第19話:初恋の相手と嫁が対面したら、俺だけ死にそうなんだが!?
人生には、逃げてはいけない場面がある。
例えば、大切な人を守るとき。
例えば、自分の過ちを認めるとき。
そして今。
俺の初恋の相手と、俺の嫁が対面しようとしているとき。
「…………」
逃げたい。
ものすごく逃げたい。
「信長さま?」
「は、はい!」
濃姫が俺を見ている。
「どうかなさいました?」
「いえ! 何も!」
「お顔が青うございますよ」
「生まれつきです!」
嘘だ。
さっきまで普通の顔色だった。
家臣が呆れた顔で俺を見ている。
助けて。
誰か助けて。
俺は本能寺で一度死んでいる。
二度目の人生では、家康を食中毒で死なせたせいで処刑された。
そして三度目。
まさか女関係で死ぬことになるとは思わなかった。
歴史の教科書に何て書かれるんだ。
『織田信長、妻と愛人の修羅場により死亡』
嫌すぎる。
*
「吉乃様を、こちらへお通しくださいませ」
濃姫が侍女に告げた。
「はっ」
侍女が下がる。
俺は慌てて濃姫を見た。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「はい?」
「別に、ここで会わなくても……」
「なぜでございます?」
「ええと……」
理由がない。
いや、理由はある。
ものすごくある。
でも言えない。
「……緊張するので」
濃姫が目を瞬かせた。
「信長さまが?」
「はい」
「吉乃様にお会いになるのが?」
「…………」
しまった。
濃姫は小さく笑った。
「ふふっ。いつもお会いになっているのでしょう?」
「…………」
知ってる。
全部知ってる。
俺は諦めて座った。
もう駄目だ。
腹をくくろう。
いや、腹は切りたくない。
それだけは勘弁してほしい。
*
しばらくして。
「失礼いたします」
侍女に案内されて、一人の娘が部屋に入ってきた。
吉乃だった。
いつもの質素な着物ではなく、少し綺麗な小袖を着ている。
髪も丁寧に結われていた。
……可愛い。
いや、今それどころじゃない。
「吉乃さん!」
思わず立ち上がった。
吉乃が俺を見て、ほっとしたように微笑んだ。
「信長さま」
その瞬間。
隣から視線を感じた。
濃姫だ。
俺はゆっくり座り直した。
吉乃も濃姫に気づいたらしい。
慌てて頭を下げた。
「は、初めてお目にかかります!」
「どうぞ、お顔をお上げくださいませ」
濃姫の声は穏やかだった。
「私は濃と申します」
「……吉乃と申します」
「お話は、信長さまから伺っております」
「…………」
吉乃が俺を見た。
俺も吉乃を見た。
そして二人同時に目を逸らした。
終わった。
完全に終わった。
*
「本日は、どのようなご用向きで?」
濃姫が尋ねた。
吉乃は膝の上で手を握りしめた。
「実は……」
少し言いにくそうにしている。
俺は身を乗り出した。
「何か困ったことでも?」
「いえ、その……」
吉乃が俺を見た。
頬が赤い。
「先日、信長さまにお借りしたものを、お返しに参りました」
「……借りたもの?」
俺は首を傾げた。
何か貸したっけ?
吉乃が小さな包みを取り出した。
中から出てきたのは、手拭いだった。
「あっ!」
思い出した。
最初に会った日。
井戸の水を浴びたとき、吉乃が濡れてしまったので、俺の手拭いを渡したんだった。
……いや。
正確には、俺もびしょ濡れだったから、家臣が持っていた予備の手拭いを渡したんだけど。
「洗ってお返ししようと思っていたのですが、なかなかお会いできず……」
「そんなの、いつでもよかったのに」
「でも、大切なお品ですので」
吉乃が微笑んだ。
可愛い。
ものすごく可愛い。
俺は思わず笑った。
「ありがとうございます」
「いいえ」
二人で笑い合った。
そのとき。
「……まあ」
濃姫の声がした。
俺は固まった。
濃姫は手拭いを見つめていた。
「信長さまは、吉乃様に手拭いをお貸しになったのですね」
「……はい」
「お優しいのですね」
「…………」
褒められているはずなのに。
なぜか背筋が寒い。
*
「ところで、吉乃様」
濃姫が微笑んだ。
「はい?」
「信長さまとは、どちらでお知り合いに?」
「村の井戸でございます」
「井戸?」
「はい。私が水を汲もうとしていたところ、信長さまがお手伝いくださって」
濃姫が俺を見た。
「まあ。信長さまが?」
「……はい」
「それで、お二人とも濡れてしまわれたのですね」
「はい」
吉乃が恥ずかしそうに笑った。
「私が不器用なものですから」
「そんなことないですよ!」
俺は慌てて言った。
「俺が勝手に手伝おうとして、失敗しただけで!」
吉乃が笑う。
「ふふっ。信長さまは、あのときもそう仰ってくださいました」
「本当のことですから」
「……お優しいのですね」
吉乃が微笑んだ。
俺も笑った。
そして。
濃姫を見た。
「…………」
笑っている。
ものすごく綺麗に笑っている。
怖い。
いや、何も怖いことは起きていない。
誰も怒っていない。
誰も短刀を抜いていない。
なのに。
俺の心臓だけが、ものすごい勢いで動いている。
*
しばらくして、茶が運ばれてきた。
濃姫は吉乃に菓子を勧めた。
「どうぞ、遠慮なさらず」
「ありがとうございます」
吉乃が小さく頭を下げる。
俺は茶碗を持った。
手が震える。
茶がこぼれそうだ。
「ところで、吉乃様」
濃姫が穏やかに微笑んだ。
「はい?」
「信長さまとは、どのようなお付き合いを?」
「えっ?」
吉乃が目を丸くした。
「お、お付き合いと申しますと……」
「そのままの意味にございます」
濃姫はにこやかだった。
ものすごくにこやかだった。
「お二人は、もう男女の仲に?」
「ぶっ!」
俺は茶を吹き出した。
「信長さま!?」
吉乃が慌てて立ち上がる。
濃姫は俺に手拭いを差し出しながら、平然と続けた。
「つまり、体の関係は?」
「か、体!?」
吉乃の顔が一瞬で真っ赤になった。
「ご、ごご、ご冗談を!」
「まあ、違うのですか?」
「お茶だけでございます!」
吉乃が叫んだ。
「お茶を飲んで、お菓子をいただいて、お話をしているだけでございます!」
「…………」
「そ、それ以外は何も!」
俺も必死に頷いた。
「そうです! 本当にお茶だけです!」
濃姫が俺を見た。
それから吉乃を見る。
そして。
「……まあ」
少し驚いたように目を瞬かせた。
「そうでしたのね」
濃姫の表情が、ほんの少し和らいだ。
……あれ?
