第10話:ビビりゆえのチキンな戦術指揮が大当たりだったんだが!?
馬が揺れる。
ものすごく揺れる。
「…………」
俺は手綱を握りしめていた。
前には何十人もの男たち。
槍。
弓。
刀。
具足。
さっきまで屋敷にいたのに。
今から本当に人間同士で殺し合うらしい。
俺だけ現実感がない。
「若殿」
「はい」
「お顔の色が優れませぬが」
「気のせいです」
「震えておられますぞ」
「馬が揺れてるんです」
「今、止まっております」
「…………」
俺は前だけを見た。
帰りたい。
さっき濃姫が待っていると言ってくれた。
だったらなおさら帰りたい。
死にたくない。
絶対に。
「敵方が見えました!」
前方から声が上がった。
心臓が跳ねた。
遠くに人影がある。
一人。
二人。
いや。
もっといる。
全員、武器を持っていた。
「…………」
ゲームじゃない。
映画でもない。
人間だ。
あいつらは、本当に俺を殺せる。
「若殿、ご命令を」
「…………」
「若殿?」
分からない。
俺に聞くな。
俺は中田龍之介だぞ。
大学生だ。
合戦の指揮なんてやったことがない。
「……相手は何人ですか?」
「およそ五十」
「こっちは?」
「八十余り」
数では勝っている。
だからといって安心できない。
桶狭間の戦いだって、少ない側が勝った。
……待てよ。
桶狭間?
俺、それをやる側になるんだよな。
嫌だ。
未来のことを考えたら胃が痛くなってきた。
「若殿?」
「あ、すみません」
今は目の前の敵だ。
「向こうの後ろはどうなってます?」
「後ろ?」
「地形です」
家臣が少し驚いた顔をする。
「林がございます。その先には川が」
「……林?」
俺は遠くを見る。
木々が並んでいる。
嫌だな。
ものすごく嫌だ。
「林の中、調べました?」
「偵察は出しております」
「誰もいない?」
「そのように聞いておりますが」
「もう一回調べてください」
「しかし若殿」
「お願いします」
家臣が怪訝そうな顔をする。
仕方ないだろ。
怖いんだから。
五十人と言われても信用できない。
本当は百人いるかもしれない。
林の中から突然、
「うおおお!」
とか言って出てきたらどうする。
本能寺でもそうだった。
気づいたときには囲まれていた。
逃げ道がない状況だけは、二度と御免だ。
「それと」
「はい」
「後ろにも兵を残してください」
「後方に?」
「はい」
「何のために?」
「……逃げ道です」
「は?」
「退路を確保しておきたいので」
家臣たちが顔を見合わせた。
何だよ。
「負けそうになってから逃げ道を探したって遅いでしょう」
「……なるほど」
家臣が妙に感心している。
違う。
俺は戦術を語っているんじゃない。
ただ逃げる準備をしているだけだ。
*
しばらくして、偵察に出した男が戻ってきた。
「申し上げます!」
「はい!」
俺の返事まで緊張している。
「林の中に、十数名ほどの兵が潜んでおります!」
「ほらぁ!!」
思わず叫んだ。
いるじゃねえか!
「若殿……」
隣の家臣が俺を見る。
「何ですか?」
「よくぞお気づきになられました」
「怖かっただけです」
「は?」
「何でもありません」
危なかった。
もしそのまま突っ込んでいたら、横から襲われていたかもしれない。
「若殿、いかがいたします?」
「…………」
また俺?
俺は林を見る。
敵は俺たちが伏兵に気づいていないと思っている。
なら。
「林には近づきません」
「では、正面より攻めますか?」
「それも嫌です」
「……では?」
そんな顔するな。
考えてるから。
「弓って、ここから届きます?」
「もう少し進めば射程に入ります」
「じゃあ、そこまで」
「その後は?」
「止まります」
「止まる?」
「はい」
俺は敵を見る。
「向こうから来てもらいましょう」
*
兵がゆっくり前進する。
俺も馬を進める。
怖い。
逃げたい。
敵の顔が少しずつ見える。
槍の穂先が光った。
「…………っ」
胃が痛い。
「若殿、射程に入ります!」
「まだ」
もう少し。
「若殿!」
「まだ……」
敵がこちらへ向かって動き出す。
怖い。
でも。
ここで逃げたら、後ろにいる人間が代わりに戦う。
「今!」
「放て!」
家臣の号令が響いた。
一斉に矢が飛んだ。
空を黒い影が走る。
次の瞬間。
「ぐあっ!」
悲鳴が聞こえた。
人が倒れる。
「…………」
息が止まった。
俺の命令で。
人が傷ついた。
もしかしたら死んだ。
吐きそうになった。
だけど。
「敵が退きます!」
敵兵が林へ向かって走り始める。
「追撃を!」
「駄目!」
俺は叫んだ。
「追わないで!」
「しかし若殿、今なら!」
「林に伏兵がいるんでしょう!?」
家臣が止まった。
「ここで待ちます」
敵が林へ逃げ込む。
俺たちは動かない。
静かになった。
しばらくして。
林の中から、男たちが姿を現した。
伏兵だ。
俺たちが追ってこないから、向こうから出てきたらしい。
「……弓」
「放て!」
再び矢が飛ぶ。
敵が崩れた。
林から出てきた兵が引き返す。
正面の兵も散り散りになって逃げ始めた。
「勝ちにございます!」
歓声が上がった。
「若殿、お見事!」
「伏兵を見抜かれるとは!」
「深追いを避けたご判断も見事にございます!」
「いや……」
違う。
俺は何も見抜いていない。
林が怖かった。
伏兵が怖かった。
追撃が怖かった。
死ぬのが怖かった。
危なそうなことを全部避けただけだ。
なのに。
「さすが若殿!」
「これぞ大将の器!」
やめて。
期待値を上げないで。
次もできると思わないで。
*
帰り道。
兵たちは上機嫌だった。
俺だけが黙って馬に揺られていた。
勝った。
初陣に勝った。
でも。
嬉しくない。
頭から離れなかった。
矢が刺さって倒れた男。
俺と同じ人間だった。
あいつにも家族がいるのかもしれない。
俺の命令がなければ、今日死ななかったかもしれない。
「若殿」
「……はい」
「いかがなされました?」
「何でもないです」
俺は前を向いた。
昨日までの俺は、
誰にも恨まれなければ、本能寺の変は起きない。
そんな単純なことを考えていた。
でも。
今日だけで、俺を恨む人間は増えたはずだ。
俺が戦を嫌っても。
向こうから攻めてくることはある。
俺が人を殺したくなくても。
何もしなければ、俺の代わりに家臣や領民が殺される。
「…………」
戦国時代。
思っていたよりずっと面倒くさい。
それでも。
俺は死にたくない。
できれば、俺の周りの人間にも死んでほしくない。
だったら次は。
今日よりもう少し、うまくやるしかない。
俺は手綱を握り直した。
本能寺の変まで、あと三十三年。
先は長い。
どうやら平和に長生きするためには、戦から逃げているだけじゃ駄目らしい。




