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婚約破棄の慰謝料は、あなたのお祖母様でお願いします【連載版】  作者: 他力本願寺


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第08話 母上、支援の準備をして参りました

「母上、ご無沙汰しております。領地から戻るのが遅くなり、誠に申し訳ございませんでした。本日、母上が何不自由なく暮らせるよう、私どもの方で万全の支援の準備をして参りました」


 前日の水曜日に領地から王都へと帰還された現アシュバリー侯爵ヴィクトル様と、妻のイザベル奥様が、事前の書簡どおり木曜日の午前に私の町家を訪ねてこられた。


 四十八歳になるヴィクトル様はエレノア様の長男であり、端正な顔立ちに真面目な気性を滲ませた方だ。隣に立つ四十七歳のイザベル奥様も、落ち着いた装いの中にどこか緊張した面持ちを浮かべておられた。


 お茶と一緒に、エレノア様が焼いた丸パンを小皿に載せて卓へ出した。


 ヴィクトル様が懐の書類を確かめた。紙の厚みが、少し気になった。


 ヴィクトル様はまず私に向かって深く頭を下げた。


「フェルナー嬢。このたびは息子ギルバートが夜会の席で許しがたい非礼を働き、貴女のお仕事と誇りを傷つけましたこと、親として心よりお詫び申し上げます。違約金の支払いについては家令より報告を受けましたが、それだけで済む無礼ではなかったと重々承知しております」


「恐れ入ります、侯爵様。契約上の手続きはすでに滞りなく完了しておりますので、お詫びは受け取らせていただきます」


 私が簡潔に答えると、ヴィクトル様は少しほっとしたように息をつき、改めて正面に座るエレノア様へと向き直った。


「母上。家令からの報告書を読み、私どもが領地に常駐している間に、王都邸の勤務簿照合や春の市の調整を母上お一人に背負わせてしまっていたことを知り、愕然といたしました。ギルバートの思い上がりも、元はといえば私の監督不行届きです」


 ヴィクトル様は懐から綺麗に折りたたまれた書面を取り出し、卓の上に広げた。


「王都邸へ戻るようには申しません。ただ、使用人のいない家で母上がお疲れにならないか、気にかかって……昨日、三つの案を用意しました」


 書き付けには、使用人二人の派遣、侯爵家負担の改修、別邸の用意と並んでいた。


「人も工事も、すぐに手配できます。別邸なら庭も広い。母上の楽な案を選んでください」


 一気に並べられた手厚い提案に、隣に座るイザベル奥様も「ええ、お義母様のお体に障っては大変ですから」と頷いた。


 使用人が二人住めば、私の仕事部屋まで使うことになる。口を開きかけたが、エレノア様がカップを置いたので、私は待った。


 エレノア様は息子の熱心な言葉を最後まで遮らずに聞いてから、ふっと目元を緩めて微笑んだ。


「わざわざ遠くから急いで戻ってきてくれて、ありがとうね、ヴィクトル、イザベル。私の体を案じて考えてくれたことは、よくわかったわ」


 エレノア様は手元の茶碗をそっと撫でると、まるで楽しい旅の土産話でもするかのように、弾んだ声で話し始めた。


「でもね、ヴィクトル。私、この町家へ越してきて最初の土曜日に、生まれて初めて自分のためにパンを焼いたのよ。お窯の火加減がわからなくて、最初の四つはそれは見事に真っ黒に焦がしてしまったの!」


「え……? 母上が、ご自分でパンを……? しかも焦がしたのですか!?」


 ヴィクトル様が目を丸くして絶句する。イザベル奥様も信じられないといった顔で息を呑んだ。


「ええ、炭みたいに真っ黒だったわ。でも、クレアさんに火の見方を教えてもらって、自分の手で薪を動かして二度目に焼いたパンは、とても香ばしくて美味しかったの。あの窓に掛かっている黄色いカーテンも、私が自分で布を選んで、自分で近所の店へ糸を買いに行って縫ったのよ」


 エレノア様は春の光が透ける南向きの窓へ視線を向け、それから穏やかに息子夫妻を見つめ返した。


「ギルバートにも伝えました。私はここで暮らします。使用人も別邸も、今は要りません」


「しかし、母上……! パンを焦がすなど、万が一お怪我や火事にでもなったらどうするのですか。私はただ、母上に危ない思いや不自由な思いをさせたくない一心で……」


 困惑したように眉を寄せるヴィクトル様に、エレノア様は優しく首を振った。


「また焦がすかもしれないわ。でも、二度目は焼けたのよ。そちらも見てくれなくては」


 エレノア様はパンの小皿を息子の前へ寄せた。ヴィクトル様は皿の縁に手を添えたが、パンを取らなかった。もう片方の手で、改修と書かれた欄を押さえている。


 イザベル奥様も窓へ顔を向けた。カーテンの縁を見て、何か言いかけ、夫の手元へ視線を戻した。


「……ですが、母上が疲れた日に、誰が火を焚くのですか」


 ヴィクトル様は書き付けを畳んだが、しまわなかった。


「今日すぐにとは申しません。せめて、実際のお部屋を見せていただけませんか。明日、改めて伺いたいのですが」


 控えめに頭を下げる息子を見つめ、エレノア様は小さく頷いた。


「ええ、いいわよ。明日の金曜日、もう一度いらっしゃい。私が使っているこの一階の部屋や、修理を終えたばかりの暖炉、それに花を植えたお庭を、あなたの目で実際に見てちょうだい。具体的なお話は、この家の仕組みをきちんと見てもらってからにしましょう」


「ありがとうございます、母上。フェルナー嬢も、明日の再訪をお許しいただけますか」


「はい、お待ちしております」


 私が家主として了承すると、ヴィクトル様とイザベル奥様は深く一礼して席を立った。


 玄関で靴を履く際、イザベル奥様が黄色いカーテンの方をちらりと振り返り、「私が至らなかったせいで、お義母様に嫌われてしまったのではないかしら……」と消え入るような声で呟いたのが、私の耳にわずかに届いた。


 見送ったあと、エレノア様は食卓に残ったカップを眺めた。


「あの子、焦げたパンの話しか覚えていないのね。次はちゃんと焼けたのに」


「二人とも、今日は少しもパンを召し上がりませんでしたね」


「ええ。心配で、お腹も空かないのかしら」


 残ったパンを布で包むエレノア様の手は、ゆっくりだった。


「イザベルは、干した果物が入ったものが好きなの。次はそれを焼いてみたいけれど、まだ上手にできるかしら」


「試してみませんか。明日でなくても」


 彼女は頷き、包んだパンを一つ、私の前へ置いた。もう一つはご自分の膝に載せている。小皿が空になるまで待つつもりだったのかもしれない。


「明日、見せたいものが多すぎるわね」


 いつものように笑おうとして、エレノア様は先に包みの角を揃えた。私は果物のパンを試すための小さな型を、棚の手前へ出しておいた。


 私は笑いかけた。けれど、イザベル奥様の「嫌われた」という小さな声が、耳に残っていた。

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