第1章 物語の始まり【6】
ダイニングへ向かっている途中、廊下の角からアラベルが顔を出した。ラゼルを見つけて浮かべる笑みは、転生したての頃より怯えた色が薄くなっている。少しずつ心を開いてくれているのだ。
「やあ、アラベル。今日も書籍室にいたの?」
「うん……つい読書に熱中しちゃって……」
「僕も似たようなものだな。ずっと部屋で本を読んでいたよ」
「魔法学の勉強は順調……?」
「おかげさまでね」
アラベルは、ラゼルが魔法学に興味を持ったことを純粋に喜んでいる。それがラゼルには嬉しかった。例え悪役令息だとしても、ラゼルはこの世界で生涯を過ごすことになる。断罪を回避するためだけではなく、友達が増えるのは喜ばしいことだった。
「……ねえ、ラゼル」
アラベルが遠慮がちに口を開く。ラゼルが首を傾げて促すと、俯きながら小さな声で言った。
「ラゼル、たまに……どこか遠くを見ているよね」
「え?」
「僕と話していても、何か……僕を見ていないときがあるような気がする」
ラゼルは思わず口を噤んだ。確かに、この世界でどう生き残るかを考えていることが多かった。自分が悪役令息であること、アラベルたちが攻略対象であること。そういった視点で物事を見ていた。それがラゼルを遠い目にさせていたのだろう。例え悪役令息と攻略対象であっても、ラゼルもアラベルも、この世界に生きるひとりの人間。それを忘れてはならないのだ。
「ごめん……ちょっと考え事しちゃって」
「あ、謝る必要なんてないよ……! 僕も、変なこと言ってごめんね……」
「アラベルこそ、謝る必要なんてないよ。とにかく夕食に行こう」
「うん……」
ダイニングではすでに公爵夫人と義兄が席に着いていた。いつもの席に腰を下ろしながら、ラゼルは相変わらず鋭い視線が左側から注がれることで、まるでシベリアに居るような気分になる。アラベルが心を開いても、ジークハイドからの評価が変わるところまでは至っていない。おそらく、夏休みのうちに改善することはできないのだろう。
最後に公爵がダイニングに来て夕食会が始まる。ラゼルは、義理の母と義理の兄弟に囲まれたこの食卓で平然と食事をしていたラゼル・キールストラには感服するばかりであった。それも、表向きが好青年で通っていたためだろう。
「もうすぐ夏休みが終わってしまうわね」義母が言う。「みんな、寮に行ってしまうなんて寂しいわ」
「子はいずれ親元を離れる」と、父。「それが自立というものだよ」
「けれど、みんな、この家の事業を手伝ってくれるのでしょう? この屋敷を離れることはないのではない?」
ラゼルは、アラベルと顔を見合わせて苦笑する。子離れを寂しく思う親はどこも同じなのだと、少しだけ前世の親を思い出していた。
「この屋敷で暮らすとしても」ジークハイドが言う。「自助自立は必要です」
「卒業までの数年間じゃないですか」
困って笑いながら言うラゼルに、義母はしゅんと肩を落とす。子どもたちのことを心から愛しているようで、そこにラゼルが含まれていることに愛情の深さが感じられた。
僅かに残るラゼル・キールストラの記憶によれば、王立魔道学院の卒業資格は最低三年で取得できる。三年で卒業しても王立魔道学院を卒業したという実績は確かなもので、それだけで能力が高いことを証明することもできる。三年より長く在籍することもでき、それぞれの将来のために必要な知恵、知識を得るため、三年より長く通う者も少なくないようだった。
この和やかな雰囲気の父と義母を見ていると、本来のラゼル・キールストラが貼り付けた笑顔で対応していたことがよくわかる。両親はラゼル・キールストラについて何も知らない。だからこそ、アラベルは苦しみ、ジークハイドはラゼル・キールストラを憎らしく思っている。この両親はラゼル・キールストラを疑うことを知らなかった。あの大惨事は、愛情深さ故の結末なのだ。
「ラゼルとアラベルは、明日は何をして過ごすの?」
気を取り直した様子で義母が問う。ジークハイドは事業の手伝いがあるらしい。
「明日も書籍室にこもろうかと」ラゼルは言った。「魔法学をしっかり頭に入れてから魔法の練習をしたほうが効率も良さそうなので」
「素晴らしい向上心ね。アラベルも一緒に練習してみたら?」
「うん……それは楽しそう」
アラベルは遠慮がちに微笑んでいるが、本心からそう言っていることはよくわかる。それに対して、ジークハイドは疑いの視線をラゼルに投げる。シベリアから脱する日はまだ遠いようだ。




