026 感謝と尊敬と、誰も知らない恋娘
カジノフロアから響いてくるルーレットの回転音と、客たちの歓声。
そして、はるか地下深くから微かに伝わってくる、魔石発電所のタービンの重低音。
ハルは、玉座の隣に置かれた自分用のパイプ椅子に深く腰掛け、大きく伸びをした。
「はあー……。発電所も自動化できたし、今日は珍しく暇だなあ」
ハルが首の骨をポキポキと鳴らしていると、甘い花のような香りが鼻をくすぐった。
「お疲れ様ですわ、ハル」
リンが、湯気を立てるティーカップを二つ乗せた銀色のトレイを持って歩み寄ってくる。
彼女はハルの隣の小さな丸テーブルにトレイを置き、その碧い瞳でハルをじっと見つめた。
「お、サンキュー、リンちゃん。苔茶?」
「いいえ、今日は特別に、異世界の茶葉で淹れたアップルティーですわ」
リンが微笑み、ハルにカップを手渡す。
ハルが一口飲むと、りんごの甘酸っぱい香りと、蜂蜜のようなコクが口いっぱいに広がった。
「美味い。……って、うおっ!?」
ハルがカップを下ろした瞬間。
リンがパイプ椅子の肘掛けに手を突き、そのままハルの膝の上へと滑り込んできた。
「ちょ、リンちゃん!?」
「ふふっ」
リンはハルの膝の上に横座りになり、両腕をハルの首にふわりと回した。
彼女の金色の髪がハルの頬をくすぐり、細く柔らかい太ももの感触が、ズボンの布地越しに直接伝わってくる。
「ど、どうしたのさ、急に」
ハルは両手の行き場を失い、宙でバタバタと泳がせた。
「ただ、ハルの顔を近くで見たかっただけですわ」
リンが、ハルの胸元に自分の耳を押し当てる。
トクン、トクン。
ハルの心臓の音が、嫌でも彼女に伝わってしまう距離だ。
「ハルが来てから、わたくしのダンジョンは、誰も見たことがないほど巨大で、豊かになりました」
リンの白い指先が、ハルの作業着の襟元を優しくなぞる。
「あなたがツルハシを振るい、人間たちを集め、莫大な魔力を生み出してくれた。ハルは、わたくしの……ううん、この国の、たった一人の王様ですわ」
リンが顔を上げ、至近距離でハルを見つめる。
吐息が交じるほどの距離。
彼女の長く美しいまつ毛が、瞬くたびに空気を震わせる。
「……ボクはただ、自分が一番楽しくて快適な場所を作りたかっただけだよ」
ハルは照れ隠しに視線をそらし、宙に浮いていた右手を、そっとリンの背中に添えた。
「それでも構いませんわ。わたくしは、そんなあなたの隣にずっといたいですの」
リンは目を閉じ、ハルの肩に自分の頬をすり寄せた。
布越しに伝わる、驚くほど温かい体温。
ハルはしばらくの間、甘いりんごの香りに包まれながら、膝の上の柔らかい重みを静かに受け止めていた。
◇
数十分後。
ハルは、熱くなった顔を冷ますように、ダンジョンの奥の建築資材置き場へと足を向けていた。
ヒンヤリとした地下の空気が、火照った頬を撫でていく。
「……あれ?」
資材置き場のコンクリートブロックの上に、見慣れた人影があった。
漆黒の夜会服を着た吸血鬼、パイだ。
彼女はいつものように頭にタオルを巻くこともなく、美しい銀色の髪を背中に長く垂らし、手元の図面をじっと見つめている。
「パイ、休憩中か?」
ハルが声をかけると、パイは肩をビクッと震わせ、慌てて図面を丸めた。
「マ、マスター……! 申し訳ありません、お出迎えもせずに」
パイがコンクリートブロックから飛び降り、ハルの前に歩み寄る。
「いや、いいよ。いつも泥だらけになって現場監督やってくれて、感謝してるのはボクの方だからさ」
ハルが笑って右手を差し出す。
パイはその手を見ると、ハッとして息を呑んだ。
そして、長いスカートの裾を両手でつまみ、その場に深く膝をついた。
「パ、パイ?」
パイは膝立ちのまま、ハルの差し出された右手の下から、自分の冷たく白い両手を添えた。
そのまま、ハルの右手を自分の顔の前へと引き寄せる。
