第21話:好きな女に縁談が来たので、戦国武将の権力を使いたくなったんだが!?
吉乃に縁談が来た。
「…………」
俺は固まった。
縁談。
つまり、お見合い。
そして、うまくいけば結婚。
吉乃が。
俺以外の男と。
「……え?」
「ですから、吉乃という娘に縁談が持ち上がっておるそうで」
家臣が呆れたように繰り返した。
「聞こえてます」
「では、なぜ三度も聞き返されるのです?」
「理解が追いつかないんです!」
家臣はため息をついた。
「年頃の娘に縁談が来るのは、珍しいことではございませぬ」
「……そうですけど」
「まして吉乃は器量もよく、働き者との評判。縁談の一つや二つ、あって当然でしょう」
「…………」
分かってる。
そんなこと、分かってる。
吉乃は可愛い。
優しい。
お茶を淹れるのも上手だし、俺が変なことを言っても笑ってくれる。
そりゃあ、男だって放っておかないだろう。
でも。
「……相手は誰ですか?」
家臣が眉を上げた。
「お知りになって、どうなさるおつもりで?」
「……別に」
「若殿」
「はい」
「まさか、縁談を潰そうなどとお考えではございますまいな?」
「…………」
考えました。
一瞬だけ。
ものすごく考えました。
だって俺、織田信長だぞ。
尾張の有力武家の跡取りだぞ。
村の縁談くらい、どうにかできるんじゃないか?
……いや。
駄目だ。
それをやったら、ただの権力乱用だ。
「……しません」
「本当でございますな?」
「しませんって!」
家臣は疑わしそうに俺を見た。
「では、なぜ立ち上がられたのです?」
「…………」
気づいたら立っていた。
しかも、もう草履を履こうとしている。
身体が勝手に動いた。
「……村の様子を見に」
「井戸でございますか?」
「井戸です!」
「今度は何度目の視察でしょうな」
うるさい。
俺だって数えてない。
*
村へ向かう道中、俺はずっと考えていた。
吉乃に縁談が来た。
それ自体は、何もおかしくない。
むしろ、めでたい話だ。
俺は既婚者だ。
濃姫という立派な妻がいる。
しかも、昨日は一緒に城下を歩いて、楽しく過ごしたばかりだ。
なのに。
吉乃が誰かと結婚するかもしれないと聞いた途端、こんなに焦っている。
「……最低だな、俺」
俺は馬の上で呟いた。
吉乃には幸せになってほしい。
それは本当だ。
でも、その幸せの隣にいるのが俺じゃないと思うと、胸が苦しい。
矛盾してる。
ものすごく矛盾してる。
前世では彼女すらできなかった男が、戦国時代に来た途端、女二人の間で悩んでいる。
神様。
もう少し段階を踏ませてくれませんか。
*
吉乃の家に着くと、庭先で彼女が洗濯物を干していた。
「あっ、信長さま!」
吉乃が俺に気づいた。
嬉しそうに笑う。
その顔を見ただけで、胸が跳ねた。
「こんにちは」
「本日は、いかがなさいました?」
「……ちょっと、近くまで来たので」
嘘だ。
完全に吉乃に会うために来た。
後ろで家臣が咳払いした。
余計なこと言うなよ。
「まあ。では、お茶をお淹れいたしますね」
「あ、その前に」
俺は持ってきた包みを差し出した。
「これ、お土産です」
吉乃が目を丸くした。
「私に、でございますか?」
「はい。昨日、城下で買ったんです」
吉乃が包みを開いた。
中には餅が入っている。
「まあ……!」
吉乃の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「甘いもの、好きですか?」
「はい! 大好きでございます」
よかった。
俺は思わず笑った。
「それならよかったです」
吉乃も笑った。
……ああ。
やっぱり好きだ。
この人の笑顔が。
*
茶が運ばれてきた。
いつもの部屋。
いつもの茶碗。
いつもの吉乃。
なのに、今日は落ち着かない。
「……信長さま?」
「はい?」
「何か、お悩みでも?」
「え?」
「先ほどから、あまりお茶が進んでおりませんので」
「…………」
鋭い。
この人も鋭い。
俺の周りの女性、観察力が高すぎない?
「……吉乃さん」
「はい」
「縁談が来たって、本当ですか?」
聞いてしまった。
吉乃の手が止まった。
「……ご存じだったのですね」
「はい」
吉乃は少し俯いた。
「昨日、母から聞かされました」
「……そうですか」
「隣村の商家の方だそうです」
商家。
なるほど。
生活は安定していそうだ。
少なくとも、毎日のように命を狙われる戦国武将よりは安全だろう。
「……いい人なんですか?」
「まだ、お会いしたことはございません」
「……そうなんですね」
「ですが、真面目で働き者の方だと」
「…………」
真面目。
働き者。
いいじゃないか。
俺なんて、槍の稽古から逃げたいと毎日思っている。
勝ち目がない。
いや、勝負しているわけじゃないんだけど。
「……吉乃さんは、その人と結婚したいんですか?」
吉乃が俺を見た。
少し驚いた顔をしている。
「……まだ、分かりませぬ」
「…………」
「お会いしたこともない方ですから」
そりゃそうだ。
俺は頷いた。
すると、吉乃が小さく笑った。
「ですが、母は喜んでおります」
「……そうですか」
「よいお話だと」
俺は茶碗を見つめた。
よい話。
そうだろう。
吉乃が普通の家に嫁いで、普通に暮らして、子供を産んで。
それはきっと、幸せな人生だ。
俺が邪魔していいものじゃない。
分かっている。
分かっているのに。
「……嫌だな」
小さく呟いてしまった。
「え?」
吉乃が顔を上げた。
しまった。
聞こえた?
