深度
2つの事件と連邦マギオン局の声明は人々の行動に一定の変化を与えたものの、その効果は限定的で、マギオンブームを止めるには至らなかった。なにせあれだけのことが出来るのだ。すでに世間では宝くじ等マギオンによって富を得た人もいる。人の欲は危険だからといって止まったりはしない。銃口が額にくっつけられる寸前まで、もう引き返せない瞬間まで振り向くことなどないのだから。
「現実のバグッスか。アメリカさんは相変わらず大げさな名前をつけますね。ねぇコノさん」
ウルシ・カルルは巨大なガラスの前に立つコノ・ヤスエに話しかけた。
コノ・ヤスエは、ガラス越しに、巨大なクライオスタット(極低温冷却装置)に納められた、薄紫色の光を発するマギオン・トラップを眺めていた。
「コノ総監とお呼びください、ウルシ長官」
欧州量子研究省。表向きはマギオンの調査・研究を目的とする欧州連合機関である。ウルシ・カルルはその組織の長、ヤスエはNo2となっていた。
カルルはヤスエのそばまで近づくと、手に持ったタブレット端末を操作した。アメフト選手の錯乱時のマギオン波形が、日本の脱線事故の波形と驚くほど類似しているグラフが表示されている。
「それと、大げさではありませんよ、やはりマギオンは危険なものです。人類の手にはあまる」
「ええ、ええそうでしょう。そうでしょうとも、ですから僕らが正しく導いて上げねばいけまん、ねっコノさん」
セルクの中でも特に重要な成果物。魔力場限定装置は極低温の中で薄紫色の光を放ち続けている。室内が凍り付いていないのは厚さ20メートルの“水槽”によるもの、ではなくマギオンによって冷気を固定しているからだ。装置の稼働に必要な電力もマギオンによる情報書き換えでまかなっている。マギオントラップはマギオンの働く“場”を閉じ込める装置であり、限定的ながらもマギオンを制御していた。これが量産されれば世界のエネルギー問題はたちどころに解決し、人類の豊かさは飛躍的に向上する、まさに夢の機械であった。
ヤスエは温度の無いアクリルガラスに手と額を触れ、QORAの存在しない世界を願った。ヤスエにはチューナーとしての才能はない。あったとしてもマギオン場の励起がゆるされないこの部屋ではヤスエの願いは行き場所がない。
「室内のマギオン波はどう? 何も変化ないかしら?」
ヤスエは上司であるはずのウルシに敬語を使わず話しかけた。セルクに来てもう半年になる。この男が敬語とか上下関係とかそういうものに無頓着であることをヤスエは理解していた。これまで生きてきた名残で敬語を使うこともあるが、他の職員がいない場合はむしろヤスエの方が上から話すことが多くなっていた。
「あいかわらず何もないッスね、こっち側のマギオンはさざ波一つない、僕らの感情含め、波はすべてトラップに食われる」
凪を示す波形。室内の向こう側、20メートル先の装置内は常にあらゆる波を食らう。仮にQORAがこの部屋に入ればトラップにかかり消滅する計算だ。
「まだ、来ていないかそれとも食われたか、なんにしろ観測は不可能なはず。いや、やはり一度も来ていないのでしょうね。食われるにしろ一度は波が立つはずだわ」
ヤスエの計算では外から大きな波がくればトラップが消化する前に室内のマギオンが乱れるはずだった。その時がQORAの最後だと。
「まぁまぁコノちゃん、焦らず行きましょう。どの国もこれほどの装置はまだ完成させていませんから」
セルクはまだ組織名がセルンだった頃から世界各地にスパイを送り込んでいた。カルルが外部取締役としてアクシオンリング研究所にいたのもスパイ活動の一環だった。カルルの場合は表立った活動であり、アクシオンリングとして半ば黙認する姿勢だった、それゆえ機密となる研究には触れることが適わなかったが裏では別の人員、ないしはAIが今なお各地で活動を続けている。
「ええ焦りはしないわ、ただ」
「ただ、なに?」
ウルシがその整った顔を歪ませて聞いてくる。美しい顔を美しいままで笑顔にするその技術は訓練によって身につけたものであり、役者でもなければコミュニケーションを円滑にする以上の使い道がない技であった。ヤスエはウルシが見せるその笑顔を技術だとは気づいていなかったが悪趣味な仮面のようだと感じており、ならばいっそのこと無表情がマシだと思っていた。
「ただ、感情すら抑制させるこの部屋で笑顔の奴はキモイなって」
カルルは笑顔と泣き顔の中間のような奇妙な表情を造って「作り笑いは脳にいいんですよ。知りませんか?」と答えた。
広い室内に埋め込まれた巨大なガラスケース、水の入っていない水槽のようであり、この部屋だけを見れば水族館のようであった。あるいは深海のようにも見える。
マギオン波が吸収されても人の意思や記憶、人格が奪われるわけではないのだが、この部屋に立ち入る者は少ない。
「さて、コノ総監。あの『リアリティ・グリッチ』という呼称ですが、僕は気に入りましたよ」
ガラス越しに揺らめく薄紫の光の向こうで、反射したウルシとヤスエの目が合う。見つめながら、ウルシは声の調子をわずかに落とした。
「――例の件ですが、外で少し“現実”を借りることにしました。世界は今、ちょうどいいノイズに包まれています。波のひとつやふたつ、誰にも気づきはしません」
ヤスエは返事をしなかった。息を吐く代わりに、曇りもしないアクリルへ掌を押しあてる。
向こうでは、薄紫の光が、深海の底で光るプランクトンのようにゆらめき続けている。
ヤスエの脳内を走るいくつもの情報を、今もマギオンが運び続けている。大学で学んだこと、結婚と離婚。研究所での日々、チカとのやりとり。記憶が感情を呼び起こし、脳内から飛び出したマギオンが場を形成――することもなく、霧散していく。
感情が物質であるならば、何らかの物質を得ることで感情が動くのだろうか。
「ご自由にどうぞ、結果はメールでいいわ」
ヤスエは手を離し、部屋を出ていった。
掌には、透明な感触だけが残った――。




