第15話:初恋の相手に会いに行ったら、家臣に浮気を疑われたんだが!?
恋をした。
たぶん。
いや、間違いないと思う。
だって、朝起きて最初に考えたのが吉乃のことだった。
「……会いたい」
口に出してから、俺は布団の中で悶えた。
何これ。
気持ち悪い。
自分で言っておいて何だけど、ものすごく気持ち悪い。
前世では二十年近く生きてきて、女の子とまともに話したことすらなかった。
中学では女子にからかわれ、高校では男子にいじられ、大学ではほとんど一人だった。
恋愛なんて、俺には関係のないものだと思っていた。
それが今。
女の子の笑顔を思い出して、布団の中でにやけている。
しかも。
「……俺、結婚してるんだよな」
そうだった。
忘れてはいけない。
俺には嫁がいる。
濃姫という、ものすごく綺麗で、ものすごく怖くて、槍まで使える嫁が。
どうするんだ、これ。
*
「若殿、本日も村へ?」
「はい」
「三日続けてでございますが」
「……何か問題でも?」
「いえ、問題というほどでは」
家臣が俺をじっと見た。
「ただ、若殿がこれほど領民の暮らしに関心を持たれるとは、思いもよりませなんだ」
「いいことじゃないですか」
「それはもちろん」
「じゃあ行きましょう」
「しかし若殿」
「何ですか?」
「本日はどちらの村へ?」
「この前の」
「……またでございますか?」
しまった。
さすがに怪しまれている。
「まだ確認したいことがあるんです」
「何を?」
「……井戸」
「井戸は先日ご覧になりました」
「田んぼ」
「そちらもご覧になりました」
「……道」
「昨日ご覧になりました」
こいつ。
記憶力がよすぎる。
「若殿」
「はい」
「もしや、村に何かお気に召したものでも?」
「…………」
俺は目を逸らした。
家臣の目が細くなる。
「……女でございますな?」
「違います!」
即答した。
声が裏返った。
終わった。
「やはり」
「違うって言ってるでしょう!」
「若殿、奥方様がおられる身で」
「だから違います!」
家臣がため息をついた。
「若殿。女人に心を惹かれること自体を責めるつもりはございませぬ」
「……え?」
「しかし、あまり露骨になさいますと、奥方様のお耳にも入りますぞ」
俺は固まった。
濃姫。
あの濃姫に?
俺が別の女に会いに行っていると知られたら?
短刀。
槍。
あの笑顔。
「…………」
死ぬ。
本能寺より先に死ぬ。
「……今日の視察、やめます」
「え?」
「やっぱりやめます」
「若殿?」
「命が惜しいので」
「は?」
俺は踵を返した。
恋愛より命だ。
俺はまだ死にたくない。
*
ところが。
その日の昼。
「信長さま」
「ひゃいっ!」
濃姫に呼び止められた。
俺は反射的に背筋を伸ばした。
「ど、どうしました?」
「本日は村へお出かけにならないのですか?」
「…………」
知ってる。
やっぱり知ってる。
家臣が告げ口したのか?
「ええと……」
「ここ数日、毎日のようにお出かけでしたので」
「そ、そうですね」
「今日はお屋敷にいらっしゃるのですね」
濃姫が微笑む。
怖い。
いつも通りの笑顔なのに怖い。
「では」
濃姫が俺の袖をつまんだ。
「今日は私とお過ごしくださいませ」
「……はい」
断れなかった。
*
濃姫に連れられて、庭へ出た。
そこには弓が用意されていた。
「…………」
嫌な予感がする。
「信長さま」
「はい」
「本日は弓の鍛錬をいたしましょう」
「……濃姫も?」
「はい」
やっぱり。
「私、弓も少し嗜みますので」
少し。
また少し。
この人の「少し」は信用できない。
「では、まず私から」
濃姫が弓を構える。
姿勢が綺麗だ。
弦を引く。
放つ。
ひゅっ。
矢が的の中心近くに刺さった。
「…………」
知ってた。
「信長さまも」
「……はい」
俺は弓を受け取った。
重い。
弦が硬い。
そもそも、まともに引けない。
「こうですか?」
「もう少し肘を上げて」
「こう?」
「はい」
濃姫が後ろから俺の腕に触れた。
「ひっ!」
弓を落としかけた。
「信長さま?」
「な、何でもありません!」
近い。
近すぎる。
濃姫の髪が肩に触れている。
いい匂いがする。
心臓がうるさい。
でも、吉乃といるときとは違う。
吉乃といるときは、もっと自然に笑える。
濃姫といるときは、常に何かの試験を受けている気分だ。
「では、放ってくださいませ」
「はい!」
俺は矢を放った。
ひゅっ。
矢は的の横を通り過ぎた。
「…………」
「…………」
「……外れましたね」
「はい」
濃姫は笑わなかった。
それが逆につらい。
「もう一度」
「……はい」
俺は弓を構え直した。
そのとき。
「信長さま」
「はい?」
「最近、楽しそうでいらっしゃいますね」