安心してる?
「てっきり、もう深い仲になっていらっしゃるのかと」
「と、とんでもございません!」
吉乃が真っ赤な顔で俯いた。
俺も真っ赤になっていたと思う。
そもそも。
手すら繋いでないんですけど!
*
「吉乃様」
濃姫が改めて声をかけた。
「は、はい」
「信長さまは、村ではどのようにお過ごしなのですか?」
「ええと……」
吉乃が少し考えた。
「お茶を召し上がって、お話をして……」
「はい」
「それから、お菓子を美味しそうに召し上がります」
「まあ」
濃姫が俺を見た。
「信長さまは、本当に甘いものがお好きなのですね」
「……はい」
「私も存じませんでした」
「…………」
俺は固まった。
そういえば。
濃姫に甘いものが好きだって、言ったことがなかった。
吉乃には、自然に話していたのに。
「今度、お好きな菓子を用意させましょう」
濃姫が微笑んだ。
「……ありがとうございます」
俺は小さく答えた。
胸が少し痛んだ。
*
やがて、吉乃が帰る時間になった。
「本日は突然お訪ねしてしまい、申し訳ございませんでした」
吉乃が頭を下げた。
「とんでもございません」
濃姫が微笑む。
「また、お越しくださいませ」
「……よろしいのですか?」
「もちろんです」
吉乃が嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
俺もほっとした。
よかった。
何も起きなかった。
修羅場にならなかった。
俺は生きている。
素晴らしい。
吉乃が俺を見た。
「信長さま」
「はい?」
「……また、お話しできますでしょうか」
「もちろんです!」
即答した。
吉乃が微笑んだ。
「お待ちしております」
「はい!」
俺も笑った。
その横で。
濃姫は静かに二人を見ていた。
*
吉乃が帰ったあと。
俺はぐったりと畳に座り込んだ。
「……疲れた」
「まあ、信長さま」
濃姫が隣に座った。
「何をそんなにお疲れなのです?」
「……色々です」
主に精神的な問題だ。
濃姫はしばらく俺を眺めていた。
そして、何かに納得したように頷いた。
「……そういうことでしたのね」
「はい?」
「私、ようやく分かりました」
嫌な予感がする。
「何がですか?」
濃姫は微笑んだ。
「信長さまは、淡白なだけでしたのね」
「…………」
は?
「吉乃様とも、お茶を召し上がるだけなのでしょう?」
「……はい」
「私とも、同じお部屋でお休みになるだけ」
「……そうですね」
「ですから、私に魅力がないわけではなかったのですね」
「…………」
濃姫が嬉しそうに笑った。
「安心いたしました」
俺は固まった。
待て。
ちょっと待て。
この人、何か盛大な勘違いをしてない?
「……濃姫」
「はい?」
「その、淡白というのは……」
「無理になさらなくてもよろしいのですよ」
濃姫が優しく俺の手を取った。
「夫婦のことも、信長さまのお気持ちに合わせて、ゆっくり進めてまいりましょう」
「…………」
優しい。
ものすごく優しい。
でも違う。
俺は淡白なんじゃない。
ただ、経験がないだけなんだ。
しかも、好きな人と初めてを迎えたいという、面倒くさいこだわりまである。
……いや。
そんなこと、口が裂けても言えない。
「……ありがとうございます」
俺は小さく頭を下げた。
濃姫は満足そうに微笑んだ。
どうやら俺の嫁は、俺が女に興味の薄い男だと理解したらしい。
違うんです。
俺、ただの童貞なんですけど!?
*
その夜。
俺たちは、いつものように別々の布団で眠った。
濃姫は先に横になった。
俺は天井を見つめていた。
吉乃のことが好きだ。
それは変わらない。
でも。
濃姫のことも、ちゃんと知ろう。
そう思った。
そのとき。
「……信長さま」
隣から声がした。
「はい?」
「まだ、起きていらっしゃいますか?」
「……はい」
濃姫が少し身体を起こした。
「明日、お時間はございますか?」
「ありますよ」
「では……」
濃姫が少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「私と、城下へ出かけていただけませんか?」
「……城下?」
「はい」
俺は頷いた。
「いいですよ」
濃姫が嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
俺も少し笑った。
よし。
明日は濃姫と出かけよう。
吉乃のことは、いったん置いておく。
妻と向き合う時間も大切だ。
そう思った。
……ただ。
このときの俺は、濃姫との外出が、吉乃との関係をさらにややこしくすることになるなんて、想像もしていなかった。




