怪の六 捨てベロス
「なに…!?今なにかが足元を…!?」
戸惑う美怜の視線の先には、四つん這いで矢のように駆けていくヒトベロス。視えているわけじゃなくて、吹き抜けた風の先を目で追っているのだと思う。
ヒトベロスは生物ではありえないほどの加速をして、子犬の首を後ろからくわえて持ちあげるとバイクの車輪が届く間一髪のところでアスファルトを蹴った。
バイクはついさっきまで子犬がいたところをエンジン音を響かせて走り去っていった。
えっ、なにこれ、まさかヒトベロスが子犬を助けたの。
こんな邪悪な顔をして、こいつ意外といいやつなのか。
雨の日に子犬を拾うヤンキーを見たとき、人はきっとこんなえも言われぬ気持ちになるに違いない。
「ひいいいぃぃ!」
ほっこりした気持ちに水を差す、美怜の鮮やかな悲鳴。
美怜の足元にはおすわりして首をかしげるヒトベロスと、ヒトベロスにくわえられて同じように首をかしげている子犬。不気味さとかわいさの不協和音。
美怜からしたら急に子犬が目の前にワープして浮いているようにしか視えないだろう。そりゃ悲鳴も上げる。
それにしてもどうしよう。はじめてちょっとだけ、ヒトベロスがかわいく見えてしまっている。子犬との相乗効果、おそるべし。
「ひ、ひかり、ししし、信じてもらえないと思うんだけど、あああ、足元に、ここ、子犬を口にくわえた、名状しがたい生物があ…!」
ガクガクブルブル震えながら、美怜はわたしの腕にぎゅっとしがみついてきた。腕にポヨンと当たる胸の感覚が憎らしい。
「うんうん、わかるよ美怜。ほんと名状しがたい生物だけど、たぶん根は悪いやつじゃない、ってあれ?」
落ち着かせるように美怜の頭をなでながら、わたしも首をかしげた。
「美怜にも視えてるの、ヒトベロス?」
「なんでそんなに落ち着いてるのひかり!?それにヒトベロスってなに!?この子の名前なの!?たしかに顔は三つあるけどもお!」
驚いた、これは本当に視えている。ついさっきまで視えていなかったのに、いったいなぜ。そんな急にテレビのスイッチが入ったみたいに視えるようになることがあるのだろうか。
「まあまあ、落ち着いて美怜。とりあえず子犬を受け取ってあげたらどう。いつまでも宙吊りで、あんなのにくわえられてちゃかわいそうだよ」
「あっ、えっ、ごめん。それもそうだね。えっと、ありがとね、ヒトベロスさん」
美怜はへっぴり腰でヒトベロスから子犬を受け取って胸元に抱いた。子犬は美怜に興味津々な様子で、口元に鼻を寄せてフンフンとにおいを嗅いでペロッと舐めている。なんて心温まる光景だろう。
受け取るときについでに手とか舐めてきそうだったから美怜に任せたけど、ヒトベロスは顔に似合わず紳士的で大人しく子犬を受け渡した。
見かけほどヤバイやつではなかったのかもしれない。それなのにごめんね、邪悪なものと決めつけてお塩いっぱいかけちゃって。でも愉快なお友だちが増えたから、きっとイーブンだよね。
ヒトベロスは美怜とだっこされた子犬を見て踵を返し、ひたひたと歩いていった。
「あっ、消えちゃった」
「えっ、何が?」
「ヒトベロスさんだよ。ひかりにも視えてるんでしょ。光がパッと差し込んで、成仏するみたいにすうって溶けてったじゃん。きっとこの子を助けて、使命を果たしたんだね」
美怜は瞳を潤ませて、ぎゅっと子犬を抱きしめている。美談を語るように感動的に、一件落着したかのように。
この子はいったいなにを言っているんだろう。
「でもあれ…」
ヒトベロスは子犬が入っていた段ボール箱をくわえて起こして元々あった電信柱の下まで引きずり、その中にギュウギュウ詰めになっておすわりしている。まるで誰かが拾ってくれるのを待っているかのように。
美怜には捨て犬ならぬ捨てベロスが視えていないのだろうか。
「よし決めた!せっかくヒトベロスさんが助けてくれたんだもの、これも何かの縁!今日から君はうちの子だ!」
「あんっ!」
あっ、視えてないな、これ。ライオンカイザーの有名なシーンみたいに、両手で高々と子犬を掲げているもの。
子犬も元気に鳴いて応えて、もうすっかり一人と一匹の世界に入ってしまっている。
さっきまではヒトベロスが視えていたのに、今はもう視えていない様子。いったいなぜ。
子犬をくわえているおばけは視えるとか、ってそんな特殊な条件なわけないか。それだと美怜が視ているおばけはいつも子犬をくわえていることになる。それはすごくシュールだ。