「……何でもありません」
俺は慌てて首を振った。
吉乃はしばらく俺を見つめていた。
*
「信長さま」
「はい?」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
吉乃は少し迷ってから、口を開いた。
「……なぜ、私の縁談をお気になさるのですか?」
「…………」
直球。
ものすごい直球。
俺は固まった。
なぜって。
好きだから。
吉乃が好きだから。
他の男に取られたくないから。
でも。
そんなことを言っていいのか?
俺には濃姫がいる。
吉乃に何を約束できる?
正室にはできない。
側室にするにも、濃姫の了承や家の事情がある。
愛妾として囲うなんて、もっと嫌だ。
吉乃を日陰の存在にしたくない。
「……それは」
俺は口を開いた。
吉乃がじっと見ている。
逃げるな。
今度こそ。
ちゃんと話せ。
「……吉乃さんが、好きだからです」
言った。
ついに言ってしまった。
吉乃の目が大きく見開かれた。
「…………」
沈黙。
ものすごい沈黙。
俺の心臓が、耳のすぐ横で鳴っているみたいだった。
「……信長さま」
吉乃が小さく呟いた。
「はい」
「それは……」
彼女の頬が赤くなった。
「……本当でございますか?」
「はい」
俺は頷いた。
「本当です」
吉乃は俯いた。
そして。
「……嬉しゅうございます」
「…………」
え?
今。
嬉しいって言った?
吉乃は顔を上げた。
目が少し潤んでいる。
「私も……」
そこで言葉が止まった。
吉乃は唇を噛んだ。
「……いえ」
「吉乃さん?」
「信長さまには、奥方様がいらっしゃいます」
「…………」
そうだ。
それが現実だ。
「濃姫様は、とてもお優しい方でした」
「……はい」
「私のような者にも、丁寧に接してくださいました」
吉乃は小さく笑った。
「ですから……」
声が震えた。
「私が、信長さまをお慕いしてよいものか……」
「…………」
胸が痛んだ。
俺は何も言えなかった。
*
しばらくして。
吉乃が静かに口を開いた。
「……信長さま」
「はい」
「私、縁談のお返事を、まだしておりません」
「……はい」
「少しだけ、考える時間をいただいております」
吉乃は俺を見た。
「……その間に、もう一度お会いできますか?」
「もちろんです!」
俺は即答した。
吉乃が微笑んだ。
「ありがとうございます」
俺も笑った。
でも。
その笑顔を見ながら、俺は分かっていた。
次に会うときには、何かを決めなきゃいけない。
このまま曖昧な関係を続けるわけにはいかない。
*
城へ戻ると、濃姫が庭にいた。
昨日買った青い組紐を髪に結んでいる。
俺に気づくと、嬉しそうに微笑んだ。
「お帰りなさいませ、信長さま」
「……ただいま」
「本日は、どちらへ?」
「……村へ」
濃姫が少し目を伏せた。
「……吉乃様のところですか?」
「はい」
俺は正直に答えた。
濃姫は頷いた。
「左様でございますか」
それ以上、何も聞かなかった。
俺は濃姫の髪を見た。
「……その組紐」
「はい?」
「使ってくれてるんですね」
濃姫が嬉しそうに笑った。
「もちろんでございます」
「……似合ってます」
「ありがとうございます」
濃姫が頬を染めた。
俺は胸が苦しくなった。
この人は、俺が買った組紐を大切にしてくれている。
俺が少し優しくしただけで、こんなに喜んでくれる。
なのに俺は。
別の女に好きだと告白してきた。
「…………」
どうすればいいんだろう。
*
その夜。
俺は布団の中で考えていた。
吉乃に告白した。
吉乃も、俺を慕ってくれている。
でも、俺には濃姫がいる。
しかも、吉乃には縁談が来ている。
このままでは、誰も幸せになれない。
「……どうしよう」
俺は小さく呟いた。
すると。
「信長さま」
隣の布団から声がした。
「はい?」
濃姫が身体を起こした。
「……少し、お話がございます」
「……何ですか?」
濃姫はしばらく黙っていた。
そして。
「吉乃様を、側室になさるおつもりですか?」
「…………」
俺は固まった。
ついに。
ついに来た。
避けていた話が。
濃姫は静かに俺を見つめている。
「……信長さま」
その声は、いつもより真剣だった。
「もし、そのおつもりでしたら……」
濃姫は少しだけ目を伏せた。
そして、ゆっくりと言った。
「私にも、覚悟が必要でございます。」
俺は何も答えられなかった。
本能寺の変まで、あと三十三年。
なのに俺は、明日の夫婦会議すら乗り切れる気がしなかった。




