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婚約破棄の慰謝料は、あなたのお祖母様でお願いします【連載版】  作者: 他力本願寺


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第06話 仕事が終わった彼が、持ってきた言葉

「フェルナー様、少しお時間をいただけますか。明日から取りかかる二階の暖炉の煙突上部について、足場の組み方を一部変更したく、ご承諾をいただきたいのです」


 ギルバート様が帰ってから三日後の木曜日の午後。小庭に面した軒先で、図面を手にしたレオン様が私に声をかけた。


 一緒に庭へ出て見上げると、二基目の暖炉から伸びる煉瓦の煙突の真下には、まだ何も植えられていない小さな花壇があった。


「当初の予定では煙突の真下に支柱を立てるつもりでしたが、それだと作業中にこの花壇の土を踏み固めてしまいます。そこで、支柱を花壇の両脇の敷石の上へ逃がし、横木を渡して足場を組み替えたいのです。もちろん、明後日の土曜日までに完了する工期も、お見積もりの費用も一切変わりません」


 レオン様は図面に引かれた赤い補助線を指し示しながら、家主である私の判断を仰ぐように視線を向けた。


「まあ……工期も費用もそのままで、花壇を避けてくださるのですか? まだ苗も植えていないただの土なのに、そこまで気遣っていただかなくても作業しやすい方で構いませんのに」


 私が驚いて言うと、レオン様は少しだけ目元を和らげ、耕されたばかりの柔らかな黒土を見つめた。


「今はまだ何も植わっていなくても、これからお祖母様とフェルナー様が苗を選び、花を咲かせるための大切な場所ですから。せっかく柔らかく起こした土を、工事の都合で荒らすわけにはいきません」


「……ありがとうございます、レオン様。ぜひ、その組み替え案でお願いいたします」


 私が頷くと、レオン様は「承知いたしました」と短く答え、職人たちへ的確な指示を出し始めた。夕方の光を浴びて足場を組み直していく彼の頼もしい背中を、私はいつまでも忘れられない思いで見つめていた。


 翌金曜日の午前中には、二つの確かな知らせが町家へ届いた。


 銀行の通知には、ギルバート様個人の口座から金貨四十枚が入ったとあった。家令の手紙には、有給の補佐を一人雇ったこと、慈善市を十日延期したこと。開催日は、三週間後の土曜日に決まった。


 私は通知書を請求書と重ね、引き出しの奥へしまった。


 そして約束の土曜日、町家の修繕工事は予定どおりすべて完了した。


 午後、私はレオン様と一緒に二階の空き部屋へ上がり、補修を終えた二基目の暖炉に薪をくべて火を入れた。パチパチと乾いた音を立てて燃え上がった炎は、少しの煙も部屋へ逆流させることなく、掃除と補修を終えた煙突へと小気味よく吸い込まれていく。


「吸い込みも申し分ありませんね。屋根の瓦の固定もすべて確認いたしました」


「何から何まで、本当にありがとうございました。こちらが修繕代金でございます」


 一階へ降り、私は用意していた代金を契約書どおりに支払い、レオン様から署名入りの領収書を受け取った。


 花壇の土は美しいまま守られ、家の中は隅々まで暖かくなった。それなのに、工具鞄と図面筒を抱えて門を出ていくレオン様の背中を見送った瞬間、私の胸にはぽっかりと小さな風が吹き抜けた。今日で依頼主と建築監督としての契約はすべて完了し、明日から彼がこの町家を訪れる仕事上の理由はもうなくなってしまったのだと気づいたからだ。


 翌日曜日の午後、居間の南向きの窓には、エレノア様が縫い上げたばかりの黄色いカーテンが掛けられた。


 春めいた日差しが黄色い布地を透かし、部屋の中をたんぽぽのような明るい光で満たしている。エレノア様は「次は二階の読書用の椅子カバーを縫おうかしら」と鼻歌まじりに裁縫箱を広げておられ、私が窓辺でぼんやりしていても、余計な詮索や取り持ちをなさることはなかった。


