第14話:嫁がいるのに他の女に恋してしまったんだが!?
戦国時代に来てから、俺はずっと思っていた。
この時代には、まともな娯楽がない。
スマホもない。
ゲームもない。
漫画もない。
コンビニすらない。
おまけに、ちょっと油断すると人が死ぬ。
どう考えても住みにくすぎる。
そんなある日のことだった。
「若殿、本日は村々の様子をご覧いただきたく」
「村?」
「はい。先日の戦で被害を受けた村にございます」
俺は箸を止めた。
先日の戦。
初めて人を傷つけた、あの戦だ。
「……怪我した人は?」
「数名おりますが、命に別状はございませぬ」
「そうですか」
少し安心した。
「では、行きます」
「おお!」
家臣が嬉しそうに頷いた。
最近、俺が何か引き受けるたびに驚かれる。
本物の信長、普段どれだけ人の話を聞かなかったんだよ。
*
村は思っていたより賑やかだった。
田んぼが広がり、子供たちが走り回っている。
家々からは炊事の煙が上がっていた。
「……普通だな」
「何がでございます?」
「いえ」
戦国時代というと、もっと殺伐とした世界を想像していた。
でも、当たり前か。
この時代の人間だって、毎日戦っているわけじゃない。
飯を食う。
仕事をする。
子供を育てる。
笑う。
そうやって暮らしている。
「若殿!」
村の男が駆け寄ってきた。
「このたびは、賊徒を追い払っていただき、まことにありがとうございました!」
「いや、そんな」
「おかげで村が助かりました!」
男が深々と頭を下げる。
周囲の人々も次々に頭を下げた。
「…………」
居心地が悪い。
俺は別に英雄じゃない。
ただ死にたくなくて、必死に命令しただけだ。
「頭、上げてください」
「しかし若殿!」
「俺も怖かったですから」
「……は?」
「何でもありません」
危ない。
また余計なことを言った。
*
村を歩いていると、家臣が何やら話し込んでいた。
俺は手持ち無沙汰になり、近くの井戸へ向かった。
そこで。
「あっ!」
女の声がした。
振り返る。
若い女性が、水の入った桶を持ち上げようとしていた。
ところが、桶が傾いている。
「危ない!」
俺は反射的に手を伸ばした。
ばしゃっ!
「…………」
「…………」
水が全部、俺にかかった。
着物がびしょ濡れだ。
女が固まる。
「も、申し訳ございません!」
「いや、大丈夫です」
「お召し物が!」
「水ですから。乾きますよ」
俺は着物の袖を絞った。
冷たい。
でもまあ、血を浴びるよりはずっといい。
「お怪我はありませんか?」
俺が聞くと、女は目を丸くした。
「……私、ですか?」
「はい」
「ございませんが……」
「ならよかった」
俺は笑った。
女はしばらく俺を見つめていた。
そして。
「ふふっ」
笑った。
「……何ですか?」
「いえ。おかしなお方だと思いまして」
また言われた。
この時代に来てから、何人におかしな人間扱いされたんだろう。
「普通、怒るところではございませんか?」
「わざとじゃないんでしょう?」
「はい」
「じゃあ怒っても仕方ないですよ」
女がもう一度笑った。
不思議な笑い方だった。
濃姫のような、華やかで少し緊張する笑顔ではない。
もっと自然で。
見ているこちらまで、安心するような。
「……あ」
俺は女の顔を見た。
綺麗だった。
いや、濃姫も綺麗だ。
あの人は間違いなく美人だ。
でも。
目の前の女は、何というか。
怖くない。
これが大きかった。
「お名前を伺っても?」
思わず聞いていた。
「吉乃と申します」
「吉乃……」
俺はその名前を繰り返した。
「あなた様は?」
「え?」
そうか。
知らないのか。
俺は少し迷った。
「……信長です」
「信長さま?」
「はい」
吉乃は首を傾げた。
そして、俺の後ろを見る。
そこには、慌てて走ってくる家臣がいた。
「若殿!」
「…………」
あ。
「若殿! お召し物が濡れておりますぞ!」
「ちょっと水が」
「一体何が!」
家臣が吉乃を見る。
吉乃も家臣を見る。
そして。
「……若殿?」
吉乃の顔から血の気が引いた。
「も、もしや……」
「はい」
「織田家の……」
「……はい」
吉乃がその場に膝をついた。
「申し訳ございません!」
「ちょ、待って!」
俺は慌てた。
「頭上げてください!」
「知らぬこととはいえ、とんでもないご無礼を!」
「水かかっただけですって!」
「ですが!」
「俺、怒ってないので!」
吉乃は恐る恐る顔を上げた。
さっきまで普通に話していたのに。
急に距離ができてしまった。
……なんだよ。
せっかく普通に話せる人だったのに。
*
「若殿、あのような者にお声をかけられる必要はございませぬ」
帰り道。
家臣が言った。
「別にいいじゃないですか」
「しかし、身分というものが」
「水をかけられたくらいで怒りませんよ」
「左様な問題ではなく」
俺は聞き流した。
吉乃。
変わった人だった。
俺が信長だと知らない間は、普通に笑ってくれた。
