ふたつめ
鎖とかロープだとか、はたまたUFOキャッチャーでもいい。うんと強いヤツ。地球全体を握りしめる重力みたいな途方もない力でひっぱられる。身体の内側をぐるぐるに巻かれてしまってほどくことなど出来ない。つかまれている。強く、強くつかんだまま、外へ外へと引きずり出そうとする。せっかく穏やかに眠ろうとしていたのに。そうだ。身代わりになったのだ。そして死んだ。死んだ? いや死んでいないのか。
臓物の奥の奥、無理やり引きずり出された感覚に不快なものがこみ上げる。覚醒。夢でもみたいたのだろうか。医務室で目を覚ました時に、記憶の混濁があった。何かに入っている。
黒点じゃない。血肉だ。私の匂いはこんなのだったか。室内の抑制された明るさがパニックを抑えてくれた。視界よりも早く明度が上がる思考。思ったことは奇跡的に命を取り留めたのかという希望的推察。いやそうじゃない、そんなはずがない。あそこで死ぬのは規定的因果の収束。あの場でルミナは死ぬ。あるいはQORAへと同化するのだ。
その時にこの自我はない。
同時にこの肉体が、脳が何をやらかしたのか理解した。いや半分以上は理解できなかった。海馬が記憶していることが所有者に読み解けなかった。
「座標が移されている」
ルミナは何が起きたのかを理解した。ルミナは手を強く握ろうとしてやめた。この身体を傷つけるわけにはいかない。いつまでもこうしているわけにはいかない。
心電図につながったケーブル、点滴の針をはずしてゆく。ベットには拘束されていない。部屋は広く、清潔で、他には誰もいない。花瓶ひとつもない。
病人服のポケットを探るが端末がない。マギオンに接続できない不便な肉体では外部端末の存在は大きな助けになる。標準よりスペックが高いとしても人間脳ではQORAに太刀打ちができない。闘う相手ではない。協力を仰ぐべきだ。
できることなら。
「あ、あー」
発声を確認する。チカの身体は初期感度が低い。だが、出力曲線は後半になるほど急激に伸びる。一方で最大値は低い。タカハシ・ジュリアを模した肉体のほうが使いやすかった。調整していたのだから当然といえば当然だった。
小さく声を出しただけでルミナは脳を含む肉体性能の大半を把握した。
そして。
「くおらのばかー!」
叫ぶ。反応は期待しない。一種の確認作業。予想に反して反応があった。部屋のドアが開く。
「チカ」
入室してきたのは一組の男女。初めて会う知っている人だった。父と母だ。クロダ・チカの。
ルミナの心に小さく黒い穴が開く。
「チカ!」
母がルミナに駆け寄り、勢いのまま、チカの身体を抱きしめる。黒い穴がじわりと領土を拡大した。
ルミナは説明しようとして、何を語るべきか迷う。
私はクロダ・チカではない。父は泣いている。
側頭部をチカの頭部にこすりつける母も涙を出している最中かもしれない。二人とも沢山心配したはずだ。
母の匂いと体温がルミナに伝わる。
不快ではない、むしろ落ち着く。
「二人ともどこに」
ルミナはチカの唇から言葉を排出した。口から出た言葉に、ルミナ自身が傷ついた。「横の部屋で休んでいたんだ」父親が慌てて近づきながら答える。
穴がうずく。ちがう、部屋にいなかったことを責めたんじゃない。チカの身体が何日寝てたか知らないけれど二人にも休息が必要なのは間違いない。なんで私は無神経なことを。父が母とルミナをまとめて抱きしめる。なつかしくもないのに懐かしさがこみ上げる。
「あのね。私は――」
「よし、今先生を呼んでくる! チカはまだ寝てなさい。母さんは隣の部屋から荷物を」
言いながら父は部屋から飛び出していく。母もルミナを横に寝かせると部屋の外へ慌ただしく出てい行った。
部屋から明度が失われる。
黒い穴がルミナの全身を覆う。穴がクロダ・チカを吸い込んでゆく、彼女の生い立ち、彼女の歴史。父と母。学歴、地位名声。友人。車。QORA。チカの人生、全部。吸い込んで空虚な穴だけが残される。
なんだ、このクソみたいな現実は。
さっきまで寝ていたベッドに知らない力で押さえつけられている。自分が受け取ってはいけない愛情が意欲と肉体を押さえつける。
高をくくっていた。自分の命なんて安いものだと。有機生命体では成しえない時間軸方向への移動してきたルミナという個はシミュレーションどおりの結末を迎えるのだと。
歴史が、ほんの些細なズレで別物になることなど、知っていたはずなのに。
光子一つ。
波一つ。
それだけで無数に枝分かれすることを。
それでも高を括ってしまった。
この現実は死角だった。
――ルミナが語ったことは多いに混乱を招いた。
「私はクロダ・チカではない」
「この肉体は紛れもなくクロダ・チカ本人である。脳細胞から皮膚の一枚にいたるまで何ひとつ変質してはいない」
「生命活動が停止するルミナの座をこの肉体にコンバートした。強制的に。チカはこの肉体にいない」
「チカのやったことは簡単に説明できない、あえていうなれば魔法だ」
続けて語ったことはさらに混乱と目的達成不可能な事実を示した。
「チカは死んではいない。もちろん死の定義によるがチカの意識はマギオンの海を、いまも何処かをさまよっている。捕まえて座を再度移動させれば生き返る。ただどこにいったのかは分からない。この次元に存在しているのかすら」
最後にルミナは言った。
「受肉したタイミングからそうだが、時間移動というあたしの特質はもうほとんどない。肉体という座は、時間軸移動に致命的に向いていない。生命は時間に逆らうようには設計されていないのだから。だから時間をさかのぼってやり直すことは出来ない。だから」
チカのいや、ルミナの瞳の色を見た。
「……未来にかけるしかない」
聞かされたのはアルボラリスだけ。父と母は幸いにも異変に気づかなかった。
ルミナは目覚めから二日間、検査のため病院に留め置かれた。
結果は、異常なし。
健康体だった。