「マスター。この手は、数え切れないほどの岩を砕き、この巨大な帝国をゼロから組み上げた、至高の創造主の手です」
パイの赤い瞳が、ハルの手のひらにある分厚いマメと、無数の擦り傷を愛おしそうに見つめている。
「ボクはただのフリーター上がりだよ。力仕事しか取り柄がなかっただけさ」
「ご謙遜を。あなたは魔物だけでなく、人間の欲望や、物理の法則すらも完全に支配しておられる。私のような吸血鬼が、これほどまでに心から平伏したいと思える相手は、後にも先にもマスターだけです」
パイが、目を細める。
そして彼女は、ハルのごつごつとした手の甲に、自分の冷たい唇をそっと押し当てた。
チュッ。
「うおっ……」
ハルの背筋に、氷のような冷たさと、電流のような痺れが同時に突き抜けた。
パイの唇はひんやりと冷たく、しかし確かに柔らかい。
彼女の銀髪から、微かな血の匂いと、古い洋書のような甘い香りが漂ってくる。
「この身も、この牙も、すべてはマスターの御心のままに」
パイは唇を離し、ハルの手の甲に自分の頬をすり寄せた。
忠誠と、それを超えた熱烈な敬意。
ハルは、自分の手がパイの頬の冷たさにじんわりと温められていくのを感じながら、ただ黙って彼女の銀髪を見下ろしていた。
◇
「なんか、今日はみんな距離が近いな……」
ハルは、自分の右手を左手でさすりながら、第一総合病院のガラス扉を押し開けた。
消毒液の清潔な匂いと、微かなクラシック音楽がエントランスを満たしている。
ハルはエレベーターに乗り、最上階の院長室へと向かった。
コンコン。
「クロさん、入るよ」
ハルが重い木の扉を開けると、広々とした院長室の奥にある革張りのソファで、黒目が丸くなっていた。
「……ん……社長……」
黒目が、ソファからゆっくりと身を起こす。
いつものような、死んだ魚のような目ではない。
目の下の真っ黒な隈はすっかり消え去り、青白かった頬には健康的な血色が戻っている。
「よく眠れたみたいだね。粉砕機のおかげで、患者の数も減っただろ?」
ハルが、部屋の隅にあるウォーターサーバーから紙コップに水を汲み、黒目に手渡す。
「はい。夜勤の先生たちが優秀なので、私は昨日の夜から、一度も起こされずに十二時間も寝てしまいました」
黒目が、紙コップを両手で包み込むように持って水を飲む。
コクッ、コクッ。
喉が動く音が聞こえるほど、室内は静かだった。
「そっか。それならよかった」
ハルが隣のソファに腰を下ろそうとした瞬間。
グイッ。
黒目が、ハルの作業着の袖を強く引っ張った。
「えっ?」
ハルはバランスを崩し、黒目のすぐ隣、肩が触れ合うほどの距離にドスンと座り込んでしまった。
「クロさん?」
「……社長」
黒目が、空になった紙コップをテーブルに置き、ハルの右腕に両手でしがみついてきた。
「ちょ、クロさんまでどうしたの!?」
「……社長は、本当に無茶苦茶です。カジノを作ったり、無理やり発電所を作ったり。私の仕事も、そのたびに限界を超えて増えました」
黒目が、ハルの腕に自分の額を押し当てる。
白衣越しに、彼女の温かい体温と、甘いシャンプーの香りが伝わってくる。
「ご、ごめん。でも、今はちゃんと休める体制に……」
「わかっています」
黒目が顔を上げ、ハルの目を真っ直ぐに見つめた。
「社長は、私を使い潰すつもりじゃないって。だから、こんな立派な病院を作ってくれて、優秀なスタッフを雇ってくれたんですよね」
黒目の瞳が、微かに潤んでいる。
「……私、田舎の病院で安い給料で働いていた頃より、今のほうがずっと幸せです。社長のおかげです」
黒目はそう言うと、ふたたびハルの肩に自分の頭をコテンと乗せた。
「クロさん……」
ハルは、自分の肩に預けられた心地よい重みを感じながら。
今日三回目の、甘く不思議な沈黙に身を委ねるしかなかった。
◇
「ふう……。なんだか、今日は精神的にすごく疲れたぞ……」
