい」
俺もそう思う。
濃姫は、俺なんかにはもったいないくらい立派な人だ。
「ですが、若殿」
「はい」
「側室を迎えるとなれば、家中にも話を通さねばなりませぬ」
「……そうですよね」
「まして相手は村娘。反対する者もおりましょう」
「……はい」
「それでも、お迎えになるおつもりで?」
俺は少し考えた。
吉乃が好きだ。
それは変わらない。
でも、吉乃が望まないなら、無理に迎えるつもりはない。
「……まず、本人に聞きます」
俺は答えた。
「吉乃さんがどうしたいのか」
家臣は小さく頷いた。
「それがよろしいでしょう」
*
俺は村へ向かうことにした。
今度は、井戸の視察なんて言い訳はしない。
吉乃に会いに行く。
そして、ちゃんと話す。
俺の気持ちも。
濃姫のことも。
側室という立場のことも。
全部。
「……よし」
俺は深く息を吸った。
馬に乗る。
村へ向かう道を進む。
胸が高鳴っていた。
吉乃は、何て答えるだろう。
喜んでくれるだろうか。
それとも、断られるだろうか。
分からない。
でも。
今度こそ、逃げずに向き合おう。
そう決めた。
……ただ。
このときの俺は、吉乃の返事が、俺の三度目の人生を大きく変えることになるなんて、まだ知らなかった。




