鈍空
ある日の暮方。暮方といってもこの時期、日の出から日没までは3時間に満たない。これから春にかけて日照時間は伸びていき、五月から白夜が始まる。ここはロングイエールビーン。北極圏にあるひどく寂れた町だ。ヤスエは空港で雨がやむのを待っていた。季節外れの雨だった。本来この時期、雨は降らない。雪の代わりに降り注いだ雨は雪の一部を黒く染め上げる。空港横の道路はアスファルトがまだらになって、凍っている場所と雪の白が夕日を浴びて絵画のような美しさを放っていた。
雨が止んだ。
鈍空の下には、ヤスエのほかに誰もいない。ただ、スバールバル諸島最大の町は寒く、町というにはひどくみすぼらしく見えた。集落。人口2500人の人の集まりはヤスエの感覚にしてみれば村がせいぜいではあった。空港から出ると誰もいない。この町の観光者は年間10万人。ヤスエの他にも誰かいてよさそうではあるが、貸し切り同然の飛行機からはヤスエだけが降り立った。ホテルまでは歩いていける距離ではあったが空港近くのスノーモービル乗り場で送ってもらうほうがよさそうだと判断し、空港内に引き返す。
何故かというと、冬だからだ。スバールバル諸島の平均気温マイナス4度。夏以外はスノーモービルが基本的な移動手段になる。冬だから観光客もいない。
ここは北極圏。北緯78度13分の町、ロングイエールビーン。辻風と粉雪が舞う世界最北の町。
目的の村のひとつ手前の町。
険しい山々と雪と氷に覆われた冬のロングイエールビーンは長いひげを蓄えた大柄な老紳士のように、厳かにヤスエを出迎えた。
乗り場では赤や黄色の防風ジャケットを着た三人が銃を背負ってスノーモービルを暖気していた。
この町で銃は珍しいものじゃない。
ホッキョクグマ。流氷の上で一生の大半を過ごすように適応した海洋哺乳類であり同時に世界最大の陸生肉食動物。住人より多いおよそ三千頭の白い怪物。彼らは出現を予測できない自然環境であり、町のすぐ外であれば場所や時間を問わず、いつでも遭遇する可能性があった。
町には観光客向けの様々なアクティビティやツアーが用意されているが、ホッキョクグマを探すことを目的としたツアーは存在しない。どころか、法的にホッキョクグマに近づくことを禁止している。狩猟も同様に禁止されている。
銃は最後の手段だ。
町の外に出るときには必ず銃を持ち歩かねばならない。銃を持っていたからといって安全ではない。白い怪物は白い世界に適応しており、音も色もなく近寄ってくる。……かもしれない。先に見つけることが出来たのなら、人間が距離をとる必要があった。最後の最後の手段としての銃。
ヤスエはスバールバル諸島のこともロングイエールビーンのことも知っているので驚きはしない。ただ、銃を見て、この人たちは町の外に行く用事があるのかな。と思いはした。訝しむ、という程ではない、アクシオンリングユニットはスバールバル諸島にある。だから知識として多少のことがらを知ってはいても実際に来るのは初めてのことだ。だから、多少おかしなことがあっても事実こそが真実なのだと、自己の認識を修正することがあるはずだと念頭に置いていた。
「Hei! 」
彼らは親切だった。彼らは空港会社が運営するタクシーではなく、民間のスノーモービル愛好団体だったが、快くヤスエをホテルに送ってくれた。ヤスエは空港のシャトルバスを失念しており、次の便まで待つと彼らに伝えたが、どうせ今から移動するところだったからと青い服の男に言われた。男は背負った銃を赤い服の男に渡し、渡された赤い服の男は背中に二挺の銃を背負うことになった。青、赤、黄色と三人の隊列に茶色のヤスエが加わり、白い世界を駆けた。青茶、少し離れて赤、その後ろに黄色。移動は短かった。短い時間の中、世界を観察するヤスエの為にスノーモービルはゆっくりと町の中を進んだ。
ライチョウが建物と道路のくぼみのような場所をちょこちょこと歩いている。空港から町に入る短い時間で天気が変わり。街に灯りがともり始める。川向うの山が巨大な日陰を形成し、雲の陰と重なった場所だけが夜になる。
彼らはお金も取ることなく去っていった。
「ここは物価が高くてさ、節約できるときはしとくもんだぜ。それじゃまた」
去り際に黄色い服の男が言った。
ホテルは見た目、高床式のロッジのようだった。ログハウスではない。サザエさんのエンディングに出てくるようなやけに鮮やかなペンキで塗装された大きめの建物だった。薄紫色のネオンが当たり前のようにホテルの名前を描いていた。
中は暖かく、すぐにヤスエは上着を脱いだ。
ロングイエールビーンには奇妙な風習がある。家の中が土足厳禁なのだ。
元々は炭鉱で栄えたこの町は外履きを脱ぐことで、石炭の粉塵を屋内に持ち込むのを防いでいた。今でもホテルや飲食店など多くの店が靴を脱ぐスタイルになっている。ヤスエはブーツを脱いでチェックインを済ますと首をぐるぐる回した。
受付の女が晩御飯の説明をしてくれたが食欲がないので今日はいいですと言って断った。女は心配するふうでもなく、わかりました。とやけにあっさりとした様子でヤスエを解放した。
入った部屋は立派な家具が揃えられていた。ベッドやソファも安物ではない。
ヤスエの耳の中で「それじゃまた」という言葉がざあざあと鳴り響いていた。
狭い町だ。また会うことがあるかもしれないし、こっちでは一般的な言い回しなのかもしれなかった。スバールバル諸島は条約によってビザなしで多くの国の人が入ることができた。だから出会った人が何処の国の人でどんな風習をもった人なのかもわからない。
窓の外はすっかり暗くなっていた。街頭の灯りとお店の灯りが通りを染めている。
「おめでとうヤスエ! 幸せになってね!」
今でも、クロダ・チカの言葉と笑顔を思い出す。あの日、心の底から自分の幸せを祈ってくれたのはチカだけだった。他の友人、親戚や親もヤスエを祝う気持ちはあったのだろうが、それ以外の思惑がヤスエには透けて見えた。だって自分が逆の立場だったら嫉妬を禁じ得ないから、親だったら不安がつきまとうから。
純粋に他者の幸福が続いていくことを祈る。
数いる友人の内の一人にすぎないチカの言葉と顔がずっと心の奥にある。離婚しても。就職し忙しい日々を送っても、QORAが覚醒し、世界が変わっても。ずっと。
純粋に他者の幸福が続いていくことを祈る。
もし、全てがうまくいって、チカが戻ってきたときにヤスエは同じように出来る自信がない。
「私に感謝しなさい!」
間違いなく言うであろう台詞をひとりつぶやく。そして自分の手柄を反芻するのだ。なんと醜い生き物なのだろう。
純粋に他者の幸福が続いていくことを祈る。
いつしか私も祈りたい。たった一度でもいいから。
マギオンをご愛読いただきまして誠にありがとうございます。
書き溜めプラスα消化しました。次の更新は未定になります。
なるべく早く連載を再開したく思いますが、筆が早い方ではなく波も激しいので、いつ頃再開出来るかは分かりません。
現実世界のAIの進歩でも眺めながらしばらくお待ちください。
雷然




