怪の四 アルティメットヒトベロス
右手にお塩の入った赤いキャップの小瓶、左手には一息で飲み干して空になったコップを持って、わたしは満月堂の前の歩道に置かれたベンチにぽつんと座っていた。上にはアーケードがあって、日差しが当たらないのがありがたい。
気が触れたような大騒ぎをしてしまったせいで、満月焼きを買うために並んでいる人たちからチラチラと見られている。恥ずかしい。塩を頭からかぶって、ナメクジみたいにドロドロに溶けてしまいたいくらい恥ずかしい。
でもやさしそうなおばあちゃんが、「あなただいじょうぶ?熱中症には気をつけるんだよ」と、塩飴を三つ手をぎゅっと握って渡してくれたのには涙が出そうなくらい安堵した。
おばあちゃんの手のぬくもりほど癒されるものはない。
「お待たせひかりー」
にこやかに小走りしてくる美怜の手には焼き立てほやほやの満月焼きの入った茶色い紙袋。その足元には紙袋をガン見しながらついてくるヒトベロス。
いつまでたっても見慣れない、相も変わらず不気味なそのフォルム。
騒動に紛れて消えたりとか、そんな気の利いたことはしてくれないようだ。
豚バラの脂くらい手強くてしつこい。
だけどお前の不埒な悪行三昧もそろそろ年貢の納めどきだ。冷静に思い返してさほどの悪行は働いてないけど、ここまでだ。なぜなら私の手の内には、この赤いキャップのホーリーソルトがあるのだから。
お塩よりも除霊効果が高まりそうだから、内心でホーリーソルトと呼ぶことにした。こういうのってたぶん、気の持ちようが大事な気がするから。
「ありがと、美怜」
「でもだいじょぶ?体調悪いならムリに食べないほうがいいんじゃないの?」
美怜はわたしの右隣に座り、気遣わしげな目を向けてくる。ヒトベロスは飼い犬のようなポジションで美怜の前におすわりしている。
「平気平気、水飲んで塩舐めたらすっかりよくなったよ」
砂糖だったらまずいと思い念のため手に出して舐めてみたら、まごうことなき塩だった。少量でもしょっぱい、頼もしいホーリーソルトだった。
だけどひとつ問題がある。
どうやってこのホーリーソルトをヒトベロスにかければいいのだろう。
美怜の足元におすわりしてるヒトベロスにおもむろに振りかけたら、急に何もないところに塩を振りかけるヤバイやつになってしまう。
それは困る。できれば何かにかこつけてホーリーソルトアタックしたい。
「お塩効果絶大だね。じゃあはんぶんこして食べよっか。どっちから食べる?」
「あんこがいいなあ」
とりあえずあんこで糖分補給。つぶあんは疲れた脳を救う。
「やっぱホクホクアツアツのあんこだよねえ。はい、ひかり」
「ありがと、美怜」
美怜がパカッと半分に割ってくれた満月焼きを受け取る。手に持つとほんのりあたたかく、あんこのほっこりする香りがふわりと漂う。
「うーん、おいしーい。ホクホクのつぶあんがたまらん」
いい顔になって足をバタバタさせる美怜は超絶かわいい。ヒトベロスのせいで爛れた精神が回復していく。
その足元で、美怜を見上げるヒトベロスがおねだりする犬のように手(それとも前足?)をパタパタさせている。半開きになった口からは粘度の高いよだれをヌタヌタと垂らして気持ち悪いことこの上ない。
なんという天国と地獄の絵面。
「んっ?どうしたのひかり?食べないの?あっ、それともやっぱり体調悪い?」
「ううん、だいじょぶ。ちょっと天国と地獄について考えてただけだから」
「急にどうしたの!?まさか生死に関わるほどの難病を抱えてたの!?」
美怜が泣きそうに目を潤ませている。しまった、変な誤解をさせてしまった。
「いやいや!違う違う!えっとね、そう、おまじない!流行りのおまじないなの!」
「おまじない?」
首をかしげる美怜の目が興味に光った。自称霊感少女のせいか、美怜は昔からおまじないの類が大好きだ。
「そうそう、おまじない。ちょっと手を出して広げてみて」
「こう?」
「そうそう」
広げられた美怜の手のひらに、ザアザアとホーリーソルトを山盛りにした。信心深い人の盛り塩くらい盛った。
「ちょっとひかり!?こんなにお塩出してどうするの!?私がナメクジだったら溶けてるよ!」
「まあまあ、美怜はナメクジじゃないから落ち着いて聞いて。このお塩を握りしめてね、腕を前に伸ばしてサラサラって落とすの」
そうすればヒトベロスにジャストミートするし。
「それで落としたお塩が右に流れたら天国行き、左に流れたら地獄行きっておまじない」
「へえ、なんか変わったおまじないだね」
