第1章 物語の始まり【5】
湯浴みを終えると、ラゼルは寝室でまた読書に耽った。彼は自室に本が堆く積まれるほどの本好きで、読み切るまでに何年かかるかわからない書籍室は魅惑の部屋だった。特にラノベを好んでいたため、物語の本があるならそれも読んでみたい。その点でアラベルを頼れば、良好な関係を築くための良いきっかけになるかもしれない。
コンコンコン、と静かなノックが聞こえて顔を上げる。眼鏡をかけ直してドアを開けると、アラベルが応対を待っていた。
「アラベル、どうしたの?」
「これ……魔法学の面白い参考書だから、貸そうと思って……」
アラベルが差し出して来たのは、傷みつつも大事に扱われて来たことがよくわかる重厚な本だった。しっかり見なくても、アラベルの気に入りで大事な一冊であることが明白だ。もしかしたら、元来のラゼルだったら良い笑顔で燃やしていたかもしれない。
「ありがとう。もっと魔法学を勉強したいと思ってたんだ」
「うん……それならよかった」
アラベルは安堵したように微笑む。それはご機嫌取りとは違う笑みだった。
なんて良い子なんだ、とラゼルは心の中で叫ぶ。散々虐げられていたというのに、こうしてラゼルに親切にする。こんな可愛い弟に嫌がらせをしていたラゼル・キールストラがあまりに残酷であることもよくわかった。
魔法学という共通の目標ができたことで、アラベルとの心の距離はほんの少しだけ縮まったような気がする。唯一の問題点を挙げるとすれば、ラゼルが魔法学の魅力に取りつかれそうになっているということだろう。目的は、あくまでアラベルと良好な関係を築くことなのだ。
魔法を科学で捉える学問というものは、きっとすべてのオタクを喜ばせることだろう。せっかく面白い学問のある世界に転生したのだから、心行くまで勉強したいと思っている。
アラベルの警戒心がほんの少しだけ薄くなったと感じるのも確かだ。畏怖の念を懐くラゼルが魔法学に興味を持ったことを喜んでいるところを見るに、とても素直な少年なのだろう。ラゼルは、あの笑顔を裏切るようなことは絶対にないと断言できる。もしそんなことがあれば、断罪されるとしても受け入れる。アラベルの参考書を手に、そんな決意を固めた。
* * *
少しずつ時間をかけてアラベルとの関係を修繕していく中、ラゼルの目下の目標はヒロインの情報を思い出すことだった。ラゼル・キールストラはよほどヒロインに興味がなかったようで、彼にどうやって絡んで来たかすら記憶になかった。ジークハイドは「あれだけ絡まれておきながら」と言っていた。おそらくヒロインは名乗っただろう。それでも思い出せないのは、耳に入ってすらいなかったのかもしれない。
アラベルとの関係は少しずつ良くなっている実感がある。アラベルの微笑みも機嫌を窺うような色が薄くなり、徐々に心を開いていくようだった。
ラゼルは、リリベスの淹れたお茶を嗜みながら自室の窓際で魔法学に関する参考書を読む時間が増えていた。すべてのオタクの憧れである魔法は、思っていた以上に奥が深い。学べば学ぶだけその面白さに引き込まれていった。
「そういえば、僕たちは夏季休暇の課題はないのかな」
ふと問いかけたラゼルに、リリベスはカップにおかわりの紅茶を注ぎながら頷く。
「ありますが、ほとんど自主学習ですわ。記録をつけるようなことはありませんが、休暇明けに試験があります。怠けていたら簡単に見抜かれるでしょう」
「なるほど……。僕も魔法の練習をする必要があるんだね」
「試験をクリアできなければ成績に響きますからね」
ラゼルはこの世界に来てから、魔法学の勉強はしても魔法の練習はしていなかった。ラゼル・キールストラがどれほど魔法を使えるかはわからないが、きっといまのラゼルにとっては楽しい自主練習となるだろう。
コンコンコン、と軽快なノックが鳴る。どうぞ、と応えたラゼルの声でドアを開いたのは執事のサイオンだった。
「ラゼル様。夕食のご用意ができました」
「わかった。すぐ行くよ」
キールストラ家の一員として食卓に着くことにも少しずつ慣れてきて、いまでは呼ばれるのを憂鬱に思うことも減っていた。まだこの世界に来て数日であるため緊張することに変わりはないが、家族との良好な関係の構築は順調のように思えた。ただひとりを除いては。




