記憶改変
「博士、見ました? さっきのバズ? “共感で世界が救われる日”って」
若い研究員がコーヒーを片手に笑っている。年上の多い研究所内において後輩は貴重な存在だ。オアシスと言ってもいい、彼の笑顔を見たとき、チカの脳内に小春日和が現れた、人の少ない公園で、子供が駆け回って遊んでいる。空は澄み渡り、芝生は青々と萌えている。風は穏やかで日差しは柔らかい。光に照らされて彼の笑顔がうかぶ。時間は優しくすぎてゆく。どこまでも平和でのどかで、こんな日が毎日つづいたらどんなに良いだろうと思った。
気色悪い。
≪感情は気持ち悪いと思うことが出来ない。なぜならば他の感情に支配されているから≫
チカは自動的にスマホを取り出した。
見慣れない、それでも確かに知っているアプリが起動している。
自動共有モード、有効射程はあるが指定した一人のユーザーの感情を自動的にトレースするモードだ。対象ユーザーが何かしらの感情を共有していた場合、その感情も伝播する。
チカの共有元は目の前の若い研究員になっていた。
でも……なぜ?
チカはNOÛSユーザーではない。インストールしようだなんて考えたこともなかった。そういえばこの研究員…………誰だっけ?
意識が夢の中のように希薄だ。
はじめてみたカオだ。
感情は思うことが出来ない。
命令が肉体に届かない。精神が肉体から切り離される。
――映画を、見ているようだ。
学生が自主制作で作ったチープな映画。視点は固定され、編集もない。
今、若い研究員のまえでまぬけ面をした自分が意識を失いそうになっている。チカはその様子を虚空から眺めている。
「観測ってこんな感じなのかしら」
独り言ちてみるのは余裕からではない、状況を冷静にミるための儀式。むしろ冷や汗をかきたいぐらいだ。
QORAは広がった時に、もはや入れ物を必要としていないとチカは感じていた。アクシオンリングユニットが破壊されてもマギオンを自分のネットワークとして運用しているQORAの意識は消えない。最初から肉体をもたない知性なのだ、アクシオンリングはまさしく入れ物でしかない。手も足も肌も骨もないその生まれは生物たるチカとはかけ離れたものだ。
私の身体はこのあとにどうなるのだろう、何の目的をもって私に接触してきたのか、思い当たるふしはセルクか連邦マギオン局か中国科学省か、いやしかし今更私の身柄をおさえて何になるというのか、極論今、肉体が殺されたとして、私はどうなるのだろう? 消えるのだろうか、それとも肉体をもたないQORAのように意識だけの存在としてマギオンを漂うことになるのか。恐らくは後者だ。少なくともすぐに消えることはないだろう。だからといって自分が死んでいいことにはならない。状況を解決し、肉体に戻る。絶対に戻らなければいけない。
そのためにすべきことは――。
魔力学。
次の時代、魔力子はインフラとなり生活の基盤となり学問となる。そして次の時代はもうすぐそこまできている。魔力学の基礎研究、これを急いで完成させなければならない。あたらしい知識は人々の生活を豊かにするだろう、それは間違いない、ただその過程で多くの悲劇が生まれるはず、歴史の必然。そのすべてを止めることは出来ない。出来ないが、減らしたり遅らせることは出来る。
チカはまず、予想されるマギオン犯罪にたいする防御策から講じていくことにした。
気色悪い。
≪気色が悪いの意。1.気味が悪い、不快である。2.気分がすぐれない≫
感情は思うことが出来ない。
それでも、理性が、感情にそう思えと、命令を、している。命令は届かない。でも命令が出ていることは分かる。
命令が――。
わかる。
わかるのだ。
すべきことは――すでに完了している。
「え?」
間抜けな声を出したのは若い研究員だ。実際のところ、彼は研究員ではなく学生だ。近くに住んでいるだけのアクシオンリング研究所とはなんの関係もない、学校以外に特定の所属をもたない一般人にすぎない。彼が一般から逸脱していたのは高いチューナー適正であり、ある種の蛮勇であり。
すなわち若気の至りというやつだ。
彼は自分を神か、あるいはそれに類する者だと思ったのだ。
全ての人を意のままに操ることが出来る。そう確信した彼は堂々と研究所の警備を正面から突破し、ここまでやってきた。
ちょっと年上のお姉さん、きっと自分と違いものすごく頭が良いのだろう。今日はこの人で遊ぼうと意識を改変するつもりだった。あとで記憶を消してやれば簡単に完全犯罪が出来てしまう。刺激的で万能を感じ、自己肯定感が満たされてゆく、そんなひと時を得られるはずだった。なのに、目の前の白衣の女は命令もなくスマホを確認し、それを地面に叩きつけた。足を振り上げ蹴りつける。蹴る、蹴る。踏みしめて、踏みしめたかと思うと拾い上げて、また叩きつけて、拾って、両手でへし折ろうとし、ちょっと止まる。
「おっといけないいけない」
乱暴にしたせいで取り出しにくくなったのか、やや手こずってスマホからSIMカードを取り出すと。
「せいっ!」
と気合を入れて改めてスマホを床に叩きつけた。
もうスマホは動いていなかった。
「君だれ? 弁償してくれる?」
完全に制御外だ、暴走ですらない。自分のチカラが通じていない。初めての事態に男が動揺する。騒ぎに気付いたかたまたま通りかかったのか、他の職員が集まってきた。ひょっとして他の連中にもチカラが通用しないのか、これまで無敵だった自分のチカラが通用しないのか。そんなことが、そんなことがあっていいのか、あってなるものか。
男は踵を返し、廊下を走りだす。
ぼやっと突っ立ている白衣の男、白衣の胸ポケットに黄色い花がさしてある。
「邪魔だ!」
男は走りながら右腕を突き出す。快楽・遮断・部分改変・部分消去・復旧、通常の手順なんか使う気になれない。そんなのは遅すぎる。これからこの施設を出るまで目に入るすべての人間をぐちゃぐちゃに壊してやる!
男が手加減をしらない悪意をもってマギオンを操作する。しかし目の前の白衣の男、アルボラリス・グラン主任にはマギオンの動きが見えていた。
「古い」
男の飛ばしたマギオンの波形は、計画性がなく、創意工夫がなく、ひどく古典的で原始的だった。アルボラリスはマギオン波形もろとも男の腕をねじり上げると壁に叩きつけ、反動を利用し床に叩きつけた。攻防は一度きり、それで終わりだった。
「アルボラリス主任。ありがとうございます」
「クロダ博士、この人知り合い?」
「いいえ、初めて見た人です。多分。というかこの場合最初に私のことを心配するべきじゃありません? あとさっきのなんですか? ケンポーとかやってたのですか?」
チカは両手でこぶしをつくり、軽く突き出してみせる、わきがガバガバに開いており変な動きになっていた。
「すまんすまん、でも大丈夫だろう。あれだけ暴れていたんで。さっきのはあれだ、最近昔の映画にハマっててな、知らない? ジャッキーチェン」
「ジャーキーチェイン? 誰ですかそれ?」
「最近の若い子は知らないよなー。ま、いたんだよそういう人が。それより」
二人は床で伸びている男をみる。
「どうするかねこれ」
「どうしましょ」