心臓が止まりかけた。
「そ、そうですか?」
「はい」
濃姫が微笑む。
「何か、よいことでも?」
「…………」
やめて。
その質問やめて。
「別に……」
「そうですか?」
「はい」
濃姫は俺の顔をじっと見つめた。
「……信長さま」
「はい」
「私にも、何か隠していらっしゃいます?」
「…………」
終わった。
完全に終わった。
俺は弓を握りしめた。
「な、何も!」
声が裏返った。
濃姫は少し首を傾げた。
そして。
「ふふっ」
笑った。
「信長さまは、本当に分かりやすいお方ですね」
「…………」
怖い。
この人、絶対何か察してる。
*
その夜。
俺は布団の中で考えていた。
吉乃に会いたい。
でも濃姫が怖い。
そもそも俺は既婚者だ。
この時代、側室を持つことは珍しくないらしい。
織田信長だって、史実では何人も女がいたはずだ。
だったら吉乃と仲良くなっても、問題ないのかもしれない。
……いや。
問題はある。
俺自身の気持ちだ。
吉乃は、俺のことをどう思っているんだろう。
織田信長だから優しくしてくれているのか。
それとも。
中田龍之介としての俺を、少しでも気に入ってくれているのか。
「…………」
分からない。
でも。
確かめたい。
*
翌日。
俺は一人で村へ向かった。
いや、正確には一人ではない。
家臣を数名連れている。
さすがに織田家の嫡男が完全に一人で出歩くのは許されなかった。
「若殿、本日こそ何のご用で?」
「……井戸です」
「また井戸でございますか」
「井戸は大事でしょう」
「それはそうですが」
家臣が呆れている。
もういい。
どうせバレてる。
*
吉乃は井戸の近くにいた。
俺を見つけると、驚いた顔をした。
「信長さま!」
「こんにちは」
「またお越しくださったのですね」
「はい」
吉乃が微笑む。
それだけで、胸が軽くなった。
「……迷惑じゃないですか?」
俺が聞くと、吉乃は首を横に振った。
「いいえ。嬉しゅうございます」
「本当に?」
「はい」
俺は少し笑った。
吉乃も笑った。
なんだろう。
この人といると、妙に落ち着く。
「信長さま」
「はい?」
「今日は、お茶だけでなく、お菓子もございます」
「お菓子?」
「はい。昨日、母が作ったものですが」
「食べたいです!」
即答した。
吉乃が笑う。
「では、こちらへ」
*
吉乃の家で出されたのは、小さな餅だった。
甘い。
久しぶりに甘いものを食べた気がする。
「美味しい!」
「まあ」
「これ、すごく美味しいです」
吉乃が嬉しそうに笑った。
「信長さまは、何でも美味しそうに召し上がりますね」
「美味しいですから」
「ふふっ」
俺は餅をもう一つ口に入れた。
幸せだ。
戦もない。
槍の鍛錬もない。
濃姫もいない。
目の前には吉乃がいる。
最高じゃないか。
「信長さま」
「はい?」
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何ですか?」
吉乃が少し迷ったように目を伏せた。
「……奥方様がいらっしゃるのですよね?」
「…………」
餅が喉に詰まりかけた。
「げほっ!」
「信長さま!?」
「だ、大丈夫です!」
水を飲む。
落ち着け。
そうだ。
吉乃は知っている。
俺が結婚していることを。
「……はい」
俺は頷いた。
「濃姫という妻がいます」
「左様でございますか」
吉乃は少し寂しそうに笑った。
その表情を見て、胸が痛んだ。
「……吉乃さん」
「はい」
「俺は……」
何を言おうとしているんだ。
妻がいるのに。
まだ二人で会った回数だって少ないのに。
でも。
このまま何も言わずに帰るのは嫌だった。
「……また、会いに来てもいいですか?」
吉乃が俺を見た。
しばらく沈黙が続いた。
そして。
「はい」
小さく頷いた。
「お待ちしております」
俺は笑った。
吉乃も笑った。
でも。
その笑顔は、少しだけ寂しそうだった。
*
帰り道。
俺は考えていた。
濃姫は俺の妻だ。
吉乃は、俺が初めて好きになった人だ。
この時代なら、両方を大切にすることもできるのかもしれない。
でも。
俺はそんなに器用な人間じゃない。
誰かを傷つけずに恋をする方法なんて、知らない。
「……難しいな」
「何がでございます?」
家臣が聞いてきた。
「恋愛です」
「…………」
家臣が馬を止めた。
「若殿」
「はい」
「奥方様をお忘れなきよう」
「……分かってます」
本当に分かっている。
でも。
分かっていることと、気持ちを止められることは別だ。
俺は空を見上げた。
本能寺の変まで、あと三十三年。
歴史を変える方法は、まだ分からない。
それなのに。
俺は今、歴史よりも一人の女のことで頭がいっぱいだった。




