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マギオン  作者: 雷然
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ウルシ・カルル②

 ウルシという苗字はやや珍しく、それ以上にカルルという名前は異端だった。だったというと過去形なので精確ではない。この場合の文法を未だにウルシは測りかねていた。日本人だけど日本語が好きではなかった。かといって英語やフランス語、ましてやドイツ語なんて全く好きになれなかった。

 父はよく母を殴りながらをザウと罵った。これは雌豚の意味だった。カルルを殴る時はエーゼルと言った。これはロバを意味し、愚か者を表していた。父の言葉には訛があり、カルルの耳ではエはイと近い音で聞こえていた。以前とよく似た音で聞こえていた。イゼン? 以前がなんだってんだよ。カルルは思う。もう何も残っていない。残ったのはこの名前だけ。


 名前のことで馬鹿にされることはなかった。顔に傷があっても体育の授業に伴う着替えて肌を見せることがあっても、陽気な顔をしていれば乗り切れた。

 学校が終わるとまっすぐ家に帰った。誰の誘いにも乗らなかった。付き合いの悪いカルルではあったが誰も彼をあざけることはなかった。


 母は父がいなくなると元気になり、カルルに暴力を振るうことが減っていた。中学を卒業するころには一切の暴力と暴言がなくなっていた。

 つまり小学6年と中学1・2・3年の四年間、何かが薄まっていった。


 なぜ自分はカルルなのか。疑問だけが残った。父はもういない。母とはろくに口を聞いていない。名前をつけたのが父であることは知っていた。鏡の中の自分が笑っていた。母とよく似た顔。高等教育を受けるようになってからも毎日まっすぐ家に帰っていた。部活動はしなかった。母の帰宅時刻が遅くなっていった。帰っても食事を作らないことが増えた。おこずかいはなかった。カルルはバイトを始めた。ボウリング場のスタッフだった。趣味が出来た。学校へ行き、バイトをし、バイトがない日もボウリング場へ行き、ゲームをして帰った。ビデオゲームなんかじゃない、汗をかくスポーツとしてのボウリング。狭いアパートメントの食器棚の上、天井との間に2個入りのボールバッグを押し込んだ。軽くはないが高校生男子であれば造作もないことだった。


 ある晩、地震が起きた。

 食器棚は、挟まっていったボールバッグのおかげで転倒に耐えた。ボールバックを挟んでいなかったら無駄に大きな食器棚が倒れたかもしれない。普段から棚の扉をしめており食器もカチャカチャ鳴るだけで落ちはしなかった。ただバッグは落ちた。揺れのおさまる直前。15ポンドのボールが2つ入ったボールバッグ。キログラム換算で約14キロ。近くに母の布団があった。

 14キロの物体は落下によって約316ジュールの運動エネルギーを発揮した。はつらつとした生まれたばかりのエネルギー、衝突によってあっけなく運動は停止した。生まれたばかりのエネルギーは消失と引き換えに結果をもたらした。

 皮膚がひしゃげた。陥没した骨が脳実質を圧迫する。急性硬膜外血種、外傷性くも膜下出血、急性脳ヘルニア。頭蓋の中で赤が荒れ狂う。縦横無尽。闊達自在。勇往邁進。前途洋々。

 うめき声は聞こえなかった。衝撃音を除けば、静かな最後だと言えた。


 カルルは父親に引き取られた。いや引き会わされた。


「日本語を使え」

 面会室で黙っていると父はそう言った。

「強制送還されなかったんだね」

「離婚してなかったからな」

「かあさんは死んだよ。もう強制送還されちゃうんじゃない?」

「そうはならないそうだ。」

「そうなんだ」

「ああ」

 

 父は僕がかあさんから殴られた時の顔をしていた。

「ねぇ、僕ひとりでいいよ」

「そんなことを言うな。家族じゃないか」


 吐き気がした。僕は、笑顔をリセットし、もう一度きちんと表情を作った。完璧な笑顔だ。

「僕がいないと困る?」

「ああ、頼む」

「そうッスか」

「頼む! なんでもいうことを聞くから。ほらジャーマンポテトつくってやるよ。好きだったろ?」

 面会室のテーブルを全身の力を込めて押した。不快な音を立ててテーブルが動く、父を軽く押してテーブルが止まり、僕の座っている椅子が動いた。少しだけ父との距離が開いた。うれしさ1割。其の他9割。9割の内訳は不快といらだちと、あと色々。


 説明のできないくつかの感情。

 「ジャガイモなんて好きなのはお前だけだろ!」

 感情は爆発しなかった。脳内だけで言葉は爆発していた。カルルの脳内では口汚く父親を罵り、足蹴にし、椅子を振り回して殴り殺していた。


 カルルが机をおし、椅子が動いて立ち上がったとき、父親だった者と監督者はカルルが暴れるのだと身構えた。だがそうはならなかった。

「もういいッス」

 カルルは唐突に言った。奇妙な断定だった。父に言っているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。


 結局カルルは短い期間、児童保護施設の世話になり、すぐに独りで暮らした。勉学にバイトにと忙しいが穏やかな時間だった。その時間は社会に出てからも続いた。

 穏やかで静かで準備をするには十分な静養だった。

 

 引き金を引いた。

 

 カルルは別に、今度は自分の順番だとか、そんな風には考えていない。虐げられたからこんどは自分が世界に対して、誰かに対して悪いことをする権利がある。そのようには思っていない。

 世界に憂さを晴らそうとも思っていなかった。そもそもそういった鬱屈とした感情をカルルは感じていない。昔はあったのだと思う。されどそれらは全て過去の事。遠い記憶とともに悲しみや嘆きの感情があったのだとラベルが張られ、記憶の棚に陳列されている。それらを眺めても「そうだったね」という確認しかできない。

 ウルシ・カルルには野望などない。果たしたい、自分の人生でやりたいことがない。やるべきだという使命もおびてはいない。衝動につき動かされることもなければ欲望に支配されてもいない。

 幼子が、虫の足をもぐがごとき好奇心はある。

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