第18話:嫁に浮気を疑われたので正直に話したら余計怖くなったんだが!?
最近、濃姫が静かだ。
いや、もともと騒がしい人ではない。
ただ、以前はもっと俺に話しかけてきた。
槍の鍛錬に誘ってきたり、食事を一緒にしようと言ってきたり、夜になると隣に座ってきたり。
そのたびに俺は怯えていたわけだけど。
今は違う。
「信長さま、お食事の支度が整いました」
「……はい」
「本日はお魚でございます」
「ありがとうございます」
「では、私はこれで」
「……え?」
濃姫が立ち上がった。
「一緒に食べないんですか?」
「信長さまは、お一人のほうが落ち着かれるかと」
「…………」
そんなこと、言ったっけ?
いや。
言ってない。
たぶん。
「……一緒に食べましょうよ」
俺が言うと、濃姫は少し驚いた顔をした。
「よろしいのですか?」
「もちろんです」
「……ありがとうございます」
濃姫が微笑んだ。
でも。
なんだか、よそよそしい。
俺は魚を見つめた。
焼き魚。
美味しそうだ。
ただ、今は魚どころじゃない。
俺、何かした?
……いや。
してるな。
毎日のように吉乃に会いに行ってる。
完全に心当たりがあった。
*
食事が始まった。
濃姫は静かに箸を動かしている。
俺も黙って魚を食べた。
気まずい。
ものすごく気まずい。
以前は濃姫のほうから話しかけてくれたのに、今日は何も言わない。
「……濃姫」
「はい?」
「最近、元気ないですか?」
濃姫が目を瞬かせた。
「私が、でございますか?」
「はい」
「そのようなことはございません」
「……そうですか」
「はい」
会話終了。
早い。
もう少し何かないの?
俺は魚の骨を取りながら考えた。
ここは、俺から話題を振るべきだ。
「……今日の魚、美味しいですね」
「ありがとうございます」
「焼き加減もちょうどいいです」
「料理人も喜びましょう」
「…………」
終わった。
会話が続かない。
前世の俺だったら、ここで諦めてスマホを触っていた。
でも、この時代にスマホはない。
逃げ道がない。
「……濃姫」
「はい」
「俺、何か怒らせました?」
聞いてしまった。
濃姫の箸が止まった。
「……どうして、そのように思われるのですか?」
「最近、あまり話してくれないので」
濃姫は少し目を伏せた。
「……信長さま」
「はい」
「私がお話しすると、ご迷惑なのではありませんか?」
「え?」
「以前から、私が近づくたびに驚いていらっしゃいましたので」
「…………」
あ。
そうだった。
俺はずっと濃姫を怖がっていた。
近づかれるたびに飛び上がって、触れられるたびに身を引いていた。
それでも濃姫は笑ってくれていた。
でも。
笑っていたからって、傷ついていないとは限らない。
「……ごめんなさい」
俺は頭を下げた。
濃姫が驚いた。
「信長さま?」
「怖がってばかりで」
「…………」
「濃姫が悪いわけじゃないんです」
これは本当だ。
濃姫は俺を殺そうとしたわけじゃない。
初夜に短刀を持っていたのだって、斎藤道三に命じられていたからだ。
俺が勝手に怯えているだけだ。
「……俺、女の人と接するのが苦手で」
濃姫が首を傾げた。
「女人が、でございますか?」
「はい」
「……私だけではなく?」
「…………」
しまった。
吉乃は平気だ。
むしろ会いたくて仕方がない。
「……ええと」
濃姫が俺を見つめた。
「信長さま」
「はい」
「最近、村へよくお出かけになられますね」
来た。
ついに来た。
「……はい」
「何か、気になることでも?」
「…………」
俺は箸を置いた。
どうしよう。
嘘をつく?
井戸の話をする?
いや。
もう無理だ。
濃姫は馬鹿じゃない。
むしろ、俺よりずっと頭がいい。
下手な嘘をついたら、余計に傷つけるだけだ。
「……実は」
俺は口を開いた。
「村に、仲良くなった人がいます」
濃姫が静かに俺を見た。
「……どなたですか?」
「吉乃という女の人です」
言った。
ついに言ってしまった。
濃姫はしばらく黙っていた。
そして。
「……左様でございますか」
小さく頷いた。
怒らない。
怒鳴らない。
短刀も出さない。
それが逆に怖い。
「……怒ってます?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
濃姫は微笑んだ。
「信長さまが領民と親しくなさるのは、よいことにございます」
「…………」
違う。
そういう話じゃない。
俺は分かっていた。
濃姫も、たぶん分かっている。
でも。
どちらも、それ以上踏み込めなかった。
*
食事が終わったあと。
俺は一人で庭に出た。
夜風が涼しい。
虫の声が聞こえる。
「……やっちゃったな」
正直に話せば、少しは楽になると思った。
でも、全然楽にならない。
むしろ、濃姫の顔が頭から離れない。
怒ってくれたほうがよかった。
責めてくれたほうが、まだ分かりやすかった。
あんなふうに静かに笑われると、どうしたらいいのか分からない。
「……俺、最低だな」
前世では、誰にも好かれなかった。
だから、好きな人ができたら絶対に大切にしようと思っていた。
でも。
今の俺には、すでに大切にしなきゃいけない人がいる。
濃姫だ。
俺の妻。
政略結婚とはいえ、俺と一緒に生きるために嫁いできた人だ。
その人を、俺はずっと怖がっている。
そして、別の女のことばかり考えている。
「…………」
どうしたらいいんだろう。
*
「信長さま」
「うわっ!」
振り返ると、濃姫が立っていた。
手には羽織を持っている。
「夜は冷えますので」
「……ありがとうございます」
濃姫が俺の肩に羽織を掛けてくれた。
その手が、少しだけ触れた。
いつもなら飛び上がるところだ。
でも、今日は動かなかった。
「……濃姫」
「はい」
「さっきの話なんですけど」
濃姫は静かに俺を見た。
「吉乃さんとは、ただ話をしているだけです」
「……左様でございますか」
「はい」
嘘ではない。
まだ何もしていない。
手も繋いでいない。
告白だってしていない。
でも。
好きだ。
それだけは、もう誤魔化せない。
「……信長さま」
「はい」
「その方は、お美しいのですか?」
「…………」
俺は固まった。
なんて答えればいいんだ。
綺麗です、と言ったら傷つける?