うーん、考えてもわかりそうにないな。とりあえず美怜にもほんのり視えていることがわかったので、それでよしとしよう。
確かに美怜には、普通じゃないものが視えているときがある。
幼なじみで親友の美怜がウソつきじゃないとわかってよかった。
自称霊感少女なんて疑ってごめんね、美怜。あんたは立派なほんのり霊感少女だよ。
「天国に行ったヒトベロスさんの分まで強く生きるんだよ!キナコ!」
「あんっ!」
美怜はまだ成仏していないヒトベロスを図々しく天に送り、子犬に名前まで付けている。
まあ、子犬もほおずりする美怜の顔を嬉しそうに舐めてるし、いっか。うん、幸せな光景。言う事なしのハッピーエンドで一件落着だ。
電信柱の下の箱入りベロスを見てはならないぞ、わたし。
と言い聞かせると気になってしまうもので、子犬をだっこして歩き出した美怜と並んで歩きながら、ちょっとだけ振り向いてしまった。
段ボールに入ったヒトベロスは、道行く人々を心なしか期待のこもった眼差しで追いかけている。だけど誰もヒトベロスに気がつく様子はない。
電信柱の下のひしゃげた段ボールはちょっと不気味に見えるのか、誰もが避けるようにちょっと距離を取りながら通り過ぎてゆく。
ヒトベロスは通り過ぎてゆく人々を追いかけるようなことはせず、大人しく段ボール箱の中に収まっていた。
誰からも視つけられることなく、ただただ道行く人々をじっと見上げているだけ。
いつか誰かがヒトベロスを視つけたとして、それで拾ってくれるなんてこと万に一つもないと思うけど、それでも、いつか心優しい人に巡り会えるといいね。
心優しくないわたしは今後なるべく、できうる限りこの道は通らないようにしようと固く誓った。
「あっ、美怜。この道はもうあんまり通らないほうがいいと思うよ」
歩きながらついでに美怜にも注意しておくことにした。
「えっ、どうして?」
首を傾げる美怜の腕の中で、キナコも一緒に首を傾げている。かわいさのハーモニー。
「この道、明日から鬼門で大殺界になるから」
「何その不吉な単語の二重奏は!?」
「稲川淳一がラジオで言ってた」
「へえすごいねえ、さすが稲川淳一。キナコの散歩コースにしようと思ってたけどやめとこ」
稲川淳一の名前を出せば美怜はだいたい信じる。チョロい。
「というかひかり、どうしていきなり視えるようになったの?」
「えっとそれは…」
まさか稲川淳一のラジオを聴いてたおかげだと言ってもごまかせないだろうし、正直に打ち明けた。
「へえー、こっそりそんなおまじないしてたんだ。ひかり、油断も隙もない女…」
「ふふふ」
「でも何でそんなことを?視えてもあんまり、いいことってないよ…」
ギュッとキナコを抱きしめる美怜の顔が悲しげな色を帯び、美怜を見上げるキナコがくうんと悲しげに鳴いた。
今では落ち着いているが、視えるせいで美怜は小中と浮きっぱなしだった。美怜は危険なものが視えると自分の身を、あるいは誰かの身を守るために、突飛な行動を取ることが多かった。
そのせいで不思議ちゃんとか、イタコをもじって痛子ちゃんとか影で呼ばれていた。
だからわたしにも視えるようになれば、少しでも美怜の負担を減らせるんじゃないかと思って、おまじないをした。
「別に、ただの好奇心だよ。視えないより視えた方がおもしろそうじゃん」
でもそんなこと面と向かって言えないからごまかした。だって恥ずかしいし。
「なんだ、そんな理由かあ。でもひかりらしいな」
くすくす笑う美怜に合わせて笑いながら、わたしは軽く言った。
「まあそういうわけだからさ、これからはなんでも話してよ。わたしにも美怜と同じものが、視えるようになったんだから」
たぶんわたしは美怜以上に視えているのだろうけど、それは言わないほうがいいだろう。
優しい美怜は、きっと心配してしまうから。
「ひかり…」
美怜は立ち止まって大きい目を見開いてぱちくりとさせ、じんわり潤ませた。涙の滲んだ琥珀の瞳はどんな宝石よりもキラキラと輝いている。
ヤバい、この反応は悟られたかもしれない。
恥ずかしくなって早足で歩き出すと美怜もついてきて横に並び、軽く肩をぶつけてきた。
「なに、ぶつかりおじさん」
「ひどい!おじさんじゃなくてぶつかりJKだもん!」
「はいはい」
「あっ、ひかりもぶつかりおじさんじゃん!」
「おじさんじゃなくてJKですう」
肩をぶつけあって歩くわたしたちに呆れたように、美怜にだっこされたキナコが大きくあくびをした。




