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婚約破棄の慰謝料は、あなたのお祖母様でお願いします【連載版】  作者: 他力本願寺


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第04話 お祖母様は戻りません――と言ってしまった

「大奥様、どうかお助けください! 明後日の金曜日は使用人たちの給与支給日なのですが、勤務簿と給与明細の数字がどうしても合わず、このままでは全員への支払いが遅れてしまいます!」


 エレノア様が越してきてから一週間が経った水曜日の午後、私の町家の玄関先で、侯爵邸の若い使いが青ざめた顔で書類束を差し出した。


 前日までに領地の父から「成人した娘の判断を尊重する」という温かい返書が届き、町家でもレオン様の手配で屋根の修繕が始まったばかりの穏やかな昼下がりだった。


 使いはさらに、慈善市の納品順も乱れていると訴えた。懐から出した紙には、ギルバート様の走り書きがあった。


『気晴らしは終わりだ。戻って片付けてくれ』


 居間の入り口でそれを聞いたエレノア様の顔から、すっと血の気が引いた。


「お給金が遅れるですって……? あの子たちには、仕送りを待っている家族もいるのに。私が、私が今すぐ屋敷へ戻って帳簿を見なければ……」


 エレノア様が震える手で卓上の控えを掴み、反射的に立ち上がりかける。謝罪ひとつないギルバート様の文面と、追い詰められたエレノア様の姿に、私の胸の内で怒りと焦りが一気に膨れ上がった。このままでは、また都合よく無償の労働に縛りつけられてしまう。


「お断りします! お祖母様は、もうあの屋敷へは戻りません!」


 私はエレノア様の前に一歩踏み出し、使いの青年に向かって強い声で言い放った。


 玄関先がしん、と静まり返る。私はエレノア様をお守りしたつもりで振り返った――だが、そこにあったのは安堵の笑顔ではなかった。


 エレノア様は伸ばしかけた手を胸元で止め、まるで自分の声を誰かに塞がれたかのように、小さく息を呑んで目を伏せておられたのだ。


 エレノア様は使いではなく、私を見ていた。引っ越しの日、荷物を包みかけた私を止めたときと、同じ目だった。


「……っ、申し訳ございません、エレノア様」


 私はその場で深く頭を下げ、すぐに使いの青年へ向き直った。


「今の言葉は取り消します。……エレノア様、どうなさりたいですか」


 私は一歩後ろへ下がり、エレノア様が前に出られる場所を空けた。


 エレノア様はしばらく自分の指先を見つめていたが、やがてゆっくりと顔を上げ、落ち着いた声で使いの青年に告げた。


「私は、侯爵邸へは帰りませんよ。ギルバートにもそう伝えてちょうだい」


 エレノア様は使いの書類へ目を落とした。


「ただ、お給金が遅れるのは困ります。勤務簿を置いていきなさい。明日、間違いの箇所を書いて送ります。私が見るのは今回限り。来月どうするかは、家令とギルバートで決めてもらいますよ」


「は、はいっ! ありがとうございます、大奥様!」


 使いを見送ると、エレノア様は椅子に座り、しばらく目を閉じた。私は黙って、お茶を淹れ直した。


 翌木曜日の午前、エレノア様は机に向かい、勤務簿と給与明細の差異箇所を正確なメモにまとめて家令宛てに発送した。


 一仕事終えたその日の午後、居間の椅子に腰掛けたエレノア様は、生家から持ってきたあの小さな裁縫箱を開けた。中から取り出したのは、古い藍色の糸巻きと、今週の月曜日に黄色いカーテンを縫うために近所の小間物屋でご自分の財布から買われたばかりの、明るい黄色い糸だった。


 エレノア様は深い藍糸と鮮やかな黄糸を一本ずつ引き出すと、老眼鏡の奥の目を細めながら、二色の糸をより合わせて細かな編み目を作り始めた。私はその手元を邪魔しないよう、隣で静かに自分の帳簿仕事を続けた。