怖がりもしなかった。
機嫌を取ろうともしなかった。
ただ、普通に話してくれた。
それだけなのに。
「……また会えるかな」
「何か仰せになりましたか?」
「何でもありません」
俺は前を向いた。
別に深い意味はない。
ただ、もう一度話してみたいと思っただけだ。
*
それから数日後。
俺はまた村へ行くことにした。
「若殿、またでございますか?」
「はい」
「先日、視察は済ませたはずですが」
「……まだ確認したいことが」
「何を?」
「井戸です」
「井戸?」
「はい」
家臣が怪訝そうな顔をした。
「井戸に何か問題でも?」
「……水が出るかどうか」
「出ておりますが」
「…………」
しまった。
理由が弱すぎた。
「とにかく行きます!」
*
村へ着くと、俺は真っ先に井戸へ向かった。
いた。
吉乃だ。
桶を持っている。
「吉乃さん」
声をかけると、吉乃が振り返った。
「あ……信長さま!」
慌てて頭を下げる。
「いいです、いいです」
「ですが」
「普通にしてください」
吉乃は困ったように笑った。
「普通に、と申されましても」
「この前みたいに」
「……水をかければよろしいのですか?」
「それはやめてください」
吉乃が笑った。
俺も笑った。
なんだ。
普通に話せるじゃないか。
「今日は、どうなさったのです?」
「井戸の様子を」
「井戸?」
「はい」
吉乃が井戸を見る。
俺も見る。
水がある。
当たり前だ。
「……問題なさそうですね」
「はい。毎日使っておりますから」
「ですよね」
沈黙。
何やってるんだ俺。
大学生の頃だって、こんな下手な口実で女の子に会いに行ったことはない。
そもそも女の子とまともに話したことがない。
「信長さま」
「はい?」
「本当は、井戸をご覧になりに来たのではないのでしょう?」
「…………」
バレた。
早すぎる。
「ええと……」
俺は頭を掻いた。
「また、お話ししたかったので」
言ってしまった。
吉乃が目を丸くする。
そして。
「まあ」
頬を少し赤くした。
「……私と、ですか?」
「はい」
吉乃はしばらく黙っていた。
まずかったか?
身分のある男が村の女にこんなことを言ったら、怖がられるのかもしれない。
「……迷惑でした?」
俺が聞くと、吉乃は首を横に振った。
「いいえ」
そして、笑った。
「嬉しゅうございます」
「…………」
心臓が跳ねた。
なんだこれ。
槍を向けられたときとは、全然違う。
怖くない。
むしろ。
もう少し、ここにいたい。
「信長さま」
「はい」
「お時間がございましたら、お茶でもいかがですか?」
「お茶?」
「粗末なものしかございませんが」
「ぜひ!」
即答した。
吉乃が笑う。
俺も笑った。
そのとき、俺は初めて思った。
戦国時代も、案外悪くないのかもしれない。
*
吉乃の家で出された茶は、少し苦かった。
でも、美味しかった。
吉乃は俺の話をよく聞いてくれた。
俺が村の暮らしについて質問すると、丁寧に教えてくれた。
俺が変なことを言うと、楽しそうに笑った。
そして何より。
俺が黙っていても、無理に話しかけてこなかった。
その沈黙が、妙に心地よかった。
「信長さま」
「はい?」
「また、お越しになりますか?」
俺は吉乃を見た。
「……来てもいいんですか?」
「もちろんでございます」
吉乃が微笑んだ。
「お待ちしております」
俺は頷いた。
「じゃあ、また来ます」
そう言って立ち上がった。
帰り際。
吉乃が小さく手を振った。
俺も振り返した。
家臣がものすごく不思議そうな顔をしていたけど、気にしない。
*
屋敷へ戻ると、濃姫が出迎えてくれた。
「信長さま」
「ただいま」
「本日も村へ?」
「はい」
「ずいぶんと熱心でいらっしゃいますね」
「まあ……」
濃姫が微笑む。
「何か、よいことでもございました?」
「え?」
「お顔が楽しそうです」
「…………」
そんなに分かりやすいのか。
「……ちょっと」
「まあ」
濃姫はそれ以上聞かなかった。
ただ、俺の袖をそっとつまんだ。
「今宵は、私ともお話ししてくださいませ」
「……はい」
俺は頷いた。
濃姫は優しい。
綺麗だし、最近はよく笑う。
俺を心配してくれる。
でも。
吉乃と話しているときのような気持ちには、まだなれなかった。
どうしてだろう。
俺にも分からない。
ただ。
その夜。
何とか誤魔化して夜伽を回避して布団に入ってからも、吉乃の笑顔が頭から離れなかった。
井戸の前で笑った顔。
茶を出してくれたときの顔。
帰り際に手を振ってくれた顔。
「…………」
俺は天井を見上げた。
もしかして。
これって。
「……恋?」
口に出した瞬間、恥ずかしくなった。
いやいや。
まだ二回しか会ってないだろ。
気が早すぎる。
俺は寝返りを打った。
目を閉じる。
でも。
やっぱり吉乃の顔が浮かぶ。
困った。
本能寺の変を防ぐ方法だって、まだ分からないのに。
どうやら俺は、嫁のいる身で初恋をしてしまったらしい。




