『重』
――言葉は出なかった。
チカの前。LUMINAが立っている。血を出して。赤い、血を出して、倒れた。
アルボラリスがウルシを殴りつける。落ちた銃はタカヒロが拾った。
ポリマーフレームの黒い拳銃。わずか10センチと少しの凶器。人を殺すには軽すぎる重み。タカヒロは身震いをした。片手で持って引き金を引けば終わらせることが出来る。マギオンを使った干渉よりも早く。確実で。簡素。簡潔。
さっきまでLUMIなの座っていた椅子が倒れ、もたれかかっていた机が動いている。彼女が自発的に動いた軌跡。
「くおら! 何とかして!」
LUみNAを抱きしめながらチカが叫ぶ。QORAは返答しない。わずかな物音でも聞こえるようになった室内で。
「チカ。いいのよ。これでいいの」
LUみなの手がチカの手を握り返す。流れた血が衣服を伝って床に滴り落ちる。ぽたぽた。ポタポタ。
「チカ、ごめんね。私のせいであなたの友達が。ジュリアは私のせいで」
冷たい気配が床から手を伸ばす。ヒタヒタと空気を食らいつくす。ナニか、おぞましいものが足裏から足首、膝へと登ってくる。止まらない。
「もういい。話すな、二度も、私の前で死ぬんじゃない!」
チカが言っていることがおかしなことであると指摘する者は室内にいなかった。唯一言いそうな人間は殴られて倒れている。気絶した訳ではないが、一種の充実感と痛みにまどろみながら事の成り行きを呆然と、静かに観測している。チカには命を狙われた恐怖はなく、人が自分の前で死ぬかもしれない恐怖と、それを上回る怒りがあった。
近いプリシアにるMIなを預けてチカは立ち上がる。
「ちょっともってて!」
受け取ったるみなは重かった。どうしようもないほどに重く、もろとも倒れてしまいそうだった。けれども必死にプリシアはLUみなを抱きしめる。力の入っていない肉体。床に寝かせたくはなかった。チカはノートに戻り何かを書き殴る。かと思えば端末を取り出して操作をした。「足りない」「ならば!」
この状況で何かをなそうとしているチカを見て、タカヒロの硬直が解けた。「何か手伝うことはあるか?」つづいてアルボラリスも近くに寄ってくる。
チカには炎のような怒りと、ヴォイドのように冷たい思考が綯い交ぜになっていた。閃きはずっとあった。不足は計算。それも間もなく完了する。
「主任。それもらいます」
有無を言わせぬ勢いで白衣からタンポポを抜き取る。続けて。
「祈れ!」
初めて、正面からはっきと目を合わせてもらった。タカヒロはチカの顔をこの時の顔で記憶することになる。それは彼の無意識であって彼の意識がこの現象を認識することはないのだが、誰かの顔を思い浮かべるとき、家族以外では唯一、正面からの顔を思い浮かべることが出来る人物になった。
チカは分かっていた。
このプログラムが奔れば。
歯をむき出しにしワラッタ。
誰か。
それはQORAかもしれないし、チカかもしれなかった。世界かもしれないし、悪魔かもしれなかった。
ウルシかもしれないけれどタカヒロとプリシアは違う。アルボラリスも違うだろう。
るみなはどうだろうか。
けたけた。ケタケタ。
「まだ間に合う。来い!」
室内に模様が浮かんでいる。
誰かの口角があがっている。
数式と文章が、幾何学図形を構成し、動いている。早く、より早く加速し。理を改変させる何かがほとばしる。
リアリティグリッチで死者に会った人はいた。けれどそれは一時的な慰めか、かさぶたをはがすがごとし結果にしかならず、死者が恒久的に生き返ったためしはなかった。
完全なる死者はマギオンでも取り戻せない。
室内の光が消えていく、図形が光を放ちだす。
光の帯が螺旋を描く。帯と帯がつながる。交わる。図形が増える。反転する。回転する。円になる。球になる。めまぐるしく纂述と編集と編纂と更新を繰り返す演算が一番新しい矛盾を肯定する。たんぽぽが舞い上がり。枯れる。枯れた残骸が灰となって燃える。消える。室内の光を食らいつくしたようにして図形も消える。1秒ほどして室内の灯りがかえってくる。
プリシアに抱きかかえられたルみながびぐんっ! はねた。血が血管を飛び出して目や爪、皮膚を突き破って床を濡らす。プリシアを汚す。傷口からは大量の血液がふき出していく。筋肉が収縮し膨張し、何かが肉体の中から飛び出さんとばかりに動いた。肉体、生きようとしたあがきにも見え、自殺真っ最中にも見える。銃創を負った子供の遺体、どこにそんな力があったのか。
だが、全てが嘘のように突然、止まった。もう動かなかった。二度とこの肉体が動くことはなかった。
誰にも見られない中。チカが倒れた。
起き上がったチカが、自分のことをルミナだと言ったのは8時間の後だった。




