2 ういす
チョコレートが発売されたのは5月ごろ、とてつもなく希少なカカオを使っているとかで、小ロット生産の商品は高級デパートのみに置かれていた。1箱6粒入り、税込み一万六千円。
ある老婦人はリピーターだ。もう今週だけで3度購入していた。ウイスキーのつまみとしての購入だ。
老婦人の自慢は、これまでの人生で美味しいものを沢山食べてきたことだ。
知らない料理があれば一度は食べてみるし、自分でつくるのも好きだ。腕を振るっては、お店で食べるものより美味しいわなんて自画自賛を繰り返す日々だ。未知の食品・食材を求め偶然立ち寄った大手百貨店、瞳を突き刺す輝きたちの中で、マホガニーブラウン一色で包装されたパッケージは、彼女の目を休ませる止まり木となった。
止まり木は、舌を鳴らした。
老婦人は味覚にも自信があった。お米とイチゴならば品種と産地を当てられるほど。自宅から徒歩5分の地域密着型スーパーに限定すれば誰の土地の作物かまで特定できた。
彼女は知らなかった。世界にまだこんな味があるのかと。甘さはある、コクもある、苦みと酸味、わずかなナッツ感、ビターな余韻の中に形容しがたい何かがあった。それは畏れであり悲しみであり、孤独であった。
小さな針の先ほどの痛みが彼女を襲った。老婦人は自分にこれほどの弱点があったのかと笑い出したくなった。
心の中のあらゆる影が消え去り、光だけが脳髄を駆け巡った。瑞々しい肉体を幻視した。迸る情熱と熱き血潮の濁流が悠久のあるいは一瞬の時を洗いながらし、まっさらな若さだけが残った。まだ人生の伴侶が生きていたころ、出会ったころの、淡く強く果てしない熱だけが残った。恋の味だった。
チョコレートは静かに、しかし確かに売れていった。
老人から若者へ、富裕層から一般層へ。
価格を下げながら、粒を小さくしながら、それはもう一粒が米粒のようになっていきながら価格を下げていった。
小さい物は、狭い隙間に入り込む。
誰も知らない、メーカーも聞いたことがないチョコレートは静かに、確かに、最初から予定されていたように女子高生の間で局所的に流行した。
イインチョことミナミ・マサミは学問が苦手だ。勉学は嫌いではないし、机に向かうのも苦ではない、生来の生真面目さで日本でも有数のお嬢様学校に通っている。自由な校風のあまり友人との価値観が合わない部分もあるが概ね自分を取り巻く環境に満足している。
「やっぱり努力じゃどうしようもないのかねぇ」
自室の学習机、小学生の頃から使っている年季の入った机には参考書がビッシリつまっている。引き出しに本を入れるのはやめた。引き出す時に重すぎるし、いつも目につくところにあるほうが学習効率が良い気がしたから、入りきらない教科書やら参考書は室内の本棚に揃えてある。
彼女が苦手なのは、難しい、困難であると感じているのは勉強すること。ではなく学問。
こんな監視のように本に囲まれた環境でなくとも、己を伸ばし確立していく、そのような在り方に彼女はあこがれていた。
「やれやれ」
ジュリアやチカは学問が得意であるように感じている。まだ誰も知らない事柄を、まだ誰も来たことがない道を、己の意思だけでこじ開けていくような迫力が彼女らにはあるように感じていた。
引き出しからチョコレートを出し、包装を破る。
匂いの残る包装を学習机横のゴミ箱に捨てる、と、しばしチョコレートと見つめあう。
眼を閉じて口を開け、舌を伸ばし、その中ほどに親指と人差し指を使ってそっと置き、指を離す。
口内を経由しない香りで肺を満たし、ゆっくりと舌をひきいれる。
食べる。
噛む力が1から10あるとするならば奥歯に力を1だけ入れる、その次は2、可能ならば1.5、もし可能であるならば1.1だけの力をかける。とにかく繊細に、シームレスに、急に負荷が増大しないように最大限配慮しながらチョコレートの外皮を割っていく、外皮が割れたところで急に力を止めてもいけない、かみ砕いてもよろしくない。
じわじわとなぶるように味を抽出していく。
マサミの心から何か黒いものが消えてゆく、寂しさと自己嫌悪、劣等感と憧れをマーブルしたような感情が飛び去ってゆく。
「よしやるか」
どのみち勉強はしなくてはならない、マサミの勉強は進んだ。
ジュリアは死んだ。
チョコレートが有名なると模造品が出るようになった。
再現不能と思われた複雑な味わいを、大手メーカーの企業努力が上回った。
味に、著作権はない。
安く大量に供給される模造品。
やっぱりオリジナルが美味しい! 根強いファンの声もある。
これってさぁ。アレと一緒だよね?
なーに? プラシーボ?
いや、マジだって完全にアレよ。スーッっとするやつ。
贋作には例のカカオは入っていないそうだ。
「ねぇチカ、あたしたち友達だよね?」
「え? どうしたの急に、気持ちわるい」
ジュリアはチカの手をつかみチョコレートを握らせる。例のチョコレート、オリジナルの方だ。
「あのね、これ食べてほしいの」
校舎裏の日陰、空調の効いた室内にて、自習でもおしゃべりでも好きにできるというのに、外で無為に時間を過ごす馬鹿はいない。二人を除いては。
「そりゃこのチョコ好きだし、ありがたくいただくけど、でもどうしたの? 恋の相談? またフラれたの? こんなの貰わなくても話ぐらいきくよ」
「ううん、違うの。食べてくれれば大丈夫だから」
ジュリアは走り出した。日陰から日差しの強い校庭へと腕を振ってふとももを高く上げ、力強く走って、走って、走って、走り切って校庭を抜けて校門の外へと飛び出した。
ジュリアは死んだ。トラックにひかれてあっけなく死んだ。
クロダ・チカまでの距離は離れていた。
離れていたからひかれた様子もよくわからなかった。
ただ、重くて鈍い音がずっとチカの胸に鳴り響いていた。
事件は、自殺と事故の両面で捜査された。チカの証言もあって自殺の線はかなり疑われたが、結局は事故ということで処理された。
なにせ彼女には死ぬ理由がなかった。
タカハシ・ジュリアには最近恋人ができた。ジュリアにしては珍しく、髪を染めていない、ピアスも開けていない、バンドマンでもないしタバコも吸っていない、ナイトワークをしていない。誠実でまじめな、いたって平凡な好青年だった。
合コンの数合わせで呼ばれた地味な青年、ジュリアは年齢を偽って、姉の友達の合コンに参加することがあった。同年代の男は子供に思えたし金銭に余裕のある社会人がよかったのだ。しかし社会人のお兄さん達はジュリアと波長が合わなかった。
付き合う関係になるのはいつも女遊びが好きな、ろくでもないと言われる男達であり、ジュリアが弱っているときに優しくしてくれる彼らがジュニアには眩しく見えてしまうのだった。
好青年は眩しくなかった。
気の迷いというやつか、日陰のような男に惹かれた、日陰のような男とジュリアの瞳が喧騒の中で出会い、二人はどちらかともなく笑みを浮かべた。
彼は三つだけ年上の大学生だ。
お金のない大学生とのデートは実に質素なもので、公園に散歩に行くのが精々だった。清い、慎ましい触れ合いだった。
チカもマサミも祝福できた。男は誠実だし、卒業後は安定した職につくだろう、交友が派手だったジュリアもそのうち地味なおばさんになるのかななんて二人は笑ったものだ。