深夜。
ダンジョンの岩壁に穿たれた、ハル専用のカプセルホテル型の横穴。
ハルは作業着を脱ぎ捨て、Tシャツとハーフパンツ姿で、その横穴へと這い込んだ。
そこには、部屋の床一面を覆い尽くすほどの巨大な青スライムが、平たく伸びて待機していた。
毎日ハルの汗や皮脂、疲労を食べてくれる、ハル専用のベッド代わりのスライムだ。
ハルは心の中で、密かに彼女(?)を『スラ美』と呼んでいた。
「頼むぞ、スラ美。今日も全身マッサージしてくれ……」
ぽすん。
ハルが青いゼリーの海に仰向けに倒れ込む。
ひんやりとした、しかし決して冷たすぎない極上の感触。
スライムの表面がハルの体のラインに合わせて沈み込み、全身を優しく包み込む。
スライムが微かに波打ち、ハルの毛穴から老廃物を吸い出し始める。
「ああっ……。これだよこれ……。やっぱり、お前が一番落ち着く……」
ハルは深く息を吐き出し、ゆっくりと目を閉じた。
リンの甘い香りも、パイの冷たい唇も、黒目の温かい重みも。
すべてが心地よい疲労となって、スライムの中に溶け出していく。
やがて、ハルの呼吸は規則正しくなり、深い眠りへと落ちていった。
スゥ……スゥ……。
ハルの寝息だけが響く、狭く静かな岩穴の中。
ぽよんっ。
ハルを包み込んでいた巨大な青スライムが、不意に、微かに震えた。
ジュワァァァ……。
青いゼリーの表面が、まるで沸騰するように泡立つ。
スライムの質量が中央へと集まり、上へ上へと盛り上がっていく。
丸い頭部。
細い首。
なだらかな肩のライン。
柔らかなふくらみを持つ胸。
くびれた腰と、長く伸びた足。
それは、ほんの数十秒の出来事だった。
ベッドだったはずの巨大なスライムは、透き通るような青い髪と、抜けるように白い肌を持つ、一人の美しい少女の姿へと変貌を遂げていた。
彼女は、一糸まとわぬ姿のまま、眠っているハルの隣にそっと横たわる。
「……」
少女は声を発しない。
ただ、その水のように澄んだ青い瞳で、ハルの寝顔を愛おしそうに見つめている。
スッ。
少女の青く透き通った指先が、ハルの頬に触れる。
ゼリーのような冷たさは消え失せ、そこには確かに、人間の肌と同じような温もりが宿っていた。
少女はゆっくりとハルの布団の中に滑り込み、その細い腕を、ハルの首元に回した。
ぎゅっ。
ハルの広い背中に、少女の柔らかな胸が押し当てられる。
「ん……」
ハルが、寝返りを打って少女の体を抱きしめ返す。
少女の顔に、嬉しそうな、そしてどこか切なそうな微笑みが浮かんだ。
毎日、ハルの疲労を飲み込み。
ハルの汗を飲み込み。
ハルの匂いと、ハルの感情を一番近くで吸収し続けてきた。
その蓄積された想いが、ダンジョンの魔力と結びつき、夜の間だけ彼女に人間の姿を与えているのだ。
誰も知らない。
リンも、パイも、黒目も。
もちろん、ハル自身も。
このダンジョンで一番、ハルと深くつながり、ハルを愛している存在が、毎晩こうして彼に寄り添っていることを。
少女は、ハルの胸の鼓動を全身で感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
◇
チュン、チュン。
ダンジョンの天井に設置されたスピーカーから、朝を知らせる電子の鳥の鳴き声が響く。
「んあーっ……! よく寝た!」
ハルは大きく伸びをして、目を開けた。
体中の疲労が完全に抜け落ち、信じられないほど体が軽い。
「おっ、今日のスラ美は、なんかいつもよりプルプルで温かいな」
ハルが手のひらで床を叩く。
そこには、いつもと変わらない、平たく伸びた巨大な青スライムの姿しかなかった。
ぽよんっ。
スライムが、まるで挨拶をするように微かに弾んだ。
「よーし、今日もガッツリ稼ぐぞー!」
ハルはスライムの表面を優しく撫でると、勢いよくベッドから跳ね起きた。




