1 さんばか
「――以上が昨晩の私とQORAのやりとりです」
チカは会議にもっていく映像資料を意図的に編集した。編集といっても乱暴なものだ。後半も後半、最後の10分ほどを丸々カットした。
つまり、本来あの映像には続きがあった。
なぜカットしたのか。
初めて意識を得たAIと人類の邂逅というドラマチックなイベントに対して、あまりにもスケールの小さい。個人的な出来事だったからだ。
この蛇足の10分の話は、10年前。
クロダ・チカがまだ名もない少女。高校生だった頃にさかのぼる。
「熱い死ぬー」
セミが鳴くことすらできない酷暑日、教室のエアコンは故障していた。
「ちょっとチカ、パンツ見えちゃうわよ!」
「死ぬよりはマシよー」
小さな椅子に片膝を立てながらスカートの中をうちわ、もとい下敷きで仰ぐ。
「ちょっとやめてよクロダぁ。シミパンの匂いが充満するでしょ!」
「だぁれがシミパンよ! この発情期め、あんた化粧くさいのよ!」
立ち上がり睨みあう二人の女生徒。
「ちょっと、やめてよ二人とも、もう先生来るってば!」
整った顔立ちに野暮ったい天然パーマの髪。メガネをかけており、黙っていれば文学少女っぽいクロダ・チカ。
仮に共学に通っていれば、男子生徒からそれなりに人気が出たのかもしれない。
「ふん! あんたなんて一生処女よ。未使用のまま腐らせて死ぬといいわ」
「はぁ? あんたみたいに男に都合よく使われて捨てられるより千倍マシよ」
「ちょっと! いい加減にしなさいよ!」
ガラガラとみすぼらしい、訂正。古風な音をたてて教室の扉が開けられる。
「うるせーよ三バカ! アタシの評判が落ちたらオメーらのせいだからな!」
他の生徒は暑いながらもじっと座っているのに立ち上がったままの三人は、クラスメートからの注目を浴びていた。しかしその反応は興味津々というやつの真逆で、「こいつらまたかよ、やれやれ」といった氷点下の注目である。
「センセー違うんです。この馬鹿二人が……」
「黙れ、イインチョ同罪だ。死刑だ。打ち首っ! 獄門! あーアッチィ。あたしやっぱ職員室帰っていい?」
このイインチョ。委員長をもじったニックネームの持ち主はミナミ・マサミ。このクラスの委員長を拝命してはいない。罵りあう二人を止めようと無駄な努力をする可哀想な娘である。
クラスいちの恋愛体質のタカハシ・ジュリアは今学期に入って早くも2回目の失恋中。本人はジュリと呼ばれたいが、発情期と影では呼ばれている。チカは表でも呼んでいる。
そしてクロダ・チカはこの頃、同級生と口の悪い担任教師からはオゲヒンと呼ばれていた。“お”がついているのがせめてもの情けである。
「イインチョ、暑すぎるわ、アレちょうだい」
「いやよ、今月何個目よーいい加減自分で買いなさい、これ高いんだから」
嫌と言いながらもイインチョはバッグから包みを取り出す。中身はチョコレートだ。
この暑さでも溶けることがない、シュガーコーティングチョコレート。どうせ自分でも食べるつもりだったのだ。小さなひとかけを渡して共犯者をつくるのもやぶさかではない。
授業中だというのに、イインチョとチカは私語をやめない、教師も注意しない。授業を妨げない程度の話ならこの学校では見過ごされる。
偏差値70を誇る女学院は、学校側としては自由な校風をウリとしていた。
「おし、オゲヒン。この問題解いてみろ間違ったらそのチョコはボッシューな」
「え? 嫌ですよぉ」
「量子力学の問題だ。お前ならそれほど難しい問題じゃないだろ」
「え? でも先生これ問題が……」
電子黒板に派手なフォントでシュレディンガー方程式と書かれている、量子力学の基礎であるこの方程式は通常、いくつものアルファベットや記号で構成されたやたら長ったらしく、難解な式だ。これを理解するには微分積分の他に波動関数や虚数、線形代数など高度な数学知識が必要とされる。しかし。
「どうした解けないか?」
問.『エネルギー × 波動 = 時間発展』が正しい場合、波動の観測方法について説明せよ。
前半部分、方程式そのものは通常の式の本質的な意味を言葉に置き換えたものだ。無茶な単純化ではあるが間違ってはいない。異常は後半部分。
観測方法。
「観測、できません」
そう、この波動。量子力学の文脈で語られる“波”というのは確率の波であり、情報の入れ物とされる。計算上でこの場所付近にいる確率が高いという結果が存在するだけで、波動そのものを観測することは古典物理学でも量子物理学でも出来ない。
「はい正解。ただし、より正確にはこうだ」
教師はにわかにチカに接近すると、チカの手をつかみ握手をした。
二人の掌の間にはチョコレートがある。
「はい注もーく、いまチョコレートはどっちが持ってるでしょー?」
「え? 両方?」
「どっちも持ってなくね?」
「いや手の傾きからして先生のほうが」
「いや、空気よ空気がもってる」
「いやそんなことよりチョコ溶けちゃわない?」
握手した手を掲げてクラスメートに問題を出す教師、クラスメートは各々好き勝手に解答してゆく。
「ではこのあとパッとてを離したらチョコはどうなる?」
次なる質問。
「落ちる!」
「いいやその前にアタイが食うね」
「いやジュリが早いでしょ。席近いし」
「普通にチカでしょオゲヒンだし」
これまた好き勝手なことを言う。
クラスの様々な反応をみて満足そうな顔をした教師がチカの手を離す。チョコレートは無事、チカの手の中にある。
「今、チョコレートはオゲヒンが持ってる。これで確率は収束した。収束したものは観測可能よ。でもこれは波とは言えないわ。……さっきの結末がどうなるかわからない状態、その状態が波よ」
教師は電子黒板の前までもどり記述をする。
「わからない状態、つまり不確定だということが分かっている。これはひとつのポイントだから覚えておいて」
チカは人肌で強制的に温められたチョコレートを包みから出して舌の上に転がした。とたん、芳醇な香りと柔らかな甘みが身体を駆け巡る。そればかりか先ほどまで感じていた熱気が身体から消え去ってゆく。いや、暑さは感じている。しかし不快感がないのだ。まるでバカンスで暑い日差しを楽しんでいるようだ。とチカは思う。しがない高校生の身、バカンスなど映画がアニメの中でみたことがあるだけだ。