 そして金曜日の昼過ぎ、侯爵邸の家令から丁寧な礼状が届いた。エレノア様の的確な指摘のおかげで、本日、使用人全員に一人の遅れもなく給与が支払われたこと、そして専任補佐の雇用についても早急にギルバート様へ進言するという内容だった。


「よかったわ……。これで、あの子たちが困ることはないのね」


 手紙を畳んだエレノア様が、ほっとしたように肩の力を抜き、南向きの小庭へと出た。私もお茶を入れたカップを盆に乗せて、その後ろに続く。


 庭の隅では、朝から煙突の足場板を確認していた建築監督のレオン様が、ちょうど工具を片手に立ち上がったところだった。


 レオン様は庭へ出てきたエレノア様のどこか遠くを見つめるような表情と、その後ろに控える私の姿に目を留めると、手にしていた金槌をそっと道具箱へ戻した。


「お祖母様、フェルナー様。煙突周りの確認はひとまず済みましたので、午後は表通りの屋根の瓦を見に行ってまいります。お庭はどうぞご自由にお使いください」


 レオン様が表門へ回るのを見送り、私はベンチの端へ盆を置いた。エレノア様はカップを両手で包んでいた。


 冬の終わりとは思えないほど柔らかな陽光が、まだ何も植えられていない小さな花壇の土を温めている。


 エレノア様は膝の上で、昨日から編んでいた藍糸と黄糸の細い紐の端を結び合わせ、小さな輪を作っていた。


「ねえ、クレアさん。私ね、二十三歳であの侯爵家に嫁いでから、今年でちょうど五十年になるのよ」


 ぽつりと紡がれた言葉に、私はカップを置いて耳を傾けた。あなたの今の年齢と同じだったのよ、とエレノア様は懐かしそうに目を細める。


「八年前に見送った夫は穏やかな人だったし、息子たちを育てた五十年が不幸だったなんて、少しも思っていないわ。……でもね、若い頃からずっと、あなたのお家のような南向きの窓と小さなお庭のある家で、自分のためにお茶を淹れたり、好きな花を植えたりする暮らしに憧れていたの」


 エレノア様の指先が、深く落ち着いた藍色の糸をそっと撫でた。


「夫が亡くなり、息子夫婦が領地へ移ったあとも、私は王都の屋敷を出られなかった。私がいなければ帳簿が狂う、行事が回らないという責任感もあったけれど……本当はね、誰からも必要とされなくなるのが怖かったのよ。『大奥様のおかげです』と頼られることにしがみついて、自分の本当の望みに蓋をしたまま、五十年も経ってしまった」


 水曜日に使いが来たとき、思わず立ち上がりそうになったのも、その五十年間の習慣が染みついていたからなのね、とエレノア様は静かに微笑んだ。


「けれどあの月曜日の夜、ギルバートがあなたの誇りあるお仕事と、私の五十年の働きを『暇つぶし』と笑ったとき、胸の中で張り詰めていた糸がぷつんと切れたの。そこへあなたが、この町家へ誘ってくれたでしょう? だから私、迷わず飛び乗ることができたのよ。ありがとう、クレアさん」


「エレノア様……」


 エレノア様は輪を左の手首に通した。藍と黄色が、結び目で並んでいる。


 私は今度は決して結論を先回りせず、ゆっくりと言葉を選んで尋ねた。


「このお庭で、次は何をなさいましょう?」


「そうねえ……まずは黄色いカーテンを縫い上げて、それから、あの花壇に植える春の花を自分で選びに行きたいわ」


 土曜日も日曜日も、エレノア様は窓辺で針を動かした。黄色いカーテンの片側が縫い上がった月曜日、玄関が激しく叩かれた。


「クレア、開けろ。お祖母様を迎えに来た」


 あの夜会と同じ声だった。

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