そうでもないです、と言ったら嘘になる?
俺は少し考えた。
「……笑顔が、すごく綺麗です」
言ってから後悔した。
濃姫は目を伏せた。
「……そうでございますか」
「…………」
終わった。
完全に終わった。
でも。
濃姫は怒らなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「信長さまは、その方とお話しすると楽しいのですね」
「……はい」
「私といるときよりも?」
「…………」
答えられなかった。
濃姫は俺の沈黙を見て、静かに頷いた。
「……分かりました」
「濃姫?」
「私は、信長さまの正室にございます」
濃姫はまっすぐ俺を見た。
「信長さまがどなたをお好きになろうとも、私の務めは変わりませぬ」
「…………」
「織田家のため、信長さまをお支えいたします」
立派だ。
ものすごく立派だ。
俺なんかより、よほど武将の妻らしい。
でも。
なんだろう。
そんなことを言わせたかったわけじゃない。
「……濃姫」
「はい」
「俺は……」
言葉が出てこなかった。
濃姫は微笑んだ。
「お部屋へ戻りましょう。お風邪を召されます」
そう言って、俺の袖をそっと引いた。
俺は黙って頷いた。
*
その夜。
俺たちは、いつものように別々の布団で眠った。
濃姫は先に横になった。
俺は天井を見つめていた。
吉乃のことが好きだ。
それは変わらない。
でも。
濃姫を傷つけたいわけじゃない。
むしろ、幸せになってほしい。
ただ、その幸せを俺が与えられるのかは分からない。
「……信長さま」
暗闇の中で、濃姫の声がした。
「はい?」
「一つ、お願いがございます」
「何ですか?」
少し沈黙があった。
そして。
「……明日は、私とお過ごしいただけませんか?」
「…………」
俺は濃姫のほうを向いた。
暗くて表情は見えない。
でも、その声はいつもより小さかった。
「……はい」
俺は答えた。
「明日は、一緒に過ごしましょう」
「……ありがとうございます」
濃姫の声が、少しだけ明るくなった。
俺は目を閉じた。
吉乃に会いたい。
でも、明日は濃姫と過ごす。
それくらいは、ちゃんとしなきゃいけない。
そう思った。
*
翌朝。
俺は濃姫と庭を歩いていた。
久しぶりに、二人きりの時間だった。
「信長さま」
「はい?」
「本日は、どちらへ参りましょう?」
「……どこでもいいですよ」
「まあ」
濃姫が嬉しそうに笑った。
「では、少し遠出をいたしませんか?」
「遠出?」
「はい。城下に、綺麗な花の咲く場所がございます」
「いいですね」
俺は頷いた。
濃姫が笑った。
その笑顔を見て、少し安心した。
よかった。
今日は普通に過ごせそうだ。
そう思った。
そのとき。
「若殿!」
家臣が駆け込んできた。
「何ですか?」
「村から使いが参っております!」
「村?」
俺は首を傾げた。
「どこの?」
家臣は一瞬、濃姫を見た。
そして、俺に向き直った。
「……若殿が、近頃よくお訪ねになる村にございます」
「…………」
嫌な予感がした。
「何かあったんですか?」
「それが……」
家臣は言いにくそうに口を開いた。
「吉乃という娘が、若殿にお目通りを願っております」
「…………」
俺は固まった。
吉乃が?
俺に?
どうして?
濃姫が、ゆっくりと俺を見た。
「……信長さま」
「はい」
「その方が、吉乃様でございますか?」
「…………」
俺は頷いた。
濃姫は微笑んだ。
「では、お会いになられてはいかがでしょう」
「……え?」
「せっかく、お訪ねくださったのですから」
濃姫は静かに言った。
「私も、ご挨拶いたしとうございます」
「…………」
俺の背筋に、冷たいものが走った。
待って。
ちょっと待って。
吉乃と濃姫が会う?
俺の初恋の相手と、俺の嫁が?
しかも、二人とも俺のことを知っている?
……これ。
本能寺の変より先に、修羅場が始まるんじゃないか!?