 そんな穏やかな昼下がり、表の玄関の扉が控えめに二度叩かれた。


「はい、ただいま」


 買い物かごを持ったご近所の方かしらと思いながら扉を開けた私は、そこに立っていた人物を見て息を呑んだ。


 いつも着ている現場用の灰色の作業着ではなく、清潔な深い緑の上着を羽織ったレオン様が立っていたのだ。その両手には図面の筒も、重い工具鞄も提げられていない。


「レオン様……? あの、昨日のお支払いか書類に、何か不備でもございましたか?」


「いいえ、お仕事の精算は昨日ですべて完了しています」


 レオン様は少し緊張した面持ちで背筋を伸ばし、真っ直ぐに私の目を見た。


「工事の話が残っている間は、言えませんでした。今日は、別の用で来ました」


 思いがけない真剣な声に、私の心臓が早鐘を打ち始める。私は居間で縫い物をしているエレノア様の邪魔にならないよう、玄関脇の小さな応接室へと彼を招き入れ、向かい合って椅子に腰を下ろした。


 小さな卓を挟み、仕事道具を何も持たないレオン様の大きな手が、膝の上で静かに組まれる。


「半年前の秋のことを、覚えていらっしゃいますか」


 レオン様は言葉を飾らず、一つひとつ確かめるように語り出した。


「半年前の秋、私が侯爵邸の別棟の修繕を請け負ったときのことです。ギルバートが工期の遅れを職人のせいにして、左官職人の日当を一方的に値切ろうとしたことがありました。あのとき、私が本家の嫡男を前に言葉を選ぼうとためらっている間に、フェルナー様が帳簿と王都の賃金相場を示して、『他人の働きから正当な対価を奪うのは恥ずべきことです』と真っ正面から止めてくださった」


 私には、あのときの帳簿が思い浮かんだ。納品が遅れたのは屋敷側の注文変更のせいだった。削っていい給金など、一枚もなかった。


「私が言うべきことを、あなたが言ってくださった。あのときから、会うたびに目で追っていました。ギルバートの婚約者だからと、話しかける理由まで探して。……クレア様。私は、あなたが好きです」


 初めて呼ばれた私の名前に、耳の先まで一気に熱が上った。


 図面を押さえた傷だらけの手の温もりも、まだ何も植わっていない花壇の土を守ってくれた優しさも、すべてがこの真っ直ぐな言葉につながっていたのだと知り、胸がいっぱいになる。


 けれど、だからこそ私は、浮かび上がる喜びのままにすぐ頷くことはできなかった。


「レオン様……。私のような者の働きを見ていてくださったこと、そしてそのように仰っていただけること、本当に嬉しく思います」


 私は胸の前で両手を重ね、自分の心の奥にある正直な思いを言葉にした。


「あちらの旧い婚約には、もうこれっぽっちの未練もございません。ただ……公の場で婚約を破棄されてから、まだ三週間足らずです。私は、誰かに傷つけられた反動や寂しさを埋めるために、あなたの誠実なお気持ちに寄りかかるような真似だけはしたくないのです」


 レオン様は私の言葉を遮らず、じっと耳を傾けてくれた。


「一週間だけ、待っていただけますか。来週の花市で、私からお返事をしたいのです」


 言い終えて顔を上げると、レオン様の瞳がふっと柔らかく細められた。


「はい。花市で、お待ちします」


 レオン様を見送ると、エレノア様が顔を上げた。


「花市に持っていく籠は、大きいのと小さいの、どちらがいいかしら」


「……両方、持っていきませんか」


 籠を棚から取ると、エレノア様が不思議そうに私を見た。


「まだ、花市は来週ですよ」


「……そうでした」


 私は棚へ戻した。仕事の段取りなら、早く支度するほうがいい。けれど花市の籠を握っているのは、支度というより、待ちきれない子供のようだった。


 翌朝、帳簿を開くと、昨日の図面の線を思い出した。紙の端を押さえる手も。仕事を終えて門を出たときの背中に、もう一度会いたいと思った。その望みは、彼から告白されたあとに、急にできたものではなかった。


 私は一枚の紙へ、花市で言いたいことを書きかけた。三行目まで仕事の話になり、笑って折り畳んだ。


 来週も会える。そう思っただけで、返事を考えるはずの私の顔は、もう緩んでいた。

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