「でもけっこう当たるんだって、稲川淳一が言ってたよ」
「あっ、なんか聞いたことある。たしか怪談で有名な人だよね。それなら当たるかも」
「そうそう、一緒にやってみよ」
我ながらよくもまあ口からデマカセが出るものだと感心する。美怜は素直に信じてくれてるみたいでちょっと心が痛む。
しかしこれもヒトベロスを祓うためだから致し方ない。
わたしも自分の手にホーリーソルトを山盛りにして握りしめた。お塩のつぶつぶ感を生まれて初めて頼もしいと感じた。
さあお前との楽しいお散歩もここまでだ。念仏でも唱えるんだな、ヒトベロス。
「じゃあせーので落とそ」
「うん。こういうのって久しぶりだね。なんかちょっとドキドキしちゃうなあ」
楽しそうに笑う美怜に良心が痛む。
でもこれは必要なことなんだと割り切り、わたしは腕を振りかぶった。
「どっせぇい!」
そして掛け声とともに右斜め前、ヒトベロスの方角に鬼は外くらいの勢いで振り下ろした。
満月焼きの入った紙袋を見つめていたヒトベロスにホーリーソルトはジャストミート。
「そんな渾身の力で!?」
驚愕する美怜にわたしは平然とこたえる。
「こういうのって自分の意志で掴み取るものだから」
「お相撲さんの土俵入りみたいな勢いだったよ。おまじないってもっとかわいいものだったような…」
「そういうものだから。さっ、美怜も思いっきり撒いて」
ホーリーソルトを浴びたヒトベロスの顔は塩漬けのナメクジみたいにドロドロに溶けて、もう見ていられないくらいの惨状になっている。しばらくお肉を食べられそうにないくらいグロい。
まさか普通のお塩にこんな除霊効果があるなんて思いもしなかった。昔から伝わっていることってちゃんと意味があるんだなあ。
それはともかく、ヒトベロスはもう虫の息だ。チャンスは今しかない。
「あと一押しでトドメを…おまじないを完遂できるから」
「いまさらりとトドメって言ったよね!?しかもおまじないを完遂ってなに!?悪魔の契約みたいで怖いんだけど!」
「あっ」
涙目になる美怜の手からホーリーソルトが零れ落ちて、サラサラとヒトベロスに降り注いだ。
純白のホーリーソルトは夕日を浴びてキラキラと輝きながら、ヒトベロスの醜い顔を溶かしてゆく。ジュワジュワゴポゴポという音が聞こえてきそうなくらいの勢いで猛烈に溶かしていく。
ほんとすごいなホーリーソルト。すごすぎてちょっと引く。悪霊退散どころか悪霊滅殺だ。
顔が完全に溶けたヒトベロスは地面に崩れ落ち、四肢をピクピクと痙攣させている。念入りに殺虫剤を噴射したアレみたいに。
「もう、ひかりが変なこと言うからこぼしちゃったじゃん。それでこれはどっちなの?天国、それとも地獄?」
眉をひそめて聞く美怜の肩をポンとたたき、グッと親指を立てた。
「だいじょうぶ、天国へ旅立ったよ」
「なにがあ!?なにが旅立ったのお!?」
それからわたしはてきとうに美怜をあしらって、カスタード味の満月焼きをはんぶんこして食べた。
美怜を魔の手から守った満足感もあって、今日の満月焼きは格別の味だった。
足元にヒトベロスの死骸(?)が転がっていなければ、もっと美味しかっただろうに。
こういうのってこう、すうっと空気に溶けたり、砂みたいに崩れるイメージがあったけどそのまま残るものなんだ。
後始末とか誰がするんだろう。こんなのがお店の前に転がっていたら、満月堂さんはいい迷惑だろうに。招き猫と真逆の人除け効果がありそう。
まあいっか、視える人なんてそうそういないみたいだし。
グッバイヒトベロス、安らかに眠ってね。
穏やかな気持ちで別れを告げて帰ろうとすると、ヒトベロスの死骸が授業中に寝てた人が跳ねるみたいにビクッと痙攣した。
「ひぃっ!?」
えっ、なに、やめてよ。脅かさないでよ。声出ちゃったじゃん。
「どうしたのひかり?」
先にベンチから立ち上がっていた美怜が不思議そうな顔をしている。
「う、ううん、なんでもな」
わたしは言葉を続けられずに凍りついた。
ビクビクと痙攣するヒトベロスの首元の肉がキノコの群れみたいにモコモコと膨れ上がり、それが顔になっていったから。
それも二つじゃなくて、今度は三つ。二つ並んだ顔の上にもう一つの顔がプラスされて、この世で最もおぞましい、負のトライフォースを形成している。
三つ首の完全体となったヒトベロスはニタアと笑った。
こめかみのあたりまで続く大きな口をガパっと開けて、地獄の蓋が開いたみたいに笑った。
ああ、どうしよう。わたしの浅はかな素人考えのせいで、アルティメットヒトベロスが誕生してしまった。




